セレスが自分の体の異変に気づいたのはそれから数日たってからだった。
 身軽さだけがとりえで腕と足の力が弱くトレーニングが辛かった記憶があったのに、休暇があけてからはさほど疲れを感じなくなっていた。
 休暇前に少し始めていたジェイク・ブロード教官の射撃の訓練も腕の力が弱いためになかなか焦点が定まらなかったのに、休暇が明けてからは面白いほど弾が的に当たった。自分で何も考えなくても目は標的を捕らえるし、腕は少しもぶれずに伸びた。
 ジェイク・ブロードは試しにセレスに動く標的を撃たせてみたが、それも7割は中心を射ぬいた。休暇前は動く的など1割落とせればいいほうだった。
「休暇中に何かトレーニングをしたのか?」
 ブロードは不可解だといわんばかりの面もちで言った。
「いえ…… 何も……」
 セレスはそんな目をされてもどうしようもない、と思った。自分でもどうしてだか分からなかったのだ。
 もちろん休暇の二週間そこそこでいきなりここまで上達することなどありえないということはブロード自身が一番よく分かっていた。セレスの以前の様子を見ていれば、どんなに特訓したところで今の彼のようになるためには半年はかかるはずだった。
 だとしたら答えはひとつ。できるようになったのではなくて、『もとからできていた』のだ。
 なら、なぜ今までできないフリをしていたのか……。
 ブロードには分からなかった。
 もっと不思議だったのは、動く標的を撃つ時にセレスの目がほとんど対象物を追っていないことだった。
 たぶんセレス自身は気づいていない。見ていないのに、彼は確実に標的を捕らえる。
 体のほかの感覚で対象を捕らえているようだった。
 ブロードは同じような人間をほかにふたり知っていた。
 ひとりはケイナ・カート。
 もうひとりはセレスの兄、ハルド・クレイだ。
 ハルド・クレイはブロードがいた頃の『ライン』の三年下の訓練生だった。
 三年もあとから入ってきたのに、修了はブロードより二年も早かった。彼に勝つことなど、到底考えられないほどハルドは群を抜いていた。ハルドほどの人間にはもう二度と会うことはあるまい、と思っていた。
 しかし、『コリュボス』の『ライン』に教官として就任してから彼はケイナ・カートに出会った。
 ケイナはハルド・クレイと会った時の全身が粟立つような感覚をブロードに思い出させた。
 磨けば彼はハルド・クレイをしのぐほどの力を持っているはずだと確信した。
 しかし、よもや同じような人間がもうひとりあらわれるとは思いもしなかったのだ。
 セレスがハルドの弟だと思えばあり得ないことでもなかったが、この急激な変わりようにブロードは戸惑いを隠せなかった。
 セレスはブロードが不審がっていることは分かっていたがどうすることもできず、彼が値踏みをするように眉根を寄せて自分を睨みつけることに堪えた。
 ただ、休暇前のように怒鳴られる回数が減ったことだけは事実だった。
 しばらくして、ブロードはセレスを個別指導に切り替えることをセレスに告げた。
 同じグループのジュディとトリルとはあまりにも能力が離れ過ぎてしまったのだ。
「セレス、すごいねえ…… いったいどんなトレーニングをしたの?」
 訓練のあと、シャワーを浴びて濡れた髪を拭きながらトリルが感心したように言った。
「うん……」
 セレスは返答に困って洗面台に顔を突っ込み、意味もなく何度も顔を洗った。
「身内が軍関係だと得だよな」
 ジュディが聞こえよがしに言った。セレスはまたか、と思った。いつかは難癖をつけてくるだろうとは思っていたのだ。
「いつでもトレーナーになってもらえて、将来は保証されてるようなもんだしさ。コネがない人間はソンだよ」
「コネだけがすべてじゃないよ。そりゃ、ここに入るときにはぼくも父さんが『中央塔』がらみだったことは利用したけど……」
 トリルは手をとめて言った。
「ぼくは何のコネもなしだぜ」
 ジュディは肩をすくめた。
「セレスはいろいろとうまくやるよな。ケイナ・カートに取り入るのもうまいしさ」
 それまで無視を決め込んでいたセレスは手をとめて思わずジュディを見た。ケイナの名前が出るなど思いもしなかったのだ。
「なんでケイナのことが出るんだよ。関係ないだろ」
