カインは自己嫌悪に陥っていた。
自分はセレスとケイナをくっつけようとしているのか、引き離そうとしているのか……。
カインは自室のベッドの上に寝転び、天井を見つめた。
考えごとをするときはロウラインの宿舎のブースの中ではなく、ハイラインの棟に戻ってくる。
セレスがハイラインにあがってきて、果たして自分はケイナとセレスが今まで以上に惹き合う姿を冷静に見ていられるのか? セレスが危険にさらされたとき助けてやるつもりなのか……?
(あんたがあのきれいな男の子に心を奪われているってことは分かってたわ)
頭の中で繰り返されるのはトウの言葉だった。心を奪われていると言われても自分でもよく分からなかった。
ただ、最初にトウからケイナの映像を見せられたその時から、ケイナの目も鼻も口もすんなりと伸びた手足も、流れるような金髪も、髪をかきあげる癖も、人を真直ぐに見据えているはずなのに、焦点の合わない視線も…… すべてに心が惹き付けられたのは確かだった。
周囲にもちろんケイナのような人間はいなかったし、彼はおよそ自分との共通点すら見いだせない存在だった。
自分とは全く違うタイプの人間だから興味が湧いたのか、惹きつけられたのか、それすらもよく分からない。
それでもカインは自分でも公言できるほど理性的な人間だったし、ケイナのそばにいることはあくまでも「任務」だということは理解している。
それがいつから「任務」を越えた不思議な感情を彼に持つようになっていたのだろう。
カインが自分の中の燻りつづける気持ちに気づき始めたのはセレスが現れてからだった。
最初彼を見たとき、ケイナにあまりにも酷似した空気の波動に驚いた。一瞬、三年前のケイナがそのまま目の前に現れたのかと思ったほどだ。
ただ彼はケイナとは全くタイプが違っていた。グリーンの目と髪、そしてケイナとはおよそかけ離れたストレートな感情表現……。
「あの目……」
カインはつぶやいて目頭を押さえた。
まるで人の頭の中にずかずかと入り込んで、相手を無防備な状態に陥れてしまいそうな深淵の瞳。
カインはセレスの目が怖かった。
自分でも理解しきれない奥底の感情を、彼はいとも簡単にむき出しにしてしまいそうだった。
その緑色の瞳の少年が、自分とアシュアが数年かけて築きあげたケイナの信頼をわずか数カ月であっさりと手に入れた。
あれほどまで心に幾重にも鎧をまとっていたケイナの心をすべて自分に向かせてしまったのだ。
それに気づいた時にカインの心に芽生えた感情はカイン自身がもっとも恥とするものだった。
嫉妬だ。
どうかしている、と思った。
どうしてこんな気持ちにならなければならない?
自分は「任務」として彼が傷ひとつ負わずにいられるよう守るためにそばにいるのではなかったのか?
(もし、仮にだぞ、環境の変化で性が変わるというならば……)
ドクター・レイの言葉が頭に浮かんだ。
セレスは男として生きてきた。14年間、周囲の誰もが彼は男だと思っていた。
彼自身もそうだ。今でもそう思っているだろう。
何が変わった? 『ライン』に入って彼の一番の変化は何だろう?
カインはふと自分の頭に浮かんだ思いにぞっとして、がばっと身を起こした。
「ケイナに出会った……」
ケイナに出会ったから…… セレスは女性になった?
