ジェニファは粉をひとつまみ取るとセレスの鼻先に持っていき、そしてそのあとベッドをぐるりと回って反対側に眠っているケイナに近づくと、彼の額に手をあてて、何かを彼の耳もとでぼそぼそとつぶやいた。
するとケイナはゆっくりと身を起こし、ジェニファはその手を持って寝室から彼を連れて出た。
「ケイナはまだ眠ってる状態なのよ。無防備だからあっという間に術にかかったわ」
ジェニファは言った。
「悪いけれど、壁際にクッションを置いて、ケイナを座らせる場所を作ってくれない?」
アシュアはそれを聞いて、床に散らばっていたクッションを拾いあげて壁際に置いた。
ジェニファはケイナの手をとって彼をそこに座らせた。
アシュアは怪訝そうにケイナの顔を覗き込んだ。ケイナは伏し目がちに目を開いているが、その焦点は全く合っていない。
「何も見えていないのか?」
アシュアが聞くと、ジェニファはうなずいた。
「だって、彼はまだ眠っている状態ですもの」
彼女はそう言って、ケイナの前に座った。
「名前を言える?」
ジェニファはケイナの前にかがみこんで尋ねた。
「ケイナ……」
ケイナはくぐもった声で答えた。
「ケイナ…… トラヴィア…… エスタス……」
「『ノマド』時代の名前ね……」
ジェニファは言った。
「もう名前はない?」
再びジェニファが尋ねた。ケイナの表情がかすかにゆがめられた。
「ケイナ…… カート…… カートは…… きらいだ……」
カインとアシュアは顔を見合わせた。
「なぜ、嫌いなの?」
ジェニファが尋ねるが、ケイナは答えなかった。
「ケイナ・カートもケイナ・トラヴィア・エスタスも同じあなたじゃないの?」
「彼は危険…… きっと…… いっぱい…… 人を…… 殺す……」
「人を殺す? 大丈夫よ、あなたはそんなことしたくないって思ってるでしょ?」
「……魔が…… いる……」
「暴走したときの自分のことかな……」
カインはつぶやいた。ジェニファがしっと指をたてた。
「彼は…… なにも…… 見えてない…… 強烈な…… 色を求めてる……」
「……」
3人は黙ってケイナを見つめた。
「……そいつは…… おれの首を…… 絞める…… だから…… 葬らなければ……」
「彼はあなた、あなたは彼なのよ。彼を殺したらあなたも死んでしまうわ」
ジェニファは言った。
「このままだと…… 黒の敵が…… 来る……」
「黒の敵?」
ジェニファの眉がひそめられた。ケイナに見せた水晶の板に映る黒いしみを思い出す。
「それはなんのこと?」
しばらく沈黙が続いたあと、俯いたケイナの顔がゆっくりとあがり、そしてだらりと下がった左腕がスローモーションのように伸びてぴたりと一点を指差した。
アシュアはその先を見て呆然とした。ケイナの指の先にはカインの姿があった。
カインは凍り付いたようにケイナを凝視した。
ジェニファはカインを振り返り、そして再びケイナに顔を向けた。
「ケイナ、彼はあなたの友人よ」
しかし、ケイナの指はカインを差したままだった。
「トウ・リィ…… 彼の、母親……」
ケイナはつぶやいた。
「……おれを欲しがってる……」
ジェニファはカインを振り向いた。彼女はケイナが何を言っているのか分からないのだ。
ケイナは腕をおろし、カインを見つめ続けた。
カインは体中が総毛立つような気分になり、思わずあとずさりした。
「彼女の息子…… そして…… 『グリーン・アイズ』……」
ケイナはつぶやいた。
「『グリーン・アイズ』? あなたは『グリーン・アイズ』を知っているの?」
ジェニファは目を細めた。
「トウ・リィの息子…… おれを欲しがってる……」
「やめろ……」
カインは思わず呻いた。
「おれが…… ホライズンに入れば…… 自分のものになると…… 思ってる……」
ケイナの目はまるで頭の中をかきまわすような感じだった。
カインは彼の視線から逃れるようにケイナとは反対側の壁まであとずさりした。
カインの顔が真っ青だ。アシュアは慌ててカインに近づいた。
「やめたいならケイナの催眠を解くわ」
