セレスはまるでひんやりとした霧の中に漂っているような感触を味わっていた。
あたりは暗かったが、空中を漂っている感覚がこのうえなく心地よかった。
ふと、人の気配を感じて頭をめぐらせた。遠くに誰かが立っている。
セレスは引きつけられるようにその陰のほうへ浮遊していった。
後ろ姿は背が高く、真っ黒な髪をしている。
(ユージー……?)
この後ろ姿はユージー・カートだ。今度は分かる。
これは前に見た夢と同じだ。自分はまた同じ夢を見ているんだ。
ユージーはゆっくりとスローモーションのような感じで歩いている。
セレスはユージーの頭のすぐ後ろをふわふわと浮遊してあとをついていった。
やがて彼はひとつの部屋の前で立ち止まった。見慣れたトレーニング室のドアが見える。
ロボットじみた動きでその中に入っていく。
セレスも浮遊するようにしてそれに続いた。部屋のすみのマシンの中で誰かが腕を動かしている。
(ケイナ……)
ユージーの肩ごしに、セレスはケイナの姿を見た。
「これで最後だから」
ユージーがつぶやくのが聞こえた。低いかすれた声だった。
(このあと……)
セレスは戦慄した。このあと彼は……。
ユージーの手にあった銃がぴたりとケイナに狙いを定める。
(ユージー! ……だめだ!)
セレスはユージーの背後から彼の腕を掴もうとした。しかし手は空しくユージーの腕を通り抜けてしまう。
触れない…… ユージーにさわれない!……
(ケイナ! 逃げろ!)
ありったけの声を出しているつもりなのに声が出ない。
(ケイナ!)
はっとして目を開けた。
目を開けたと同時に飛び起きていた。
すぐ近くに誰かがいた。それがケイナだと分かった時、セレスは泣き出したくなるような安堵感に襲われた。
「びっくりした……」
セレスはつぶやいた。
「それはこっちのセリフだ。急に起きて大丈夫か?」
ケイナはベッドの脇の椅子に腰を降ろして言った。戸惑っているような表情を浮かべている。
ケイナだ。
間違いなくケイナだ…… 生きているケイナだ。
「良かった、ケイナ…… また会えた……」
セレスは自分で意識しないうちに両腕を伸ばして彼の肩を抱いていた。
仰天したのはケイナだ。いきなり抱きつかれて次にどうするべきか咄嗟に頭が働かなくなってしまったように体を強ばらせた。
「もう会えないかと思った……」
ケイナはセレスを落ち着かせるようにためらいがちにその背を軽く叩いた。
「ちょっと…… 離れろ。おまえの手に点滴の針が刺さったまんまなんだ」
セレスははっとしてケイナから離れた。彼に抱きつくなんて、なんて子供じみたことをしてしまったのかと後悔した。
「ご、ごめん」
慌てて謝るセレスを見て、ケイナは強ばったままの笑みを浮かべた。
「針を抜くから横になって」
セレスは言われたままに横になった。ケイナは点滴機のスイッチを押した。かちりと音がしてセレスの左手の甲に固定してあった注射針が自動で抜けた。
「2日間眠りっぱなしだった。傷のせいというよりも、疲労の極致だったみたいだな」
ケイナはチューブをまとめながら言った。
「2日も?」
セレスはびっくりした。そんなに長く眠っていたなんて思いもしなかった。
「ドラッグにやられたすぐあとだったんだ。しかたない。あとでメシを持ってくるから食えよ」
ケイナの言葉を聞きながら、セレスは顔を巡らせてあたりを見回した。
見なれない部屋だ。ロウラインの部屋の半分くらいの広さがある。
床は青い絨毯が敷き詰めてあり、壁際にクローゼットとデスクが並んでいた。
小さなソファとテーブルまである。ベッドも前のものより格段に広い。
「ここはハイラインのおまえの部屋だよ。入院する必要もないからと治療のあとにここに運ばれた。覚えてないか?」
ケイナは点滴の器具を壁際の机の上に置いて言った。セレスはかぶりを振った。
アシュアにジュディの薬のことを頼んだあとの記憶は一切なかった。
窓の外を見ると薄暗かった。明け方なのか、夕暮れなのか……。
「今、午前五時前」
セレスの心を見透かしたようにケイナが言った。
「五時……」
セレスはつぶやいた。
「ケイナ…… ずっとここに?」
「まさか」
ケイナは冗談じゃない、という顔で言い、椅子に腰をおろした。
「2日間アシュアと交代で来てた。面倒かけてくれるぜ。クレイ指揮官も連絡を受けて一度様子を見に来た」
セレスは目を伏せた。そんなセレスにケイナは少し怒っているような口調で言った。
