カインはヴィルの上で何度も気が遠くなりかけた。
 頭がくらくらする。左腕は相変わらず燃えるように熱かった。
「生きてるだと……? ちくしょう……」
 カインはつぶやいた。
 研究所を抜け出たあと、盗んだ個人用の通信機でアシュアの通信機にアクセスした。
 『コリュボス』まで接続できるのかは神のみぞ知る状態だったが、受け取られた形跡はあった。
 ケイナの意図は明確だ。来るな、ということだ。自分が逆探知して居所を知ることまでケイナは読んでいる。――だから通信機を切った。切られてしまった。何度アクセスしてももう繋がらなかった。
 どこかで別の通信機を手に入れて無理して読めないこともないが、その頃にはきっとすべてが終わっているだろう。
 血の海が広がっているか、笑顔のケイナとセレスが立っているか…… それは分からない。
 ぐらりと体がかしいだので、カインはやむなくヴィルを無人の駐車場に降り立たせた。そして息を吐いてハンドルに突っ伏した。
 いくらなんでももう運転することはできなかった。いったいどうすればいいんだ。
 顔をあげてあたりを見回した。駐車場は図書館のものだったらしい。向こうに暗くそびえる建物の影があった。やむなくヴィルからおりると歩き始めた。一歩一歩が血を吐くように辛かった。
 やっと駐車場のはずれまで来たとき、とうとう全く歩けなくなり駐車場と外の道を区切る植え込みの脇にへたり込んだ。
「くそっ……」
 休めば少しは動けるようになるのだろうか。このままここで気を失ってしまいそうになるのを堪えるのが精一杯だった。
「どうしたの?」
 ふいに目の前で声がしたので目を開けた。
 濃い化粧の女が立っている。一目見ただけで娼婦だということが分かった。
 形のいいむき出しの脛が見えた。こんな体調の時でなければ少しどきりとしたかもしれない。
 女はじろじろとカインを見回していた。
「なんでもないから…… あっちに行ってくれ……」
 カインはひゅうひゅうと息の漏れたような声で言った。
「怪我してるの?」
 女はだらんと垂れ下がったカインの腕と額ににじんでいる汗を見て言った。
「あたしんち、すぐそこよ。行く?」
「頼むからほっといてくれ……」
 しかし女は立ち去る気配がなかった。カインは右手の甲で額の汗をぬぐった。
 いきなり目の前に白いものを差し出されてカインはぎょっとしてのけぞった。
「煙草は吸わない……」
 カインは目の前のものが煙草のケースだと知ってかぶりを振った。
「煙草じゃないわ」
 女は笑った。
「吸い込み型の鎮痛剤」
 カインはようやく女の顔をしげしげと眺めた。まだ若い。カインと5歳も離れていないだろう。
「私の仕事用。必要な時に吸うの。錠剤よりは効き目が早いから」
 しかし、カインは首を振った。
「薬は…… ほとんど効かないんだ……」
「そう…… でも、もうすぐ警備のパトロールが回ってくるよ。しょっぴかれるわよ」
 カインは何も言わずに目を閉じた。話をするのも辛かった。
女はしばらくカインの顔を見つめたのち、彼の右腕をひっぱった。
「しっかりして立ちなさいよ。あたしんち、ほんとにすぐそこだから」
「『コリュボス』に…… 行かないといけないんだ……」
 カインの言葉に女の目が呆れたように見開かれた。
「今頃から出る船なんかないわよ。どんなに早くったって5時間後よ。貨物船に乗るってなら話は別だけど」
「貨物船……?」
 カインは女を見た。視界がぼやけていた。女の顔がよく見えない。
「とにかくうちにおいで。警備に連れて行かれたくないでしょ?」
 女が引っ張るので、カインはのろのろと立ち上がった。
 彼女はカインの右腕を肩に回し、歩き始めた。
 肩に広がった巻き毛からハーブの甘酸っぱい香りが漏れてカインの鼻をくすぐった。
 着いた女の家は古びたアパートだった。
 部屋の扉を開けると女はカインを小さなソファに座らせ、すぐにコップになみなみと注がれた水を持ってきた。
「飲みなさい」
 女はそう言ってカインに差し出した。カインが首を振ると、女はついとカインの顔にコップを突き出した。
「飲まなきゃだめよ。熱出てる。脱水症状を起こすわよ」
 カインはしぶしぶカップを受け取った。カップを口につけたとたん、自分がひどく咽が渇いていることに気がついた。一気に飲み干すと、女はすぐにまた新しく水を注いできた。それもむさぼるように飲み干した。
 水分を補給すると、少し意識がはっきりしたような気がした。
「ちょっと左腕見せて」
 女が手を伸ばしたので、カインはさっと緊張して身をこわばらせた。
「怪我してるんなら消毒しなくちゃ」
 女は言った。
「治療はしてもらってる。触らないでくれ」
 カインはかすれた声で答えた。女の弓型の眉がぴくりと動いた。
「あんた…… 何したの? 治療って…… どういうことよ」
「あんたには関係ない」
 カインは顔を背けた。女はしばらく何も言わなかった。
「別にいいけど」
 女は肩をすくめた。
「でも、そんな体じゃ『コリュボス』に行くのは無理よ」
 カインは黙っていた。
 女は立ち上がると隣の部屋に行き、しばらくして薄っぺらい毛布を抱えてくるとカインに向かって放り投げた。
「とにかくあとすぐに『コリュボス』行きの船はないからね。時間が来たら起こしてあげるから横になってなさい」
 カインは訝しそうに女を見た。女はその視線に気づいて肩をすくめた。
「知り合いに頼んであげるわよ。ひとりくらいなんとかなるでしょ」
「知り合いって……」
 カインはつぶやいた。
「あんたには関係ないでしょ」