ジェニファの声にカインははっとしてジェニファを見た。
「い、いえ…… 続けてください。すみません。大丈夫……」
カインは青ざめた顔のままで唇を震わせながら答えた。
「大丈夫か?」
アシュアが心配そうに顔を覗き込む。カインは小刻みにうなずいた。
「大丈夫……」
「おれを…… 殺して……」
ケイナはつぶやいた。
「トウ・リィは…… 子供を作る…… こんな人間を…… 作っちゃいけない……」
「ケイナ、あなたは生きなくては。死んでいい人間なんていないのよ」
ジェニファは言った。
「せっかくセレスという木に出会ったんじゃないの」
「セレス……」
ケイナはぼんやりと言った。
「彼女を殺せと…… 言ってる……」
「え?」
ジェニファは怪訝な顔をした。アシュアとカインもケイナを見た。
「もうひとりが…… 彼女を…… 殺せと言ってる…… 彼女がいたら…… 自分が消えるから…… 怯えてる…… だから…… その前に…… おれを…… 殺して……」
「彼女って誰?」
ジェニファは尋ねた。ケイナはゆっくりとまばたきをした。
「セレス…… クレイ……」
「セレスは…… 男だぞ?」
アシュアは言った。
「彼女を…… ずっとそばに…… そばにいたい……」
カインは自分の足ががくがくと震えるのを感じた。
ケイナは知っていた。セレスに『女』の遺伝子があることを……。ケイナに隠し事なんかできるわけがない……
「セレスは…… XXの遺伝子なんだ……」
カインは絞り出すような声で言った。アシュアが仰天してカインを見た。
「前に…… セレスが知らずに薬を飲まされただろう。あの時、分析したドクター・レイがセレスのことを女性だと言っていたんだ……」
「そ、そんなことあるわけない。セレスは男だ。おまえだって知ってるだろう」
アシュアはかすれた声で言った。
「おれはセレスの…… その…… 見てるから知ってるよ」
アシュアはついこの間、トレーニングウェアを脱いだセレスの腕をマッサージしてやったばかりだ。セレスが襲われたときにカインも見ているはずだ。
確かに男にしては貧相なほど細い体つきだが、上半身裸のセレスは女性には見えなかった。
「表現体は男なんだ」
カインはそう言って顔を歪めた。
「ラインに入ったときはXYだったはずだ。セレスは…… ケイナに出会ってXXになったんだ……」
「なんでそのこと…… 黙ってたんだよ」
アシュアは言った。
「トウが……」
カインは頬を震わせた。
「場合によってはセレスでもいいと…… 言ったんだ。セレスが『ホライズン』に入ればケイナは晴れて自由の身だと……。そうすれば彼を『ビート』に入れてずっと一緒にいられるだろうと……」
カインは壁に背を押しつけて顔を歪めた。
「でもぼくは…… ケイナを裏切るわけにはいかなかった。セレスを『ホライズン』に送ったりしたら、彼は一生ぼくのことを許さないだろう……。彼に憎まれるくらいなら…… まだ彼自身が『ホライズン』に行くほうが良かった……」
「カイン…… おまえ……」
言葉を続けることができなくなったアシュアをカインは見た。
「そうだよ…… 笑いたいなら笑え。ぼくはケイナを自分のものにしたかったんだ。セレスとケイナが近くなれば近くなるほどぼくは嫉妬に狂ってたよ。さっきもそうだ。ふたりが体を寄せ会って眠っている姿を見た途端、言いようのない思いにとらわれた。でも、ケイナが求めているのはぼくじゃない。セレスだ……。それが辛くてしかたがなかった……」
「でも、おまえはケイナを助けるために一生懸命動いてただろ。ケイナはそのことはちゃんとわかってるよ」
アシュアは言った。
「自分でも分からないんだ……。ぼくは自分で自分が何をなすべきか分からなくなってる……」
そのとき、ものすごい勢いでケイナは立ち上がり、ジェニファを弾きとばしてカインに突進した。
アシュアがはっと身構える間もなく、カインはケイナに咽を掴まれていた。
「もう遅い」
さっきまでのぼんやりしたケイナではなかった。目が険しい。
