セレスは午前八時に試験会場である講議室に行った。
学科の試験はほかの軍課の生徒たちと一緒だ。必須時間が誰でも決まっているので、これは単なる半年間の総試験になる。
飛び級査定に入るのは実技のみで、実技がどれだけ早く進むかで修了年数が変わってくる。
ケイナは来年でもう修了するか否かが決定するはずだ。
セレスはここでハイラインに上がらなければ、来年という選択肢はない。そのときにはもう『ライン』にケイナはいないかもしれないのだ。
机上学習は昔からセレスは苦手だった。しかし、毎日嫌でも勉強しなければならない状態に追い込まれていたから、何とか合格点はもらえるだろうと思うだけの結果に終わった。
問題は午後の実技試験だった。
「セレス、頑張れよ」
学科試験が終わったあと、講議室から出るセレスの後ろからトリルがそう言って追いこして行った。
飛び級を受けないトリルやジュディはセレスとは別室の試験になる。
セレスはトリルにちょっと笑って手をあげた。トリルは笑みを浮かべて手を振り返してきた。
トリルはことなかれ主義のタイプだったが、気の優しい少年だった。
ジュディと同じグループで実技を受ける毎日で、彼が一緒だったことは今となってはセレスにとって救いだった。
午後の試験の前に昼食を取らなければならなかったが、たぶん食事が咽を通らないだろうと思ったので、デザートに出されていたリンゴをひとつと、プロテイン入りのドリンクをダイニングから持ち出した。
同じように緊張状態にさらされている生徒たちのいるダイニングにいるよりは、部屋にひとりでいたほうが落ち着けると思ったのだ。
部屋に入ってケイナのブースを覗くと、すでに片付けられて何もなかった。
見慣れた彼の分厚い本も机にうず高くいつも積まれていたデータディスクの山もない。
ミントの香りだけがかすかに残っていた。
セレスは自分のブースに入るとブーツの紐を点検しながらリンゴをかじり、リンゴを芯まで食べきると、とても美味しいとはいえないプロテイン飲料を一気に飲み干した。
それで充分に満たされた気分になった。
そして大きく伸びをすると、試験前に少し体を温めておくためにトレーニング室に行こうと思いついた。
午前中ずっと机に向かっていたので、肩のあたりが少しこわばったような気がしたのだ。
セレスは腰かけていたベッドから立ち上がり、ドアに向かった。
そしてそのドアをあけた途端に部屋に入ろうとしていた誰かと思いきりぶつかった。
何かがばさりと床に落ち、ぎょっとした顔を向けたのはジュディだった。セレスは面喰らって思わず後ずさりした。
床に落ちた白い紙包みが目に入った。それを見た途端、セレスはジュディが手を伸ばす前にいち早くそれを拾っていた。
紙包みの端からこぼれ出ている錠剤の埋め込まれた銀色のシート。赤くて丸い粒が見えた。
「ジュディ……!」
セレスはジュディの顔を険しい目で見た。
「返せ!」
ジュディは手を伸ばして薬をひったくろうとしたが、セレスはそれをかわした。ジュディの体からふわりとアーモンドタルトの匂いが鼻をかすめた。
「返せ……!」
ジュディは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんだよ、この薬は……!」
セレスはジュディを問い詰めた。
「ビタミン剤だよ!」
ジュディは険しい口調で言った。
セレスは薬のシートに顔を近づけた。甘い匂いがした。アーモンドのような匂いだ。TA601のマークがシートのひとつひとつに刻み込まれていた。
次の瞬間、ジュディに思い切り体当たりされ、その勢いに床に倒れたセレスの手からジュディは薬の袋をひったくっていた。
「ただのビタミン剤なら、なんでそんなに躍起になるんだよ!」
身を起こすセレスをジュディはかすかに頬を震わせて睨みつけていたが、ふいに踵を返すと逃げるように走り去った。
「ジュディ……!」
セレスはドアに走り寄ったが、ジュディはロウラインの宿舎をすでに走り抜けていた。