「ジュディの殺気なんか察知できただろうに、なんで刺されたりした?」
「ハイラインの合格を聞いた直後だったから…… 有頂天になってて分からなかったんだ」
セレスは答えた。
「ケイナ…… ジュディは?」
問いかけにケイナは小さく首を振った。
「病院に収容された。薬をやってることはばれた。たぶん『ライン』の復帰はない」
「アシュアに彼の持ってる薬を処分して欲しいって頼んだんだ……」
セレスはためらいがちに言った。ケイナはうなずいて髪をかきあげた。
「全部トイレに流したと言ってた」
それを聞いてセレスは安堵の息を漏らした。
「ジュディが薬を持っていたのかどうか、教官に質問されるぞ。アシュアは知らないって言ったらしいけど」
「おれも言わないと思う」
セレスはそう答えてケイナを見た。
「ジュディを検査すればすぐに分かることかもしれないけど……」
「なんで……」
ケイナは眉を吊り上げた。
彼が次の言葉を言おうとする前にセレスはそれを遮った。
「ケイナ… TA601……。シートにそう書かれてた。それがどんな薬かは分からないけど、 アーモンドタルトの甘い匂いがするんだ。ジュディはずっと前からその匂いがしてたらしいんだ」
「余計なことに首を突っ込むのはやめろ。薬の出どころを調べるのはおまえの役目じゃない」
ケイナが険しい目で言った。セレスが口を開こうとすると、ドアが開いてアシュアが入ってきた。
「おう! 目が覚めたか!」
アシュアは笑ってベッドに近づいて来た。
「ゆっくり眠って気分爽快だろう」
「アシュア、ありがとう」
セレスは言った。アシュアは肩をすくめてにっと笑った。
「別に礼を言われるようなことは何もしてねえけど、どうしてもって言うならあとでたっぷり返してもらうぜ」
そしてケイナを見た。
「メシ食ってこいよ。そのあとのカリキュラムは二時間遅れだと。ちょっと眠るんだな」
ケイナはちらりとセレスを見ると部屋を出ていった。
アシュアはケイナを見送ると、彼の座っていた椅子に腰かけた。
「傷はほとんどふさがってるらしいけど、ずっと点滴だったからちょっと体がふらつくかもしれんな。明日からは自分で医療棟に行けよ。クレイ指揮官、心配して様子見に来たんだぞ? まあ傷はさほどひどくないし、おれとケイナが見てるからって言って安心してもらった。」
「うん‥… ありがとう」
兄にあとで連絡しないと、と思いながらセレスはうなずいた。
「それと…… ごめんよ、ジュディの薬のこと」
「ああ、あれな」
アシュアはうなずいた。
「教官には言わなかったが、気になったんでカインにちょっと調べてもらった」
「調べた……?」
セレスは訝しそうに目を細めた。アシュアはうなずいた。
「意外なことが分かったよ。TA601の薬は リィ・メディケイティドで生産してる不妊治療薬だったんだ」
「不妊治療薬?」
セレスは驚いて身を起した。
「今はもう生産されていない。中身を流してしまったのを後悔したぜ。たったひとつでもシートを残してりゃな……。まあ、今さらしかたないけど」
「じゃあ、ジュディは本当にビタミン剤だと思って飲んでたのかな……」
セレスは混乱した。
「あのぶんだと本人はそうとしか思ってないだろうな」
アシュアは言った。
「アーモンドタルトの香りは? ジュディはずっと前からその匂いがしてたんだ。薬の匂い?」
「いや…… シートを持った時、おれもその匂いが気になってカインに聞いてみたけど、601にそんな香料は入っていないと言ってた。どこかで誰かが中身とシートを摺り替えてる可能性がある。ビタミン剤だと思って違法ドラッグを飲んでるっていうケースが一番恐ろしいな」
「休暇中のバッガスが買っていたドラッグだと思う?」
セレスは尋ねた。アシュアは肩をすくめた。
「それも分からねえな」
セレスはため息をついた。
「おれが歯ブラシに塗られた時はアーモンドの匂いなんてしなかったのに……」
「匂いなんてしたらすぐにばれちまうだろうが。おまえに服用させるときは無味無臭の必要があったんだよ」
アシュアは苦笑した。セレスは小さくうなずいた。
「じゃあ、少なくとも二種類のドラッグがラインの中にあるんだ」
「そういうことになるな。現実はもっと多いと思うが……」
アシュアはベッドの上に肘をついた。
「あんまり考えるな。ドラッグを使ってる奴はほうっておけ。使う奴が悪いんだ。おまえは一日でも早く自分の力をコントロールできるようにすることだ」