アシュアは一目見ただけで暴走したケイナだと悟った。
カインは息を詰まらせて呻き声をあげた。
「ジェニファ!」
アシュアは叫んだが、ジェニファもあまりの急激な変化に仰天しているようだった。
必死に引き離そうとするのに、アシュアの力ではケイナの手はぴくりともしなかった。
ジェニファはすぐに我にかえると催眠を解こうと彼の背後で手を上げたが、ケイナは片手でカインの首を掴んだまま、振り向きざまにジェニファの頬をもう片方の腕で一撃した。
ジェニファは大きな音とともに反対側の壁に体を叩き付けられた。
「『ホライズン』など行かない。セレスもいらない。命令はもう通っている」
そうつぶやくケイナの声はぞっとするほど冷たかった。
カインはきりきりとものすごい力で自分の首を絞めるケイナから逃れようともがいた。しかしケイナの手はびくともしない。
「ケイナ、やめろ! カインが死んでしまう!」
アシュアは叫んだ。ふたりの間に割って入ろうとするのだが、ケイナの力は今までとは全く違っていた。ケイナの片手の強烈な一撃をくらってアシュアも吹っ飛んだ。
「死ねばいい。おれの手で死ねるなら本望だろう?」
ケイナは床に転がったアシュアを一瞥してかすかな笑みを浮かべると、再び両手でカインの首を締め上げながら言った。カインの顔が苦しみのあまり赤く染まった。
「ジェニファ! セレスを起こせ! 暴走したケイナを止められるのはあいつしかいないんだ!」
アシュアはケイナに殴られた頬と床で打った腰の痛みに顔をしかめながらジェニファに怒鳴った。ジェニファも殴られたほほを押さえていたが、アシュアの声を聞くなり大急ぎで寝室に走り出した。
ケイナはそれを見てカインから手を放した。ジェニファを追うつもりだ。
ケイナが手を放した途端カインは床に崩れ折れたが、ぐったりしてぴくりとも動かない。
アシュアはそのカインの姿に当惑しながら全く隙のないケイナの姿を追った。
「ケイナ、目を覚ませ!」
ただ声をかけるしかなすすべがない。ケイナはアシュアを無視して寝室に入った。
アシュアはしかたなくケイナの背後から飛び掛かろうとしたが、今度はみぞおちに思いきり肘鉄をくらわされ、呻き声をあげた。
暴走したケイナは全身がアンテナ状態になる。今回のケイナは催眠状態から暴走しているせいか、さらに殺気だっている。腕力だけは自信のあったアシュアですらケイナに近づくことができない。
それでも銃やナイフなどの凶器が手許になかっただけでも救いだった。もし銃があればあっという間に全員殺されていたかもしれない。
「ジェニファ!」
アシュアは焦って怒鳴った。
「目を覚まさないのよ!」
悲鳴に似たジェニファの声が寝室から聞こえた。
「どうしてなの……」
ケイナが寝室に入ってきたので、ジェニファは身の危険を感じてセレスから離れた。
冷たく笑みの浮かんだ目をこちらにちらりと向けたあと、眠っているセレスに馬乗りになり、その咽に手をからめるケイナを呆然と見つめた。ケイナはセレスに絡めた指に徐々に力を込めていった。
「ケイナ、やめろ! セレスを自分の手で殺したりしたら、おまえは一生後悔することになるぞ!」
アシュアは叫んだ。
「後悔なんかしない」
ケイナはセレスの喉を掴んだままアシュアを見て言った。
「摺り替えた。どっちにしてもこいつは死ぬ運命にあるんだ」
「何を言ってる? 摺り替えたってどういうことだ?」
アシュアは困惑した表情を浮かべた。そしてはっとした。
「ユージーがおまえを撃つ暗示を、セレスが撃たれるように摺り替えたのか?」
「そうだよ」
ケイナはかすかに笑った。
「トウ・リィなぞ、くそくらえ……。おれは誰のものにもならない。まっぴらだ」
アシュアはあたりを見回して何か武器になりそうなものはないか探した。
しかし、ケイナの部屋には料理用のナイフすらないのだ。
一切の凶器を手許に置かないのはケイナの本能的な防御だったのかもしれない。
