『中央塔』は『コリュボス』の中枢機能を担う場所だ。
『ライン』は150階から170階までを占める。
「ケイナ」
155階の廊下を歩いていくケイナの背に、カインは声をかけた。
しかしケイナは振り返らない。
「ケイナ」
もう一度呼んだ。
いつもそうだ。慣れないうちは聞こえていないのかと思った。
何ヶ月かしてやっと彼は無意識のうちに相手の声の調子で自分が受け入れたくないことを言うかどうかを悟って返事をしないのだということが分かってきた。
アシュアが呼ぶと彼は振り返る。アシュアはうまくケイナに声をかける術を修得している。
『ぼくはどうもだめだな…… でなきゃ、よっぽど嫌われているかだ』
カインは思う。 もう二年もたつのになかなか彼の心は氷解しない。
「ケイナ、悪いけど……」
「ヒマはないよ」
肩を並べて言うカインの言葉が終わらないうちにケイナは吐き出すように言った。
そのままずんずん歩いていく。
「まだ何も言ってないけど」
「……」
だんまりだ。こっちに目も向けやしない。
ガラス張りの壁から差し込んだ光がケイナの横顔をくっきりと浮かびあがらせていた。
完璧なまで造作だ。影だけみてもケイナだと分かるだろう。
「認めたくないだろうけど、教官からの指示だよ。飛び入りで見学者が来たからそっちに回れと」
「……」
黙っている。了承したのか、それとも無視する気か。
ふいに彼は足を止めた。相変わらず顔は前を見つめている。
「ジェイク・ブロードは訓練よりこんなことをとるわけ?」
『ジェイク・ブロード』は教官の名前だ。
「おおかた持病の腰痛でも出たんだろ」
カインは彼が足をとめたことにほっとしながら肩をすくめて言った。
「ひとりだからすぐに終わるよ」
カインは黒いファイルを差し出した。
しかしケイナはそれを無視して再び歩き始めた。
「ケイナ」
カインは慌ててあとを追った。
勘弁してくれ。ケイナの歩幅は広すぎる。追いつくのがやっとだ。
「アシュアは?」
ケイナは前を見たまま言った。
「アシュアはだめだ。カリキュラムが始まってる」
もう諦めようかと思った矢先、ケイナは手がカインの手のファイルを掴んだ。
「ブロードはもう軍科に生徒はいらないんだな」
ケイナはそう言って冷ややかな笑みを向けるとファイルをかざしてカインに背を向けた。
カインは思わずふうと息を吐いた。
いったいいつになったらまともにしゃべってくれるようになるんだか。
ファイルを弄びながら歩いていくケイナの後ろ姿を見送ってカインはかぶりを振った。
今日の見学者は不運だ。ケイナはどれほど冷たい仕打ちをするか分かったもんじゃない。
そう思いながら元来た廊下を戻ろうと踵を返したとき、 カインはふと目の端に映ったものにはっとしてケイナを振り返った。
ケイナの持ったファイルから奇妙な緑色の霧が溢れ出て彼の体を取り巻いていた。
しかしそれが見えた直後、ケイナの姿は廊下の角に消えた。
あのファイルには何と書いてあった? 誰の名前が書いてあった? 今から追いかけて取り戻せばケイナは会わずに済むか?
