「今、時間は?」
 1時間ほどプラニカを走らせたのち、アシュアが尋ねた。
「もうすぐ午前2時だ」
 ケイナは答えた。たぶんジェニファはもう着いているだろう。
 セレスはケイナの肩に頭をもたせかけて寝息をたてていた。
「ちょっと遅れちまったな……」
 アシュアはつぶやいた。
 しばらくしてサウス・タウンの外れにある森が眼下に広がり、アシュアはプラニカを下降させると森の入り口に停めた。
「セレス、着いたぞ」
 ケイナに肩をゆさぶられてセレスははっとして飛び起きた。
「いつの間にか寝てたんだ……」
 彼はごしごしと顔をこすり、森のほうへ目をやった。
「真っ暗だ……」
「昼間もこんなもんだ。背の高い木が多いからな」
 セレスの言葉にアシュアはそう答えると、プラニカから出た。
 森の入り口から奥は森の中を歩くのに慣れていなければ歩を運ぶのはかなり困難な状態だ。
 どこかで小さく鳴く動物の声がした。
 落ち葉が降り積もった湿った匂いのする中に足を踏み入れると、なんだかアシュアは背筋がぞっとするような気がした。昼間の森はこんなに陰湿な雰囲気ではなかったはずなのだが……
「ノマドの間では夜の森は精霊が浮遊しているから霊者以外はむやみに歩くなと言われてる」
 薄明りの中で見えるアシュアの表情を見てケイナは言った。
「レイシャって?」
 セレスは尋ねた。
「ジェニファみたいな人だよ。予言をしたり占いをしたり…… 普通の人は精霊に乗り移られて帰って来られなくなるからだと」
「ケイナは小さいとき、夜の森に入ったことないの?」
「あるけど……」
 ケイナは答えた。
「森に入った途端にわーっと群がられるタイプなんだと言われた」
「そういう話はやめてくれよ。苦手なんだ」
 アシュアは不機嫌そうに言った。
 しばらく進むと小さな草地に出た。少しいびつな円形の平らな地面に野草がびっしりと生えている。
 上を見あげると木々の枝に取り囲まれて小さく夜空が見え、そこからわずかな夜の光が差していた。
「ここよ、ケイナ」
 ジェニファの声がしたのであたりを見回した。
 ジェニファは木の影から姿を見せると3人を手招きした。
 そばに近づくと彼女は人間の頭ほどの石の上に祭壇のようなものをしつらえていた。
「気にしないで。これは単にお守りみたいなもんだから。『ノマド』のジンクスよ」
 アシュアが怪訝な顔をしたのを見てジェニファは笑った。
「見張りは大丈夫だったの?」
 セレスが尋ねると、ジェニファは肩をすくめた。
「眠り粉を巻いてきたから、たぶん朝まで眠ってると思うわ。ほかの見張りが来ちゃったらアウトだけど」
「とにかく始めよう」
 ケイナは言った。
 ジェニファはうなずいた。そしてセレスを見た。
「用意はいい?」
「用意って……?」
 セレスは戸惑ったような表情を浮かべた。
「心の準備のことよ」
 ジェニファは微笑んだ。
「決心はついてるけど…… 具体的にどうすればいいのか全然分からないんだ」
 それを聞いてジェニファは笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。これを持ってて」
 そう言うとジェニファは長いスカートのポケットに手を入れて、ガラスの玉をセレスの手に乗せた。
 セレスの手のひらにすっぽりと入るくらいの大きさだ。思いのほかずっしりと重みが感じられた。
「水晶よ。これに相手を閉じ込めておいで」
 水晶を乗せたセレスの手を両手で包み込みながら言うジェニファの言葉にセレスは困惑した。
「どうやって?」
「これは暗示というか…… 形なのよ。彼の中に入ってあなたが目にするものは実体のない夢の世界なの。どんなケイナと会っても、本当のケイナはひとりしかいない。あとの人格は余分。あの荒々しいケイナがいるからもうひとりのケイナがいるのね。だからそいつをこの中に閉じ込めたという証拠づけをすれば、つまりケイナがその状況を把握すれば、自分の中にはそんなものはないという自信が彼につくのよ。ほんとうのケイナは声も出せないしもちろん姿もあなたには見えない。でも、彼は意識としてあなたを見守っているわ。それを信じて夢の中のケイナと対峙しなさい」
 セレスはやはりよく分からないというような表情でジェニファの言葉を聞いていた。
 水晶をジェニファの祭壇にあるろうそくの灯りを頼りに見つめると中心に小さな黒い点が見えた。目を凝らせると小さなチップ型をしているように見えた。
「中に何かある…… これは、何?」
「気にしなくても大丈夫よ」
 セレスの問いにジェニファは小さく笑って答えた。
「人の意識の中なんて予想つかない。ただ、あのケイナはきっといろんな方法であなたの邪魔をすると思うの。それに打ち勝つのはあなたが本当のケイナを信じる気持ちしかないわ。疑ったりしちゃだめ。 今、ここにいる彼を信じて」
