カインはうっすらと目を開けた。焦点がうまく定まらない。ぼんやりと視野の片隅に白い服が見えた。
 看護婦? 病院なのか…。
「目が覚めました?」
 看護婦が顔を覗き込んだ。色白で人なつっこい笑みがうっすらと見えた。
「今…… 何時ですか……?」
 カインは尋ねた。うまく声が出ない。
「午後7時ですよ。何か飲みますか?」
 快活な明るい声だった。
「咽は…… 乾いていない……」
 左腕が鉛のように重く少し熱っぽい感じがした。
 そうだ…… 刺されたのだ。カインはようやく思い出した。
「どれくらい…… 麻酔が効いていたんです……?」
 だんだん見えるようになってきた目で看護婦を探しながらカインは尋ねた。
「手術が終わったのが午後2時だから…… 5時間くらいかしらね。でも眠っていらしたのは丸一日ですよ。痛みますか?」
「いえ…… 今は別に…… 腕はどうなったんです?」
「大丈夫。神経を少し切断されていたそうですけれど、障害は残りませんって先生はおっしゃってました。でも、ちょっと体力が落ちていらっしゃるから入院は1ヶ月ほどかかるということです」
 看護婦は答えた。
「あの……」
 カインはためらったのち言った。
「ほかにケガで入院した人はいませんか?」
「いいえ。こちらは普段は外来は受けつけていないんです」
「え……?」
 カインは目を見開いた。
「もしかして…… ここは『ホライズン』なんですか?」
「そうですよ」
 看護婦は不思議そうに答えた。
「地球?」
 カインは思わず身を起こしかけた。
「『コリュボス』じゃなくて、地球なんですか?!」
 看護婦は慌ててカインを押しとどめた。
「急に起き上がっちゃだめです」
「地球……」
 もとより起き上がれる状態ではなかった。カインはぐったりとしながら絶望感にとらわれた。アシュアたちは無事に逃げられたのだろうか……。
「ミズ・リィが昨日お見えになっておられましたよ」
 気づかわしげに看護婦がカインの顔を見ながら言った。
「トウが?」
 カインは看護婦を見た。
「ええ。とても心配されて…… 私達看護婦に くれぐれもよろしくとおっしゃっておられました」
 カインは信じられなかった。
 気位の高いトウが人に何かを頼むなどということはとても考えられなかった。
 看護婦は点滴をチェックすると、新しいパックを取り出して付け替え始めた。
 カインは腕に痛みがはしって思わず顔をしかめた。
「痛みますか?」
 看護婦が慌てて覗き込んだ。
「間もなく痛み止めも切れます。あなたはかなり強いお薬でないと効果がないのですが、副作用をさけるために投与の量が限定されてるんです。数日は夜間のみの投与になりますが、それが過ぎればもうお薬は必要なくなりますので……」
「大丈夫です。これくらいのこと」
 カインは言った。
「誰か気になっておられる方がいらっしゃるんですか?」
 いきなり看護婦が言ったので、カインはぎょっとした。
「どうしてそんなことを?」
「麻酔がきれる前にうわごとを言っていらっしゃいました。ケイナ、と」
 カインは思わず看護婦から目を反らせた。
「連絡をしたほうがいい人がおられるのでしたら、そのように手配しますけれど……」
 カインはため息をついた。そんなことができるわけがないではないか。少し考えたのち言った。
「ひとつだけ頼んでいいですか?」
「何ですか?」
 看護婦はにっこり笑ってカインを見た。
「自分で連絡を取りたい。通信できる場所に連れていってもらえませんか」
 それを聞いて彼女は困ったような顔をした。
「あなたはまだ起き上がるのは無理です。1週間待てませんか? そうしたら気分転換と称して外に連れて行けます」
 聞かなくても分かっていた返事だった。カインは渋々うなずいた。
 看護婦はほっとしたように笑みを浮かべた。
「じゃ、お食事を持ってきますね。少しでも食べてくださいね」
 彼女はそう言うと部屋を出て行った。
 1週間…… 1週間でどれくらい体力が回復するだろう。
 腕はどれくらい使える状態になっているだろう。
 ケイナ…… 頼むから無事でいてくれ……。アシュア、頼むぞ……
 カインは祈るような気持ちで目を閉じた。


 アシュアはケイナの手当てをしたあと、すぐにジェニファに連絡をとった。
「夜にならないと抜け出せないと言ってるよ」
 アシュアは腕の通信機を見て言った。
「投影通信に切り替えようか」
 アシュアが腕から通信機を外しかけたのをケイナは押しとどめた。左手の白い包帯が痛々しい。
「ジェニファがその軍仕様の通信機の使い方を知ってるわけない。こっちに話しかけるだけで精一杯だ」
 アシュアは肩をすくめた。確かに彼女は機械には滅法弱そうだ。
 どこで通信ができるような状態になるか分からなかったために、カインはジェニファが通信機に向かって話した言葉がこちらには文字として送られて来るようにセットしていた。