カインはデスクの上に置いてあったドクター・レイからのデータディスクを取り上げた。
XXの遺伝子を持つ「少年」 ……セレス・クレイ。
カインはくちびるを噛み締めた。
ケイナと出会ったから、その身を変えた…… そんなこと…… ぼくは…… 認めない。
データディスクをしばらく見つめたあと、カインはぎゅっとそれを握りしめた。
「……リィ・ホライズンに行け、ケイナ。……ぼくはいつか必ずリィの総領になって、きみをずっとそばで守ってやる」
(死人のようなきみのそばで……)
カインはそれでもしばらく逡巡したのち、手を開いてディスクとダスクボックスに落とした。
セレスは試験を明朝にひかえてあまり食事が咽を通らなかった。
緊張することなどこれまで滅多になかったが、試験に対する自信はあった。
それでも今回ばかりは食欲をコントロールできなかった。
「大丈夫? まだ調子悪いんじゃない?」
フォークで皿の中をつっついてばかりいるセレスを見てトニが言った。横にいたアルも心配そうにセレスを見た。
このふたりは結局セレスが倒れた本当の理由を聞かされていない。犯人がジュディである以上、ふたりには言えなかった。
「緊張してるみたいなんだ」
セレスは照れたように笑った。
「めずらしいね。きみが緊張するなんて」
アルがびっくりしたように言った。
「うん。おれもちょっと驚いてる」
セレスは我慢してフォークを口に運んで答えた。
「でも、セレスが合格したら、ぼくたちは自分がハイラインにあがるまで今までみたいにきみに会えなくなっちゃうんだね。明日の夕方にはもう結果が出るから、そしたらハイラインの宿舎に行っちゃうんだろ?」
トニがしんみりした調子で言った。
「まだ合格したって決まってないよ」
セレスは言った。
アルとトニの試験は一週間後だ。ふたりの顔にはまだ余裕があった。
「自分だけさっさと『ライン』を修了しちまわないでくれよ」
アルが言った。セレスは思わず苦笑した。
「それはそうと……」
トニが言った。
「ジュディが最近ものすごく頑張ってトレーニングしてるよ。セレスが戻ってくるちょっと前くらいにしか部屋に戻ってこないんだ。セレスに感化されて頑張るつもりなのかな」
「ジュディが?」
セレスは目を細めた。
「おれ、ジュディとトレーニング室で会ったこと一度もないよ。射撃室でも……」
「きみのことライバル視してるから避けてんじゃないのかな」
トニはぱくりと魚の切り身を口に放り込んだ。
「きみがトレーニング室の時は射撃室に行って、射撃室の時はトレーニング室に行って、とかさ」
「ジュディって、あの色の白い奴だろ?」
アルが顔をしかめた。
「あいつ何かやなんだよなあ。前にここで横に座ったことがあるんだけど、なんか甘ったるい ……何だろう、アーモンドタルトみたいな匂いの香水つけててさ。なんでこんなとこで香水つけなきゃならないんだろうって思ったんだ」
アルはコップに入れていた水を飲んだ。
「ぼく、アーモンドタルト嫌いなんだ」
「ああ、それ、ぼくも思ったことがあるよ」
トニが言った。
「ジュディは体臭が強いのかなって思った。香水つけるなんてそうだろ? すれ違った時とかにさ、少しふわーって匂うんだ。やな匂いじゃないけど、なに洒落っ気出してんだろって、おかしくなってさ」
そしてトニはセレスの顔を見た。
「ねえ、セレス、そう思わないか?」
「おれ…… そんなの知らないよ。匂いなんて気づかなかった」
セレスは答えた。知っているはずがなかった。あれ以来半径2メートルよりジュディに近づいたこともない。
歯ブラシもタオルも自分ひとりで使うものは絶対に共同置き場に置かないようになったのだ。シャワーも部屋ではなく、トレーニングルームで済ませた。
向こうもセレスが感づいているのを察して近づいてこない。
もうジュディには関わりたくなかった。
明日は試験なのだ。
翌朝、セレスはいつもより二時間早く起きた。
どうせ早くに目が覚めると思ったので、アルたちと夕食をとったあとに早めに就寝した。
だから目覚めは良かった。
隣のブースでケイナが起きている気配がしたので、セレスはベッドから降りるとケイナのブースを覗き込んだ。
ケイナもたった今目が覚めたようで、ベッドに腰かけて少しぼんやりしていた。
「おはよう、ケイナ」
セレスはトニとジュディを起さないように小声で言った。ケイナはセレスに目を向けた。
「まだ四時前だぞ。眠れなかったのか」
ケイナの声はまだ目が覚めきっていないようなくぐもった感じだった。
ケイナはいつも起きたらすぐに動き出すが、頭のほうは三十分くらいぼんやりしているようで表情も不機嫌だ。宿舎では特に熟睡できないからだろう。
「ちゃんと眠れたよ。ケイナこそどうしたの」
セレスはそっとケイナのブースに足を踏み入れた。
入り口に立ったままでは余計にトニたちを起こしてしまうかもしれないからだ。
「おれは5時にはこの部屋を出るんだ」
ケイナは欠伸まじりに小さな声で言った。