TA601……。
いや…… 忘れよう。
セレスはかぶりを振った。
今は忘れなきゃならない。
アーモンドタルトのにおいはまだ部屋に残っていた。
午後の実技試験でセレスは大きな失敗をした。
射撃の訓練で飛んでくる円盤を三つも撃ち落としそこねたのだ。これはきっと大きな失点になるだろう。
試験監督だったブロードはセレスの顔をちらりと見ただけだった。
それ以外の運動機能測定では申し分ない成績のはずだったから、セレスはこの失点が悔やみきれなかった。
もしかしたらダメかもしれない……。
大きな絶望感にとらわれながらセレスは部屋に戻った。
結果が出るまでの三時間、押しつぶされそうなこの気持ちと戦わなくてはならない。
部屋に入ってジュディのブースを見ると、彼はまだ戻っていなかった。忘れようと思っていたが、やはりどこかでジュディのことを考えていた。きっとそれが失点を招いたのだ。
ぐったりして自分のブースに入ると、トニが待ちかねていたように顔を覗かせた。
「セレス! どうだった?」
セレスはため息をついた。
「分からない…… ちょっとミスった……」
「ミス? でも、たいしたことないんだろう?」
トニは疲れ切ったようにベッドに腰を降ろすセレスに言った。
「大丈夫だよ。きっと合格するよ」
「うん……」
セレスは髪をかきあげた。
本当に疲れ切っていた。
緊張の度合いが大きかったので、試験が終わってどっと疲れがほとばしり出たような気分だった。
「それ、ケイナの癖だよ。なんだかきみ、ケイナに似てきたね」
トニがくすりと笑って言った。
「え?」
セレスは怪訝そうにトニを見あげた。トニは笑みを浮かべて肩をすくめた。
「髪をかきあげてから視線を下に落とすんだ。 ケイナがやるといつもぞくっとするような感じなんだけど、きみもけっこうサマになってるよ」
「つまんないこと言うなよ」
セレスはこっちの気も知らないで、と呆れ返った。
「ねえセレス」
トニはセレスのデスク用の椅子に腰を降ろした。
「きみはものすごく変わったよ。自分じゃ気づいていないかもしれないけど、ここに来たときとは全然違うよ。ぼくらはもうすぐ新入生を迎える。きみはもうすっかりハイライン生の風格を身につけてる。自信を持てよ。ケイナに似てるってことは、茶化してんじゃなくて、ぼくの最大の賛辞なんだよ」
セレスは目を伏せた。
「ぼくとアルも来年にはハイラインにあがるつもりだから、そうしたらまたトリオの復活だ。待っててくれよ」
トニは笑って言った。
「そういうのは本当に合格してから言ってくれよ」
セレスは苦笑して答えた。
「オーケイ。じゃあ、夕食の時間だ。しばらくちゃんと食べてないだろう。今夜はしっかり食べろよ。発表まであと二時間四十分もある。そのまえにダウンしちまうよ」
トニの言葉でセレスは初めて自分が空腹であることに気づいた。
うなずいて立ち上がると、トニはにっこりと笑ってみせた。
何だか居心地の悪い食事をダイニングでとったあと、セレスはトニよりも先に再び部屋に戻った。
ダイニングで会ったアルの話によると、軍科のみならずアルのいる科でもセレスのことは噂になっているということだった。
たえず視線を感じながらで居心地が悪かった。
でも通知まであと二時間。落ち着かない。
こんなときケイナがそばにいてくれたらどんなに心強いだろう。
部屋に入った時ジュディのブースを見たが、やはり彼はいなかった。
そういえばダイニングでも姿を見なかった。いったいどこに行ったのか……。
セレスは気になったが、それ以上考えるのをやめた。
しばらくしてトニも戻ってきた。しかしセレスの気持ちを思ってか、黙って自分のブースに引っ込んでいった。
何も手につかなかった。時間がたつのが異様に遅く感じられた。
しかし、ベッドに横になったセレスは空腹が満たされたのと疲労でいつの間にかうとうととまどろんでいた。
夢うつつに妙に右腹に不快感を感じていた。痛いような熱いような感じだ。
