ケイナがようやく平静を取り戻したのは、それから一時間もたってからだった。
 セレスはケイナのアパートに行くことを提案し、ケイナは素直にそれに同意した。
 アパートへはセレスがヴィルを運転した。寒いのか、背後でケイナの体が小刻みに震えているのをセレスは感じていた。
「もうすぐ夜が明ける……」
 ヴィルから降りると、ケイナは空を見てつぶやいた。
「そうだね……」
 セレスは答えた。
 ほかの住人を起こさないようにそっとケイナの部屋に入り、セレスはケイナにシャワーを浴びて温まることを勧めた。ケイナは無言でそれに従った。
 ケイナがバスルーム入っていくのを見て、セレスは窓の外に目をやった。あと二時間もすれば『ライン』では点呼が始まるだろう。
 ケイナと自分がいないことに気づいたら、きっと『ライン』中大騒ぎになるはずだ。
 でも、そんなことはどうでもいいと思うようになっていた。
 このままケイナと『コリュボス』から脱出しちゃおうか。
 そんなことを考えてあまりのばかばかしさにセレスは笑った。
 ケイナのそばにいたい。ケイナとともに生きていけたらどんなに毎日が楽しいだろう。
 自分は彼のことをどう思っているんだろう。友人? それとも兄? なんだかどちらもしっくりこなかった。
 出会って過ごした日も交わした言葉もとても少ないが、彼の存在は友人や兄よりももっともっと近くて大切な存在のように思えた。
 少し眠くなったので、セレスはあたりを見回した。前にケイナが毛布を出してくれたクローゼットを思い出すと、そこから毛布を一枚取り出してくるまり床に座った。
 守りたい。ケイナと一緒にいたい……。
 どうしてこんな気持ちになっちゃうんだろうな……。
 そんなことを考えながらケイナがシャワーから出てくるまで待っているつもりだったが、意に反してまぶたは異様に重くなり、やがてセレスは小さな寝息を立て始めた。
 しばらくしてケイナはシャワーから出てくると、毛布にくるまっているセレスを見て苦笑した。
 濡れた髪を拭きながらケイナはクーラーボックスからミネラルウォーターを出した。
「セレス、おまえもシャワーを……」
 そう言いかけてセレスに近づいたケイナの足が止まった。
「どうして……」
 ケイナはかすれた声でつぶやいた。
 手に持ったミネラルウォーターのボトルが床に落ちて大きな音をたてた。しかし、セレスは目を覚まさなかった。
 ケイナはタオルを顔に押し付けて大きく深呼吸をした。そして再びセレスに目をやって、かぶりを振った。
「なんだよ、これ……」
 毛布にくるまり、幸せそうな表情で眠るセレスの顔がさっきとは違っていた。
 セレスはセレスなのだが、骨格自体がまるで違う。
 毛布から少し出ている首は細く、浮き出た鎖骨は折れそうで、鼻梁に鋭角的な線がなくなりくちびるはふっくらと弧を描いている。
 明らかに少女の顔立ちだ。
『落ち着け…… 何が起こってるのか冷静に考えろよ……』
 ケイナは自分に言い聞かせたが、どうにも考えがまとまらなかった。
 さっきまで男だったやつがいきなり女になるなどどう考えても不条理だった。
「ケイ…… ナ……」
 ふいにセレスがつぶやいたので、ケイナは飛び上がらんばかりに驚いた。
 そしてそれが寝言だと分かると、安心すると同時にかっと顔に血が昇る自分に戸惑った。
 そうだ、ここにはジェニファがいる。彼女に助けを求めよう。
 そう思って動いた途端、床に落としたミネラルウォーターのボトルを思いっきり蹴り飛ばしてしまった。
 ボトルは部屋の端までふっとんでいって、大きな音をたてた。
「ケイナ?」
 セレスが目を覚まして顔を持ち上げた。
 ケイナはぎょっとしてセレスを振り向き、そして大きく息を吐いた。
 セレスは元に戻っていた。
「そんなところで寝てないで…… おれのベッドを使え」
 ケイナは絞り出すような思いで言った。
「いいよ、おれ、ここで。ケイナも寝て来なよ」
 セレスは目をこすって答えた。いつものセレスだ。
 幻覚を見ていたのだろうか。
「病み上がりなんだ。無理するな」
 ケイナは言った。セレスを見るのが少し怖かった。
「じゃぁ、一緒にベッドを使おう」
