2階の奥がアルの寝室のはずだ。
 廊下の端の部屋のドアが開いているので、アシュアはそこに向かった。部屋を覗き込むとセレスが窓の外を見てぼうっと突っ立っているのが見えた。
「セレス」
 声をかけるとセレスははっとして振り返った。
「どうしたんだ。見つけられたのか?」
「え、あ、うん……」
 セレスは手を開いてみせた。紙幣が一枚と小銭が少しだ。
「現金はこれだけ…… アルのお父さんのお金はやめようと思うんだ。アルにだけ借りるよ」
 セレスは言った。
「別に構わないよ。ほかのものはアルの指紋がなきゃ使えないだろうし。 実はおれの靴底に少しだけど金が入ってる。しばらくは大丈夫だよ」
 アシュアは笑みを浮かべた。セレスは浮かない顔でうなずいた。
 いつものセレスならこぼれ落ちそうな目を見開いて笑うところだ。
「どうしたんだ? 何か問題でもあるのか?」
 アシュアは目を細めた。セレスはかぶりを振った。
「そういうわけじゃないけど……」
 セレスは目を伏せた。
「ねえ、アシュア。催眠術でケイナの意識に入るってどういうこと?」
「え……」
 アシュアは面喰らった。
「さあ…… おれも詳しくは知らない。心理治療では確立した方法だってジェニファは言ってたけど……」
「ケイナを助けたい気持ちはあるんだ。おれだってユージーに殺されたくなんかない。……でも、ああ言ったけど、怖いんだ」
セレスの体がかすかに震えた。
「夢の中でケイナに会って、そのケイナをおれ殺さなくちゃならないのかな……。戦うってそういうことだろ? おれがもし失敗したらケイナを頼むよ。アシュアしかいないんだ」
 セレスはアシュアを見つめて言った。
 どうすりゃいいんだよ……。
 しばらくしてアシュアは口を開いた。
「おれは命かけてもおまえとケイナのそばにいるよ。自信持てよ。ジェニファはおまえならできるって言ってたんだ」
「うん」
 セレスは心元なげにうなずいた。
「困ったな…… ふるえがとまんないや……」
 アシュアはため息をついた。
「ケイナのところに行って、ケイナに正直に自分のほんとの気持ちを言ったら。お互いに自分の気持ち正直に話しておいたほうがいい」
「うん……」
 ふいに階下で大きな音がした。
 ふたりはぎょっとして顔を見合わせたと同時に部屋から飛び出した。
「どうした!」
 アシュアは階段を駆け降りながら怒鳴った。
 リビングではケイナが窓の下にうずくまっていた。床にナイフが落ちている。
「何をした!」
 アシュアはケイナに駆け寄ると、彼の左手首を掴んだ。
 血で真っ赤だ。
「セレス、ナイフを拾え!」
 アシュアが大声で怒鳴ったので、セレスは慌てて床に落ちていたナイフに手を伸ばし、そしてびくりと体を震わせた。
 まだ新しい血。
 目をあげるとアシュアが掴んだケイナの血に染まった左手が見えた。
「何を…… 何をしたんだ!」
 アシュアの顔は怒りで真っ赤に染まっていた。ケイナは血の気の引いた青い顔でアシュアを見た。
「何をしたか…… 言え…… ケイナ……」
 アシュアは押し殺したような声でケイナを睨みつけたまま言った。
 ケイナはやはり何も言わない。口元がかすかに震えているように思えた。
「まさか…… 出て…… 出て来たのか?」
 アシュアの言葉にケイナはかすかに首を振った。
「上着に……」
ケイナは震える声で言った。
「上着に…… ナイフがあるのを…… 思い出した。…… おれが持っているのは…… 危ないと思って……」
「取り出したら…… 出て来たのか?」
「その前に…… 自分で刺した」
 アシュアはケイナの足下に散らばる陶器の破片を見た。
 窓辺に飾ってあった小さな花瓶のかけらだろう。ケイナの左手の甲には切り傷があるが、そう深くはない。
 ヤバイじゃねえか……。ケイナは絶対ひとりにできねえぞ……。
『あいつ』はどうやら相当焦っているらしい。
「セレス、こいつを見張ってろ。何か手当てするもん、探してくるから」
 アシュアはそう言うとセレスの手からナイフをとりあげ、立ち上がってリビングを出て行った。
「ケイナ……」
 セレスはうずくまったままのケイナに近づいた。ケイナは顔をそらせた。
「ひとりにしちゃいけなかったんだね……」
「こんなところ、見るな」
 ケイナはつぶやいた。セレスは唇を噛んだ。
「おれのこと、呼んでよ…… 自分を傷つける前に…… 呼んでよ……」
「そんなゆとりがあるかよ!」
 ケイナは突っぱねるように怒鳴った。
「怖いなら、怖いって言ってよ!」
 怒鳴り返すセレスの声にケイナの頬がぴくりと動いた。
「おれも我慢しないから、ケイナも我慢しないでよ」
 セレスは言い募った。
「おれ…… ほんとは怖いんだ。ケイナの中のケイナと戦うの、怖いんだ。でも、中のケイナはほんとのケイナじゃないんだろ? おれの声が届くのは、ここにいるケイナなんだろ?!」
 セレスは顔を歪めた。
「怖いって言え! ケイナ! おれに助けて欲しいって言えよっ!」
 セレスはケイナの肩を掴んで揺さぶった。
「ケイナの声でおれも勇気が出るんだ!! ここにいるケイナの声を聞かせろよ! あの湖の時みたいに自分の気持ちをちゃんと言えよ!」
 セレスはケイナの肩に両腕を回して抱き締めた。
「ケイナの声を聞かせろ! 二度とこんなことすんな!」
 ケイナは前のようにセレスを拒むことはなかったが、やはり何も言わなかった。
 怖い。
 怖くてたまらない。
 いつ自分がなくなるのかと思うと恐ろしくてたまらない。
「海……」
 ケイナはしばらくしてつぶやいた。
「おれ…… おまえと地球に行きたい…… 汚染されていても…… 本物の海が見たい……」
 セレスははっとして体を放してケイナを見た。
 ケイナは目を伏せて床を見つめていた。
「うん……」
 セレスはうなずいた。
「わかった……」
 行きたい。
 生きたい。
 絶対。
「かならず」
 セレスは答えた。