きっと急にちゃんとした食事をとったから腹具合でも悪くなったのかもしれない……。
そんなことを眠りながら考えていた。
しばらくしてデスクの上の通信音で飛び上がるように跳ね起きた。
まどろんでいる間に感じていた右腹の不快感はそのときにはきれいさっぱりなくなっていた。
向かいのブースでトニが緊張の面もちでこちらを見ている。
一気にアドレナリンが体中をかけめぐるのを感じながら、セレスは震える手で画面を教官室に繋いだ。
「セレス・クレイ?」
画面に映ったのはジェイク・ブロードだった。
「はい……」
セレスは掠れた声で答えた。とうとうこのときが来た。
「学科得点395点、実技総合572点」
ブロードは無表情にそう言ったあと、画面の向こうでひたとセレスを見据えた。
「おめでとう。合格だ」
一瞬血が下がり、それからかあっと顔に血が昇った。
「二時間以内にハイライン宿舎に移動するように。きみの部屋は262号室だ。移動が済んだら教官室に来たまえ。明日からのカリキュラムを説明する」
「はい」
震える声でセレスが答えると画面のブロードはかすかに笑みを浮かべた。初めて見るブロードの笑顔だった。
「実技は570点のボーダーぎりぎりだよ。危なかったな」
「はい……」
セレスはうなずいた。そしてブロードは画面から消えた。
「セレス!」
後ろからトニが飛びついてきた。
「やった! おめでとう!」
トニは興奮のあまり顔を真っ赤にしていた。
「頑張れよ!」
トニはセレスをぎゅっと抱き締めた。セレスは何も言えずに目を閉じた。
トニは興奮しきったままブースを飛び出し、この朗報をアルに報告すべく部屋を出て行った。
セレスは身の回りのものを荷造りするために立ち上がった。
ようやく喜びが沸き起こってきた。
部屋の外がなんだか騒がしい。きっとトニが触れ回ったので、大騒ぎになっているのだろう。
荷物を持って移動する時にはもみくちゃになるかもしれない。
セレスは三十分で荷物をまとめた。あまり騒ぎが続くと教官に注意されてしまう。
バッグを持ってブースから出ようと振り向いたとき、いきなり右の脇腹に衝撃を感じた。
何が起こったのか分からなかった。
衝撃は熱い火のような痛みに変わり、セレスはバッグを取り落として床に膝をついた。
「おまえは本当に目障りだ」
頭上で聞き覚えのある声がした。
痛みをこらえながら見上げるとジュディが真っ白な顔をして立っていた。
うかつだった。喜びで完全に無防備な状態だった。
いつもならジュディの気配などすぐに感じ取れたはずなのに。
ジュディは真っ赤に染まったナイフを両手で持って立っていた。セレスはそれを見て初めて自分が刺されたことを知った。
アーモンドタルトの甘い匂いがする。
「なんでおれの邪魔ばかりする!」
ジュディは怒鳴った。
表情が異常だ。こんな顔をどこかで見た記憶がある……。
そうだ、エアポートの事件の時の犯人の男の顔もこんな感じだった。自制心を全く無くしている人間の顔だ。
「薬をやめろ…… ジュディ……! 取り返しがつかなくなるぞ……!」
セレスは脇腹を押さえて喘ぎながら言った。押さえた手を見ると血で真っ赤だった。
「薬?」
ジュディは笑った。
「あれはビタミン剤だと言っただろ? あれを飲むと元気が沸く。何でもできそうな気分になるんだ」
「ジュディ…… それは、違法の……」
セレスは痛みのために次の言葉が出せなかった。じっとりと額に汗が滲んだ。脇腹の傷はいったいどれくらいのものなのだろう。
「おまえはでまかせを言っておれを陥れようとしているんだろう。ハイラインにあがっておれを追放しようとしているんだろう……!」
ジュディがナイフを突き出したので、セレスはようようの思いでそれをよけた。
ジュディが動くたびに胸がむかつくような甘い匂いがした。
セレスは唇を噛んだ。こんなところでこんな奴に刺し殺されるのはまっぴらだ。