 セレスは毛布にくるまったままのっそりと立ち上がった。
 ケイナは思わず身震いした。冗談じゃない。
「ちょっと狭いかもしれないけどさ、寝相悪いのはおれ、兄さんで慣れてるからさ」
 セレスはくすくす笑い、ケイナの腕をひっぱった。
「ちょっとでも寝たほうがいいよ。あとのことは目が覚めてから考えればいいさ」
 どうかしてる。セレスは男だぞ…… おれ、絶対変だ。どうかしてる……。
 狂ったように心臓が動悸を打つのを感じながら、 ケイナは呪文のように頭の中で同じ言葉を繰り返した。

「ケイナがいない?!」
 カインは血の気が引くのを感じた。
 持っていたカップが床に落ちて中のコーヒーがじゅうたんにあっという間にしみ込んでいった。
「ケイナだけじゃない。セレスもだ。どこにもいない」
 アシュアは言った。
「あいつらどうも夜のうちにゲートのセキュリティを破って脱出したみたいなんだ」
 カインはくらくらと目眩がして思わずベッドの端に座り込んだ。
 まったくもう、こんなときに…… こっちが動く前に動きやがった……
「ブロード教官が点呼に反応しないから、様子を見て来い、とおれに連絡してきた。ほかの人間はまだ誰も気づいていないそうだ」
 アシュアは混乱したような表情で言った。
「最初に気づいたのがブロードでよかったよ。彼ならたぶん大騒ぎしないで対処してくれるだろ」
「何考えてんだ、あのふたりは……」
 カインは両手で顔をこすった。
「お前、何も見えなかったのか?」
 伺い見るアシュアにカインはかぶりを振った。
「ケイナのいきなりの行動はいつも読めない……。きっと急に思い付いたんだ……」
「さて…… いったいどこに行ったんだか……。もう戻らないつもりかな」
 アシュアは額をこすった。
「冗談じゃない」
 カインは吐き出すように言った。
「とりあえずブロードに捜索志願しよう」
 カインはベッドから降りた。

 ブロードは苦虫を噛み潰したような顔でふたりの顔を見上げた。
「何か心当たりがあるのか?」
「特定はできませんが、ぼくらは休暇中も彼と行動をともにすることが多かったので、察しをつけることはできます」
 カインは答えた。
「所長も、さっきおまえたちふたりに探しに行かせろと言ってきた。わざわざおまえたちふたりに。いったいどうなってるんだ」
 ブロードの顔にめずらしく困惑の表情が浮かんでいた。
 そうだ。一介の教官であるブロードはカインとアシュアが『ライン』にいる本当の目的など知らない。知っているのは所長だけだ。
 普通なら教官が連れ戻しに行くところなのに、どうして同じライン生が行くのかブロードにはどうしても合点がいかないらしい。ブロードが何かに勘付かなければいいが。
「所長が言うんだからやむをえない。とりあえず行け。戻ってきたらまっすぐに教官室に来いと伝えろ」
「イエッサー」
 ふたりは敬礼をしてブロードのオフィスをあとにした。
「参ったな。所長はトウに連絡したかな。戻ってきたらすぐにトウの呼び出しをくらっちまうぜ」
「今さらトウの何が怖いか」
 アシュアは呟きにカインは答え、アシュアは肩をすくめた。
「もう、取って投げるメガネがないから、直接平手が飛んで来るぞ」
「ごちゃごちゃくだらないこと言ってないで、ケイナの行きそうなところの当てを考えろよ!」
 叱りつけるカインの言葉にアシュアは思案するような顔をしたが、かぶりをふった。
「ケイナはだいたい休暇中も出歩いたことがないからなあ」
「まさか、自分のアパートに帰ってるってことはないだろうな……」
 カインはつぶやいた。アシュアは笑った。
「それ、当たりかもしれんぜ。あの先に湖があってケイナはあのあたりの景色が好きなんだと言っていたことがある。気持ちが落ち着くんだとさ」
「まさかとは思うが、行ってみるか……」
 カインは自分の部屋から小さなカード型の器具を持ち出してきた。アシュアがそれは何だと聞くとカインは肩をすくめた。
「これでセキュリティを突破するんだよ。こいつがなきゃ、ぼくたちはケイナのアパートに単独で入れないだろ」
「呼び鈴鳴らしてはいどうぞ、って言ってくれるとは限らんしな」
 アシュアは苦笑した。
