セレスはジュディが自分の靴に細工をしたとは信じたくなかった。
 ジュディは確かに鼻持ちならない奴だが、こんなことまではしない奴だと思っていたのだ。
 それでもセレスはいつしかジュディの行動に警戒心を持つようになっていた。足や手を傷つけられることは一番避けなければならないことだったからだ。小さな傷が命とりになることもある。
「このごろ落ち着かないね、セレス」
 夕食の時、セレスの姿を見つけて隣に座ったアルが言った。
「進級試験、そんなに大変そう?」
 デスクスタディばかりのアルにはセレスの訓練は想像もつかなかった。体を動かすのだから勉強して知識を詰め込めばなんとかなるというものでもない。そういうことにはからっきし能力のないアルだった。
「試験はたぶん大丈夫だよ」
 セレスはちょっと笑ってフォークを口に運んだ。ダイニングにジュディの姿はなかった。それが安心でもあるし、不安でもあった。
「でも、きみはハイラインへの飛び級試験も一緒に受けるんだろ? そこいらでものすごい評判になってるよ」
 アルは心配そうに言った。
「そんなやつ、ここ何年も出てないんだって。どんな気分だい?」
「別に…… おれ、なにがなんでもハイラインに上がりたいんだ。ただそれだけだもの」
 アルはセレスの横顔をしばらくじっと見つめた。
「セレス…… きみ、そんなにケイナのそばにいきたいの?」
 アルは声には少しためらいがこもっていた。セレスは思わず顔をあげてアルを見た。
 アルはその目から逃れるように顔を伏せて皿の上の肉片をフォークでつついた。
「そんなにケイナのことが大切なの?」
「どうしたんだよ、アル」
 セレスは目を細めた。アルが何を言いたいのか分からなかった。
「きみはさ、昔っからいろんなことができる奴で、それでも全然気どらなくて、ぼく、誇りに思ってんだ」
 アルはちらりとセレスを見た。
「だけど、ここんとこ、きみの様子を見てると、なんかどんどん離れていっちゃうような気がするんだよ。ラインに入って科も違ってて、あんまりお互いの様子は分からないんだけどさ、だけど、どこかでセレスとは繋がってるつもりでいたんだ。だのに、会うたんびにきみはいつも遠い目をしててさ」
 アルは目をしばたたせた。
「こないだの休暇の時のことを根に持ってるとか、そういうんじゃないから勘違いしないでくれよ。ただ、ぼくね、前みたいにセレスが何を考えてるのか分からないんだ」
 セレスはアルを見つめた。アルは少し顔を赤くした。
「ごめん、なんか変なこと言っちゃった」
 アルは照れくさそうに笑って頭を掻いた。
「なんか、心配で……」
「おれ…… ケイナを守りたいって思ってるんだ」
 セレスはしばらく躊躇したのち、アルに初めて自分の気持ちを白状した。
 アルはびっくりしたような顔をセレスに向けた。セレスは肩をすくめた。
「おかしいだろ? おれみたいなただのロウライン生がさ、エリートをそのまんま形にしたみたいなケイナを守りたいって思ってるんだ」
 セレスは自嘲気味に笑った。
「なんでなのかな…… おれ自身もよく分からないんだ。ただ、彼のそばにいなくちゃならないって気持ちだけがものすごくあるんだ。ケイナが何か危ない目に遭ったら、おれ、きっと命を張ってでもケイナを守ると思う」
 アルは一年前よりはるかに精悍な顔つきになってきたセレスの横顔を見た。
 四年前、セレスはだぼだぼの革のジャケットをはおって、空中を泳ぐように校庭を走り回っていた。
 こぼれ落ちそうなくらい大きなグリーンの瞳と、ゆらゆらと風になびく木の葉のような緑色の髪が特徴だった。
 その特徴はそっくりそのまま今も残っているが、短く切った髪の下から弧を描く顎は少年の幼さを保ちながらも頑丈な骨格をつくり出しつつあるし、細く弱々しかった腕はわずかながらも逞しくなっていた。
 すんなりと長く伸びた足もしっかりと地を踏み締めていた。
 きっとケイナのナンバー・ツーと言われる日も遠くないだろう。
「なあ、アル」
 セレスはアルに顔を向けた。
「それでも、おれ、昔と変わってないつもりだよ。ケイナじゃなくて、アルが何か危険な目に遭いそうになったら、おれはアルのことを守るよ。アルのことは大事だと思ってるよ」
 それを聞いたアルの顔が真っ赤になった。
「おべんちゃら言うのよせよ」
 アルはしどろもどろになって顔を背けた。セレスはおかしそうにくすくす笑った。
「おべんちゃらじゃないよ。おれたちきっとこのまんま大人に……」
