自室に戻ったカインを見送り、目覚めたときのケイナがどうなっているか分からないので、アシュアはしかたなくケイナの部屋で夜を明かした。
 朝になって目を覚ましたケイナの態度はアシュアも呆れ返るようなものだった。
「なにやってんだ、そんなところで」
 疲れ切った様子でソファに腰かけているアシュアを見てケイナは言った。
「おまえの寝顔を一晩中見ていたくて」
 アシュアはやけくそで答えた。
 ケイナの人格はやはりどこかで入れ代わったのだ。彼はきっとカインを殴ったことを覚えてはいない。
「おまえ、今この時点で『ライン』を辞めたいと思ってるか?」
 アシュアはじろりとケイナを見て言った。ケイナは目をそらせた。
「やっぱりそんなことを言ったのか……」
 彼は答えた。
「覚えてないのか?」
 アシュアは疑わし気にケイナを見た。ケイナはうつむいたまま髪をかきあげてうなずいた。
「途中で記憶が途切れてる…… おれ、何かしたか?」
「いや」
 アシュアは即座に答えた。
「鎮静剤がんがん打ってたからぐっすり眠ってた」
 アシュアを見るケイナの目は決してそれを信じてはいないようだったが、彼は何も言わなかった。
 ケイナは怯えている。アシュアはそう思った。
「まあ、いろいろ喚き散らしてたけども冗談半分でこっちも聞いてるから気にするな。セレスはちゃんとおれたちもガードするから。おまえ、自分だけを責めんじゃねえぞ。セレスはそんなおまえを望まないからな」
 アシュアが言うと、ケイナはうなずいた。彼らしからぬ素直な態度だった。
 このケイナももしかしたら本当のケイナではないかと思うと、アシュアは複雑な気持ちだった。
 ジェニファが暗示を解く方法を知っていればいいんだが。
 アシュアは小さく息を吐いた。

「左の上顎と下顎との接合部分の損傷が大きかったんだ。分かるかね」
 医師はスキャンした顎の画像をセレスに見せながら言った。
 セレスはうなずいた。
「ここは普段よく使う場所だから骨部再生促進をしてるけれど、もしかしたらあとで何か症状が出るかもしれない。何か異常に気がついたら早めに言うんだよ。ほうっておくと口を開けることができなくなる。やはり訓練に復帰するには一週間かかりそうだね。講議のほうは明日から出てもかまわないが、大口あけてのおしゃべりは禁物だ」
「はい」
 医師は冗談を言ったつもりなのだろうがセレスはとても笑うどころではなかった。
 また一週間も訓練に出られない。落胆は生半可なものではなかった。
咀嚼(そしゃく)はできるから時間をかけてゆっくり食べるようにしなさい。あまり堅いものは避けるように。補食の流動食を出しておくから、それと一緒に。そうすれば少しでも早く回復が見込める」
 医師は慰めるように言った。セレスは立ち上がると医師に一礼して医療室をあとした。
 訓練を休んでしまったら取り戻すのに倍の時間がかかるのは分かっていた。だけど、どうしようもない。
 時計を見ると夕食の時間をとうに過ぎていた。でも、食べて体力をつけないと早く復帰できない。
 医療室に行く前に食事をすませればよかった、と思った。
 どうせ余りものしかないと思いながらダイニングに向かい中を覗き込むと、案の定もう人の気配はなかった。
 いや、奥にひとりだけ座っていた。
 ユージーだ。
 やはり食事は諦めようと踵を返しかけたとき、ユージーの声が響いた。
「ちゃんと食えよ! 訓練に差し支えるぞ」
 セレスは躊躇したが、思いきって足を踏み入れた。
 大皿からこそげとるように残り物の料理をすくって自分の皿に入れていると、背後でユージーの声がした。
「厭な思いをさせて悪かったな」
「え?」
 セレスは思わず手をとめて振り返った。ユージーは背を向けて座ったまま振り向かなかった。
「つくづく何をしでかすか分からねえやつらだ。バッガスを2回も半殺しの目に遭わせることになるとは思わなかった。小汚い変態野郎を全員報告させたはずだった。まさかまだ残っているなど思いもしなかった……」
 セレスはユージーの言っていることの意味を飲み込むまでに相当の時間がかかった。
「そんなところに突っ立ってないで、座って食えよ」
 ユージーはトレイを持ったまま立ち尽くしているセレスに顎で椅子をしゃくった。
 セレスはあえてユージーのそばには座らなかった。彼への警戒心を解くことはできなかった。
「今度はもう容赦しないつもりだった。場合によっては腕の一本くらいは使えなくしてやってもよかった」
 ユージーはこちらを見ずに話した。
 セレスは背中にぴりぴりとした緊張が走るのを覚えた。
「だが、あいつは鼻や口から血を流して泣いて懇願するんだ。自分がやったんじゃないと……。最後にあいつの顎を蹴り飛ばして病院送りにしてやった。おまえが受けたほどの傷は与えられなかったが……」
 ユージーはからん、とフォークを皿に放りなげ、セレスを見て笑った。
「おかげでおれは二週間謹慎だ。メシの時間しか部屋から出られない。だからしばらくサポート訓練をしてやれない。悪いな」
「悪いけど、あんたの言うこと今はあんまり聞きたくない」
 セレスは言った。
「バッガスを殴ったくらいで終わるとでも思ってんのかよ?」
 ユージーはその言葉に振り向いてテーブルの上のトレイを睨みつけているセレスの顔をちらりと見やった。
「怖かったし…… 死ぬんじゃないかと思ったよ。でも、今は大丈夫だ。だけど、ケイナはずっと苦しんで来たんだ。そのために感情抑制装置までつけられて……」
 セレスは唇を噛んだ。
「あんた、そのこと分かってんのかよ。なんでこんなことするんだよ」
 ユージーは皿に置いたフォークを持ち上げてもて遊んだ。
「おまえがどう思おうと自由だし、おれもいちいち弁明する気もない。実際、バッガスを病院送りにしたって、おれはカートの名前のおかげで謹慎で済んでるんだ。おまえがむかつく気持ちも分かるよ」
 セレスは黙って皿を見つめた。
「しかたない。そばにいて守れるんならそうしてる。 だけど、おれはあいつに会えないんだ」
「え?」
 会えない?