「荷物をまとめないといけない……」
「そんなに早く出るの?」
セレスはびっくりした。しかし小声で言うことは忘れなかった。
「今日のカリキュラムは普通どおりあるから…… 明日は試験だし」
ケイナは早く目を覚まそうとするように両手で顔をこすった。
「これでうるさいおまえのいびきに悩まされずにすむかと思うとせいせいする」
「おれ、いびきなんかかかないよ。誰にもそんなこと言われたことないよ」
セレスは憤慨して言った。
「じゃあ、トニか」
ケイナは再び欠伸をして髪をかきあげた。ちょうどそのときトニが鼻を鳴らしたので、セレスは吹き出しそうになって思わず口を押さえた。
確かにトニは時々いびきをかく。うるさいほどではないが、ちょっとびっくりしたことがある。いびきをかくときはきっと疲れがひどいのかもしれない。
「おまえもハイラインにあがったら個室だよ。周りのうざったいのに気を使わなくてすむな」
ケイナは少し目が覚めて来たようで、かすかに笑って言った。
「アシュアの隣の部屋があいているから、たぶんそこになるんだろうな」
「ケイナ」
セレスは言った。ケイナは顔をあげた。
「おれ、頑張るよ。絶対行くから」
ケイナは笑みを浮かべた。ケイナにしてはめずらしいほど優しい笑みだった。
「大丈夫だよ。気負わなくても。おまえはちゃんとやり遂げるよ」
「ほんと言うと、ちょっと緊張してるんだ……」
セレスは白状した。
「ゆうべもあんまり食事とれなかったし」
ケイナは立ち上がってセレスのそばに立った。ケイナ独特のかすかなミントの香りが鼻をくすぐった。
『ライン』に入って、セレスは身長が少し伸びていた。それでもケイナが横に立つと彼の顔を見るためには上を向かなければならない。
ケイナはパーティションに身をもたせかけて腕を組み、セレスを見た。
「誰だって最初の進級試験や飛び級試験では緊張するよ」
ケイナは言った。
「ハイラインに来たいんなら、ほかのことを考えるな」
ケイナは藍色の目でセレスを見つめて言った。
「おれも待ってるんだ」
そう言うと、セレスの横をすり抜けて顔を洗うためにバスルームに向かった。
(おれも待ってるんだ)
セレスはケイナの言葉を頭の中で反すうしながら彼の後ろ姿を見送った。
ケイナからそんな直接的な言葉を聞いたのは初めてだった。
今日は必ず合格できる、と思った。
自分はセレスとケイナをくっつけようとしているのか、引き離そうとしているのか……。
カインは自室のベッドの上に寝転び、天井を見つめた。
考えごとをするときはロウラインの宿舎のブースの中ではなく、ハイラインの棟に戻ってくる。
セレスがハイラインにあがってきて、果たして自分はケイナとセレスが今まで以上に惹き合う姿を冷静に見ていられるのか? セレスが危険にさらされたとき助けてやるつもりなのか……?
(あんたがあのきれいな男の子に心を奪われているってことは分かってたわ)
頭の中で繰り返されるのはトウの言葉だった。心を奪われていると言われても自分でもよく分からなかった。
ただ、最初にトウからケイナの映像を見せられたその時から、ケイナの目も鼻も口もすんなりと伸びた手足も、流れるような金髪も、髪をかきあげる癖も、人を真直ぐに見据えているはずなのに、焦点の合わない視線も…… すべてに心が惹き付けられたのは確かだった。
周囲にもちろんケイナのような人間はいなかったし、彼はおよそ自分との共通点すら見いだせない存在だった。
自分とは全く違うタイプの人間だから興味が湧いたのか、惹きつけられたのか、それすらもよく分からない。
それでもカインは自分でも公言できるほど理性的な人間だったし、ケイナのそばにいることはあくまでも「任務」だということは理解している。
それがいつから「任務」を越えた不思議な感情を彼に持つようになっていたのだろう。
カインが自分の中の燻りつづける気持ちに気づき始めたのはセレスが現れてからだった。
最初彼を見たとき、ケイナにあまりにも酷似した空気の波動に驚いた。一瞬、三年前のケイナがそのまま目の前に現れたのかと思ったほどだ。
ただ彼はケイナとは全くタイプが違っていた。グリーンの目と髪、そしてケイナとはおよそかけ離れたストレートな感情表現……。
「あの目……」
カインはつぶやいて目頭を押さえた。
まるで人の頭の中にずかずかと入り込んで、相手を無防備な状態に陥れてしまいそうな深淵の瞳。
カインはセレスの目が怖かった。
自分でも理解しきれない奥底の感情を、彼はいとも簡単にむき出しにしてしまいそうだった。
その緑色の瞳の少年が、自分とアシュアが数年かけて築きあげたケイナの信頼をわずか数カ月であっさりと手に入れた。
あれほどまで心に幾重にも鎧をまとっていたケイナの心をすべて自分に向かせてしまったのだ。
それに気づいた時にカインの心に芽生えた感情はカイン自身がもっとも恥とするものだった。
嫉妬だ。
どうかしている、と思った。
どうしてこんな気持ちにならなければならない?
