「おれの昔のやつ」
 ケイナが不機嫌な顔で立っていた。
「いいの?」
 セレスは白いバスケットシューズを見つめた。
 ケイナは何も言わなかった。
 バスケ、やってたんじゃん。セレスは嬉々としてシューズを履いた。
 少し大きかったが十分だった。
「おれ、こっち。あんたはあっちの高いほうのゴール」
 セレスはケイナの腕を引っ張った。一瞬彼が険しい顔をしたが、気にしなかった。
「高さ同じじゃフェアじゃないしさ」
 セレスの言葉にケイナはやはり何も言わなかった。 彼は黙ってコートに立った。
 セレスはボールを床に打ちつけた。快い音が響く。嬉しくてしようがなかった。そして勢い良く走り出した。
 しかしボールはあっけなくケイナに奪い取られ、彼は軽々と自分のゴールにシュートを決めた。
 何度かセレスはケイナのボールを奪ったが、やはりすぐに取りかえされてしまう。2秒も自分の手元にボールがない。
 悔しくてたまらなかったが、そのうちセレスは妙なことに気づいた。
 背の高さや歩幅や、そんなことを別にしても、彼は変だ。
 ……知ってる? ボールの先を知ってる。おれのボールがどこにいくか、彼は知ってる……。
 手が、足が、おれの考えてる先に動いてる。
 セレスは走りながらケイナの顔を見た。
 この人……?。
 何十回かゴールを決められたあと、セレスは床にひっくり返った。
 もう動けなかった。
 床に大の字になって息をきらすセレスの頭上で、ケイナがボールをゆっくりと床に打ちつけていた。
「うそつき」
 息をきらしながらケイナの顔を見上げて言った。
「なんで試合に出ないなんて言うんだよ」
 やはりケイナは何も言わなかった。
「あんな動き、誰にもできないよ」
「下手だからさ」
ケイナは答えた。
「みんなと同じように…… ボール取れませんて、できないからだよ」
 セレスはそれを聞いてくすくす笑い出した。
 この人、おれと一緒じゃん。 ボールの先が読めちゃうんだ。
 同じ人…… いるんだ。
 ケイナの顔にさっきと違う笑みが浮かんでいることをセレスは知らなかった。
 彼はボールを床に打ちつけるのをやめるとセレスの脇を足でこづいた。
「行くぞ」
 セレスは起き上がった。

「おれの射撃の腕を見たいんだろう」
 ケイナはそう言うと広いホールの両側に並んでいるひとつのドアの前に立った。 ドアの前で手をかざすのは、きっと掌紋の照合かなにかのためだろう。
 滑るように横に開いたドアの中にケイナが入っていったので、セレスも慌ててそれに続いた。
 中に入るとさらにガラスの壁を隔てて奥に部屋があった。窓も何もない。 だが、とても明るかった。
 ガラス越しに上を見ると頭上のずっと高いところにある天井自体が発光しているようだ。
 ケイナはそばの壁にかかっていた銃身の短い銃を取ると、壁に埋め込まれたキイボードに何やら数字をいくつか入力し、壁にかかっていたヘルメットをセレスにほうってよこした。
「これ、被ってな。破片が飛んで来る。顔の前のガードもおろしておけよ」
「あんたはいいの?」
「いい加減、人のことを『あんた』と言うのはやめろ。むかつく」
「ご、ごめん……」
 セレスは慌ててヘルメットを被った。ケイナはそれを一瞥するとガラスの奥に足を踏み入れ、セレスにも来るように手招きした。セレスが躊躇すると彼は近づいて強引にセレスの腕を掴んだ。そして一緒に部屋の中央まで引っ張っていった。
(嘘だろう……)
 セレスは震え上がった。こんな近くで見てろって言うのかよ。
「目の前の壁から的が飛んで来るからな。目をつぶらないで見てな」
「は、はずしたらどうなるの。おれんとこに向かって来たら?」
 セレスは思わず言った。
「死にゃしない。血は出るけど」
 ケイナは笑みを浮かべた。
「冗談じゃないよ」
「おまえが言い出したことだろ」
 かすかに音がした。標的が飛ぶ合図だ。
 セレスは歯を食いしばった。どこから飛んで来るんだよ。
 かちりと小さな音がして、セレスは一瞬のうちに黄色い小さな玉が自分に向かって飛んで来るのを見た。
 次の瞬間、突き飛ばされて床に転がった。
 パシン、という音がして、小さなかけらがヘルメットに当ったのを感じた。
「終わり」
 ケイナが言った。
「そんなのってないよ!」
 重いヘルメットをむしりとってセレスは怒鳴った。
「こんなの見えないじゃん! 一発だけで、おまけにこんなとこ……」
 そして口をつぐんだ。つぐまざるをえなかった。ケイナの持った銃がぴたりと自分の額に押しつけられたからだ。
「隙だらけのくせに、ぎゃあぎゃあ生意気に騒ぐな」
 天井からの光がケイナの金色の髪を妖艶なほど輝かせていた。
 セレスはしばらくケイナを睨みつけたあと、口を引き結ぶと思いきって突き付けられた銃口をつかんだ。
 ケイナの目がわずかに細められたかと思うと、あっという間に銃口を掴んだ手を彼のもう片方の手で捕まれ、投げ飛ばされていた。
「うぎゃっ!」
 背中をいやというほど床に打ちつけて、ぶざまな声が漏れた。
 ケイナはセレスの腕を掴むと強引に彼を立たせた。
「どうしても見たけりゃ『ライン』に来い」
 腕を掴んだままケイナは顔を近づけた。なんて力だ。セレスは思わず悲鳴をあげそうになった。
「ここに来てさっさとハイラインにあがってくれば、いくらでも見せてやるし相手をしてやるよ」
 至近距離で見るケイナの目はくらくらするほど深い青だ。かすかにハーブの香りがする。
 なんだろう。ミント?
