少し苛立ちを覚えながらケイナは射撃訓練棟に入った。
 セレスは直径三十センチほどの円盤が飛んでくる部屋にいた。慣れればもっと小さな的になるし、飛んでくる速度も時間も速くなる。
 ケイナは外のガラス越しにしばらくセレスを見つめた。
 セレスの命中率はほぼ80パーセントだ。体の向きを変える時に少し足がふらつくのは腰から下の筋肉がまだついていないせいだろう。
 しかし、見ているうちにケイナはぞっとするような思いに囚われた。
 セレスはひとつの的を撃ってから、次の的を撃つ時に顔よりも先に体のほうが動いている。目が的を捕らえた時にはもう撃っているのだ。
「見ていない……」
 ケイナはつぶやいた。そのことは自分が一番よく分かっていた。同じだからだ。
 自分で見ているつもりでも、目は対象物を捕らえていない。
 それよりも先に的が飛んで来る方向を頭のどこかで察知してしまう。
 気配を感じたのか、セレスが振り向いた。その背後から円盤がひとつ飛んできたが、セレスはこちらを向いたまま少し顔を傾けてそれをやり過ごした。本人にとっては全く意識しない行動のはずだ。
「的の飛んでくる速さをもう少しあげちゃだめかな」
 射撃室から出て来たセレスはケイナに言った。
「足元がまだぐらついてる。重心が落ち着くまでだめだ。ケガをするぞ」
 ケイナは言った。セレスは残念そうに肩をすくめた。
「これだけ撃てるようになると面白くてしようがないんだ」
 セレスは笑って額の汗を白いトレーニングウェアの袖で拭った。
「でも、時々やっぱり足がふらつく。じれったいよ」
「おまえ……」
 ケイナは言うつもりはなかったが、口を開いていた。
 セレスの屈託のない緑の大きな目がケイナを見上げた。
「おまえ、的を見てるか?」
「え……?」
 セレスはびっくりしたような顔になった。
「見てるよ…… そのつもりだけど…… 遅い?」
「いや…… そうじゃなくて……」
 ケイナは口籠った。
 セレスはしばらくケイナを見つめたあと、ケイナの言わんとしていることに気づいて目を伏せた。
「見えてるよ……」
 セレスは答えた。
「でも、夢中になると見えてないかもしれない。頭で考えなくても体のほうが先に動いてる。こういうの、昔っからそうなんだ……。バスケットのボール追いかけてたときと一緒だよ。自分で気づいたらもうシュートしてるんだ」
 ケイナは息を吐いてうなずいた。
「まずいかな? おれ、早くできるようになりたいんだけど……」
 セレスはケイナの顔色を伺うように言った。
「まずくはないけれど…… 焦ったってどうしようもない。ジェイク・ブロードがカリキュラムを組んでくれる。彼にちゃんとついていくんだ」
 ケイナは答えた。
 セレスは頷いて再び射撃室に戻っていった。
 ケイナはそれを見送りながらなぜか落ち着かない気分になっていた。なんとなく、自分がそばにいることはセレスを危険な目に遭わせてしまうように思えた。
(でも……)
 ケイナはそのあとに頭に浮かんだ思いを振り払うようにガラスの前から離れた。
(セレスと離れたくはない……)
 そんなことは誰にも言えないことだった。


 トウ・リィがそろそろコリュボスに行こうと思い立ったのはちょうどそんな時だった。
 カインが思うようにデータを送ってこない。
 画面越しのためカインがあれやこれや言い訳をする姿に堪忍袋の緒が切れそうになる気持ちをただぐっと押さえるしかない。
 本来一ヶ月に一度は『コリュボス』に行くつもりだったのが、到底そんな時間は取れなかった。
 いい機会だ。
「体の調子がすぐれないのよ。カインの顔を見てから二、三日静養するわ」
 彼女は秘書のクーシェにそう言った。
「お顔の色が良くないとずっと思ってたんです。お留守の間は任せておいてください。幸い一、二週間はこみあった会議もありませんし……」
 社長就任時から彼女のそばで彼女の成長を見守ってきたクーシェにとって、トウを疑うことなど彼女の生き方には含まれていなかった。
(顔色が悪いのはカインの反抗に頭を痛めて夜眠れないせいよ)
 トウは心の中でそうつぶやいたが、口には出さなかった。
(思春期? 反抗期? ……扱いづらいったらないわ)
「私がカインに会いに行くことは事前に知らせないで。一般の面会手続きを踏んで会うわ。あっちで大騒ぎされたくないのよ」
 トウは二、三の書類をかばんに詰め込みながら言った。
「わかりました」
 クーシェは頷いた。
「連絡もすべてこちらからするわ。午前と午後に一回ずつ。それ以外は何も連絡してこないで」
 クーシェは再び頷いた。
 トウは普段スーツを仕事着にしていたが、今回の旅行ではそれを脱いだ。
 数年ぶりにベージュ色のラフなパンツに白のシャツ、革のジャケットに少年がかぶるようなキャップ式の帽子を目深に被りサングラスをかけた。
 どこから見ても気楽な独身女性のひとり旅の格好だった。