 ふとセレスはそこで言葉を切った。アルが顔を向けると、セレスの持っていたフォークが床に落ちてかしゃりと大きな音を立てるのが目に入った。
「何やってんだよ」
 アルは首を振って立ち上がり、フォークを拾ってやった。照れ隠しにいいごまかしができたと思った。
 しかし、フォークを彼に渡そうとしたとき、アルはセレスの顔が凍り付いたように固いことに気づいた。
「どうしたの」
 アルは不審に思って尋ねた。セレスははっとしたような顔をすると首を振ってフォークを受け取った。
「なんでもないよ」
 セレスは少し笑みを見せると再び食事を始めた。
 アルは訝しそうにセレスを見つめた。

 最初は疲れているだけか、体調がすぐれないだけだとトニは思っていた。
 試験も近いし、きっとストレスがたまっているのだ。
 しかし、セレスの顔色は日に日に悪くなっていくように思えた。
 食欲も落ちた。トニが一緒に食事に行こうと誘ってもなんだかんだと言い訳を言って行かなくなった。
 そのままほうっておくとずっと食べないでいるようなので、時間が合えばセレスを無理にでもダイニングに引っ張って行った。
 不思議なのは、朝起きた時は死人のような顔つきなのに、しばらくすると顔色も良くなって普段と変わらないように見えた。
 そして夕方会うと再びげっそりとした顔つきになり、なんとか夕食をとってしばらくするとまた元気になるのだ。
 それでもセレスは二週間で体重が四キロは落ちたように見えた。
 もともと細みのセレスは少し痩せてもすぐに見た目に跳ね返ってしまう。四キロも痩せたセレスはどう見ても普通ではなかった。
 トニは見るに見兼ねてセレスもジュディもいないときを見計らってケイナに相談した。
「分かってる」
 ケイナはデスクのモニターを見つめながら答えた。
「おれも、RPの時に一度医者に診てもらえと言った」
「行ったのかな、セレスは……」
 トニは不安そうにつぶやいた。
「行ってないだろうな」
 ケイナはモニターから顔を振り向けた。
「試験まであと二週間しかない。なまじ入院なんてことになると試験をフイにしかねない。普通だったら行かない」
「ケイナ、あのままじゃ、なんだかセレスは倒れてしまいそうだよ。変だよ」
 トニはすがるように言った。
「ブロード教官からも気をつけるよう言われてる」
 ケイナは髪をかきあげてトニを見た。
「単純にストレスくらいのことならそのまま試験を受けさせると教官は言ってる。教官も今ここでセレスの受験をフイにしたくないんだ」
「セレスはストレスだと思います?」
 トニは眉をひそめた。不安を感じているのか、顔が少し紅潮している。
「ぼく、とてもそうは思えない。セレスはきっと病気だよ」
 ケイナは息を吐いた。
 ケイナは数日前に、カインとアシュアにセレスのことを話していた。
 案の定、ふたりはとっくにセレスの異常さに気づいていた。
「ケイナ、気がすすまないかもしれないけど、セレスの検査をしてみよう」
 カインはそう言った。ケイナはそれを聞いて目を細めた。
「検査って……」
「本人に直接検査を受けろと言っても拒否するのは分かってるから、こっそりするんだ。彼の髪の毛一本あればいい。髪がだめなら彼の使ったタオルや着ていたトレーナー、なんでもいいんだ。皮膚組織の一部がついていそうなものならなんでも。持ってこれるか?」
「いったいどこで検査するんだよ」
「ぼくのホームドクターが信頼できる。小さい時から診てもらっている年寄りの医者だ。ぼくが頼めばどこにも口外はしない」
 ケイナはしばらく考え込んだが、アシュアに肩をたたかれて決心した。
「わかった。なんとかするよ」
「ケイナ……」
 カインは少しためらいがちに言った。
「セレスは早く手を打たないと危ないかもしれない」
 ケイナはぎょっとした。顔に出すまいと思ったが、たぶん動揺を隠せなかっただろう。
「『見える』んだ…… 具体的にじゃないけどセレスの姿を見ると赤いもやがかかって見える。今の彼は病気だ。病気でなければ、何か中毒か」
「中毒……?」
 ケイナは呆然とした。
「いったい何の……」
「それを今から検査するんだよ」
 アシュアが横から口を挟んだ。
「ちょっとしたハーバル系のものなら薬効はすぐに抜けるよ。やめさえすればいいんだ。一日、二日、辛いかもしれないけどね」
 アシュアはゆっくりとした口調でケイナに言った。
「おれはほんのちょっとだけど、薬学をかじったことがあるんだ。あの程度の症状だと別に命に別状はないだろうけれど、時期が時期だけにヤバイかもな」