ミネラルウォーターのボトルが目に入ったがこんなものは何の役にもたたない。これをケイナの頭に打ち付ける前にケイナに弾き飛ばされることは明白だった。
「アシュア…… ぼくのエアバイクに…… ショックガンがある……」
カインがごほごほと咳き込みながら身を起こして言った。
よかった、生きていた……。アシュアはほっとした。
「ジェニファ、頼むよ」
アシュアは言った。ジェニファはうなずいた。
「座席の下にあるから…… キイはこれ…… いま…… キイだけで…… 開くように…… した……」
カインがキイを差し出して絞り出すような声で言った。ジェニファはキイをひっつかむと勢いよく部屋から飛び出していった。
ケイナがそれを目の端にとらえてかすかに声を出して笑った。まるで今のこの状態を楽しんでいるようなふうにさえ見える。
アシュアがしかたなく再び飛びかかろうと身構えると、カインがよろめきながら立ち上がってアシュアを押しとどめた。
「無理だ…… ケイナが正気に戻りかけたときでないとおまえでも…… 歯がたちっこない」
「暴走したケイナが出てくるなんて、とんだ計算違いだったぜ……」
アシュアは下唇を噛んだ。その間にもケイナはゆっくりとセレスの首を絞めていた。
セレスはぐったりとしたまま身動きひとつしない。きっとこのままだったら眠ったままケイナに殺されていくだろう。アシュアはジェニファが早く戻って来ないかといらいらした。
「ケイ…… ナ……」
ふと、セレスが声を漏らした。
首を絞められているので、息の漏れるような声だ。
アシュアとカインははっとしてセレスを見た。
セレスはうっすらと目を開いていた。そしてその目がゆっくりとケイナをとらえ始めていた。
セレスの目とケイナの目が合ったとたん、ケイナの表情が急変した。彼の手から急激に力が抜けていった。
「死んで…… 欲しい?」
セレスはまだ首にかけられたままのケイナの手をはらおうともせずに言った。
「そんな目でおれを見るな……」
ケイナは唇を震わせながら言った。
セレスの手が伸びてケイナの首にかけられた。アシュアとカインは呆然としてふたりを見つめていた。
いったい何が起こっているのだ……?
「セレスの髪が燃えてる……」
カインがつぶやいた。アシュアはぎょっとしてカインの顔を振り向いてからセレスを見たが、自分には何も見えなかった。
「死にたい?」
セレスは言った。
体勢が全く逆になっていた。今度は身を起こしたセレスがケイナの首を絞めようとしていた。
「や、やめ……」
ケイナは必死になってセレスの手をふりほどこうとしていた。
「ケイナが戻ってる! アシュア!」
カインが叫んだので、アシュアは反射的にふたりに飛び掛かった。
途端にセレスの片腕がアシュアの顔を打った。アシュアの体は大きく弾き返された。
アシュアは激しく床に叩き付けられて呻き声をあげた。さっきケイナに殴られて打ったところを再び強打したのだ。
あの華奢なセレスのどこにアシュアを床に叩きつける力が潜んでいるというのか……。
カインはそのときジェニファが戻ってきたのを知って、彼女が投げるショックガンをキャッチした。
「なんてこと……!」
ジェニファがふたりを見てうわずった声を出すのをカインは聞いた。
『こんなもの効くのか?』
カインは心もとなかったが、セレスに向かってショックガンを構えた。
セレスの緑色に燃える目がこちらを見たとき、カインは身の毛がよだつほどの恐怖を覚えた。
頭の中を引っ掻き回されるような気分だった。
「彼の額を狙うしかないわ」
ジェニファが言った。
「そんなことをしたら脳しんとうだけじゃすまない……」
カインは呻いた。
「ケイナの凶暴性がセレスに流れ込んでるのよ! 止めないとケイナが死んでしまうわ!」
ジェニファは一喝した。
しかし、カインにはとても撃つことができなかった。
いくらショックガンでも急所を撃ったらどんなことになるか……。
「貸せ!」
アシュアがカインからショックガンをもぎとり、すばやく照準を定めると引き金を引いた。
それは瞬きする間のことだった。
