3人はアルの厚意に甘えて地下の貯蔵庫からミネラルウォーターと固形の保存食を持ってくるとリビングに集まった。
 そんなに食欲があるわけではなかったが、何か食べないと体がもたない。
「ケイナはいつもミネラルウォーターをたくさん飲むけど、水が好きなの?」
 セレスはまっさきにミネラルウォーターのボトルに手を伸ばすケイナを見て尋ねた。
「そういえば『ライン』でも家でもしょっちゅう飲んでたな」
 アシュアがさっそく小さなスティッククッキーのような保存食をほおばりながら言った。
「ミネラルウォーターが好きだっていうわけじゃないんだ…… なんていうか…… たえず咽が乾いているような気がして……」
 ケイナの返事を聞いてアシュアとセレスは顔を見合わせた。
「なんか…… 小さい頃からずっとだな……」
 ケイナはボトルに口をつけて一口飲んだ。
「とりあえず、これからどうするか考えよう」
 アシュアが口をもごもごさせながら言う。
「おれ…… 兄さんに連絡をとってみたい。叔父さんにも」
 すかさずセレスは言った。
「信じられないんだ。兄さんも叔父さんもこんなこと了承するはずないって…… 信じたい」
「クレイ指揮官に連絡を取るのは難しいよ」
 アシュアはためらいがちに答えた。セレスは黙り込んだ。
「今のこの状態のことは彼の耳にもとっくに入ってるだろうし、おれたちからコンタクトがあれば報告するように言われている可能性は高いんだ」
 もっとも、彼が本当に了承した、という前提での話だが。
 さすがにそれは口に出せなかった。自分の意思でなければ、あまり好ましくない事態を考えなければならない。
 そんなことはとてもセレスには言えない。
 そういえば、セレスが倉庫に連れ込まれた時はクレイ指揮官と連絡が取れなかった。
 その時はあまり深く考えなかったが、もしかしたらその時から何かが始まっていたのだろうか……
「もっと兄さんと連絡とってればよかった……」
 セレスはぽつりとつぶやいた。
 ケイナは窓の外に目をやった。外は嘘のように静かだ。こんな状態でなければ昼寝でもしたいようなくらいののどかな風景が広がっている。
「カインは大丈夫かな」
 セレスは顔をあげた。
「腕を斬り付けられただけだから、命に別状はないだろ」
 アシュアはミネラルウォーターを一口飲んで答えた。
「それにあいつはリィの後継者だ。今頃手厚く治療されているさ。ただ……」
「ただ?」
 セレスはアシュアの顔を見た。
「……いや。」
 アシュアは口をつぐんだ。
「今さら何を隠したってしようがないだろ」
 ケイナがミネラルウォーターのボトルを見つめている。
「おれ、もう全部知ってるよ。ゆうべ…… ユージーが教えてくれたんだ……」
 ためらいがちにセレスは言った。
「ユージーが?」
 ケイナが目を細めた。
「うん…… たまたまダイニングで会ったんだ。カインは『リィ・カンパニー』の社長の息子なんだよね。で、……やっぱりユージーはケイナのこと憎んでなんかないよ。これまで、ケイナを危ない目に遭わせないようにバッガスたちを見張ってたんだ」
 セレスは保存食の箱を持ったまま開けようともせずに箱を見つめて言った。
「ケイナはそのこと知ってたんじゃないの?」
 セレスが対面に座っているケイナの顔を見ると、ケイナはその視線から逃れるように顔を背けた。
「ユージーは自分に怒ってた。ケイナひとりを救えない自分がこれからいろんな人を守る立場にならなきゃいけないって言ってた」
 セレスは息を吐いた。
「ケイナ、ユージーにちゃんと会ったことある?」
「……」
 背けたままのケイナの表情が険しくなった。
「カリキュラムは違うかもしれないけれど、ユージーは『ライン』にいるのにケイナと顔を合わせたことがないって言うんだ。ケイナもユージーに会ってないんじゃないの? ふたりが顔を合わせてればこれまでみたいなことないよね? ふたりとも仲が良かったんだろ? ユージーは小さい頃のケイナの記憶、とても大切にしてたよ」
 ケイナは無言だった。アシュアも黙って自分の手元を見つめている。
「ずっとおかしいって思ってたんだ。 ……最初っから…… そう、『ライン』に入ってケイナとユージーのこと聞いたときも、なんか違うって思ってた。トニがいろいろ教えてくれたけど、おれたち、なんか違うこと見てるかもしれないって思った……」
 アシュアはぞっとした。あのカインでさえ暗示にかかっていたのに、こいつはかからなかったんだ……。
