あたりは暗く、外から入り込む薄明かりでカインはようやく自分が『ライン』の見なれた廊下にいることに気づいた。
 目の前に誰かが歩いて行く。黒い髪に細みの体。
 覚えはある。ユージー・カートだ。
 そうか。
 身長は伸びているけれど、彼は『ライン』に来た当初からそんなに変わってはいないんだな……。
 ユージーはゆっくりとした足取りで歩いて行く。
 顎をぐっと引き、彼はいつも背筋を伸ばしている。そんなところも変わってはいなかった。
 カート司令官もそんな感じだった。やはり親子なんだ……。
 カインは彼の後ろをついて歩いた。
 ユージーはひとつの部屋の前に来ると、妙にロボットじみた動きでその部屋に体を向けた。
 トレーニングルーム? こんな夜更けにいったい何の用事があるというんだ。
 カインは訝しく思いながらそのあとに続いた。
 トレーニングルームに入ると奥のマシンに誰かが座っているのが見えた。
 ケイナだ。彼はいつもあの場所にいる。
 ユージーはゆっくりとケイナに歩み寄り、そして片腕をあげた。
 何をするつもりだろう。
 そしてカインはユージーの腕の先に光る銃を見た。
「な、何をするんだ!」
 カインは仰天してユージーの背後から彼に飛びかかった。しかし、あっけなくそのままユージーを素通りして彼の前に倒れた。
「これで終わりだから」
 頭上で声がした。カインは振り向いた。
 顔が影になっていてよく見えない。
 カインは無我夢中でユージーに飛びかかっていた。腕が空を切り、ユージーの顔をまじかに見たと思ったとき、カインは我が目を疑った。
「これで最後だから」
 そう言った顔はケイナだった。
「ケイナ!」
 そう叫んだ途端、銃は発射された。
 銃弾はカインの耳を通り越していった。
 鼓膜を揺るがすような音が響き、カインはさっきケイナが座っていたはずのマシンを見た。
 ゆっくりと倒れていく緑色の髪が見えた。

「カイン!!」
 カインははっと我に返った。気がつくと、アシュアに助け起こされていた。
 体中から汗が噴き出ていた。
「夢?」
 カインは震えながら顔を巡らせた。
 ケイナの部屋だ。アシュアが心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ケイナは?」
 カインはアシュアを見上げた。
「覚えてないのか?」
 アシュアはため息をついて言った。
「おまえはあいつに殴られたんだよ。そのままあいつがおまえを殴り続けそうになったから、悪いと思ったけど一発殴って鎮静剤の注射を突き立ててベッドに放り込んだ。 またしばらく眠ってるよ」
「は……」
 カインは額を押さえた。
 殴られたような記憶はなかった。後頭部が少し痛い。どこかで打って気を失ったのだ。
「血」
 アシュアが眉間のあたりをさして言った。
 カインが自分の眉間を触ってみると、真っ赤な血が指先についた。
「……メガネは……」
 カインは床を見回した。
「ほれ」
 アシュアはカインにメガネをさしだした。フレームだけになっている。おまけに不格好に歪んでいた。
「あれだけトウにはたかれても大丈夫だったのに、ケイナの一発で割れちまったぜ」
 カインは無言でメガネを受け取った。
 そうか…… こいつが全部受け止めたんだ……。
 眉間の傷はメガネが跳ね飛んだときについたものだ。メガネがなかったら目をつぶされていたのかもしれない……。そう思うとぞっとした。
「ケイナはセレスが自分と同じ目に遭いそうになったから混乱してるんだよ。少しすれば頭も冷えるさ」
 アシュアの言葉にカインは首を振った。
 ふらつきながら立ち上がるとケイナの横たわるベッドに近づいた。
 ケイナは目を閉じて眠っていた。
 おれは利用している。ケイナはそう言った。
 そういうことだったのか……。
「おまえ、何か見えたのか?」
 アシュアがためらいがちに言った言葉にカインはぎゅっと口を引き結び、しばらくしてから口を開いた。
「ケイナは…… 人を使って自分をいないことにしようとしてるんじゃないかと思う」
「え……?」
 アシュアはカインの口調に険しい目を向けた。