いや、一度受け取ったファイルをケイナが返すものか。余計に警戒させるだけだ。
「なんでもっと早く(見え)ないんだ……」
カインはいまいましげにつぶやいた。
アルは『ライン』の公開見学会の日、普段より一時間早く起きて着替えをすませ、母親と顔を合わせないようにしてすばやく家を出た。父親のヴィルを借りるつもりだったからだ。
もし母親に見つかるととんでもなく長い説教を受けなければならない。
危ないから急発進はやめなさい。怪我をするからあまり高くは飛んではだめ。
そのうち、やっぱり今日はトレインで行きなさい、と必ず言うだろう。
今日はこれでセレスのアパートに寄り、ふたりでそのまま『中央塔』に向かうつもりだった。
トレインに乗ると安全だけれど時間がかかり過ぎる。
セレスのアパートの前にヴィルを降ろすと、 何度か訪れて勝手の分かっているオートロックをセレスからもらったスペアカードと身内として登録してもらった掌紋で開け、奥にあるエレベーターで53階まであがった。
部屋の前でインターホンを鳴らすとしばらくしてセレスが顔を覗かせた。
驚いたことに彼はこのインターホンが鳴る直前まで寝ていたらしいことが、 あっちこっちに飛び跳ねた髪で分かった。
「遅れるよ、セレス! 早く着替えて!」
アルは素頓狂な声をあげた。
「うん……」
従順にそう答えながらもセレスの動きは緩慢だ。
アルは大急ぎでセレスを部屋の中に押し込むと寝室に飛び込み、クローゼットの中を引っ掻き回して比較的シワの少ない真っ白なシャツとお決まりの古びたズボンを出してセレスに放り投げた。
「8時に来るからって言ってたのに……」
ぶつぶつ文句を言うアルを尻目にセレスはのろのろと投げられた服を身につけ始めた。
アルは散らかり放題散らかったリビングに戻り、ため息をついて見回した。
どうしてこういつもいつも散らかっているんだろう。
これなんか、昨日着てたシャツじゃないか?
拾いあげてアルは顔をしかめた。
少しは片付けておこうと再び手を伸ばしかけて、ふとソファの上に小さな写真が落ちているのをアルは見つけた。
映像をプリントアウトしたものらしい。
写真にはセレスによく似た四十歳くらいの男性と美しい女性が写っていた。
「おれの両親。もう12年前くらいのやつだけど」
アルの背後でセレスがズボンを履きながら言った。
「セレスはお父さん似だったんだ」
アルはつぶやいた。
「らしいね。髪と目の色は違うけど」
「事故で亡くなったんだったね……」
「うん…… 旅客機事故。大爆発したらしいから遺体は見つからなかった。 地球の報道データを探すと残ってるよ」
「髪もきちんとといて」
ちらりと振り向いて言うアルの言葉にセレスは肩をすくめてバスルームに向かった。
セレスがバスルームに入ったのを確かめてから、アルはもう一度写真に目を移した。
男性も女性も幸せそうに微笑んでいる。
この映像がいつとられたものかは分からないが、 自分たちがこのあと事故に遇うなど想像もしていない笑顔だった。
「準備できたぜ」
セレスが言ったので、アルは写真をリビングのテーブルの上に置いた。
部屋を出る時、アルは言った。
「大事な写真、あそこに置いたままでいいの?」
「帰ってから片付けるよ」
セレスはドアをロックしながら答えた。
「普段は抽き出しの中」
「なんで出したの?」
「今日は父さんたちが死んだ日なんだ。正確には事故に遭った日、だけど。アルと見学会に行くよって報告してたら寝ちゃってた」
アルは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして黙り込んだ。
しかしセレスは気にとめていないように乗り込んだエレベーターの壁を見つめていた。
アパートの前に停めたヴィルにアルがぎこちなくまたがると、セレスは訝しそうな目をした。
「運転できるの」
「できるよ。免許持ってんだもん。時々落ちるけど」
アルはポケットの中を引っ掻き回してキイの存在を確かめながら答えた。
ヴィルは安全性がかなり確保されているので早い年齢から乗用資格はとれるが、多くの母親たちがあまり好ましくないと敬遠する乗り物でもあった。
アルがキイを探し当てたのを見たセレスは口を開いた。
「おれが運転するよ。俺を認証させて」
「運転したことあるの?」
「地球ではね。アルよりはうまいよ。たぶん」
アルは疑わし気にセレスを見ていたが、やはり運動神経のいいセレスのほうがいいだろうとキイを渡した。
「そこの丸いところに指置いて、キイのボタンを押し……」
アルが説明する前にセレスは慣れた慣れた手つきでエンジンをかけてしまった。
ほどなくしてバイクはふわりと浮上し、みるまに加速し始めた。
しばらくしてセレスの後ろにいたアルがはっと気づいて金切り声をあげた。
「嘘だ! きみは地球にいた頃10歳じゃないか! ヴィルの運転は12歳からだぞ!」
アルはおそろしくスピードをあげるセレスの背に必死になってしがみついて喚き散らしたが、セレスはけらけらと笑い声をあげた。
10分後に『中央塔』のパーキングに降り立った途端にアルはセレスに食ってかかった。
「この野郎! 事故ったらどうする気だったんだよ!」
「事故しなかったじゃないか」
セレスはにやにやしてアルにキイを返した。そこでアルはふと気づいた。
「初めて? なんであんなに慣れてた? エンジンのかけかたも知ってた」
「そんなの見れば分かるよ」
セレスはこともなげに答えた。
アルは呆気にとられてエントランスに向かうセレスを見た。
見ただけで分かるものなのか? 見ただけでできるようになるものなの?