「自分の力をコントロール……?」
びっくりしてアシュアを見ると、思いがけずアシュアは真顔でセレスを見ていた。
「おまえはあのときものすごい殺気だったんだぞ。おれがあのとき間に合ったって言ったのは、おまえを助けることじゃなくて、おまえがジュディを殺しかねなかったことに間に合ったっていう意味だ」
セレスはぽかんと口を開けた。おれがジュディを殺そうとしていた? まさか。
「あのな、そりゃ、あのときのおまえではいくら反撃したってっていうのはあるさ。ましてや素手で。だけど、おれが来るのが遅かったら、おまえは自分が失血死するまでジュディを叩きのめしてただろうな。自分の怪我の痛みも何も分からずに誰かが力づくで止めるまでジュディを殴り続け、もし万が一おまえの手にジュディのナイフが渡っていたら……」
「うそだろ……」
セレスは戸惑ったように視線を宙に泳がせた。
「それって…… ケイナの…… エアポートの…… あのときと同じじゃ……」
アシュアは少し息を吐いた。
「ケイナみたいに暴走してたとは思わんけど…… だけど、カインは同じ危険を感じたらしい。あいつはアライドの血を引いてるから、タイミングが合えば時々危険を察知するんだ。ただ、よっぽど危険なときに限られるみたいだけどな。だからカインが察知したってことはその『よっぽど』だったってことだ」
セレスはアシュアの言葉を聞いても自分のことを言っているのだとは思えなかった。
おれ、ジュディを殺そうなんて思ってないよ……。
思ってなかったよ……。
それだけを心の中で繰り返した。
ケイナも自分が暴走したことを知ったときはこんな気持ちだったのだろうか。
アシュアは困惑したようなセレスの横顔を複雑な表情で見つめていた。
「ケイナにはこのことは話してない。知ったらあいつだって冷静じゃいられないだろ。おまえとあいつを見てると、何だかいろんなところで似てる部分があって…… だからケイナもおまえに惹かれるのかもしれないけれど、こんなことまで似てなくてもって思うだろうし」
「ケイナが…… 惹かれる? 誰に?」
セレスはつぶやいた。
「おまえに、だよ」
アシュアは呆れたような顔をした。
「おまえ、知らないだろうけど、二日間、何度もケイナの名前をうわ言で言ってたんだぜ」
セレスは顔にかっと血が昇るのを感じた。そんな記憶はなかった。
眠っている間とても心地よかった。ケイナに関わる夢を見たのは目覚める前に見たあの夢だけだ。
「ケイナはおまえがうわ言で自分の名前を呼んだのを聞いて、あいつにしちゃめずらしく顔を赤くしてた。表情は怒っているような感じだったけどな。自分のことをここまで考えてくれる人間がいるなんて、あいつには思いもよらないことだっただろう」
アシュアは立ち上がった。
「興味のない相手ならケイナは口もきかないし声もかけない。相応にあしらうなんて高度な人づきあいはできなかったんだ。だけどあいつはおまえと会ってからずいぶん話すようになったし笑顔も見せるようになった。おまえには心を許しているんだとおれは思うよ」
そして彼はぐいっとセレスに顔を近づけた。
「だからこそおれたちもおまえを守るんだ」
セレスは言いようのない辛さを感じてうつむいた。
「じゃあ、おれはもう行くからな。ケイナがたぶん朝食持ってくるから、それを食ったらまた少し寝ておけ」
「うん……」
セレスは答えた。アシュアは一度背を向けかけて再び振り返った。
「こないだみたいにどやしつけはしないよ。だけど、もう二度と同じことを繰り返すなよ。 薬のときといい今回の件といい、ちょっと無防備過ぎる」
セレスはそれを聞いて思わずこぶしを握りしめた。悔しかったが何も言えなかった。
「ケイナは…… 半分命がけだって…… 言ったろ?」
「うん……」
セレスは渋々答えた。
「ケイナがな…… 辛そうなんだよ。おまえが何か起こすごとに心配でたまらないって顔をしてる」
セレスはうなだれた。
アシュアはそんなセレスをしばらく見つめたあと部屋を出ていった。セレスは唇を噛み締めた。
守るつもりが守られている。そこからどうしても抜けだせない自分が歯がゆかった。
あたりは暗かったが、空中を漂っている感覚がこのうえなく心地よかった。
ふと、人の気配を感じて頭をめぐらせた。遠くに誰かが立っている。
セレスは引きつけられるようにその陰のほうへ浮遊していった。
後ろ姿は背が高く、真っ黒な髪をしている。
(ユージー……?)