自分は「任務」として彼が傷ひとつ負わずにいられるよう守るためにそばにいるのではなかったのか?
(もし、仮にだぞ、環境の変化で性が変わるというならば……)
ドクター・レイの言葉が頭に浮かんだ。
セレスは男として生きてきた。14年間、周囲の誰もが彼は男だと思っていた。
彼自身もそうだ。今でもそう思っているだろう。
何が変わった? 『ライン』に入って彼の一番の変化は何だろう?
カインはふと自分の頭に浮かんだ思いにぞっとして、がばっと身を起こした。
「ケイナに出会った……」
ケイナに出会ったから…… セレスは女性になった?
カインはデスクの上に置いてあったドクター・レイからのデータディスクを取り上げた。
XXの遺伝子を持つ「少年」 ……セレス・クレイ。
カインはくちびるを噛み締めた。
ケイナと出会ったから、その身を変えた…… そんなこと…… ぼくは…… 認めない。
データディスクをしばらく見つめたあと、カインはぎゅっとそれを握りしめた。
「……リィ・ホライズンに行け、ケイナ。……ぼくはいつか必ずリィの総領になって、きみをずっとそばで守ってやる」
(死人のようなきみのそばで……)
カインはそれでもしばらく逡巡したのち、手を開いてディスクとダスクボックスに落とした。
セレスは試験を明朝にひかえてあまり食事が咽を通らなかった。
緊張することなどこれまで滅多になかったが、試験に対する自信はあった。
それでも今回ばかりは食欲をコントロールできなかった。
「大丈夫? まだ調子悪いんじゃない?」
フォークで皿の中をつっついてばかりいるセレスを見てトニが言った。横にいたアルも心配そうにセレスを見た。
このふたりは結局セレスが倒れた本当の理由を聞かされていない。犯人がジュディである以上、ふたりには言えなかった。
「緊張してるみたいなんだ」
セレスは照れたように笑った。
「めずらしいね。きみが緊張するなんて」
アルがびっくりしたように言った。
「うん。おれもちょっと驚いてる」
セレスは我慢してフォークを口に運んで答えた。
「でも、セレスが合格したら、ぼくたちは自分がハイラインにあがるまで今までみたいにきみに会えなくなっちゃうんだね。明日の夕方にはもう結果が出るから、そしたらハイラインの宿舎に行っちゃうんだろ?」
トニがしんみりした調子で言った。
「まだ合格したって決まってないよ」
セレスは言った。
アルとトニの試験は一週間後だ。ふたりの顔にはまだ余裕があった。
「自分だけさっさと『ライン』を修了しちまわないでくれよ」
アルが言った。セレスは思わず苦笑した。
「それはそうと……」
トニが言った。
「ジュディが最近ものすごく頑張ってトレーニングしてるよ。セレスが戻ってくるちょっと前くらいにしか部屋に戻ってこないんだ。セレスに感化されて頑張るつもりなのかな」
「ジュディが?」
セレスは目を細めた。
「おれ、ジュディとトレーニング室で会ったこと一度もないよ。射撃室でも……」
「きみのことライバル視してるから避けてんじゃないのかな」
トニはぱくりと魚の切り身を口に放り込んだ。
「きみがトレーニング室の時は射撃室に行って、射撃室の時はトレーニング室に行って、とかさ」
「ジュディって、あの色の白い奴だろ?」
アルが顔をしかめた。
「あいつ何かやなんだよなあ。前にここで横に座ったことがあるんだけど、なんか甘ったるい ……何だろう、アーモンドタルトみたいな匂いの香水つけててさ。なんでこんなとこで香水つけなきゃならないんだろうって思ったんだ」
アルはコップに入れていた水を飲んだ。
「ぼく、アーモンドタルト嫌いなんだ」
「ああ、それ、ぼくも思ったことがあるよ」
トニが言った。
「ジュディは体臭が強いのかなって思った。香水つけるなんてそうだろ? すれ違った時とかにさ、少しふわーって匂うんだ。やな匂いじゃないけど、なに洒落っ気出してんだろって、おかしくなってさ」
そしてトニはセレスの顔を見た。