 ジェニファはそう言って今度はケイナを見た。
「あなたはセレスを信じるのよ」
「分かってる……」
 ケイナは自分に言い聞かせているようなふうに答えた。
 そのあと振り向いて自分を見るケイナにアシュアは慌てて手をあげた。
「いい。おれはいいから。なんも言わないで」
 ジェニファはうなずいて、左手をケイナの額にあてた。
 その途端、ケイナの体はぐらりと揺らぎ、慌ててセレスとアシュアが彼の体を支えて横たえた。
「も、もう催眠術にかかったのか?」
 アシュアが面くらいながら言った。
「ゆっくりかかっていては余計なことを考えてしまうわ」
 ジェニファは答えた。そしてセレスを振り向くや否や、今度はあっという間にセレスの体が崩れた。
 アシュアは慌てて今度はセレスを支えた。
「いや、せ、せめておれには合図して欲しいんだけど」
「しっ!」
 ジェニファは人差し指を立ててそう言うと、セレスとケイナの体をぴったりと寄せ、水晶を挟んでふたりの手を繋がせた。
「うまく効くかしらね。夢見の誘導用の水晶なのよ」
「誘導用?」
 アシュアは訝し気にジェニファを見た。
「心理治療のときに使うの。相互に意識を交換できる機器なのよ。術師と患者が手を繋ぐの。普通はね。さっきセレスが聞いた水晶の中にあるものがその装置よ」
「……」
 『ノマド』は不思議だ。ローテクかと思えば妙に最先端の機器を出してくる。
「行っておいで」
 ジェニファはつぶやいて、セレスの顔に手をかざした。
 アシュアはセレスの体から緑色の薄もやが出てケイナに入り込むのを見たような気がした。
 しかし、錯覚かもしれない。きっとカインならもっと鮮明にこの光景を目の当たりにしただろう。
「もう、何もできないわ。祈るだけよ。」
 アシュアは黙って横たわるふたりを見つめた。


 セレスはふと目を開けた。そして身を起こしてあたりを見回した。
 ここはどこだろう……。見たこともない木や草があたり一面に生い茂っている。
「これがケイナの意識の中?」
 立ち上がって顔をめぐらせた。
 高い木がはるか頭上まで伸び、異様な形にとぐろを巻いてほかの木と天でからみあっている。地面に生えた草は太ももあたりまであった。
 握りしめていた水晶玉に気がつくと、それを落とさないように腰のポケットの奥深くに入れた。
「このどこかにもうひとりのケイナがいるのかな……」
 なんだか足下が妙に実体がなくて頼り無い。こんなこんがらかった場所で見つけられるんだろうか。会えなかったらどうするんだろう。
 不安を覚えながら足を踏み出した。どこに行けばいいのかさっぱり分からなかった。
 しばらく歩くと、急に目の前が開けて大きな湖が広がった。ケイナと行った湖によく似ている。
 波うち際に近づき、そして足下を見た。透明でずっと先まで底が見えている。白い砂が揺らいでいた。
 上を見ると霧がおりていて、晴れているのか曇っているのかは分からなかった。遠くにあるはずの水平線も曖昧だ。しかし湖面は何かに反射してちらちらと光を放っている。
「ケイナはあの湖が好きだったんだよな……」
 セレスはつぶやいた。
「でも、何度も水に身を沈めて泡になってしまえたらと考えたよ」
 ふいに背後で声がしたので、セレスはぎょっとして振り返った。そこにはケイナが立っていた。
 セレスは思わず身構えた。しかし、立っているケイナからは殺気がない。
「会いたかった……」
 ケイナはそう言うとセレスに腕を伸ばし抱き締めた。
「さっきまで一緒にいたじゃないか」
 セレスは困惑して言った。
「こんなふうにいつも素直に抱き締めることができたらどんなにいいだろうかと思った」
「……?」
 セレスは目を細めた。
 違う……。彼は暴走したケイナではない。もちろんいつものケイナではない。ケイナはよっぽどでなければ自分から人に触れたりしない。
 とすれば死を願うほうのケイナだ。
「あいつを倒しに来たんだろう」
 ケイナは言った。
「そうすればおれも消えるから」
 セレスは身を離すと無言でケイナを見つめた。
 目が優しい。いや、優しいんじゃない。深い憂いだ。
 失望して、怖がって、諦めている。
「おれはもともとあいつがいるから『本当の』意識がつくりだしたものだ。あいつが消えればおれも消える。体はひとつしかない。残りのふたつは余計だ」
 ケイナは静かに言った。
「おれは本体の本音だけを集めた意識体だ……。本体も知らないような本音をね」
 ケイナは寂しそうに笑った。
「人間は知らないほうがいいことだってあるんだよ。それがたとえ自分のことでも」
ケイナは何を言っているのだろう。自分も知らない自分…… 確かにそういうことはあるかもしれないけれど。
「それを教えてやろうか……」