セレスの手がケイナから離れ、彼の体は大きく後ろに反るとそのままベッドの上に倒れ込んだ。
するとケイナはゆっくりと身を起こし、ジェニファはその手を持って寝室から彼を連れて出た。
「ケイナはまだ眠ってる状態なのよ。無防備だからあっという間に術にかかったわ」
ジェニファは言った。
「悪いけれど、壁際にクッションを置いて、ケイナを座らせる場所を作ってくれない?」
アシュアはそれを聞いて、床に散らばっていたクッションを拾いあげて壁際に置いた。
ジェニファはケイナの手をとって彼をそこに座らせた。
アシュアは怪訝そうにケイナの顔を覗き込んだ。ケイナは伏し目がちに目を開いているが、その焦点は全く合っていない。
「何も見えていないのか?」
アシュアが聞くと、ジェニファはうなずいた。
「だって、彼はまだ眠っている状態ですもの」
彼女はそう言って、ケイナの前に座った。
「名前を言える?」
ジェニファはケイナの前にかがみこんで尋ねた。
「ケイナ……」
ケイナはくぐもった声で答えた。
「ケイナ…… トラヴィア…… エスタス……」
「『ノマド』時代の名前ね……」
ジェニファは言った。
「もう名前はない?」
再びジェニファが尋ねた。ケイナの表情がかすかにゆがめられた。
「ケイナ…… カート…… カートは…… きらいだ……」
カインとアシュアは顔を見合わせた。
「なぜ、嫌いなの?」
ジェニファが尋ねるが、ケイナは答えなかった。
「ケイナ・カートもケイナ・トラヴィア・エスタスも同じあなたじゃないの?」
「彼は危険…… きっと…… いっぱい…… 人を…… 殺す……」
「人を殺す? 大丈夫よ、あなたはそんなことしたくないって思ってるでしょ?」
「……魔が…… いる……」
「暴走したときの自分のことかな……」
カインはつぶやいた。ジェニファがしっと指をたてた。
「彼は…… なにも…… 見えてない…… 強烈な…… 色を求めてる……」
「……」
3人は黙ってケイナを見つめた。
「……そいつは…… おれの首を…… 絞める…… だから…… 葬らなければ……」
「彼はあなた、あなたは彼なのよ。彼を殺したらあなたも死んでしまうわ」
ジェニファは言った。
「このままだと…… 黒の敵が…… 来る……」
「黒の敵?」
ジェニファの眉がひそめられた。ケイナに見せた水晶の板に映る黒いしみを思い出す。
「それはなんのこと?」
しばらく沈黙が続いたあと、俯いたケイナの顔がゆっくりとあがり、そしてだらりと下がった左腕がスローモーションのように伸びてぴたりと一点を指差した。
アシュアはその先を見て呆然とした。ケイナの指の先にはカインの姿があった。
カインは凍り付いたようにケイナを凝視した。
ジェニファはカインを振り返り、そして再びケイナに顔を向けた。
「ケイナ、彼はあなたの友人よ」
しかし、ケイナの指はカインを差したままだった。
「トウ・リィ…… 彼の、母親……」
ケイナはつぶやいた。
「……おれを欲しがってる……」
ジェニファはカインを振り向いた。彼女はケイナが何を言っているのか分からないのだ。
ケイナは腕をおろし、カインを見つめ続けた。
カインは体中が総毛立つような気分になり、思わずあとずさりした。
「彼女の息子…… そして…… 『グリーン・アイズ』……」
ケイナはつぶやいた。
「『グリーン・アイズ』? あなたは『グリーン・アイズ』を知っているの?」
ジェニファは目を細めた。
「トウ・リィの息子…… おれを欲しがってる……」
「やめろ……」
カインは思わず呻いた。
「おれが…… ホライズンに入れば…… 自分のものになると…… 思ってる……」
ケイナの目はまるで頭の中をかきまわすような感じだった。
カインは彼の視線から逃れるようにケイナとは反対側の壁まであとずさりした。
カインの顔が真っ青だ。アシュアは慌ててカインに近づいた。
「やめたいならケイナの催眠を解くわ」
ジェニファの声にカインははっとしてジェニファを見た。