「アシュア、きみだって気づいてたんだろう? ぼくらはずっとケイナが正気をなくすときは暴走したときだけだと思ってた……」
 カインはフレームだけのメガネを見つめた。
「ずっとおかしいと思ってたじゃないか。なんでケイナがここまで周囲から反目を受けるのか、ずっと不思議だったじゃないか」
 アシュアは下唇を噛んで黙っていた。
「ジェニファがケイナに何を言ったのかは知らない。だけど、あの休暇のとき、彼女はケイナに何かヒントを出したんだ。だからケイナもそれに気づいたんだろう。ケイナは自分でコントロールできない人格をほかにも持っているんだ…… きっと彼はそのことに自分で怯えてるんだ」
 カインはアシュアの顔を見た。
「でなきゃ、普通の状態のケイナをおまえが強引に眠らせるなんてことはないよな」
 それを聞いてアシュアは不機嫌そうにカインから目をそらせた。
 カインはアシュアを見据えた。
「ケイナは人に暗示をかけてるんだ」
「そんなことあるかよ」
 アシュアはカインと目を合わさず即座に言った。
「こんなに厭な思いをしてきて、それが全部自分でそうするように相手を挑発してきたなんて ことあるはずがない」
「挑発じゃない。暗示だ」
 カインは言った。
「本体のケイナが意識してやってるわけじゃない。無意識に…… いや、別の人格の彼が人に暗示をばらまいているんだ」
 カインは再びケイナに目を向けた。
「彼は…… たぶんユージー・カートに…… 最後の暗示をかけてるんだよ……」
 アシュアはぎょっとしてカインを見た。
「まさか」
アシュアはかすれた声でつぶやいた。
「ケイナは…… いつものケイナとは違うケイナは、ぼくがどこかで見抜くかもしれないと思っていたんだろう。だからぼくにはユージーの姿が認知できないんだ」
「つまり…… ケイナはおまえにも暗示をかけていたのか?」
 カインはうなずいた。
「推測でしかないけど…… たぶんそうだと思う」
 アシュアは堅く目を閉じるケイナを見つめた。
「ケイナはいつまでたってもぼくにはちゃんと話をしなかったはずだ。彼は最初に会ったときからぼくの見える力を悟っていて、警戒していたんだ」
 カインは唇を噛んだ。こんなこと、全然気づかなかった。
「暗示を解かないと……」
「暗示を解く?」
 アシュアは目を細めた。
「そう。暗示を解かないと」
 カインはきっぱりと言った。
「誰にどれだけ暗示をばらまいているか知らないけど、ケイナはセレスを盾にしていると言っただろう。ケイナは自分であっちこっちにばらまいた暗示を、今度は全部自分でセレスに向くようにしてるんだ」
「ちょっと待てよ」
 アシュアは混乱した頭の中を整えるように額に手を当てた。
「じゃあ、最後にユージーがケイナを消すっていう暗示は……」
「そう。セレスに向いてる可能性がある」
 アシュアは困惑して視線を泳がせた。
「なんか…… ややこしくて理解しきれんな……」
 カインはぐったりしたセレスを抱き締めるケイナの姿を思い出していた。
「いったい何人いるんだろう。暴走したケイナ、暗示をばらまいているケイナ、その暗示をセレスに向かせているケイナ……?」
「最後の暗示が…… おれたちでなくて良かったって、思うべきなのかもしれない……」
 そうつぶやいたアシュアの言葉を聞いて、カインの顔が歪んだ。
「おれ、違うと思う……」
 アシュアはかぶりを振って言った。
「カイン…… ケイナは死にたくないんだ。『生きたい』んだよ…… 助けて欲しいんだよ。おれたちに。だからおれたちを最後の手段にはしなかったんじゃないのか?」
 『リィ・ホライズン』に行け、ケイナ……。ぼくはそう願った。
 カインは目を閉じるケイナの顔を見つめて思った。
 だのに、セレスのために『ホライズン』に行くというケイナに怒りを感じた。
 自分の中にたくさんの知らない自分がいる。
 そのことに恐怖を覚えて助けて欲しいと言っている彼に気づかずに。
「ジェニファにコンタクトを取る」
 カインは震える声で言った。アシュアはカインに目を向けた。
「ジェニファのキーワードがケイナを追い込んだんだ。彼女は何かを知っている」
 アシュアは何も言わずうなずいた。