おれはケイナのそばに行かなきゃならない。やっと彼のそばに行けるってときに、殺されてたまるもんか。
「おまえは自分で自分の首を締めてる……」
セレスは立ち上がった。
「ナイフを渡せ……」
絶対に起き上がれないとふんでいたジュディはセレスの姿を見て怯んだ。彼の顔に恐怖の色が浮かぶ。
ジュディは奇妙な叫び声をあげるとナイフを振り上げた。
セレスの体が構えと攻撃の姿勢になり、ジュディに一撃を加えようとした途端、それよりも早く誰かがジュディの後頭部に一撃を加えたのをセレスは見た。ジュディは小さく呻いて崩れ折れた。
「やれやれ、間に合った」
「アシュア……」
床に倒れたジュディを見下ろしていたのはアシュアだった。それに気づいたと同時にセレスは立っていられなくなってがくりと前にのめった。床にしたたかに顔をぶつける前にアシュアがセレスを抱えた。
誰かの悲鳴が響いた。トニだ。
「医療室に連絡しろ!」
アシュアはトニに怒鳴った。トニは真っ青な顔をしてうなずくと部屋から飛び出した。
「アシュア…… なんでここに……」
セレスはつぶやいた。
「カインが『見えた』んだよ。危なかったな」
アシュアは答えながらセレスの傷口を見て応急処置を始めた。
「見えた……?」
「うん…… またゆっくり説明してやるよ」
アシュアはにっと笑って言った。しかしその顔はセレスにはぼやけて泣いているように見えた。
「心配すんな、たいした傷じゃない。一週間もすればもとに戻るよ。ちょっと動いて出血が多くなったな」
「アシュア…… ジュディのポケットかどこかに薬が入ってる…… それを捨てて……」
「薬?」
アシュアは目を細めて床に転がっているジュディを見た。
「ジュディは薬をやってる…… 違法ドラッグだ。 ……ばれると思うけど…… 持ってなければ罪が…… 軽くなる……」
「こんなやつほっとけ」
アシュアは言ったがセレスは首を振った。
「頼むよ……」
「……分かった」
アシュアはしかたなく答えた。それを聞いてセレスは気を失った。
学科の試験はほかの軍課の生徒たちと一緒だ。必須時間が誰でも決まっているので、これは単なる半年間の総試験になる。
飛び級査定に入るのは実技のみで、実技がどれだけ早く進むかで修了年数が変わってくる。
ケイナは来年でもう修了するか否かが決定するはずだ。
セレスはここでハイラインに上がらなければ、来年という選択肢はない。そのときにはもう『ライン』にケイナはいないかもしれないのだ。
机上学習は昔からセレスは苦手だった。しかし、毎日嫌でも勉強しなければならない状態に追い込まれていたから、何とか合格点はもらえるだろうと思うだけの結果に終わった。
問題は午後の実技試験だった。
「セレス、頑張れよ」
学科試験が終わったあと、講議室から出るセレスの後ろからトリルがそう言って追いこして行った。
飛び級を受けないトリルやジュディはセレスとは別室の試験になる。
セレスはトリルにちょっと笑って手をあげた。トリルは笑みを浮かべて手を振り返してきた。
トリルはことなかれ主義のタイプだったが、気の優しい少年だった。
ジュディと同じグループで実技を受ける毎日で、彼が一緒だったことは今となってはセレスにとって救いだった。
午後の試験の前に昼食を取らなければならなかったが、たぶん食事が咽を通らないだろうと思ったので、デザートに出されていたリンゴをひとつと、プロテイン入りのドリンクをダイニングから持ち出した。
同じように緊張状態にさらされている生徒たちのいるダイニングにいるよりは、部屋にひとりでいたほうが落ち着けると思ったのだ。
部屋に入ってケイナのブースを覗くと、すでに片付けられて何もなかった。
見慣れた彼の分厚い本も机にうず高くいつも積まれていたデータディスクの山もない。
ミントの香りだけがかすかに残っていた。
セレスは自分のブースに入るとブーツの紐を点検しながらリンゴをかじり、リンゴを芯まで食べきると、とても美味しいとはいえないプロテイン飲料を一気に飲み干した。