「ねえ、セレス、そう思わないか?」
「おれ…… そんなの知らないよ。匂いなんて気づかなかった」
セレスは答えた。知っているはずがなかった。あれ以来半径2メートルよりジュディに近づいたこともない。
歯ブラシもタオルも自分ひとりで使うものは絶対に共同置き場に置かないようになったのだ。シャワーも部屋ではなく、トレーニングルームで済ませた。
向こうもセレスが感づいているのを察して近づいてこない。
もうジュディには関わりたくなかった。
明日は試験なのだ。
翌朝、セレスはいつもより二時間早く起きた。
どうせ早くに目が覚めると思ったので、アルたちと夕食をとったあとに早めに就寝した。
だから目覚めは良かった。
隣のブースでケイナが起きている気配がしたので、セレスはベッドから降りるとケイナのブースを覗き込んだ。
ケイナもたった今目が覚めたようで、ベッドに腰かけて少しぼんやりしていた。
「おはよう、ケイナ」
セレスはトニとジュディを起さないように小声で言った。ケイナはセレスに目を向けた。
「まだ四時前だぞ。眠れなかったのか」
ケイナの声はまだ目が覚めきっていないようなくぐもった感じだった。
ケイナはいつも起きたらすぐに動き出すが、頭のほうは三十分くらいぼんやりしているようで表情も不機嫌だ。宿舎では特に熟睡できないからだろう。
「ちゃんと眠れたよ。ケイナこそどうしたの」
セレスはそっとケイナのブースに足を踏み入れた。
入り口に立ったままでは余計にトニたちを起こしてしまうかもしれないからだ。
「おれは5時にはこの部屋を出るんだ」
ケイナは欠伸まじりに小さな声で言った。
「荷物をまとめないといけない……」
「そんなに早く出るの?」
セレスはびっくりした。しかし小声で言うことは忘れなかった。
「今日のカリキュラムは普通どおりあるから…… 明日は試験だし」
ケイナは早く目を覚まそうとするように両手で顔をこすった。
「これでうるさいおまえのいびきに悩まされずにすむかと思うとせいせいする」
「おれ、いびきなんかかかないよ。誰にもそんなこと言われたことないよ」
セレスは憤慨して言った。
「じゃあ、トニか」
ケイナは再び欠伸をして髪をかきあげた。ちょうどそのときトニが鼻を鳴らしたので、セレスは吹き出しそうになって思わず口を押さえた。
確かにトニは時々いびきをかく。うるさいほどではないが、ちょっとびっくりしたことがある。いびきをかくときはきっと疲れがひどいのかもしれない。
「おまえもハイラインにあがったら個室だよ。周りのうざったいのに気を使わなくてすむな」
ケイナは少し目が覚めて来たようで、かすかに笑って言った。
「アシュアの隣の部屋があいているから、たぶんそこになるんだろうな」
「ケイナ」
セレスは言った。ケイナは顔をあげた。
「おれ、頑張るよ。絶対行くから」
ケイナは笑みを浮かべた。ケイナにしてはめずらしいほど優しい笑みだった。
「大丈夫だよ。気負わなくても。おまえはちゃんとやり遂げるよ」
「ほんと言うと、ちょっと緊張してるんだ……」
セレスは白状した。
「ゆうべもあんまり食事とれなかったし」
ケイナは立ち上がってセレスのそばに立った。ケイナ独特のかすかなミントの香りが鼻をくすぐった。
『ライン』に入って、セレスは身長が少し伸びていた。それでもケイナが横に立つと彼の顔を見るためには上を向かなければならない。
ケイナはパーティションに身をもたせかけて腕を組み、セレスを見た。
「誰だって最初の進級試験や飛び級試験では緊張するよ」
ケイナは言った。
「ハイラインに来たいんなら、ほかのことを考えるな」
ケイナは藍色の目でセレスを見つめて言った。
「おれも待ってるんだ」
そう言うと、セレスの横をすり抜けて顔を洗うためにバスルームに向かった。
(おれも待ってるんだ)
セレスはケイナの言葉を頭の中で反すうしながら彼の後ろ姿を見送った。
ケイナからそんな直接的な言葉を聞いたのは初めてだった。
今日は必ず合格できる、と思った。