 船のチケットも偽名を使い、彼女はクーシェにすら旅立ちの時間を知らせずひとりで『コリュボス』に向かった。
 船の中で彼女はデータを開いた。
 とらえどころのないセレス・クレイの身上調査を独自のルートで調べさせたものだ。しかし、読んでトウはがっかりした。カインが調べたものとさほど差のない内容だったからだ。
(どうしてセレス・クレイのことは肝心なことが何も出てこないの……)
 トウは納得できなかった。
 セレス・クレイ、15歳。身長168センチ、体重56キロ。視力左右とも1.5。知能指数は130。
 生殖機能ダブルプラス。ただし要再検査。両親とは二歳の時に死別。
 父親のレイサー・クレイは大学の教授、母親のエリサ・クレイは看護婦。ともにリィ系列の職場で、ふたりとも旅客機事故で死亡。
「史上最悪」の旅客機事故……。
「何が史上最悪よ。最上と言って欲しいわ」
 トウは小さな声でつぶやいた。
 彼女が何のことを言っているのか知っていれば、この彼女の言葉に圧倒的多数の人間が非難を浴びせるだろう。
 しかし他社のこの事故があったからこそ、この年リィ・カンパニーの旅客船部門は飛躍的な売り上げを計上したのだ。
 元々は自社の商品資源を運搬するだけのために運輸事業をしていたが、メイン事業のバックアップにと拡大した旅客機業界だった。
 飛んでいる機もさほど多くはなかっただろう。
 あの時期、航空機事故はまるで伝染病のように頻発していてリィの中でもなかったわけではない。小さなトラブルなら数えきれないほどある。
 しかしそれが取るに足らないものと錯角するほど事故は多かった。
 消費者に錯角を起こしてもらうためにもあの事故は「史上最悪」でなければならなかった。
 トウはちらりと窓の外の暗い空間を眺めたあと再び書類に目を落とした。
 靴を脱いで小さなソファの上に両足を乗せてあぐらを組んだ。個室のチケットを買ったから誰にも見とがめられることはない。
 セレスは両親が亡くなったあと、兄のハルド・クレイと一緒に父親の妹夫婦に引き取られている。これもカインの報告書通りだ。叔父のケヴィンはリィ系列の総合病院の事務職、妻のフェイは元ジュニア・スクールの教師。
「あの髪と目はどうしてなの……」
 トウはデータを次々に開き、そしてセレスの遺伝子検査のカルテのコピーを見つけた。
 結果はすべて異常なし。
「癌の遺伝子もなし。生殖機能きわめて良好。でも緑色の髪と目を持つ人間なんて、そうそういるはずないわ」
 トウは食い入るようにカルテを見つめた。そして前のほうのデータに戻った。セレスの両親の経歴書の部分だ。
 レイサー・クレイのほうはすでに大学の関係者に問い合わせ済みだった。彼は確かに数年間だが大学に在籍して教鞭をとっていた。トウは母親のほうに目を向けた。
 エリサ・クレイ。リィ・エンター総合病院。勤務歴は長いようだが、彼女の生い立ちや経歴がまだほとんど未記入のままだった。
 トウは船に備えつけの通信機にパスワードを入れると独自回線を開いた。
「バッカ―ドを呼んで」
 相手が出たことを確認するとトウは言った。しばらくしてしわがれた男の声が聞こえた。
 部下に仕事用の出立ちでないことを見られたくなくて画面はオフにした。
「バッカードですが? ミズ・リィ?どうしたんです。個人通信など……」
 バッカードの声は明らかに困惑していた。何かミスを突かれればどう言い逃れしようかと思案している様子が目に浮かぶようだ。
「十五年前くらいのリィ・エンター総合病院の職員のデータが欲しいの。エリサ・クレイ。クレイは結婚後の姓よ。結婚前は…… ロラン」
 トウは指で文字をなぞりながら言った。
「十五年前ですか? 所属は?」
 バッカードは少し安心したように言った。
「第三病棟よ」
「第三病棟…… エンター総合病院だと…… 感染症の病棟ですな。ちょっと時間をもらえますか?  十五年前のデータがどこまで残っているか…… ましてや一職員となると。私もここにはおりませんでしたし」
 いちいち何かと言い訳をする。まだなんにもしていないのに。この男は本当にいけすかない。
 トウは顔をしかめた。
「できるだけ早く調べて。彼女の個人的なデータが分かるだけあったほうがいいの」
「分かりました。オフィスにお送りすればいいですか?」
「いま旅行中なのよ。あとで宿泊先から連絡するわ」
「了解しました。旅行とはまたおめずらしいですな。いい旅になることをお祈りしていますよ」
 バッカードがそう言ったので、トウは通信機のスイッチを切った。
「あんたに言われたくないわ」
 トウは吐き出すように言った。そして再びデータに目を移した。
「いまいましい…… 途中で放り出して隠そうとしなければ こんな面倒なことにはならなかったのに。わたしはおじいさまやパパとは違うわ。 絶対完成させてみせる」
 トウはつぶやいた。