セレスがケイナの腕から顔をあげたとき、エレベータは動き始めていた。
 男の姿はない。
 しかしセレスはエレベータの床に散ったおびただしい血の斑点から目を反らすことができなかった。
「どうして……」
 セレスは震える声でつぶやいた。ケイナは何も言わなかった。
「アシュア……」
 セレスはアシュアの顔を見た。アシュアは口を引き結んでエレベーターの壁を睨みつけていた。
 銃を持った右手がかすかに震えている。
 どんなに訓練を受けていても、生身の人間を至近距離で撃つ経験などアシュアにはなかっただろう。
「殺らなきゃこっちが殺られてたんだよ」
 彼はこちらを見ずに答えた。そしてナイフをセレスに突き出した。
「持ってろ」
 セレスは震える手でナイフを受け取った。血がついている。
「カインの血……」
 セレスは唇を震わせて言った。
「考えるな」
 アシュアは言い放った。
「カインは……」
「考えるなと言っただろう!」
 アシュアが振り向いて怒鳴った。セレスはうなだれた。
「どうして……」
 なんでこんなことになってしまうのだろう……。
 おれたち、いったい何をした?
 規則を破って『ライン』を抜け出したからなのか?
 たったそれだけのことで……?
「セレス」
 ケイナは言った。
「エレベータが着いたらそこにいる人間は全員おれたちの敵だ。おまえはおれから離れるな」
 その言葉にセレスは何も反応することができなかった。

「駐車場はすでに見張られてるはずだ。どうやって『中央塔』から抜け出すかな」
 アシュアはつぶやいた。
「トレイン」
 ケイナが言った。アシュアはケイナに目を向けた。
「ステーションに行く。5階から連結してる。もうこの時間は一般人でごったがえしてる。 それにまぎれる。銃は捨てろ。人目につく」
 アシュアはうなずいた。下から20階までは一般人も上がって来る。逆にそれは好都合だ。
 エレベーターのドアが開くなりフロアにすばやく躍り出た3人は、びっくりしたような顔をしている人ごみをかき分けてステーションに向かって走り出した。
 ステーションについたとき、プラットホームにトレインが着いているのが見えた。
 しかし、入り口はすでに黒づくめの兵士で固められている。一般客が兵士たちに不審な目を向けて通っていた。
「どうするかな……」
 アシュアは柱の影に身を隠して呻いた。
「6人もいる……。こっちは武器がねえ。まともに行っても勝ち目はないぜ」
「ナイフだけでも充分だよ」
 ケイナは言った。
「人を殺すのはだめだ!」
 セレスは小さく叫んだ。
「こっちだって人殺しなんかしたかねえよ!」
 ケイナはセレスを睨みつけた。
 セレスは歯を食いしばって、怒りをあらわにしているケイナを見つめた。そしてあたりを見回した。
 『中央塔』とステーションに連結する通路だから人が多いだけでほかにはなにもない。
 ステーションに目を移すと、ステーションの前で左右に道が分岐しているのが分かった。
 片方はエアポート行きのトレインのステーション、もう片方は地上におりるエレベータの並ぶホールに続く。
 どうすればいいだろう。
 ふと向こうから歩いて来る若い女性ふたり連れに気づいた。
「ケイナ、女の子に声をかけるんだ」
 セレスはその姿を見て言った。
 それを聞いた途端、ケイナが怒りに燃えた目を向けた。
「ふざけてんのか!」
 セレスの突拍子もない言葉にさすがにアシュアも眉をひそめている。
「ふざけてないよ…… 赤いピアスがないからもうだめかもしれないけれど……」
 それを聞いてケイナは顔をこわばらせた。
「ひどいこと言ってんのは分かってる。でも……」
「一般人を盾にするのは気がすすまねえな……」
 アシュアがつぶやいた。
「じゃあ協力してもらおうよ。向こうで騒ぎ立ててって。エレベータホールのほうにあいつらの目をそらせられれば……」
 ケイナの手がセレスの胸ぐらを掴んだ。
「やめろ!」
 止めようとしたアシュアの手をケイナは払い除けた。
「この生きるか死ぬかって瀬戸際に…… そんな子供だましが通用するとでも……」
 ケイナは今にもセレスを殴りつけんばかりの険しい顔で言った。
「だって、そうでもなきゃ、ケイナはさっさとあの兵士たちをナイフで殺そうって考えてるだろ!」
 セレスはケイナの目が怖かったが、負けじと言い返した。
「ケイナならナイフ一本で6人殺せるんだろうけど人を殺しちゃだめだ! 絶対!」
「殺さないんだったら傷つけるのはかまわねえのかよ!」
「そういうこと言ってんじゃないよ!」
「そんなきれいごとがいつまで通ると思ってんだ!」