この後ろ姿はユージー・カートだ。今度は分かる。
これは前に見た夢と同じだ。自分はまた同じ夢を見ているんだ。
ユージーはゆっくりとスローモーションのような感じで歩いている。
セレスはユージーの頭のすぐ後ろをふわふわと浮遊してあとをついていった。
やがて彼はひとつの部屋の前で立ち止まった。見慣れたトレーニング室のドアが見える。
ロボットじみた動きでその中に入っていく。
セレスも浮遊するようにしてそれに続いた。部屋のすみのマシンの中で誰かが腕を動かしている。
(ケイナ……)
ユージーの肩ごしに、セレスはケイナの姿を見た。
「これで最後だから」
ユージーがつぶやくのが聞こえた。低いかすれた声だった。
(このあと……)
セレスは戦慄した。このあと彼は……。
ユージーの手にあった銃がぴたりとケイナに狙いを定める。
(ユージー! ……だめだ!)
セレスはユージーの背後から彼の腕を掴もうとした。しかし手は空しくユージーの腕を通り抜けてしまう。
触れない…… ユージーにさわれない!……
(ケイナ! 逃げろ!)
ありったけの声を出しているつもりなのに声が出ない。
(ケイナ!)
はっとして目を開けた。
目を開けたと同時に飛び起きていた。
すぐ近くに誰かがいた。それがケイナだと分かった時、セレスは泣き出したくなるような安堵感に襲われた。
「びっくりした……」
セレスはつぶやいた。
「それはこっちのセリフだ。急に起きて大丈夫か?」
ケイナはベッドの脇の椅子に腰を降ろして言った。戸惑っているような表情を浮かべている。
ケイナだ。
間違いなくケイナだ…… 生きているケイナだ。
「良かった、ケイナ…… また会えた……」
セレスは自分で意識しないうちに両腕を伸ばして彼の肩を抱いていた。
仰天したのはケイナだ。いきなり抱きつかれて次にどうするべきか咄嗟に頭が働かなくなってしまったように体を強ばらせた。
「もう会えないかと思った……」
ケイナはセレスを落ち着かせるようにためらいがちにその背を軽く叩いた。
「ちょっと…… 離れろ。おまえの手に点滴の針が刺さったまんまなんだ」
セレスははっとしてケイナから離れた。彼に抱きつくなんて、なんて子供じみたことをしてしまったのかと後悔した。
「ご、ごめん」
慌てて謝るセレスを見て、ケイナは強ばったままの笑みを浮かべた。
「針を抜くから横になって」
セレスは言われたままに横になった。ケイナは点滴機のスイッチを押した。かちりと音がしてセレスの左手の甲に固定してあった注射針が自動で抜けた。
「2日間眠りっぱなしだった。傷のせいというよりも、疲労の極致だったみたいだな」
ケイナはチューブをまとめながら言った。
「2日も?」
セレスはびっくりした。そんなに長く眠っていたなんて思いもしなかった。
「ドラッグにやられたすぐあとだったんだ。しかたない。あとでメシを持ってくるから食えよ」
ケイナの言葉を聞きながら、セレスは顔を巡らせてあたりを見回した。
見なれない部屋だ。ロウラインの部屋の半分くらいの広さがある。
床は青い絨毯が敷き詰めてあり、壁際にクローゼットとデスクが並んでいた。
小さなソファとテーブルまである。ベッドも前のものより格段に広い。
「ここはハイラインのおまえの部屋だよ。入院する必要もないからと治療のあとにここに運ばれた。覚えてないか?」
ケイナは点滴の器具を壁際の机の上に置いて言った。セレスはかぶりを振った。
アシュアにジュディの薬のことを頼んだあとの記憶は一切なかった。
窓の外を見ると薄暗かった。明け方なのか、夕暮れなのか……。
「今、午前五時前」
セレスの心を見透かしたようにケイナが言った。
「五時……」
セレスはつぶやいた。
「ケイナ…… ずっとここに?」
「まさか」
ケイナは冗談じゃない、という顔で言い、椅子に腰をおろした。
「2日間アシュアと交代で来てた。面倒かけてくれるぜ。クレイ指揮官も連絡を受けて一度様子を見に来た」
セレスは目を伏せた。そんなセレスにケイナは少し怒っているような口調で言った。
「ジュディの殺気なんか察知できただろうに、なんで刺されたりした?」
「ハイラインの合格を聞いた直後だったから…… 有頂天になってて分からなかったんだ」