「い、いえ…… 続けてください。すみません。大丈夫……」
カインは青ざめた顔のままで唇を震わせながら答えた。
「大丈夫か?」
アシュアが心配そうに顔を覗き込む。カインは小刻みにうなずいた。
「大丈夫……」
「おれを…… 殺して……」
ケイナはつぶやいた。
「トウ・リィは…… 子供を作る…… こんな人間を…… 作っちゃいけない……」
「ケイナ、あなたは生きなくては。死んでいい人間なんていないのよ」
ジェニファは言った。
「せっかくセレスという木に出会ったんじゃないの」
「セレス……」
ケイナはぼんやりと言った。
「彼女を殺せと…… 言ってる……」
「え?」
ジェニファは怪訝な顔をした。アシュアとカインもケイナを見た。
「もうひとりが…… 彼女を…… 殺せと言ってる…… 彼女がいたら…… 自分が消えるから…… 怯えてる…… だから…… その前に…… おれを…… 殺して……」
「彼女って誰?」
ジェニファは尋ねた。ケイナはゆっくりとまばたきをした。
「セレス…… クレイ……」
「セレスは…… 男だぞ?」
アシュアは言った。
「彼女を…… ずっとそばに…… そばにいたい……」
カインは自分の足ががくがくと震えるのを感じた。
ケイナは知っていた。セレスに『女』の遺伝子があることを……。ケイナに隠し事なんかできるわけがない……
「セレスは…… XXの遺伝子なんだ……」
カインは絞り出すような声で言った。アシュアが仰天してカインを見た。
「前に…… セレスが知らずに薬を飲まされただろう。あの時、分析したドクター・レイがセレスのことを女性だと言っていたんだ……」
「そ、そんなことあるわけない。セレスは男だ。おまえだって知ってるだろう」
アシュアはかすれた声で言った。
「おれはセレスの…… その…… 見てるから知ってるよ」
アシュアはついこの間、トレーニングウェアを脱いだセレスの腕をマッサージしてやったばかりだ。セレスが襲われたときにカインも見ているはずだ。
確かに男にしては貧相なほど細い体つきだが、上半身裸のセレスは女性には見えなかった。
「表現体は男なんだ」
カインはそう言って顔を歪めた。
「ラインに入ったときはXYだったはずだ。セレスは…… ケイナに出会ってXXになったんだ……」
「なんでそのこと…… 黙ってたんだよ」
アシュアは言った。
「トウが……」
カインは頬を震わせた。
「場合によってはセレスでもいいと…… 言ったんだ。セレスが『ホライズン』に入ればケイナは晴れて自由の身だと……。そうすれば彼を『ビート』に入れてずっと一緒にいられるだろうと……」
カインは壁に背を押しつけて顔を歪めた。
「でもぼくは…… ケイナを裏切るわけにはいかなかった。セレスを『ホライズン』に送ったりしたら、彼は一生ぼくのことを許さないだろう……。彼に憎まれるくらいなら…… まだ彼自身が『ホライズン』に行くほうが良かった……」
「カイン…… おまえ……」
言葉を続けることができなくなったアシュアをカインは見た。
「そうだよ…… 笑いたいなら笑え。ぼくはケイナを自分のものにしたかったんだ。セレスとケイナが近くなれば近くなるほどぼくは嫉妬に狂ってたよ。さっきもそうだ。ふたりが体を寄せ会って眠っている姿を見た途端、言いようのない思いにとらわれた。でも、ケイナが求めているのはぼくじゃない。セレスだ……。それが辛くてしかたがなかった……」
「でも、おまえはケイナを助けるために一生懸命動いてただろ。ケイナはそのことはちゃんとわかってるよ」
アシュアは言った。
「自分でも分からないんだ……。ぼくは自分で自分が何をなすべきか分からなくなってる……」
そのとき、ものすごい勢いでケイナは立ち上がり、ジェニファを弾きとばしてカインに突進した。
アシュアがはっと身構える間もなく、カインはケイナに咽を掴まれていた。
「もう遅い」
さっきまでのぼんやりしたケイナではなかった。目が険しい。
アシュアは一目見ただけで暴走したケイナだと悟った。
カインは息を詰まらせて呻き声をあげた。
