翌日は残りのライン生たちも戻ってくる日だった。
 セレスは早朝5時前に聞き慣れたトニの足音を聞いた。たぶん始発に乗って帰って来たのだろう。ちょうどケイナに出くわしたらしく、ためらいがちにあいさつする声が聞こえてきた。
「おはようございます。またよろしくお願いします」
 ケイナの返事は聞こえなかった。『ライン』での無愛想なケイナに戻ってしまったらしい。 あの、緊張状態のケイナに……。
 また次の休暇までケイナはぎりぎりのところで生活していくのだ。
 でも、考えようによってはみんな同じだった。ここでゆっくりと睡眠を確保できる者などいない。
 自分のブースの前にトニが来たので、セレスは声をかけた。
「トニ」
「セレス……!」
 トニはびっくりした顔をした。そしてバッグを持ったままセレスのブースに飛び込んで来た。
「いつ戻ってたの?」
「昨日だよ。一日早かったけど戻ることにしたんだ」
 セレスはトニがどうしてこんなに自分を見て驚くのか分からなかった。
「どうして来なかったのさ。アルはかんかんに怒ってるよ」
 トニはほかのふたりに聞こえないように声を潜めて言った。
「来なかったって……?」
 そうつぶやいてからセレスはぎょっとした。
 完全に忘れていた。休暇前にアルのコテージに行く約束をしていたのだった。
「きみが約束を破ったことなんかないのにって、アルの嘆きようったらなかったよ」
 トニは首を振ってセレスを咎めるように言った。
「ごめん…… ちょっとごたごたしてたんだ……」
 セレスはそう言うしかなかった。
「ぼくに謝るよりアルに謝っとけよ」
 トニはため息をついた。
「何回か、きみん家に連絡したんだ。でも誰もいないし……。 個人通信のアドレスにコンタクトしても何の応答もないし、地球にでも戻ってたの?」
「いや…… そうじゃないんだけど……」
 空港での事件はまだしも、そのあとケイナの家に行っていたとはとても言えなかった。
 自分の家に戻ってからもレポートのことで頭がいっぱいで連絡履歴を確認することすらしなかったのだ。
「とにかく、アルに会ったら声をかけるんだよ」
「うん……」
 セレスはうなずいた。何と言って謝ればいいのか……。 それを考えると気が重くなった。
 そういえばあれから兄さんにも連絡してなかった…… なんかおれって最低……
 トニはしばらくがっくりしているセレスを見つめていたが、やがて自分のブースに引っ込んでいった。
 その日の昼食の時、セレスはトニに連れられて渋々一緒にダイニングに行った。
 案の定、アルは不機嫌そうな顔で食事をしていた。食事のトレイを持ってトニが肘で脇腹をつついたので、セレスはためらいがちに声をかけた。
「やあ…… アル」
 アルはじろりとセレスを見上げたあと、しばらく無言で肉をいじくっていたが、ぼそりと言った。
「何かあったんじゃないかと心配したんだよ。連絡してよ」
「ごめん……」
 セレスは言った。アルはぶっきらぼうに空いている自分の横の席を顎で示した。
「とにかく座ってメシ食いなよ」
 セレスは素直にそれに従った。トニもセレスの横に腰かけた。
「まさか、きみのお兄さんに連絡するわけにもいかないしさ。どっかで事故にでもあったんじゃないかって思って、何度もニュース見たんだよ」
 アルは口を尖らせてぶつぶつ言った。
「悪かったよ」
 セレスは頭を掻いた。
「それで?」
 アルはセレスの目を探るように見た。
「ぼくとの約束を忘れるほど重要なことがあったんだろ? 無理にとは言わないけど、その気があるんなら言ってよ。何にもなくてすっぽかされたとは思いたくないんだ」
 セレスは躊躇した。しかし思い切って話し始めた。
 ケイナを家に誘ったこと、兄と一緒に食事をしたこと、空港で事件に巻き込まれたこと。ずっとケイナが心配で病院にいたこと。
 かいつまんでのことしか話せなかったが、そのあとケイナの家に行ったことだけはどうしても言えなかった。後ろめたい思いがあったのと、ノマドたちのことをどう説明していいのか よく分からなかったのだ。
 アルとトニは目を丸くして硬直したままセレスの話を聞いていた。
「よくケイナを誘う気になれたね……」
 話し終わったあと、トニが呆然としたように言った。
「というより、ケイナがよくきみと行動をともにする気になったなあ…… なんか信じられないや……」
「エアポートの事件はすごい騒ぎだったんだよ。子供が撃たれたって聞いたから、ぼく、きみのことを心配したんだ」
 アルはその時のことを思い出したのか、泣き出しそうな顔で言った。
「小さな女の子だったんだけど、撃たれてはいないよ。ケイナが助けたんだ」
 セレスは答えた。
「犯人は一般市民が取り押さえたっていうことは報道されてた。でも、それが誰なのかってことは全然分からなかったよ」
 トニは食べることを完全に忘れて呟いた。
「ケイナだったなんて思いもしなかった……」
「ケイナだってことは誰にも言わないで欲しいんだ。兄さんがマスコミに伏せてくれてる。そうでなきゃ取りざたされて大変なことになっちゃうんだ」
 セレスは懇願するようにふたりに言った。
「分かってるよ」
 アルは心外だな、というような表情でセレスを見た。
「それでケイナはもう大丈夫なの?」
 トニは興奮して口が乾いたのか、水の入ったカップを取り上げながら気づかわしげに尋ねた。
「傷はもう完治してると思う。体力的にはまだ完全じゃないと思うけど……」
 セレスはケイナが暴走状態だったことはふたりには言わなかった。
 ケイナが心に深いトラウマを抱えていたことを言うつもりはなかったのだ。
「犯人は違法ドラッグの常習者だったって聞いたよ。あれから何か分かったのかな」
 トニは不安そうに顔を曇らせた。
「地球に戻った時、母さんからさんざん気をつけろって言われたんだ。地球では違法ドラッグが子供にまで蔓延してるらしいんだよ。人から薬をもらったりしても絶対に飲んじゃいけないって言われた。それが頭痛薬だって言われてもね」
 セレスはバッガスのことを思い出した。彼はあのとき本当に違法ドラッグを買っていたんだろうか。
 もしそうならここのラインもドラッグが入り込んでいることになる。
「どうしたの?」
 アルがセレスの表情を不審そうに見た。
「いや、なんでもないよ」
 セレスは笑みを浮かべ、フォークを取り上げた。確証のないことはうかつには言えなかった。
「とにかく今回のことは大目に見てやるよ」
 アルはふんぞり返って言った。
「ぼくはねえ、非常に寛大な人間なのさ。きみはこれまでぼくとの約束は破ったことはないし、こんなことになってたんじゃ忘れてたってしようがないものな」
「アル、ほんとにすまなかったと思ってるよ」
 セレスはアルの顔を見て言った。それは本当に正直な気持ちだった。アルはにっと笑った。
「話してくれて嬉しいよ。きみが何にも言ってくれなかったらどうしようかと心配だったんだ。何も言ってくれないほうがつらいよ」
 セレスはあいまいに笑った。
 なんだか気持ちが沈んだ。すべてをアルとトニに話したわけではなかった。
 むしろ隠したことのほうが多かったかもしれない。
 この先もっとこのふたりに隠すことが多くなりそうな予感がして、セレスは漠然とであったが不安を覚えた。
『アル…… ごめんな』
 セレスは心の中で詫びた。