それ、「セレス」だからじゃない?
アルはそんなことを考えて思わず首を振った。そして慌ててセレスのあとを追った。
「セレス、そっちじゃないよ。そこのエレベーターから156階まであがるんだ」
勝手にどこかに行ってしまいそうなセレスの腕をアルは慌てて掴んだ。
『中央塔』のエントランスは忙しそうに行き来する大人たちでごったがえしている。
閉まりそうになっていたエレベーターに飛び込み、目的の階でドアが開くと、今度はエントランスとは違ってアルやセレスと同じくらいの年齢の子供たちでごったがえしていた。
八割が少年、二割が少女。『ライン』は女の子たちにはあまり人気のない進路なのだろう。
同じ『中央塔』がらみでも、女の子たちは秘書養成科や医師や看護婦の方面の専門科があ『スクエア』のほうに進む子のほうが多い。
『ライン』内では女の子たちとは全く別の場所になるので修了するまで顔を合わす事もない。
顔を見るのは公開見学会くらいだ。
「受付のカウンター、どこか探してよ」
アルは言ったが、セレスはふわりと欠伸をかみ殺している。寝坊して遅刻の多かったセレスはきっとまだ眠いのかもしれない。
アルは彼の腕を掴むとごったがえす子供たちの中に突き進んでいった。
そしてようやく見つけた受付のカウンターに向かった。
身分証明書番号と事前登録の入力を済ませると、アルの分は受付票と時間が記された紙が排出されてあっという間に処理が終わったが、セレスは「処理ナンバーなし」と画面に表示されるばかりだ。
「おれ、やっぱだめなんじゃない?」
「申し込みは大丈夫だって書いてあったんだよ。できるはずだよ」
他人事のように言うセレスにむっとしながらアルは鼻の頭に汗を吹き出し、何度も入力を繰り返した。しかし無慈悲に拒否されるばかりだ。
「何か問題でもあった? ああ…… 空き待ちの申し込みをしたのね…… 残念だけどもう全部埋まったわ」
ふたりの様子に気づいて奥にいたオペレーターの女性が画面を覗き込んで言った
鼻にそばかすの浮いた愛くるしい顔をしている。
「定員になったの。悪いわね」
「なんとかならないんですか?」
「アル、いいよ……」
食いさがるアルにセレスはささやいたが、アルはかぶりを振った。
「せっかくここまで来たんだぜ!」
女性はそれを見てかすかに笑った。
「身分証はある?」
その言葉を聞いて、アルはセレスから身分証をひったくると押しつけるように女性に渡した。
「志望はどこ?」
「軍科です!」
セレスの代わりにアルが答える。
いいの? というように女性がセレスの顔を見たのでセレスは慌てて頷いた。
「軍科なら入るかもしれないわ。 待ってて」
女性は背を向けてとコンピューターのキイを叩いた。
誰かと通信しているらしい。
画面も見えなかったし何を話しているのかはふたりには分からなかった。
やがて女性は再びこちらに向き直った。
「確認してもらってるからあっちの控え室で待ってて。 早ければすぐに迎えが来るわ。30分待って来なかったら、だめだったと諦めてね」
「ありがとうございます。感謝します」
アルはいつもの通りすばやくそつのない返事をした。小さい頃から口うるさい母親にしつけられてきたたまものだ。
しかし、こういうところがほかの子供たちからは敬遠される部分でもある。
アルの言葉を聞いて受付の女性は笑った。
「いつもできるわけじゃないのよ。今日はたまた調べてもらえただけ。がんばってね」
彼女がコンピューターの画面に顔を向けたので、アルとセレスは受付のカウンターから離れた。
待てと言われた部屋は広くて椅子も並べてあったが、座っている者はほとんどいなかった。
みな、生まれて初めて入る『ライン』のフロアの雰囲気に興奮しているようで、あちらこちらでグループを作り、うるさいほどの声と熱気でごったがえしている。
セレスはやれやれというように隅の椅子に腰をおろした。
「こんなにたくさんいて、全員が『ライン』に入るのかな」
セレスはぐるりと部屋を眺めてあくびまじりにつぶやいた。
「見学会だからだよ。まだ試験じゃないし」
アルも落ちつかなげに周りを見て答えた。
「おれ、水でも飲んで来ようかな。咽が乾いちゃった……」