 ふたりはそれぞれのヴィルにまたがると、ケイナのアパートに向かって飛び立った。
 そして彼のアパートの敷地に見慣れたケイナのヴィルがあるのを見てふたりは呆れるとも驚きともつかない表情で顔を見合わせた。
「もうちょっと派手なことをやらかしてくれると面白かったんだがな」
 アシュアはケイナのヴィルの隣に自分のヴィルを停めると、彼の座席を軽く叩いて笑った。
「ほかの住人が警戒しなけりゃいいんだが……」
 カインはそうつぶやきながらエントランスに近づくと、回りを伺いながらセキュリティシステムの入っている壁面の突起を外し、持ってきた薄いカードからコードを伸ばして取り付けた。そして小指の先ほどのキイボタンを押すとエントランスはあっけなく開いた。
「こんな簡単に開くならセキュリティの意味がないな」
 アシュアは言った。
「この機械は誰もが持ってるものじゃないよ」
 カインはそう答えてコードを片付けた。
「なるほど。『リィ・カンパニー』のシークレット製品ってわけか」
 アシュアは言ったが、カインは少し笑みを見せたきりだった。
 ふたりはケイナの部屋のある階まであがり、同じようにしてカインは持って来たカードで彼の部屋のドアを開けた。
 そっとドアを開けて中をうかがったが、すぐ目の前に見えるリビングに人陰はなかった。
 しかし、ヴィルがある以上ケイナが部屋にいることは間違いない。アシュアとカインはそっと部屋の中に入った。
 やはりリビングにもキッチンにも人の気配はなかった。
「シャワールームにも誰もいないぜ」
 アシュアは小さな声でカインに言った。
 ふたりは残った寝室に歩み寄り、そっとドアを開けた。
 そして中を見てそのまま呆気にとられて立ち尽くした。
 ベッドの上ではケイナとセレスがお互いの背中をくっつきあわせるようにして毛布にくるまって眠っていた。
 その寝顔はふたりとも全く何も警戒していない無防備そのものだった。
 ケイナが人の気配を感じて飛び起きないのが何よりも安心しきっている証拠だ。
「アシュア」
 カインはふたりから目を離さずに小声で言った。
「ジェニファを呼んで来て欲しい」
 アシュアは思わずカインを見た。
「ジェニファは暗示を解く方法を知っているかもしれない。ケイナがここにいるなら好都合だ」
「了解」
 アシュアが出ていったあと、カインは心地良さそうな寝息をたてているふたりに再び目を向けた。
 どうしてこんなに気持ちが沈むんだろう……。
 カインはそっと寝室のドアを閉めると、リビングの窓際に寄った。
 分かっている……。まだ気持ちの整理がついていないんだ。
 ケイナが安らぎを求める相手をセレスに求めたことが…… 悔しいんだ……。
 セレスとぼくらは違う。そのことは何をどうあがいても変わらない。
 いったいいつまでこんな思いを抱えることになるんだろう……。
 背後に気配を感じて振り返ると、アシュアが大きな黒いストールをかぶったジェニファを連れてそっと入ってきたところだった。
 もう彼女に説明したのか、と訝し気な目を向けるカインにアシュアは手を振ってみせた。
「ジェニファにそんなに説明はいらなかった。おれたちのこと待っていたんだとさ」
 カインは思わずジェニファを見た。ジェニファはにっこり笑った。
「あのふたりがここに来ていたことも知ってたのよ。たぶんね、ケイナが自分でここに来ないといけないって分かってたのね」
「……」
 カインは恐怖めいたものを覚えて思わずジェニファから目をそらせた。彼女が自分の心すらも読むのではないかと恐れを抱いたのだ。
「心療治療はやったことはあるの。あまり得意なほうじゃないけれど。だけど、暗示は早く解かないとまずいと思う。催眠術にかけて彼自身に聞き出すほうがいいと思うの」
 ジェニファはそう言うと懐から小さな丸い箱のようなものを取り出し、ふたを開けた。中には白い粉のようなものが入っていた。
「あの男の子にはもう少し深い眠りについてもらうわ。途中で起きると面倒でしょう」
 そしてそれを片手に寝室に入っていった。
「何をするつもりかな」
 アシュアがカインにささやいた。
「あの粉はきっと眠り薬のようなものなんだろう。とりあえずジェニファに任せよう」
 カインは答えた。