「だけど、おれはあと2年しかここにはいないぜ。 おまえは一年でハイラインにあがって来なきゃならない。それができるか?」
「で…… できるさ」
 セレスはきりきりと自分の腕を締め付けるケイナの手に痺れるような痛みを覚えながら言った。
「絶対あんたのそばに行ってやる」
「『あんた』はやめろ」
 ケイナは笑みを浮かべるとセレスの腕を放した。 セレスは大きく息を吐いて腕をさすった。折れるかと思った。
「忘れんなよ」
 ケイナはそう言い残すと部屋をあとにした。その姿を見送ってセレスはしばらく腕をさすりながらぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
 そしてはっとした。
「ちくしょう! どうやって元の部屋に戻ればいいんだよ! ケイナ・カートのくそったれ!!」
 大声で怒鳴ったが、あとのまつりだった。


「え?」
 カインは連絡を受けて仰天した。
「見学からまだ戻ってない?」
 もう、かれこれ2時間だぞ。どんなに長く回ったって50分がせいぜいってところだ。
 ホールの女性が困惑したように画面に映っている。
「一緒に来た子がずっと待ってるんです」
 画面の後ろで見覚えのある少年が不安気な顔をしている。さっき一緒に見学に回った子だ。
「探してみます」
 カインは部屋を飛び出した。厭な予感がしたのだ。
 やっぱりあの緑の霧が見えたときに無理にでも止めさせれば良かった。
 廊下を走っている視界の先に、のんびり歩いて来るアシュア・セスの姿を見つけた。
「ケイナがどこにいるかわかるか?」
 カインは食ってかかるようにアシュアに言った。
「いるよ」
アシュアはカインの形相を見て不思議そうに答えた。
「どこに」
「どこって…… トレーニング室に」
「見学生と一緒なのか?」
「いや。ひとりだけど……」
 カインが舌打ちして歩きだしたので、アシュアも慌ててそのあとに続いた。
「ケイナから目を離すなって、言われてるだろう!」
 カインが怒鳴ったので、アシュアは思わずむっとした。
「離すなって…… おまえにも警告ついてないんだろ!」
 カインははっとした。
 そうだ。ケイナが異常に感情を高ぶらせたりしたらすぐに分かるはずだ。
 カインは慌てて腕の細いバングルに目をやった。端にある小さなランプがそうだ。
 危ない時はここにライトがつく。腕に振動で伝わる。
 そんなことはなかった。何にもなかった。
 じゃあ、どうして2時間も見学生が行方不明になる?
 単純に見学生が勝手にどこかを見て回ってるってことか?