セレスが立ち上がりかけたので、アルは慌てて彼の腕を掴んだ。
「だ、だめだよ!」
「なんで……?」
セレスは怪訝な顔をしてアルを見た。
「な、なんでって……」
アルは顔を赤くした。
「だ、だって、待ってろって言われたじゃないか。 そ、それに水飲みに行ってる間に呼ばれたらどうすんだよ。だいたいきみはさっきの人にお礼も言わなかったし、勝手過ぎるよ!」
「あ、そうだね、じゃ、お礼も一緒に……」
セレスが再び立ち上がりかけたので、アルは必死に形相になった。
「だめーっ! こんなとこにぼくひとり残すなあっ!」
セレスは笑いだした。
アルはセレスが自分をからかっているのだと悟って今度は怒りで顔を赤くした。
「セレスのバカタレ」
そう言ってセレスを睨みつけながら、アルは不思議なほどすっと気分が軽くなるのを感じていた。
(そうか……)
アルは気がついた。
セレスは緊張をほぐしてくれたんだ。
そういえば、朝からずっと緊張していたように思う。
こういうとこ、こいついつもぼくをフォローしてくれるんだよな。
アルはちらりとセレスの顔を見た。
セレスはもう何もなかったかのようにまたもやふわりと欠伸をしていた。
『ライン』は150階から170階までを占める。
「ケイナ」
155階の廊下を歩いていくケイナの背に、カインは声をかけた。
しかしケイナは振り返らない。
「ケイナ」
もう一度呼んだ。
いつもそうだ。慣れないうちは聞こえていないのかと思った。
何ヶ月かしてやっと彼は無意識のうちに相手の声の調子で自分が受け入れたくないことを言うかどうかを悟って返事をしないのだということが分かってきた。
アシュアが呼ぶと彼は振り返る。アシュアはうまくケイナに声をかける術を修得している。
『ぼくはどうもだめだな…… でなきゃ、よっぽど嫌われているかだ』
カインは思う。 もう二年もたつのになかなか彼の心は氷解しない。
「ケイナ、悪いけど……」
「ヒマはないよ」
肩を並べて言うカインの言葉が終わらないうちにケイナは吐き出すように言った。
そのままずんずん歩いていく。
「まだ何も言ってないけど」
「……」
だんまりだ。こっちに目も向けやしない。
ガラス張りの壁から差し込んだ光がケイナの横顔をくっきりと浮かびあがらせていた。
完璧なまで造作だ。影だけみてもケイナだと分かるだろう。
「認めたくないだろうけど、教官からの指示だよ。飛び入りで見学者が来たからそっちに回れと」
「……」
黙っている。了承したのか、それとも無視する気か。
ふいに彼は足を止めた。相変わらず顔は前を見つめている。
「ジェイク・ブロードは訓練よりこんなことをとるわけ?」
『ジェイク・ブロード』は教官の名前だ。
「おおかた持病の腰痛でも出たんだろ」
カインは彼が足をとめたことにほっとしながら肩をすくめて言った。
「ひとりだからすぐに終わるよ」
カインは黒いファイルを差し出した。
しかしケイナはそれを無視して再び歩き始めた。
「ケイナ」
カインは慌ててあとを追った。
勘弁してくれ。ケイナの歩幅は広すぎる。追いつくのがやっとだ。
「アシュアは?」
ケイナは前を見たまま言った。
「アシュアはだめだ。カリキュラムが始まってる」
もう諦めようかと思った矢先、ケイナは手がカインの手のファイルを掴んだ。
「ブロードはもう軍科に生徒はいらないんだな」
ケイナはそう言って冷ややかな笑みを向けるとファイルをかざしてカインに背を向けた。
カインは思わずふうと息を吐いた。
いったいいつになったらまともにしゃべってくれるようになるんだか。
ファイルを弄びながら歩いていくケイナの後ろ姿を見送ってカインはかぶりを振った。
今日の見学者は不運だ。ケイナはどれほど冷たい仕打ちをするか分かったもんじゃない。
そう思いながら元来た廊下を戻ろうと踵を返したとき、 カインはふと目の端に映ったものにはっとしてケイナを振り返った。
ケイナの持ったファイルから奇妙な緑色の霧が溢れ出て彼の体を取り巻いていた。
しかしそれが見えた直後、ケイナの姿は廊下の角に消えた。
あのファイルには何と書いてあった? 誰の名前が書いてあった? 今から追いかけて取り戻せばケイナは会わずに済むか?