セレスは答えた。
「ケイナ…… ジュディは?」
問いかけにケイナは小さく首を振った。
「病院に収容された。薬をやってることはばれた。たぶん『ライン』の復帰はない」
「アシュアに彼の持ってる薬を処分して欲しいって頼んだんだ……」
セレスはためらいがちに言った。ケイナはうなずいて髪をかきあげた。
「全部トイレに流したと言ってた」
それを聞いてセレスは安堵の息を漏らした。
「ジュディが薬を持っていたのかどうか、教官に質問されるぞ。アシュアは知らないって言ったらしいけど」
「おれも言わないと思う」
セレスはそう答えてケイナを見た。
「ジュディを検査すればすぐに分かることかもしれないけど……」
「なんで……」
ケイナは眉を吊り上げた。
彼が次の言葉を言おうとする前にセレスはそれを遮った。
「ケイナ… TA601……。シートにそう書かれてた。それがどんな薬かは分からないけど、 アーモンドタルトの甘い匂いがするんだ。ジュディはずっと前からその匂いがしてたらしいんだ」
「余計なことに首を突っ込むのはやめろ。薬の出どころを調べるのはおまえの役目じゃない」
ケイナが険しい目で言った。セレスが口を開こうとすると、ドアが開いてアシュアが入ってきた。
「おう! 目が覚めたか!」
アシュアは笑ってベッドに近づいて来た。
「ゆっくり眠って気分爽快だろう」
「アシュア、ありがとう」
セレスは言った。アシュアは肩をすくめてにっと笑った。
「別に礼を言われるようなことは何もしてねえけど、どうしてもって言うならあとでたっぷり返してもらうぜ」
そしてケイナを見た。
「メシ食ってこいよ。そのあとのカリキュラムは二時間遅れだと。ちょっと眠るんだな」
ケイナはちらりとセレスを見ると部屋を出ていった。
アシュアはケイナを見送ると、彼の座っていた椅子に腰かけた。
「傷はほとんどふさがってるらしいけど、ずっと点滴だったからちょっと体がふらつくかもしれんな。明日からは自分で医療棟に行けよ。クレイ指揮官、心配して様子見に来たんだぞ? まあ傷はさほどひどくないし、おれとケイナが見てるからって言って安心してもらった。」
「うん‥… ありがとう」
兄にあとで連絡しないと、と思いながらセレスはうなずいた。
「それと…… ごめんよ、ジュディの薬のこと」
「ああ、あれな」
アシュアはうなずいた。
「教官には言わなかったが、気になったんでカインにちょっと調べてもらった」
「調べた……?」
セレスは訝しそうに目を細めた。アシュアはうなずいた。
「意外なことが分かったよ。TA601の薬は リィ・メディケイティドで生産してる不妊治療薬だったんだ」
「不妊治療薬?」
セレスは驚いて身を起した。
「今はもう生産されていない。中身を流してしまったのを後悔したぜ。たったひとつでもシートを残してりゃな……。まあ、今さらしかたないけど」
「じゃあ、ジュディは本当にビタミン剤だと思って飲んでたのかな……」
セレスは混乱した。
「あのぶんだと本人はそうとしか思ってないだろうな」
アシュアは言った。
「アーモンドタルトの香りは? ジュディはずっと前からその匂いがしてたんだ。薬の匂い?」
「いや…… シートを持った時、おれもその匂いが気になってカインに聞いてみたけど、601にそんな香料は入っていないと言ってた。どこかで誰かが中身とシートを摺り替えてる可能性がある。ビタミン剤だと思って違法ドラッグを飲んでるっていうケースが一番恐ろしいな」
「休暇中のバッガスが買っていたドラッグだと思う?」
セレスは尋ねた。アシュアは肩をすくめた。
「それも分からねえな」
セレスはため息をついた。
「おれが歯ブラシに塗られた時はアーモンドの匂いなんてしなかったのに……」
「匂いなんてしたらすぐにばれちまうだろうが。おまえに服用させるときは無味無臭の必要があったんだよ」
アシュアは苦笑した。セレスは小さくうなずいた。
「じゃあ、少なくとも二種類のドラッグがラインの中にあるんだ」
「そういうことになるな。現実はもっと多いと思うが……」
アシュアはベッドの上に肘をついた。
「あんまり考えるな。ドラッグを使ってる奴はほうっておけ。使う奴が悪いんだ。おまえは一日でも早く自分の力をコントロールできるようにすることだ」