 セレスの声にトリルは雲行きが怪しくなってきたことを感じ取って警戒した顔でふたりを見た。
 ジュディはセレスが反応してきたので、にやりと笑った。それこそ彼の願っていたことだった。
「休暇明けにケイナと戻ってきたじゃないか。いったいどんな手をつかって彼を自分専属のトレーナーにしたんだよ」
 セレスは呆れたように首を振るとジュディを無視することに決め、顔を背けて脱いであったトレーニング用のシャツを頭から被った。
 しかしジュディは引き下がらなかった。
「おれ、見たんだぜ。休暇中にシティに出たろ? アシュア・セスが一緒だったよな」
 ジュディの目は興奮して輝いていた。いつかおまえの本性を暴露してやる、と機会を狙っていたに違いない。
 セレスは答えなかった。
「ケイナ、アシュア、たぶんカイン・リィも一緒だったんだろうな。うまい具合に取り入るよな。ケイナはまだカート司令官の息子だしな。今んとこ、カート家の跡取り有望株はケイナだろ?」
「関係ないよ」
 セレスはジュディに顔を向けずに突っぱねた。
「関係ない…… ね」
 ジュディはせせら笑った。
「ユージー・カートとケイナの確執を知ってて、それでもケイナのほうにつくっていうのは、そのへんの下心がなくってなんだって言うんだよ」
「だったらおまえもどっちかにつけよ!」
 とうとう我慢できなくなってセレスは怒鳴った。それこそジュディの待っていたことだった。
「やっと本音を言ったじゃないか」
 ジュディはにやにやと笑った。白い顔が上気して赤くなっている。
「わけもなく彼らが一介の新入生を迎えるわけないよなあ。いったいどんな手を使ったのか教えてもらいたいね。体でも売ったのかよ」
 セレスはジュディの顔を睨みつけた。それでもひるまず、ジュディはセレスに顔を近づけた。そしてその胸ぐらを掴んだ。
「しれっとした顔をして、おまえのやってることは最低だぜ」
 セレスはしばらく彼の顔を睨みつけていたが、ふいに胸ぐらを掴んでいるジュディの手首を握った。
 ジュディの顔から一瞬さっと血の気が引いた。腕を掴んだセレスの手に信じられないほどの力がこもっていたからだ。
「悔しけりゃ追いついてきてみろよ」
 セレスは言った。ジュディは目を丸くした。
「おれはもうすぐハイラインに上がる。そう決めたんだ。取り入ったって思うんならそう思っとけよ。だけど、ハイラインの試験はコネなんか通用しないぜ。どんなに特訓を受けたとしても、それが自分のものにできるかできないかは自分次第なんだ。悔しけりゃ、おまえもできるようになれよ。RPでケイナのトレーニングを受けているだろう。彼に頼んで個別指導をしてもらえよ。彼はやる気のある人間に嫌だとは言わない」
 セレスは一気にそう言うと、ジュディの腕を突き放すように放した。ジュディはよろめいたものの、尻もちをつくことだけはかろうじて免れた。
「自分の能力のなさを人の責任にするな」
 セレスは最後に彼を一瞥してシャワールームを出た。
「ジュディ、きみの負けだよ」
 悔しそうにセレスの姿を見送るジュディにトリルは静かに言った。
 ジュディの目がかっと見開かれたが、トリルはすばやくシャワールームをあとにしていた。

 セレスは頭がくらくらしていた。あんなことを人に言ったのは初めてだった。
 なんだかとても自分が高飛車な人間のように思えた。
 でも、ケイナとのことを小汚く言われることは許せない。
 ケイナへの気持ちをどんなにジュディに説明したって彼には分からないだろう。あいつにはあんなふうに言うしかないのだ。
 セレスはそう自分に言い聞かせた。
 しかし、ジュディとの一件は知るよしもなかったが、セレスの変わりようにはケイナも気づいていた。
 自分がロウライン生を見るRPの時間の時の手ごたえが以前とは全く違うからだ。
 きつくてひいひい言っていた筋力トレーニングでは全く表情を変えなくなっていたし、射撃訓練のフォローでは、以前は終わる頃には腕がかなり痺れているように手を振っていたのが見られなくなった。
 一番驚いたのは、休暇が終わって三週間めには ジェイク・ブロードからケイナへの申し送りファイルに、セレスのトレーニングがハイライン生並みのカリキュラムに変更されて記入されていたことだった。
 ケイナは一瞬ブロードにこれは間違いではないかと確認しようかと思ったが、セレスの様子を見ていて思い直した。