それで充分に満たされた気分になった。
そして大きく伸びをすると、試験前に少し体を温めておくためにトレーニング室に行こうと思いついた。
午前中ずっと机に向かっていたので、肩のあたりが少しこわばったような気がしたのだ。
セレスは腰かけていたベッドから立ち上がり、ドアに向かった。
そしてそのドアをあけた途端に部屋に入ろうとしていた誰かと思いきりぶつかった。
何かがばさりと床に落ち、ぎょっとした顔を向けたのはジュディだった。セレスは面喰らって思わず後ずさりした。
床に落ちた白い紙包みが目に入った。それを見た途端、セレスはジュディが手を伸ばす前にいち早くそれを拾っていた。
紙包みの端からこぼれ出ている錠剤の埋め込まれた銀色のシート。赤くて丸い粒が見えた。
「ジュディ……!」
セレスはジュディの顔を険しい目で見た。
「返せ!」
ジュディは手を伸ばして薬をひったくろうとしたが、セレスはそれをかわした。ジュディの体からふわりとアーモンドタルトの匂いが鼻をかすめた。
「返せ……!」
ジュディは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんだよ、この薬は……!」
セレスはジュディを問い詰めた。
「ビタミン剤だよ!」
ジュディは険しい口調で言った。
セレスは薬のシートに顔を近づけた。甘い匂いがした。アーモンドのような匂いだ。TA601のマークがシートのひとつひとつに刻み込まれていた。
次の瞬間、ジュディに思い切り体当たりされ、その勢いに床に倒れたセレスの手からジュディは薬の袋をひったくっていた。
「ただのビタミン剤なら、なんでそんなに躍起になるんだよ!」
身を起こすセレスをジュディはかすかに頬を震わせて睨みつけていたが、ふいに踵を返すと逃げるように走り去った。
「ジュディ……!」
セレスはドアに走り寄ったが、ジュディはロウラインの宿舎をすでに走り抜けていた。
TA601……。
いや…… 忘れよう。
セレスはかぶりを振った。
今は忘れなきゃならない。
アーモンドタルトのにおいはまだ部屋に残っていた。
午後の実技試験でセレスは大きな失敗をした。
射撃の訓練で飛んでくる円盤を三つも撃ち落としそこねたのだ。これはきっと大きな失点になるだろう。
試験監督だったブロードはセレスの顔をちらりと見ただけだった。
それ以外の運動機能測定では申し分ない成績のはずだったから、セレスはこの失点が悔やみきれなかった。
もしかしたらダメかもしれない……。
大きな絶望感にとらわれながらセレスは部屋に戻った。
結果が出るまでの三時間、押しつぶされそうなこの気持ちと戦わなくてはならない。
部屋に入ってジュディのブースを見ると、彼はまだ戻っていなかった。忘れようと思っていたが、やはりどこかでジュディのことを考えていた。きっとそれが失点を招いたのだ。
ぐったりして自分のブースに入ると、トニが待ちかねていたように顔を覗かせた。
「セレス! どうだった?」
セレスはため息をついた。
「分からない…… ちょっとミスった……」
「ミス? でも、たいしたことないんだろう?」
トニは疲れ切ったようにベッドに腰を降ろすセレスに言った。
「大丈夫だよ。きっと合格するよ」
「うん……」
セレスは髪をかきあげた。
本当に疲れ切っていた。
緊張の度合いが大きかったので、試験が終わってどっと疲れがほとばしり出たような気分だった。
「それ、ケイナの癖だよ。なんだかきみ、ケイナに似てきたね」
トニがくすりと笑って言った。
「え?」
セレスは怪訝そうにトニを見あげた。トニは笑みを浮かべて肩をすくめた。
「髪をかきあげてから視線を下に落とすんだ。 ケイナがやるといつもぞくっとするような感じなんだけど、きみもけっこうサマになってるよ」
「つまんないこと言うなよ」
セレスはこっちの気も知らないで、と呆れ返った。
「ねえセレス」