 女はそう突っぱねたあと、くすりと笑った。
「あたしの別れた亭主。仕事を時々手伝ってやってるからあたしの頼みは聞いてくれるわ。 あ、何の仕事かはお察し。誰にも言っちゃだめよ」
 カインは女を見つめた。
「なんで見ず知らない人間に……」
 女はカインの言葉を聞いて渇いた笑い声をたてた。
 そして近くにあった椅子に腰をおろした。
「病院を抜け出したの? よく歩けたわね」
 女は言った。言ってしまってからはにかむように笑った。
「今はこんなだけど数年前は看護婦だったのよ。嘘みたいでしょ? だから分かるの」
「看護婦……」
 カインはつぶやいた。女は体を動かすと、椅子の背もたれに肘をかけた。
「私ね、シティにあるような大きな病院で働いてたわけじゃないの。あんまり裕福じゃない人を診る病院にいたのよ。ほんとに劣悪な環境だったわ。壁はしみだらけだし、床はひびわれてるし。検査装置だって動かすたんびにぎいぎい変な音をたてた。モニターなんて、時々ぷちっと切れるのよ。私、そのたんびに殴って無理矢理映してたんだから」
 女の言葉にカインはかすかに笑った。
「そんなところに風邪ひきの子供からケンカして血を流してるやつとか、なんでもかんでも運び込まれてくるの。やっぱり一番多かったのは怪我ね。だからたいがいの傷はどうすればいいか察しがつくわ」
 彼女はしばらくじっとカインを見つめた。
「あんた、ケンカで怪我したわけじゃなさそうね。どう見たって育ちのいいおぼっちゃんらしいもの。なんでそんな状態で『コリュボス』に行きたいの?」
 カインは目を伏せた。女はカインが口を開くのを待ったが、彼が何も言いそうにないのでため息をついた。
「まあ…… 言いたくなければ別にいいわ。でも、その体であんまり動くと死ぬわよ」
「死なないよ…… ぼくの体は地球人とは違う……」
「地球人とは違う?」
 女は目を丸くした。そして納得したようにうなずいた。
「ああ…… どおりでよく動けるものだと思ったわ。アライドの?」
「そうだ……」
 女はうなずいた。
「アライドは生命力強いものね。でも、やっぱりその傷じゃ無理しちゃだめよ。『コリュボス』行きはどうしても今日でないとだめなの?」
「もう間に合わないかもしれないけれど……」
 カインはつぶやいた。女は何も言わなかった。
 そして立ち上がるとカインに近づいて、さっきの白い箱を差し出した。
「薬は……」
 カインはそれを見て言った。
「うん。分かってる」
 女は答えた。
「でも、数時間ならアライドのハーフでも効くから。残念だけど、アライド・ハーフに効く鎮痛剤までは持ってないのよ。でも、少しは痛みも遠退くわ。眠ったほうがいいわよ」
 カインは箱を見つめてためらったのち、シガレットの形をした鎮痛剤を一本取り出した。
「たとえ間に合わなくても行かないといけないんでしょ? だったら少しでも動けるようにしなくちゃ」
 彼女は笑みを浮かべてそう言うとカインに手を添えてそれを煙草のように口元に持っていくようにさせ、ポケットからライターを取り出して火をつけた。
「煙草みたいにむせることはないわ。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。あたしがついてるから眠くなったら素直に横になっていいわ。眠ってる間に包帯だけは取り替えるからそれだけは許してね」
 カインは女の言うように鎮痛剤を吸った。
 甘い香りが肺一杯に広がり、間もなく睡魔が襲った。
「心配しなくていいわ。大丈夫よ」
 彼女の声を聞いたような気がしたが、次の瞬間には意識が遠退いていくのをカインは感じていた。
 本当に合法な薬か? これ……
 そんなことを考えたが、あっという間にそれも睡魔に飲み込まれた。
 しばらくしてカインが苦しそうな呻き声を漏らして身じろぎしたので、彼の額に冷やしたタオルを乗せようとした女はびっくりして手を止めた。彼の形のいい眉がひそめられている。
「夢でも見ているのかしら……」
 女はつぶやいた。
「ケイナ……」
 カインが小さな声でつぶやいた。女はそれを聞いてかすかに笑みを浮かべた。
「恋人? その子は女名利に尽きるわね。あんたみたいなきれいな男の子にこんなに好いてもらって」
 女はくすくすと笑い、カインの額にそっとタオルを乗せ、毛布をかけなおすとシャワーを浴びに部屋を出た。
 しかし夢の中のカインは女が想像するような甘美な状況にいるわけではなかった。

 頭の中で誰かが喚き散らしているような感覚を覚えて、カインは暗闇の中で頭を抱えてうずくまっていた。
(フィメール、フィメール、フィメール、フィメール……)
 延々と繰り返される言葉にカインは思わず叫び声をあげた。脳みそがひっかき回されるような苦痛だった。
 ふと声がやみ、顔をあげてカインは目の前に広がる異様な光景に目を見開いた。
 あたり一面見たこともない木々や草が生い茂っている。木の枝は妙な形にとぐろを巻き、隣の木とからみあって空高く伸びていた。カインは呆然として立ち上がった。
 寒くもなく暑くもない。空気にかすかにハーブミントに似た香りが漂っていた。
「なんだ…… ここは……」
 夢の中にしては妙にはっきりとした世界だ。
 そしてふと左腕に痛みがないことに気づいた。やはりここは夢の中なのだろうか。それとも薬が効いているからなのか。
 顔をめぐらせても周囲はみな同じ風景だった。
 カインはしばらく躊躇したのち、ふとある方向に向かって歩き始めた。
 なぜかは分からないがそっちに向かっていかなければならないように思えた。