 目を伏せたケイナの表情が変わった。
 セレスは思わずあとずさりした。自分を見つめるケイナの目にはさっきの憂いがなくなった。
 代わりにぞっとするような冷たい光が宿り、口元にはあざ笑うような笑みが浮かんだ。
「あいつが失望している。もう少しでおまえをもう一度抱き締められたのにと残念がってる」
 ケイナは髪をかきあげた。その癖はいつものケイナだ。
 でも違う。なんだろう…… まるで目を反らしたくなるような禍々しさを感じる。
 セレスは油断なくケイナを睨みながら思った。
 こいつはもうひとりのケイナだ。水晶玉を取り出して握り締めた。
「そんなもの役に立つもんか」
 ケイナはそう言うとセレスに一歩近づいた。
「こんなところに来てしまったら思うつぼじゃないか」
 ケイナが手を伸ばしたので、セレスは慌てて逃げようとしたが、あっという間に腕を掴まれてしまった。
 抵抗したがケイナの手はびくともしない。夢の中でもケイナの手の力は強かった。
 ケイナはセレスの腕を掴んだままずぶずぶと湖に彼を引き摺り込み、腰までの深さまで来たところでセレスの後頭部を押さえて湖面に顔を無理矢理近づけた。
「な…… なにするんだよ……!」
 セレスは必死になって抵抗しながら叫んだ。不思議と水の冷たさは感じなかった。
「自分の顔をよく見ろ」
 ケイナは言った。セレスは湖面に目を向けた。
 湖面は見る間に鏡のような質感を持ち、そこに映しだされたのは確かに自分の顔だった。
 だが、なんだかおかしい。自分の顔には変わりはないのだが、妙に輪郭が違う。
 鼻梁が細くなり、顎の線も首も華奢だ。
 セレスは思わずケイナに掴まれていないほうの手を顔の前に持ってきた。そしてぎょっとした。
 これはおれの手じゃない。いくら細くったって、こんなに手首は細くない。
「なにこれ……」
 ケイナは可笑しそうに笑った。
「見た目はマン、でもその中にはフィメール。おれはおまえのフィメールの部分を見ていたんだ」
「え??」
 セレスは水鏡にうつる自分の顔を見つめた。
 こんなのは嘘だ。彼はきっと自分を混乱させようとしてこんなことをしているのだ。だってこれはケイナの夢の中じゃないか。セレスはそう自分に言い聞かせた。
「夢の中でもおれは真実だぜ」
 ケイナはまるでセレスの心を読み取ったように言った。
 セレスは小さな声をあげながら無我夢中でケイナの腕を振り払った。
 水の中に転びそうになりながら急いでケイナから離れた。
「おまえの言うことなど信じない。だっておまえは本当のケイナじゃないからだ」
セレスは目の前のケイナを真正面から見据えて言った。
「おれが信じるのは本当のケイナだけだ」
「だから『おれ』は最初から『おまえ』を見ていたと言っているだろう」
 ケイナは言った。
「それが真実なんだよ。さっきあいつも言っていただろう。おれたちは自分でも気づかない(本音)を集めた意識体なんだ。本音は本体のおれが考えてることだ。考えている人間はひとり、おれしかない」
 セレスはわけがわからなくなっていた。
「おまえの見ていた本体のおれなど、他人にほとんど何も見せちゃいないさ」
 ケイナは笑った。
「おまえを見るたびおれは何を考えていたと思う?抱き締めたい、キスをしたい、おまえの全部を自分のものにしたい。誰もが持つ本能の欲求さ。それはおまえも同じだろう」
「何を言ってるのか分からないよ……」
 セレスはつぶやいた。
「抱き締めたり、キスをしたり、誰だって好きな人のことを思えばそんなこと考えるよ。叔母さんも兄さんもそうしてくれた。小さい時からそうしてくれたよ。おれだってケイナのことは好きだよ。だから……」
 セレスはふっと言葉をきった。ケイナはにやりと笑った。
「だから抱かれたいと思うんだろう?」
「違う!」
 セレスはかぶりを振った。
「そんなのじゃない…… ケイナはおれにとって大切な人だけど、違う……」
「おれに何をさせようとしているんだ?」
 ケイナはくくっと笑って再びセレスの腕を掴んだ。
「いったい何をさせようと?」
 セレスはすぐ目の前にあるケイナの顔を凝視した。
 逃げたくても逃げられない。
 ケイナの顔はきれいだ。この顔を何度ほれぼれと見とれたことだろう。
 彼の体から香るミントの香りが鼻をくすぐると、不思議と心が落ち着いた。
 ケイナが笑ってくれるなら何でもしたい、と思った。彼のそばにいることだけがすべてだった。
「別になんにも不自然じゃない。おれはおまえに惹かれたし、おまえはおれのそばにいたかった」
 ケイナは言った。
「やめて……」
 セレスはケイナが何をしようとしているのかを悟って恐怖に陥った。
 でも、体が思うように動かない。
「ケイナ……!」
 セレスは冷たく柔らかな彼の唇が自分の唇に押しつけられるのを感じた。