 こいつならできるかもしれない、と思ったのだ。
 こうなると、RPの時間に一緒にトレーニングを受けるジュディとトリルがあまりにもセレスと差が開き過ぎた。この差がふたりに良くない影響を及ぼさなければいいんだが、とケイナは思った。
 特にジュディのことが気にかかった。
 彼のとかく自分の有利なものにつこうとする体質と異常なほどのプライドの高さと反抗心は傍で見ていても分かるほどで、特にセレスに対する敵意はケイナの神経すらも少し逆撫でするほどうっとうしいものだった。自分がセレスに声をかけるだけでジュディの嫌悪感まるだしの視線を背に感じるからだ。
 彼にとってセレスは目の上のこぶでしかないのだろう。
 しかし、こんなに差が開き過ぎると、もはやジュディには追いつけない。
 自分とは違うトレーニングを重ねてどんどん先に進んでしまうセレスをどんな思いで眺めていることか。
「ジュディ、手首で重りを持ち上げようとするな。傷めるぞ」
 ケイナはトレーニングマシンに入っているジュディに言った。
 彼も以前のセレスと同様腕の力が弱かった。頭もいいしカンもいいのだが、もともと筋肉がつきにくい体質のうえに持続力があまりなかった。『ライン』を修了するのに正規の在籍期間ぎりぎりというところだろう。
 ジュディはじろりとケイナを見上げたあと、「はい」と言って、グリップを握り直した。
 額に汗が光っている。
 この反抗的な目を見ると一瞬ぶん殴ってやろうかと思うこともある。
 ケイナは自分では気づいていなかった。
 そうした人の反応に自分から腹を立てたりすること自体が今までの彼にはなかったはずなのだ。
 ケイナはトリルにも少し声をかけるとセレスのファイルを取り上げた。
 彼は射撃訓練室にひとりで入っている。様子を見てこなければならない時間だった。
「15分で戻る。五分たったら休憩してもいい」
 ケイナはふたりにそう言うとトレーニングルームを出た。
 そのすぐあとにアシュアが何気ないふうを装ってケイナに近づいた。
「どんな感じだ? セレスは」
「ずっとおれのそばにいなくても大丈夫だぜ。そっちのカリキュラムに影響ないようにしろよ」
 ケイナはアシュアを見て苦笑した。
「カリキュラムよりもこっちのことがおれの仕事なんだよ」
 アシュアは言った。
「はっきりと言うようになったんだな。ちょっと前はごまかしていたくせに」
 ケイナは笑った。
「何を今さら隠すことがある」
 アシュアは肩をすくめた。
「セレスはなんだかものすごい勢いでステップアップしているみたいだな。実際見てなくてもあいつの顔を見れば分かるよ」
 アシュアの言葉にケイナは前と違って楽し気なセレスの顔を思い出して頷いた。前は訓練のキツさのほうが先立って疲れきった表情のほうが多かったのだ。
「体が細っこいから重心がどうしてもぐらぐらするんだけど…… おれもちょっとびっくりしてる」
 アシュアは歩きながらケイナの持っていたファイルを取ってめくった。
「なるほどね」
 アシュアはセレスのデータを見てつぶやいた。
「部外者禁だ」
 ケイナはアシュアからファイルを取り上げた。
「カインには見せないと言っとけ」
 アシュアはそれを聞いて笑った。
「カインに通用するかよ」
「問題は……」
ケイナが思案するような顔をしたのでアシュアは彼の横顔を見た。
「あいつのレベルがほかのロウラインの生徒と離れ過ぎた。どうも異様にセレスに敵対心を持つやつがいて、あいつにちょっかいかけてるようなんだ。面倒なことにならなきゃいいけど」
「へえ……」
 アシュアは目を丸くしてケイナの顔をまじまじと見た。ケイナはその顔に眉をひそめた。
「なんだよ……」
「おまえ、変わったなあ……」
 アシュアは感心したように言った。
「ちょっと前のおまえは自分に関係ない人間のごたごたなんか気にもとめなかったぜ」
「関係ないことはない。おれの受け持ってるRPの訓練生だ」
「それでもさ」
 アシュアの人なつこい目が満面の笑みでケイナを見た。
「他人の人間関係なんかにおまえが関心を持つことなんかなかった。ましてやロウライン生の心配なんかするはずもねえや」
 ケイナはそっぽを向くとさっさと先に歩き出した。アシュアはにやにや笑ってそれを見送った。