「セレスが薬をやってるとでも言うのか……?」
 ケイナの声に幽かに怒りがこもった。
「彼が自主的にやっているわけじゃないだろう」
 カインはメガネを指でついとあげた。
「たぶん何かに仕込まれたんだ。食事か、水か」
「それはどっちも可能性が低いな」
 アシュアはつぶやいた。
「どっちもセレスだけが口にするっていう確率が低い。経口だけとも限らない……」
「そんなものは思い浮かばない……」
 ケイナは言った。
「何かあるはずだ。注意して見てやってくれ。きみしかそばにいないんだ」
 カインの言葉にケイナは不安を感じながら頷いた。
 セレスが使ったと思われるタオルをカインに渡すと、結果が出るまでに一日以上はかかるはずだとカインは言った。
 ケイナはセレスの様子を監視するために夕食後のトレーニングはキャンセルした。セレスもジュディも戻ってきていないうちに部屋でデータを開いているのはそのせいだ。
「トニ。セレスの様子を見てて、おまえが何か思うことないか」
 ケイナはトニに言った。
「何かって……?」
「セレスの行動で、いつもと違うことってないかってことだよ」
 トニは視線を宙に泳がせた。必死になって思い出しているようだ。しかしやがて首を振った。
「何もない。セレスはいつも同じ時間に起きて、同じ時間にカリキュラムをこなして、同じ時間に寝てる。違うのは最近よく手を開いたり閉じたり振ったりしてることくらいだ。痛いのかって聞いたら、時々痺れるんだって言ってた」
「痺れる……」
 ケイナは目を細めてつぶやいた。
「アルも一度ダイニングで会ったときに、セレスがフォークを床に落しちゃって、そのときの様子が変だったって言ってたんだ。手が痺れてフォークを持てなかったのかもしれない……」
 ケイナの前では決してセレスはそんなそぶりは見せなかった。射撃の訓練も特に精度が落ちることもなかった。
 いつも同じ時間に起きて、同じ時間に寝て……。
 ケイナはため息をついた。
 そのとき、部屋のドアが開いた。トニがセレスだという合図をケイナに目配せで送った。
 セレスは青い顔をしていた。ニ、三歩足を踏み入れたあと、いきなりバスルームに駆け込んでいった。
 ケイナとトニは思わず顔を見合わせ、同時にバスルームに駆け寄った。
「セレス……!」
 ケイナは勢いよくドアを開けた。セレスは便器に顔を突っ込んでいた。
 トニが小さな悲鳴をあげた。駆け寄ったト二の目に吐瀉物にまじって血が点々と落ちているのが飛び込んできたからだ。
「ト二……?」
 セレスは喘ぎながら振り向いた。
「ぼ、ぼく、教官に知らせてくる……!」
「行くな……!」
 セレスは叫んだ。と同時にぐらりと体が傾いたので、ケイナは慌てて腕を伸ばしてセレスの体を受け止めた。
「トニ……! 行くな……! 頼む……!」
 セレスはケイナにしがみつきながら弱々しく怒鳴った。トニは怯えたような顔をケイナに向けた。
「とにかくセレスをベッドに運ぶんだ」
 ケイナはトニに言った。トニは震えながらこくこくとうなずくと、ケイナと一緒にセレスをベッドに運んだ。
「ふたりとも、頼むよ…… 誰にも言わないで」
 ベッドに横になったセレスの顔は土気色になっていた。
「セレス、きみ。病気だよ。ちゃんと診てもらわないと死んじゃうよ」
 トニは泣き出しそうな声で言った。
「トニ、あと二週間なんだ…… 頼むよ。このことは誰にも言っちゃだめだ…… アルにも、誰にも、言わないで……」
「セレス……」
 トニはおろおろとしてケイナを見た。ケイナはトニを落ち着かせるようにその肩をぐっと掴んだ。
「おれが責任持つから。セレスの言うこと聞いてやってくれ」
 トニは目をしばたたせながらうなずいた。
 ケイナはバスルームに向かった。吐瀉物をそのままにはしておけない。
 勢い良く水を流しながら、ふと、視界の片隅にひっかかったある物に気づいた。
 頭の中で警報がけたたましく鳴り響いた。
 洗面台の上に小さな扉が四つ並んでいた。
 左からケイナ、ジュディ、セレス、トニ。
 ケイナは昔からこの小さな物入れは使っていなかった。直接口に入れたりするものは絶対に他人が触れられるような場所には置かなかった。
 そうだ。
 どうしてそれに気づかなかったのだろう。
 ケイナはセレスの扉を開けた。中には小さな歯磨きのチューブと、そして歯ブラシが入っていた。
「見つけた……」
 彼の歯ブラシを持ち上げてケイナはつぶやいた。