 いきなり切り替えてこちらの姿が見える状態になるとジェニファだと腰を抜かしてしまうかもしれない。
「アパートは黒づくめの兵隊に取り囲まれてるんだと」
 それは分かっていたことだった。
「深夜になったら『眠り粉』……? を巻くからその隙に抜け出す。イーストタウンの南の森に2時に来いと言ってる」
「イーストタウン……」
 ケイナはつぶやいた。
「ラインで時々訓練に使う場所だな」
 アシュアは言った。
「ノマドがいるのかな」
 セレスはそう言ってミネラルウォーターを飲んだ。
「そうかもしれない…… 人工だけど、一番大きい森だし……」
 ケイナは答えた。
「とにかくそれまでひと眠りしてろ。おれはプラニカの調子を見てくる」
 アシュアはジェニファに了解の意思を伝えたあと、そう言って立ち上がった。
 外に出ていくアシュアを見送って、セレスはケイナに目を移した。
「鎮静剤の錠剤があったよ。飲む?」
 ケイナはかぶりを振った。
「たぶん、もう大丈夫」
 彼は答えた。
「落ち着いた?」
「おまえは?」
 セレスは笑った。
「おれはもう全然大丈夫。いつもどこかで開き直るから。なんとかなるって」
 ケイナはかすかにうなずいてソファに身を沈めた。
「海、見ようね」
 セレスの言葉にケイナは何も答えなかった。
 しかしその表情はさっきとは違っていた。少し安心したような顔にも見える。
 ケイナは正直に自分の気持ちを表現する術を知らない。
 それでもいろんな言い方で口に出すたびに救われる部分を見つけていくのかもしれなかった。
 セレスは窓の外に目を向けた。そろそろドームの光が落ちてくるころだ。
 きっと何もかもうまくいく。そう思いたかった。
 ふたりは何も話さず黙ったまま座っていた。 
「なんだ、起きてたのか?」
 アシュアが戻ってきて呆れた声を出した。
「『ライン』にいた頃よりずっと早いんだから眠れっこないよ」
 セレスは答えた。アシュアは首を振ってどうしようもない、という顔をした。
「プラニカはどうだった」
 ケイナは顔をあげてアシュアに尋ねた。
「きちんと整備してあるから申し分ないよ。とりあえず森に行くまでは燃料も入ってる。そのあとどこに行くかしだいだな」
 アシュアは両手を服でこすりながら答えた。そしてリビングのソファに座ると、テーブルの上にあったミネラルウォーターを飲んだ。たぶんケイナの飲みかけたものだろうが、アシュアはそういうことには全然頓着しない。
「ここを出る前にアルにメールを入れたいんだ」
 セレスはアシュアに言った。
「出る直前にしとけよ。万が一ってこともある」
 アシュアは答えた。セレスはうなずいた。
「おまえたち本当に少し眠っておけ。おれは大丈夫だから」
 アシュアは言った。
「おまえ、アルの寝室でも使わせてもらえ」
 アシュアがセレスに言うとセレスはかぶりを振った。
「もしものときのために全員一緒にいたほうがいいよ。おれ、毛布だけ持ってくる。みんなの分も持ってくるよ」
 セレスはそう言うと立ち上がって2階にあがっていった。
「確かにな…… ここを出る前に見つからないっていう保証はないし。 ……ユージーも必死になっておれたちのことを探し回っているんだろうな」
 アシュアはソファに身をうずめて天井を仰いだ。大丈夫と言いながら、疲れがかすかに顔に浮かんでいた。
「アシュア、頼みがあるんだ」
 ケイナは言った。
 アシュアは地下の貯蔵庫から何か持ってきてくれと言うのかと思ってケイナを見たが、彼の顔が緊迫していたので、眉を吊り上げた。
「なんだよ」
 アシュアは不審そうに言った。
 ケイナは髪をかきあげて少し目線を落としたあと、再びアシュアを見た。
「もし…… 失敗したら、迷わずおれを殺してくれないか」
「なに?」
 アシュアの顔が険しくなった。ケイナは一瞬目をそらしかけたが、思い直したように再びアシュアを見た。
「こんなことを考えるのは間違ってるっていうのは分かってる。セレスのことも信頼してる。だけど、万が一ってことを考えておかないといけないんだ。もし、セレスがあいつに勝てなかったら、今ここにいるおれはもう戻らない。おまえはずっと様子をそばで見ているんだから、タイミングが読めるよな。おれがあいつに代わる前におれを殺すことができるよな」
 アシュアは口を引き結んで睨みつけるようにケイナを見ていた。
「だから、もし失敗したって分かったら…… 頼むよ……」
「そんな約束はできねぇよ!」
 アシュアは腹立たしそうに吐き捨てた。
「できない」
 アシュアがもう一度きっぱりと言うのを聞いて、ケイナは目を伏せた。
 アシュアは荒々しく立ち上がるとケイナを睨みつけて怒ったように外に出て行ってしまった。
「どうしたんだ?」
 セレスが階段をおりながら足音も荒く出て行くアシュアを見て驚いた顔でケイナに言った。
「……なんでもない」
 ケイナは答えた。