 そりゃあ、暴走したケイナは焦っただろう。こいつを邪魔に思うはずだ。セレスには何も通じないのだから。
「ユージーはアシュアとカインのことも教えてくれたけど、おれ、そのことは半分信用してて、半分は信用してない」
 セレスはアシュアに目を向けた。
「ふたりとも、ほかのライン生と違ってた。空気が全然違うんだ。おれ、そのことにずっと前から気づいていたんだと思う。 ……だけど、おれ、アシュアもカインもいい人だと思うから。でなきゃ、命張ってまで、おれのこと助けてくれたりしないよな」
 アシュアはセレスの大きな緑の目を見ていることができなくて目を逸らせた。
 こいつの目は怖い。ケイナとおんなじだ。見ているものを通り越してずっと遠くを見ている。焦点が合っていないのに、何かを見ている。まるで相手の心を見透かすような目だ。
「暗示を解かなきゃ……」
 ケイナはミネラルウォーターのボトルを見つめながらぽつりとつぶやいた。
「ユージーが『ライン』を出てしまった……」
「おまえもうすうす勘づいてたのか?」
アシュアは目を細めてケイナを見たが、ケイナはかぶりを振った。
「最初はジェニファの言うこともなんのことだか分からなかった」
 セレスはふたりのやりとりの意味が飲み込めずに怪訝な顔をした。
「ここに来るまでに考えてた。本体のおれが気づいちゃいけなかったんだ。 ……今ここで知ったってのは、良かったのかもしれない。気づくタイミングが悪かったら ……とっくの昔に自分で自分の命を断ってる」
「え?」
 セレスが仰天してケイナを見た。
「な、なに? 何のことを言ってるの? ケイナ、自分で自分の命をって ……何言ってんだよ」
 ケイナはじろりとセレスを見た。
「やめろ」
 アシュアは口を挟んだ。
「暗示解くんなら、ふたりの信頼関係を築けってジェニファが言ってただろ」
 ケイナは不機嫌そうな顔で目を伏せた。
 アシュアはこれまでのことをセレスに話して聞かせた。
 カインもユージーの姿を認知できなかったこと、ケイナに詰め寄ったとき、ケイナに殴られて彼の『見える』能力でケイナのもうひとりの人格の存在を知ったこと、ふたりが脱走したときにケイナをジェニファの催眠術にかけたこと……。
 セレスは言葉をなくしてただ呆然としてアシュアを見ていたが、話のほとんどはおぼろげに理解していたとはいえ、ケイナ自身も知らないことが多かった。
 アシュアはケイナが冷静さを失って今ここでほかの人格を出さないことを願った。そうなったら全員アウトだ。
 だが、ケイナは表情ひとつ変えず目を伏せたまま黙っていた。もしかしたら、こいつの頭の中では見ていないこと、知らなかったことも全部筋が読めていたのかもしれない……。
 表情に出ないし言葉にもしないから、ケイナはいつも何を考えてるか分からない。
 分からないけれど、ほんの少しのヒントで彼は全部を知ることがある。外れない予測を立てる。
 セレスを連れて逃亡の最中だから、セレスを守らなければならないから、だから彼は今死ぬことを考えないのだ。
 その反面、いつもうひとりの自分が出てくるかと怯えている。
「暗示を解かないといけない」
 アシュアは言った。
「暗示を解いて、もうひとりのケイナを封じ込めておかないと、おれたちこのまま逃げるのは難しい……」
 セレスはまだぴんとこないようだった。
「もう、『ライン』を出ちゃったじゃないか。今さら戻れないだろ? だったら……」
「だからな…… ああ、もう! もうちょっと賢いかと思っていたけど、おまえは根っから楽天的だな……」
 アシュアは呆れ返ったようにセレスの頭をぽんぽんと叩いた。
 セレスはむっとした顔でアシュアを睨んだ。
「トニ・メニがユージーがいなくなったと言っていたろう。ケイナはユージーに最後の暗示をかけているんだ。暗示を解かない限りユージーはどこまでも追って来るぞ。そしてその暗示が今はおまえにすりかわっているんだ」
「最後の暗示? ユージーが終わらせる……」
 セレスは視線を泳がせた。
「ねえ、ちょっと待って ……おれ、それ…… 夢で見た」
 アシュアとケイナはぎょっとしてセレスを見た。
「『ライン』に入ってから2回くらい同じ夢を見たんだ。トレーニングルームにいるケイナをユージーが銃で撃つんだ。『点』じゃない。本当の銃だよ」
 セレスは戸惑ったようにかぶりを振った。