「ジェニファ!」
アシュアは叫んだが、ジェニファもあまりの急激な変化に仰天しているようだった。
必死に引き離そうとするのに、アシュアの力ではケイナの手はぴくりともしなかった。
ジェニファはすぐに我にかえると催眠を解こうと彼の背後で手を上げたが、ケイナは片手でカインの首を掴んだまま、振り向きざまにジェニファの頬をもう片方の腕で一撃した。
ジェニファは大きな音とともに反対側の壁に体を叩き付けられた。
「『ホライズン』など行かない。セレスもいらない。命令はもう通っている」
そうつぶやくケイナの声はぞっとするほど冷たかった。
カインはきりきりとものすごい力で自分の首を絞めるケイナから逃れようともがいた。しかしケイナの手はびくともしない。
「ケイナ、やめろ! カインが死んでしまう!」
アシュアは叫んだ。ふたりの間に割って入ろうとするのだが、ケイナの力は今までとは全く違っていた。ケイナの片手の強烈な一撃をくらってアシュアも吹っ飛んだ。
「死ねばいい。おれの手で死ねるなら本望だろう?」
ケイナは床に転がったアシュアを一瞥してかすかな笑みを浮かべると、再び両手でカインの首を締め上げながら言った。カインの顔が苦しみのあまり赤く染まった。
「ジェニファ! セレスを起こせ! 暴走したケイナを止められるのはあいつしかいないんだ!」
アシュアはケイナに殴られた頬と床で打った腰の痛みに顔をしかめながらジェニファに怒鳴った。ジェニファも殴られたほほを押さえていたが、アシュアの声を聞くなり大急ぎで寝室に走り出した。
ケイナはそれを見てカインから手を放した。ジェニファを追うつもりだ。
ケイナが手を放した途端カインは床に崩れ折れたが、ぐったりしてぴくりとも動かない。
アシュアはそのカインの姿に当惑しながら全く隙のないケイナの姿を追った。
「ケイナ、目を覚ませ!」
ただ声をかけるしかなすすべがない。ケイナはアシュアを無視して寝室に入った。
アシュアはしかたなくケイナの背後から飛び掛かろうとしたが、今度はみぞおちに思いきり肘鉄をくらわされ、呻き声をあげた。
暴走したケイナは全身がアンテナ状態になる。今回のケイナは催眠状態から暴走しているせいか、さらに殺気だっている。腕力だけは自信のあったアシュアですらケイナに近づくことができない。
それでも銃やナイフなどの凶器が手許になかっただけでも救いだった。もし銃があればあっという間に全員殺されていたかもしれない。
「ジェニファ!」
アシュアは焦って怒鳴った。
「目を覚まさないのよ!」
悲鳴に似たジェニファの声が寝室から聞こえた。
「どうしてなの……」
ケイナが寝室に入ってきたので、ジェニファは身の危険を感じてセレスから離れた。
冷たく笑みの浮かんだ目をこちらにちらりと向けたあと、眠っているセレスに馬乗りになり、その咽に手をからめるケイナを呆然と見つめた。ケイナはセレスに絡めた指に徐々に力を込めていった。
「ケイナ、やめろ! セレスを自分の手で殺したりしたら、おまえは一生後悔することになるぞ!」
アシュアは叫んだ。
「後悔なんかしない」
ケイナはセレスの喉を掴んだままアシュアを見て言った。
「摺り替えた。どっちにしてもこいつは死ぬ運命にあるんだ」
「何を言ってる? 摺り替えたってどういうことだ?」
アシュアは困惑した表情を浮かべた。そしてはっとした。
「ユージーがおまえを撃つ暗示を、セレスが撃たれるように摺り替えたのか?」
「そうだよ」
ケイナはかすかに笑った。
「トウ・リィなぞ、くそくらえ……。おれは誰のものにもならない。まっぴらだ」
アシュアはあたりを見回して何か武器になりそうなものはないか探した。
しかし、ケイナの部屋には料理用のナイフすらないのだ。
一切の凶器を手許に置かないのはケイナの本能的な防御だったのかもしれない。
ミネラルウォーターのボトルが目に入ったがこんなものは何の役にもたたない。これをケイナの頭に打ち付ける前にケイナに弾き飛ばされることは明白だった。