 セレスはユージーを訝し気に見た。彼が何を言おうとしているのか分からなかった。
「おれは、ここに入って4年になる。ケイナが入って一年目にあの事件が起こった。だが、おれはあいつに一度も会ったことがない。おれはケイナがここに入ってからあいつの身長が今どれくらいで、髪型がどんなので、どんな声になっていて…… 全然知らない」
「知らないって…… それは…… あんたとケイナじゃカリキュラムが違うからだろ」
 それを聞いてユージーが嘲るような声を漏らした。
「カリキュラムが違うからって4年も一度も顔を見たことのない人間がいるなんて、この狭い『ライン』の中で起こりうると思うか? あいつは毎晩自己トレーニングでトレーニング室に行っているはずだが、おれもほとんど毎晩行っているんだぞ。それでも会わないということが考えられるか?」
 セレスは黙ってユージーを見つめた。ユージーは肩をすくめた。
「おれはあいつのことをほとんど知らないのに、しょっちゅうあいつがケガをしたって話が耳に入ってくる。それで、おれがあいつを陥れようとしたってことになってる。おれが会わないのになんでバッガスたちはケイナの顔を見る? おれはおまえに会うのに、おまえが顔を見るケイナをどうしておれは見ることができない?」
「あんたの言ってることが分からないよ……」
 セレスは困惑して言った。ユージーはかすかに笑った。
「おれだって分からない。 ……まあ、もういいさ。おれは早くここを出なければならない。父の跡を継がないといけないからだ。親類中がうるさい。生まれたときから定められた道ほどうっとうしいことはないが、もうこれはおれの運命だ」
 ユージーはセレスを見た。
「おまえはあいつに好かれているという話を聞いた。あいつの時間は残り少ない。できるだけそばにいてやれ。おれももうおまえやケイナにちょっかいかけないように今以上にあいつらを見張っておくから」
「時間が少ない?」
 セレスは目を細めた。
「なんだ、それ……」
「知らないのか……?」
 ユージーは顔をしかめた。
「ケイナはとっくにおまえには言っていると思った……」
「いったいなんのこと……」
 セレスは不安で心臓が激しく鼓動を打つのを感じながらセレスはユージーを見つめた。
 そういえば、前にケイナはそんなことを匂わせることを言った。あのときは詳しく聞くことはできなかった。
「ケイナはどこかに行くの?」
 ユージーためらっているような様子だったが、しばらくして口を開いた。
「ケイナはここを修了したら…… ホライズン研究所に入ることになっている」
「ホライズン…… 研究所……?」
 セレスはつぶやいた。
「リィ・カンパニーの研究所だ。ケイナは小さい頃からそこでずっといろんなことを調べられていた。最初は14歳であそこに行くはずだった。でも、おやじはあいつの才能が惜しくて『ライン』に入れることを決め、頑固にそれを押し通した。結果、契約は18歳まで伸びたんだ。だが、それ以上はもう伸ばせない……。これ以上契約を変更するとカンパニーは資金や技術支援をストップすると言ってくるだろう。ケイナが抵抗すればよってたかって強制連行だ」
 ユージーは手に持ったフォークを見つめて言った。
「ケイナは…… 研究所に入って何をするんだ?」
 沸き起こる不安を感じながらセレスはユージーを凝視していた。ユージーはちらりとセレスを見て目を反らせた。
「何もしない」
「何もしない?」
「そう。何もしない。何もできない、とも言うな。あいつは被実験体として仮死保存される」
「嘘だ……」
 セレスは思わず立ち上がった。テーブルの上の皿が音を立て、フォークが床に落ちた。
「仮死保存て…… だって、ケイナは…… 人間だぞ!」
「おれだってそう思ったよ!」
 ユージーは怒ったような口調で答えた。
「おやじをなじったこともあった。おやじがあいつを引き取ったとき、あいつは7歳くらいだったと思う。あいつはおれと全く正反対の性格で、小さい頃はよく笑った。弟ができておれは嬉しかったよ。だけど、あいつを引き取ることになったときには、すでにあいつのホライズン行きの話は決まっていたんだ。そんな人間の権利を無視した契約をなぜ結んだのかとおれはおやじに食ってかかったよ」
「ケイナは…… 最初からそのことを知っていたのか?」
「まさか」
 ユージーは呆れたようにセレスを見た。
「そんなこと、本人に知らせるはずがない。ましてや子供の時期に。でも、あいつは頭がよかったからな。14歳でおやじがそのことを伝える頃にはもうとっくの昔に知っていたような顔をしていたらしい」
「……」
 セレスは混乱していた。
 ユージーの話すことを本当に鵜のみにしていいのか? ユージーはただ自分を正当化させるためにこんなことを言っているだけじゃないのか? 信じてしまうとそれこそ彼の思うつぼではないのか?