 ケイナが首元を締めつけるので、セレスは痛さのあまり顔をしかめた。
「いいか、セレス」
 ケイナは険しい口調で言った。
「カンパニーはおまえを連れに来た。おまえは撃たれないだろう。だけど相手はアシュアのことは殺しても構わないと思ってんだぞ!」
「ケイナ、やめろ!」
 アシュアは強引にケイナをセレスから引き離した。このままだと人目を引いてしまう。
 しかし、ケイナが離れたとき、その手にはセレスが持っていたナイフが握られていた。
 セレスとアシュアはそれを見て顔をこわばらせた。
 ケイナは右手に持ったナイフをしばらく見つめたあと、深呼吸をして彼は自分の左手にナイフを渡した。そしてセレスを鋭い目で見た。
「利き手のコントロールに賭ける。こっちなら右よりうまく使える」
 ケイナは言った。
「致命傷は負わせない。だけど、全く怪我させないのなんか無理だ……。それに正気の時には左手を使ってない」
「ケイナ…… だめだ…… やめろ……」
 セレスは震える声で言った。
「もし、万が一おれがあっちの世界に行ったら…… おれを捨てて逃げろ」
 ケイナは身をひるがえした。
「アシュア! ケイナを止めて!」
 セレスは叫んだ。言われるまでもなくアシュアは駆け出していた。
 つんざくような女性の悲鳴が響き、群集が一気に逃げ出し始めた。
 走って来るケイナに気づいた兵士が銃を構える間に、ケイナはすでにひとりの腕にナイフを突き立て、それを抜くと同時にもうひとりの首を蹴り倒していた。ケイナに気をとられている隙にアシュアはふたりを殴り倒し、奪った銃でひとりの足を撃った。
「ケイナ!!」
 セレスが叫んだとき、ケイナは逆手に持ったナイフを床に倒れた兵士の首に突き立てようと したところだった。
 切っ先が相手の皮膚を突き通そうとする寸前にケイナは凍りついた。
 肩で息をつきながら、ケイナは死を覚悟した相手を見た。
 額から伝った汗が鼻の頭から落ちる。
 アシュアとセレスは固唾を飲んでその姿を見つめた。
「殺さない……」
 ケイナは震える声でつぶやいた。自らに言い聞かせるような声だった。
 ケイナは相手のヘルメットのフロントを震える右手で押し上げた。
 ナイフを突きつけられたまま身動きならず、死の恐怖に歪むまだ若い男の顔があった。
「殺さない…… おれは殺さない…… 助けて……・」
 トレインの発車を知らせる音が響いた。
 ケイナは兵士の胸ぐらを掴んで立ち上がるとそのヘルメットを取り、そして思いきり殴りつけた。
 兵士は床に倒れた。
「出るぞ!」
 銃を捨てて走るアシュアの言葉に改札を飛び越えてプラットホームに入った。
 トレインに滑り込んだとたんにドアが閉まった。
 乗客の数は少なかったが、全員がじっと3人を見つめている。騒ぎに気づいたのかどうかは定かではなかったが、このまま乗っているのは危険だった。
「次の駅で乗り換えるぞ」
 人目につかないよう、車両の隅に移動しながらアシュアは言った。
「何度か別のホームで乗り換えたほうがいい」
 ケイナは青い顔をして左手を右手で握りしめていた。
 さすがにナイフだけはトレインに乗る前に懐に入れたらしい。
 セレスも体を小刻みに震わせていた。
「左手が痛むのか?」
 アシュアが尋ねると、まだ荒い息のままケイナは何も言わずに小さくうなずいた。
 ケイナは危うい……。マトモな時でも、こいつは戦う時に自制心をなくしちまう。
 アシュアはケイナの横顔を見つめた。
(こんな人間、つくっちゃだめだ……)
 催眠状態のケイナはつぶやいた。
 兵士の首を刺すまいと思わず漏らした「助けて」という言葉。
 ケイナは自分を怖れている。
 彼を正気に戻すのはセレスの声なのか。このふたりはいったいどういう繋がりなんだろう。
 アシュアは窓の外に目を向けた。
 おれ、守りきれるんだろうか……。
「アシュア……」
 まだ震えの残る声でセレスが言った。
「ノースタウンにアルのコテージがあるんだ…… 誰も今は使ってないって言ってた……」
「場所、分かるのか?」
 アシュアは目を細めた。
「うろ覚えだけど…… でもそこしか思い浮かばない……」
 アシュアとケイナは顔を見合わせた。
「危ないな……」
 ケイナはつぶやいた。
「一晩くらいなら何とかなるかもしれない。とにかくジェニファにも連絡を取りたいし……」
 アシュアは言った。
 3人それぞれのアパートはすでに見張られているはずだ。
「これからのことをなんとか考えないと……」
 アシュアはつぶやいた。
 しかし考えていい案が出るとはとても思えなかった。