「アシュア…… ぼくのエアバイクに…… ショックガンがある……」
カインがごほごほと咳き込みながら身を起こして言った。
よかった、生きていた……。アシュアはほっとした。
「ジェニファ、頼むよ」
アシュアは言った。ジェニファはうなずいた。
「座席の下にあるから…… キイはこれ…… いま…… キイだけで…… 開くように…… した……」
カインがキイを差し出して絞り出すような声で言った。ジェニファはキイをひっつかむと勢いよく部屋から飛び出していった。
ケイナがそれを目の端にとらえてかすかに声を出して笑った。まるで今のこの状態を楽しんでいるようなふうにさえ見える。
アシュアがしかたなく再び飛びかかろうと身構えると、カインがよろめきながら立ち上がってアシュアを押しとどめた。
「無理だ…… ケイナが正気に戻りかけたときでないとおまえでも…… 歯がたちっこない」
「暴走したケイナが出てくるなんて、とんだ計算違いだったぜ……」
アシュアは下唇を噛んだ。その間にもケイナはゆっくりとセレスの首を絞めていた。
セレスはぐったりとしたまま身動きひとつしない。きっとこのままだったら眠ったままケイナに殺されていくだろう。アシュアはジェニファが早く戻って来ないかといらいらした。
「ケイ…… ナ……」
ふと、セレスが声を漏らした。
首を絞められているので、息の漏れるような声だ。
アシュアとカインははっとしてセレスを見た。
セレスはうっすらと目を開いていた。そしてその目がゆっくりとケイナをとらえ始めていた。
セレスの目とケイナの目が合ったとたん、ケイナの表情が急変した。彼の手から急激に力が抜けていった。
「死んで…… 欲しい?」
セレスはまだ首にかけられたままのケイナの手をはらおうともせずに言った。
「そんな目でおれを見るな……」
ケイナは唇を震わせながら言った。
セレスの手が伸びてケイナの首にかけられた。アシュアとカインは呆然としてふたりを見つめていた。
いったい何が起こっているのだ……?
「セレスの髪が燃えてる……」
カインがつぶやいた。アシュアはぎょっとしてカインの顔を振り向いてからセレスを見たが、自分には何も見えなかった。
「死にたい?」
セレスは言った。
体勢が全く逆になっていた。今度は身を起こしたセレスがケイナの首を絞めようとしていた。
「や、やめ……」
ケイナは必死になってセレスの手をふりほどこうとしていた。
「ケイナが戻ってる! アシュア!」
カインが叫んだので、アシュアは反射的にふたりに飛び掛かった。
途端にセレスの片腕がアシュアの顔を打った。アシュアの体は大きく弾き返された。
アシュアは激しく床に叩き付けられて呻き声をあげた。さっきケイナに殴られて打ったところを再び強打したのだ。
あの華奢なセレスのどこにアシュアを床に叩きつける力が潜んでいるというのか……。
カインはそのときジェニファが戻ってきたのを知って、彼女が投げるショックガンをキャッチした。
「なんてこと……!」
ジェニファがふたりを見てうわずった声を出すのをカインは聞いた。
『こんなもの効くのか?』
カインは心もとなかったが、セレスに向かってショックガンを構えた。
セレスの緑色に燃える目がこちらを見たとき、カインは身の毛がよだつほどの恐怖を覚えた。
頭の中を引っ掻き回されるような気分だった。
「彼の額を狙うしかないわ」
ジェニファが言った。
「そんなことをしたら脳しんとうだけじゃすまない……」
カインは呻いた。
「ケイナの凶暴性がセレスに流れ込んでるのよ! 止めないとケイナが死んでしまうわ!」
ジェニファは一喝した。
しかし、カインにはとても撃つことができなかった。
いくらショックガンでも急所を撃ったらどんなことになるか……。
「貸せ!」
アシュアがカインからショックガンをもぎとり、すばやく照準を定めると引き金を引いた。
それは瞬きする間のことだった。
セレスの手がケイナから離れ、彼の体は大きく後ろに反るとそのままベッドの上に倒れ込んだ。