 トレーニング室に駆け込むとアシュアが言った通りケイナはひとりでトレーニングマシンに座っていた。
「ケイナ」
 カインは声をかけた。
 相変わらず返事がない。
 助けを求めるようにアシュアに目を向けると、アシュアは苦笑してうなずいた。
「ケイナ、見学生がひとり行方不明なんだとよ」
 アシュアがそう言ったので、ケイナは顔をあげた。
「ちゃんと世話してやったのか」
「なんの世話」
 ケイナはすぐに目をそらせた。握っている重りはそのままだ。
「見学者なんだから、案内してやったのかってことだよ」
 アシュアは根気強く尋ねた。
「当たり前だろ」
 ケイナはこともなげに答えた。
「まだ集合室に戻ってない。きみは送ってやらなかったのか?」
 カインの言葉にケイナはうっすらと笑みを浮かべた。
「ああ、そう言えば、射撃室に置き去りにしたかな」
「え!」
 カインとアシュアは顔を見合わせた。
「大丈夫。もう自分で戻ってるよ」
「彼となぜ射撃室に入ったんだ?」
 カインは注意深くケイナに尋ねた。
 ケイナは何も答えずくすくす笑った。
 ケイナが笑っている……。
 カインは奇異なものを見るようにケイナを見つめた。ケイナが…… 笑っている。それも楽しそうに。
「おれからボールを取ったのは、あいつが初めてだ」
「何?」
 カインは目を細めたがそれ以上ケイナは答えなかった。

 アルは辛抱強くセレスを待った。
 アルの心配そうな姿を見兼ねたのか、一緒に見学に回っていたトニ・メニも彼の横に所在なさげに立っていた。
「きみ、いいよ。つき合ってもらわなくても」
 アルは申し訳なさそうにトニに言ったが、トニは笑みを浮かべた。
「いいよ。これから別に予定もないし。それに、ぼくもなんだか気になっちゃって」
 アルはため息をついた。 セレスはいったいどうしちゃったんだろう。
 周囲にはもう誰もいなかった。あれだけたくさんの子供たちで騒々しかった部屋も今はがらんとしている。
「あの……」
 トニはためらいがちにアルを見た。
「さっき、ケイナ・カートのことでぼく、悪いこと言っちゃったね。余計な心配させちゃってるんじゃないかと思って……」
「さっきのこと?」
 アルは思い出した。
「ああ、怖いとかなんとか……」
「うん…… ごめんよ」
 トニは目を伏せた。
「いいよ、別に。でも、彼、そんなにひどい人なの?」
「彼が何か暴力振るうとかそんなんじゃないし、昔はあんな不愛想じゃなかったよ」
 トニはアルの横に腰をおろして息を吐いた。
「あの容姿だからものすごく目立ってたんだけど、頭もいいし、運動神経も抜群によかった。全然気取らない人だったよ。 けっこう周りからも好かれてた」
「それがなんで変わったの」
「しかたないよ。苛めに遭ってたんだ」
 トニは言いにくそうに答えた。
「苛め?」
 アルは目を丸くした。
「顔もよくて、頭も良くて、スポーツ万能で、気取らなくて、なんで苛めに遭うの?」
「うん……」
 トニは言おうか言うまいか迷っているようだった。
「彼、ひとつ上の兄さんがいてさ、それで……」
「お兄さんが原因なの?」
「違うよ。兄貴が苛めるんだよ。たぶん……」
「たぶんって……」
 アルは訳が分からないような顔をした。
「あんまり知らないほうがいいよ。彼に関わらないほうがいい。 きみの友だちにもそう言っておいてよ。軍科を志望するんなら余計そのほうがいいよ」
「関わるなっつったって、もう会っちゃってるじゃん……」
 アルは困惑したようにつぶやいた。
 アルがセレスの姿に気づいて立ち上がったのはそれから5分後だった。
 セレスが戻って来たので、トニも安心したように息を吐いた。
「ありがとな」
 アルが言うと、トニはそばかすの顔をほころばせた。
「試験受かって一緒に来れるといいね」
「う、うん」
 さすがに推薦状をもらっているとは言えなかった。
 トニはアルと握手をして去っていった。
 セレスに目を向けると、疲れきった様子でどっと座り込んで椅子の背にもたれかかっている。
「セレス…… なんかあったの?」
 アルが尋ねると、何でもないというように首を横に振った。
 さすがに帰りは運転できないようなので、アルがヴィルの前に座った。
 セレスは何も言わずに素直にアルの後ろに乗った。
「あ、あのさ……」
 アルはエンジンをかけながらためらいがちに言った。
「なんか、厭なことでもあった? あの人にひどい事言われたとかさ。いじわるされたとかさ」
「あの人って?」
 セレスは不思議そうにアルの背を見た。
「見学の担当の人」
「ああ……」
 セレスはつぶやいて、それから笑い始めた。
「意地悪かア。そうかもな」
 アルは目を細めた。セレスがどうして笑っているのか分からなかった。
「なんか評判よくないみたいだよ、あの人。災難だったね」
 ふわりとヴィルを飛び立たせながらアルは言った。
「別に悪い人じゃなかったよ」
 セレスは答えた。
「ただ、うまく感情を表に出せないだけだよ。きっと」
「…………」
 なんでそんなこと分かるの? そう聞きたかったがやめた。
「アル」
 セレスが言った。
「なに?」
 アルは前を見たまま返事をした。
「今日、ありがとな」
「別にお礼言われるようなことしてないよ」
「そんなことないよ。おれを誘ってくれたじゃん」
「……」
「おれ、決心ついたよ」
「……」
「おれ、ここの『ライン』に行くって、兄さんに言うよ。叔母さんにも」
「……」
「アル、聞いてる?」
「聞いてるよ」
 不安が沸き起こった。
 絶対何かあったんだ。間違いないよ。アルは直感的にそう思った。
「推薦状なんてもらえっこないから、おれ、明日っから死ぬ気で勉強するよ。 何がなんでも合格しなきゃ」
「死んだら『ライン』に行けないよ」
アルの言葉にセレスは笑った。
「約束したんだ。だから絶対『ライン』に行く」
 誰と?
 あのケイナ・カートと?
 思わず出そうになる言葉をアルは飲み込んだ。