トニはセレスのデスク用の椅子に腰を降ろした。
「きみはものすごく変わったよ。自分じゃ気づいていないかもしれないけど、ここに来たときとは全然違うよ。ぼくらはもうすぐ新入生を迎える。きみはもうすっかりハイライン生の風格を身につけてる。自信を持てよ。ケイナに似てるってことは、茶化してんじゃなくて、ぼくの最大の賛辞なんだよ」
セレスは目を伏せた。
「ぼくとアルも来年にはハイラインにあがるつもりだから、そうしたらまたトリオの復活だ。待っててくれよ」
トニは笑って言った。
「そういうのは本当に合格してから言ってくれよ」
セレスは苦笑して答えた。
「オーケイ。じゃあ、夕食の時間だ。しばらくちゃんと食べてないだろう。今夜はしっかり食べろよ。発表まであと二時間四十分もある。そのまえにダウンしちまうよ」
トニの言葉でセレスは初めて自分が空腹であることに気づいた。
うなずいて立ち上がると、トニはにっこりと笑ってみせた。
何だか居心地の悪い食事をダイニングでとったあと、セレスはトニよりも先に再び部屋に戻った。
ダイニングで会ったアルの話によると、軍科のみならずアルのいる科でもセレスのことは噂になっているということだった。
たえず視線を感じながらで居心地が悪かった。
でも通知まであと二時間。落ち着かない。
こんなときケイナがそばにいてくれたらどんなに心強いだろう。
部屋に入った時ジュディのブースを見たが、やはり彼はいなかった。
そういえばダイニングでも姿を見なかった。いったいどこに行ったのか……。
セレスは気になったが、それ以上考えるのをやめた。
しばらくしてトニも戻ってきた。しかしセレスの気持ちを思ってか、黙って自分のブースに引っ込んでいった。
何も手につかなかった。時間がたつのが異様に遅く感じられた。
しかし、ベッドに横になったセレスは空腹が満たされたのと疲労でいつの間にかうとうととまどろんでいた。
夢うつつに妙に右腹に不快感を感じていた。痛いような熱いような感じだ。
きっと急にちゃんとした食事をとったから腹具合でも悪くなったのかもしれない……。
そんなことを眠りながら考えていた。
しばらくしてデスクの上の通信音で飛び上がるように跳ね起きた。
まどろんでいる間に感じていた右腹の不快感はそのときにはきれいさっぱりなくなっていた。
向かいのブースでトニが緊張の面もちでこちらを見ている。
一気にアドレナリンが体中をかけめぐるのを感じながら、セレスは震える手で画面を教官室に繋いだ。
「セレス・クレイ?」
画面に映ったのはジェイク・ブロードだった。
「はい……」
セレスは掠れた声で答えた。とうとうこのときが来た。
「学科得点395点、実技総合572点」
ブロードは無表情にそう言ったあと、画面の向こうでひたとセレスを見据えた。
「おめでとう。合格だ」
一瞬血が下がり、それからかあっと顔に血が昇った。
「二時間以内にハイライン宿舎に移動するように。きみの部屋は262号室だ。移動が済んだら教官室に来たまえ。明日からのカリキュラムを説明する」
「はい」
震える声でセレスが答えると画面のブロードはかすかに笑みを浮かべた。初めて見るブロードの笑顔だった。
「実技は570点のボーダーぎりぎりだよ。危なかったな」
「はい……」
セレスはうなずいた。そしてブロードは画面から消えた。
「セレス!」
後ろからトニが飛びついてきた。
「やった! おめでとう!」
トニは興奮のあまり顔を真っ赤にしていた。
「頑張れよ!」
トニはセレスをぎゅっと抱き締めた。セレスは何も言えずに目を閉じた。
トニは興奮しきったままブースを飛び出し、この朗報をアルに報告すべく部屋を出て行った。
セレスは身の回りのものを荷造りするために立ち上がった。
ようやく喜びが沸き起こってきた。
部屋の外がなんだか騒がしい。きっとトニが触れ回ったので、大騒ぎになっているのだろう。
荷物を持って移動する時にはもみくちゃになるかもしれない。