「最初に見たときは『ライン』に入って本当にすぐの時だったんだ。 ほら、ケイナとダイニングで会っただろ? あのとき…… うたたねしている間に見た。2回目はジュディに薬を飲まされて倒れたとき。いつも最後にユージーはつぶやくんだ。『これで最後だから……』」
 そこでセレスははっとした。
「違う……」
 セレスは目を見開いてケイナを見た。
「あれは…… ユージーの声じゃない…… 今初めて気がついた…… あれは、ケイナの…… 声だ……」
 アシュアは思わずこめかみを押さえた。
 きっとカインが見た夢と同じだ。こいつが見ていたなんて……。
 それも、カインが見るよりもはるかに前に。
「ジェニファにコンタクトをとって、彼女の言ってた方法を取るしかない。暗示を解く鍵を聞き出すんだ」
 アシュアは無言のままのケイナに言った。
「もし万が一おれたちがカンパニーに捕らえられたとして、そのときにユージーの暗示が解けてなければ、無謀にも彼はカンパニーにまで単独で乗り込んで来る可能性もあるんじゃないか?」
「失敗したらどうするんだ?」
 ケイナは険しい目でアシュアを見た。セレスは不安げな表情をしている。
「ジェニファはセレスともうひとりのおれを戦わせる気だ。もし負けたら…… 負けたらセレスは帰って来れない」
 ケイナは目を逸らせると床を睨みつけた。
 アシュアは黙ってうつむいた。
 何もかもリスクばかりだ。でも、おれには何もできない。代わって戦えるんなら代わりにやってやる。それができない以上、アシュアはふたりの意思に任せるしかなかった。
 セレスはしばらくケイナの顔をじっと見つめた。そして、決心したようにうなずいた。
「大丈夫だよ。必ず戻って来るよ」
 もちろん確信があるわけではなかった。
「おれ、さっきアルの通信を受けたときにおれにはいっぱい大事な人がいるんだなと思ったよ。どの人が危ない目に遭っても、おれは絶対その人を助けようとすると思う。だからケイナの力にもなる。今のこのケイナはおれのそばにいてくれるんだろう? ケイナがいてくれるんなら大丈夫だよ」
 こいつは本当にことの重大さが分かっているのかな。アシュアは不安になった。
 だが、ケイナがセレスに惹かれるのはこういうところかもしれないと思った。
 無防備なほど素直すぎる。危ういほど自分に正直なセレスがケイナの邪悪な部分に勝つのかもしれない。
「とりあえずジェニファに会おうよ。な?」
 セレスはそう言ってアシュアを見た。
「それが一番の課題だとおれは思うよ」
 アシュアはうなずいた。ケイナはいたたまれなくなったのか立ち上がって窓辺に寄り、背を向けてしまった。
「おれ、ちょっとアルに言われた2階の部屋見てくるよ」
 セレスは立ち上がった。
 そして奥の階段を昇っていった。アシュアはそれを見送ると、ケイナに目を移した。
「大丈夫か?」
「アシュアの言う方法しかないと思うけど…… ちょっと頭の中が混乱してる……」
 ケイナは顔を向けずに答えた。
「どれだけの人間を自分の身勝手な行動のために巻き込んできたんだろう……。おまえやカインもそうだ。結果的にカインは負傷したし、おまえは銃で人を撃った」
「おれたちのことはおまえのせいじゃないよ。おれたちの意思だ。それに、自分でも気づかなかった無意識部分なんてどうしようもないよ」
 アシュアは答えた。
「暗示を解いたとしても、おまえやセレスが抱える問題は何一つ解決しない。 ……カンパニーは最初からおまえに複数の人格があるのを知っていたんじゃないかな……。おれはやっと分かったような気がするよ。おれたちの本当の任務はおまえがばらまいた暗示からおまえ自身を守るためだったんだって」
「いきなりセレスをカンパニーが欲しがった理由は?」
 ケイナはアシュアに顔を向けた。アシュアは首を振った。
「それは分からない…… カインだって分からないだろう。トウは前からおまえかセレスのどちらかが欲しいと言っていたから、おまえとセレスが『ライン』を抜け出したことがどこかでトウに伝わって急な態度に出たのかもしれない。あるいはそれより前にことを運んでいたのかもしれない。だけど、なんのために欲しがるのか、その理由はカインもおれも知らないんだ」
 ケイナは口を引き結んで再び目を窓の外に向けた。
「ちょっと上を見てくるよ」
 アシュアはふと階段の上を見上げて言った。
「なんか妙に静かだ」
 そしてケイナをひとり置いて2階にあがっていった。