「自分の力をコントロール……?」
びっくりしてアシュアを見ると、思いがけずアシュアは真顔でセレスを見ていた。
「おまえはあのときものすごい殺気だったんだぞ。おれがあのとき間に合ったって言ったのは、おまえを助けることじゃなくて、おまえがジュディを殺しかねなかったことに間に合ったっていう意味だ」
セレスはぽかんと口を開けた。おれがジュディを殺そうとしていた? まさか。
「あのな、そりゃ、あのときのおまえではいくら反撃したってっていうのはあるさ。ましてや素手で。だけど、おれが来るのが遅かったら、おまえは自分が失血死するまでジュディを叩きのめしてただろうな。自分の怪我の痛みも何も分からずに誰かが力づくで止めるまでジュディを殴り続け、もし万が一おまえの手にジュディのナイフが渡っていたら……」
「うそだろ……」
セレスは戸惑ったように視線を宙に泳がせた。
「それって…… ケイナの…… エアポートの…… あのときと同じじゃ……」
アシュアは少し息を吐いた。
「ケイナみたいに暴走してたとは思わんけど…… だけど、カインは同じ危険を感じたらしい。あいつはアライドの血を引いてるから、タイミングが合えば時々危険を察知するんだ。ただ、よっぽど危険なときに限られるみたいだけどな。だからカインが察知したってことはその『よっぽど』だったってことだ」
セレスはアシュアの言葉を聞いても自分のことを言っているのだとは思えなかった。
おれ、ジュディを殺そうなんて思ってないよ……。
思ってなかったよ……。
それだけを心の中で繰り返した。
ケイナも自分が暴走したことを知ったときはこんな気持ちだったのだろうか。
アシュアは困惑したようなセレスの横顔を複雑な表情で見つめていた。
「ケイナにはこのことは話してない。知ったらあいつだって冷静じゃいられないだろ。おまえとあいつを見てると、何だかいろんなところで似てる部分があって…… だからケイナもおまえに惹かれるのかもしれないけれど、こんなことまで似てなくてもって思うだろうし」
「ケイナが…… 惹かれる? 誰に?」
セレスはつぶやいた。
「おまえに、だよ」
アシュアは呆れたような顔をした。
「おまえ、知らないだろうけど、二日間、何度もケイナの名前をうわ言で言ってたんだぜ」
セレスは顔にかっと血が昇るのを感じた。そんな記憶はなかった。
眠っている間とても心地よかった。ケイナに関わる夢を見たのは目覚める前に見たあの夢だけだ。
「ケイナはおまえがうわ言で自分の名前を呼んだのを聞いて、あいつにしちゃめずらしく顔を赤くしてた。表情は怒っているような感じだったけどな。自分のことをここまで考えてくれる人間がいるなんて、あいつには思いもよらないことだっただろう」
アシュアは立ち上がった。
「興味のない相手ならケイナは口もきかないし声もかけない。相応にあしらうなんて高度な人づきあいはできなかったんだ。だけどあいつはおまえと会ってからずいぶん話すようになったし笑顔も見せるようになった。おまえには心を許しているんだとおれは思うよ」
そして彼はぐいっとセレスに顔を近づけた。
「だからこそおれたちもおまえを守るんだ」
セレスは言いようのない辛さを感じてうつむいた。
「じゃあ、おれはもう行くからな。ケイナがたぶん朝食持ってくるから、それを食ったらまた少し寝ておけ」
「うん……」
セレスは答えた。アシュアは一度背を向けかけて再び振り返った。
「こないだみたいにどやしつけはしないよ。だけど、もう二度と同じことを繰り返すなよ。 薬のときといい今回の件といい、ちょっと無防備過ぎる」
セレスはそれを聞いて思わずこぶしを握りしめた。悔しかったが何も言えなかった。
「ケイナは…… 半分命がけだって…… 言ったろ?」
「うん……」
セレスは渋々答えた。
「ケイナがな…… 辛そうなんだよ。おまえが何か起こすごとに心配でたまらないって顔をしてる」
セレスはうなだれた。
アシュアはそんなセレスをしばらく見つめたあと部屋を出ていった。セレスは唇を噛み締めた。
守るつもりが守られている。そこからどうしても抜けだせない自分が歯がゆかった。