セレスは三十分で荷物をまとめた。あまり騒ぎが続くと教官に注意されてしまう。
バッグを持ってブースから出ようと振り向いたとき、いきなり右の脇腹に衝撃を感じた。
何が起こったのか分からなかった。
衝撃は熱い火のような痛みに変わり、セレスはバッグを取り落として床に膝をついた。
「おまえは本当に目障りだ」
頭上で聞き覚えのある声がした。
痛みをこらえながら見上げるとジュディが真っ白な顔をして立っていた。
うかつだった。喜びで完全に無防備な状態だった。
いつもならジュディの気配などすぐに感じ取れたはずなのに。
ジュディは真っ赤に染まったナイフを両手で持って立っていた。セレスはそれを見て初めて自分が刺されたことを知った。
アーモンドタルトの甘い匂いがする。
「なんでおれの邪魔ばかりする!」
ジュディは怒鳴った。
表情が異常だ。こんな顔をどこかで見た記憶がある……。
そうだ、エアポートの事件の時の犯人の男の顔もこんな感じだった。自制心を全く無くしている人間の顔だ。
「薬をやめろ…… ジュディ……! 取り返しがつかなくなるぞ……!」
セレスは脇腹を押さえて喘ぎながら言った。押さえた手を見ると血で真っ赤だった。
「薬?」
ジュディは笑った。
「あれはビタミン剤だと言っただろ? あれを飲むと元気が沸く。何でもできそうな気分になるんだ」
「ジュディ…… それは、違法の……」
セレスは痛みのために次の言葉が出せなかった。じっとりと額に汗が滲んだ。脇腹の傷はいったいどれくらいのものなのだろう。
「おまえはでまかせを言っておれを陥れようとしているんだろう。ハイラインにあがっておれを追放しようとしているんだろう……!」
ジュディがナイフを突き出したので、セレスはようようの思いでそれをよけた。
ジュディが動くたびに胸がむかつくような甘い匂いがした。
セレスは唇を噛んだ。こんなところでこんな奴に刺し殺されるのはまっぴらだ。
おれはケイナのそばに行かなきゃならない。やっと彼のそばに行けるってときに、殺されてたまるもんか。
「おまえは自分で自分の首を締めてる……」
セレスは立ち上がった。
「ナイフを渡せ……」
絶対に起き上がれないとふんでいたジュディはセレスの姿を見て怯んだ。彼の顔に恐怖の色が浮かぶ。
ジュディは奇妙な叫び声をあげるとナイフを振り上げた。
セレスの体が構えと攻撃の姿勢になり、ジュディに一撃を加えようとした途端、それよりも早く誰かがジュディの後頭部に一撃を加えたのをセレスは見た。ジュディは小さく呻いて崩れ折れた。
「やれやれ、間に合った」
「アシュア……」
床に倒れたジュディを見下ろしていたのはアシュアだった。それに気づいたと同時にセレスは立っていられなくなってがくりと前にのめった。床にしたたかに顔をぶつける前にアシュアがセレスを抱えた。
誰かの悲鳴が響いた。トニだ。
「医療室に連絡しろ!」
アシュアはトニに怒鳴った。トニは真っ青な顔をしてうなずくと部屋から飛び出した。
「アシュア…… なんでここに……」
セレスはつぶやいた。
「カインが『見えた』んだよ。危なかったな」
アシュアは答えながらセレスの傷口を見て応急処置を始めた。
「見えた……?」
「うん…… またゆっくり説明してやるよ」
アシュアはにっと笑って言った。しかしその顔はセレスにはぼやけて泣いているように見えた。
「心配すんな、たいした傷じゃない。一週間もすればもとに戻るよ。ちょっと動いて出血が多くなったな」
「アシュア…… ジュディのポケットかどこかに薬が入ってる…… それを捨てて……」
「薬?」
アシュアは目を細めて床に転がっているジュディを見た。
「ジュディは薬をやってる…… 違法ドラッグだ。 ……ばれると思うけど…… 持ってなければ罪が…… 軽くなる……」
「こんなやつほっとけ」
アシュアは言ったがセレスは首を振った。
「頼むよ……」
「……分かった」
アシュアはしかたなく答えた。それを聞いてセレスは気を失った。