「ケイナの契約破棄についていろいろと考えてみた。だけど、どうしようもないことが分かった。どこかにケイナを逃がしてやっても必ず連れ戻されるだろう。そればかりじゃない。下手をするとカート一族はかなり危うい立場に陥る」
 ユージーは肩をすくめた。
「だいたいリィの御曹子にじきじきに見張らせてるんだ。やることは全部筒抜けだ」
「リィの御曹子? 誰が?」
 セレスは戸惑いながら言った。ユージーは疑わしそうな目をこちらに向けた。
「おまえは本当に何も知らないのか?」
 セレスは激しく首を振った。
「何のことだか分からないよ」
「カインとアシュアは普通の訓練生じゃねえよ」
 ユージーは吐き捨てるように言った。
 セレスはドキリとした。カインとアシュアは普通の訓練生じゃない……。真っ向から反論できない部分がセレスにもあった。
「おまえくらい勘の鋭いやつなら分かるだろう。あいつらはカンパニーが派遣したガードだ。『ライン』の訓練なんかとっくに終了してる特別訓練を受けた兵士だよ。カイン・リィはリィの息子だぞ。名前を見て気づかなかったのか?」
「……」
 セレスはユージーから目をそらせた。
 気づいていながらあえて知らないフリをしていた部分を全部露呈されたような気分だった。
 怖い、と思った。できればユージーの前から逃げ出したかった。
 しかしできなかった。
「カインもアシュアもケイナの友人だよ。見張るとかそんなんじゃないよ……」
 セレスは言った。半ば自分に言い聞かせるような感じだった。
 ユージーは冷ややかにセレスを見つめた。
「カインがリィの御曹子で、本当にケイナの友人であるなら、ケイナを助けることができるのは彼しかいない。次期主導権を持つのは彼だ。彼が本当に友人としてケイナを助けようとしているんなら、おまえもそれに加勢しろ。あいつがそんなことをするとは思えないけどな」
 心臓が激しく動悸を打っていた。
 セレスは首を振りながらユージーを見た。
「ユージー…… おれはあんたが分からない…… あんたの言うことを そのまんま信用する気になんか…… とてもなれない。あんたはどうしてそんなことを言うんだ?」
「どうして?」
 ユージーはセレスの言葉を反芻して笑った。
「助けられるんならおれがやってる。あいつは血が繋がってなくても10年以上も一緒に暮らした弟だぞ」
 そう言って、彼はセレスの顔を見据えた。
「おれの顔を見て兄さんと言って駆け寄って来たんだぞ。母はおれが生まれてすぐに死んだ。残ったのは押しつぶされそうなカートの家を継ぐという責任だけだ。ケイナは…… ケイナはおれのことを跡継ぎとか損得感情なしでおれに笑いかけた唯一の存在だ!」
 セレスは言葉を失った。ユージーは険しい顔で言い募った。
「おれが『ライン』内で何を言われているかくらいは知っている。だがな、おれの評判は良かろうと悪かろうとそれは一切将来には響かない。カートの名前がある限り何も揺らがない。なら、いくらでもやってやるよ。バッガスひとり殺したっておれには何の咎めもないだろう。だったらその立場を利用してやるよ。だけどその立場のおかげでできないことがひとつある。それは、ケイナの人生の消滅を助けてやれないことだ!」
 ユージーはトレイを持って立ち上がった。
「どうしてそのことずっと黙ってたんだ…… みんなあんたのことそんなふうに思ってないよ……」
 セレスは険しい顔のユージーを見て言った。
「ふざけんな」
 ユージーは答えた。
「ケイナとおれのことを分かろうとする人間がいったいどこにいた。おまえもそうじゃなかったのか。名誉だ地位だ財産だ、みんな色眼鏡で見やがって…… たったひとりの人間も救えないのに、おれは将来人を守る立場につくんだ。くそくらえ!」
 ユージーはそう言うとトレイを洗い場の差し出し口に放り込んで食堂から出て行った。
 セレスは呆然としてそれを見送った。