いや、一度受け取ったファイルをケイナが返すものか。余計に警戒させるだけだ。
「なんでもっと早く(見え)ないんだ……」
カインはいまいましげにつぶやいた。
アルは『ライン』の公開見学会の日、普段より一時間早く起きて着替えをすませ、母親と顔を合わせないようにしてすばやく家を出た。父親のヴィルを借りるつもりだったからだ。
もし母親に見つかるととんでもなく長い説教を受けなければならない。
危ないから急発進はやめなさい。怪我をするからあまり高くは飛んではだめ。
そのうち、やっぱり今日はトレインで行きなさい、と必ず言うだろう。
今日はこれでセレスのアパートに寄り、ふたりでそのまま『中央塔』に向かうつもりだった。
トレインに乗ると安全だけれど時間がかかり過ぎる。
セレスのアパートの前にヴィルを降ろすと、 何度か訪れて勝手の分かっているオートロックをセレスからもらったスペアカードと身内として登録してもらった掌紋で開け、奥にあるエレベーターで53階まであがった。
部屋の前でインターホンを鳴らすとしばらくしてセレスが顔を覗かせた。
驚いたことに彼はこのインターホンが鳴る直前まで寝ていたらしいことが、 あっちこっちに飛び跳ねた髪で分かった。
「遅れるよ、セレス! 早く着替えて!」
アルは素頓狂な声をあげた。
「うん……」
従順にそう答えながらもセレスの動きは緩慢だ。
アルは大急ぎでセレスを部屋の中に押し込むと寝室に飛び込み、クローゼットの中を引っ掻き回して比較的シワの少ない真っ白なシャツとお決まりの古びたズボンを出してセレスに放り投げた。
「8時に来るからって言ってたのに……」
ぶつぶつ文句を言うアルを尻目にセレスはのろのろと投げられた服を身につけ始めた。
アルは散らかり放題散らかったリビングに戻り、ため息をついて見回した。
どうしてこういつもいつも散らかっているんだろう。
これなんか、昨日着てたシャツじゃないか?
拾いあげてアルは顔をしかめた。
少しは片付けておこうと再び手を伸ばしかけて、ふとソファの上に小さな写真が落ちているのをアルは見つけた。
映像をプリントアウトしたものらしい。
写真にはセレスによく似た四十歳くらいの男性と美しい女性が写っていた。
「おれの両親。もう12年前くらいのやつだけど」
アルの背後でセレスがズボンを履きながら言った。
「セレスはお父さん似だったんだ」
アルはつぶやいた。
「らしいね。髪と目の色は違うけど」
「事故で亡くなったんだったね……」
「うん…… 旅客機事故。大爆発したらしいから遺体は見つからなかった。 地球の報道データを探すと残ってるよ」
「髪もきちんとといて」
ちらりと振り向いて言うアルの言葉にセレスは肩をすくめてバスルームに向かった。
セレスがバスルームに入ったのを確かめてから、アルはもう一度写真に目を移した。
男性も女性も幸せそうに微笑んでいる。
この映像がいつとられたものかは分からないが、 自分たちがこのあと事故に遇うなど想像もしていない笑顔だった。
「準備できたぜ」
セレスが言ったので、アルは写真をリビングのテーブルの上に置いた。
部屋を出る時、アルは言った。
「大事な写真、あそこに置いたままでいいの?」
「帰ってから片付けるよ」
セレスはドアをロックしながら答えた。
「普段は抽き出しの中」
「なんで出したの?」
「今日は父さんたちが死んだ日なんだ。正確には事故に遭った日、だけど。アルと見学会に行くよって報告してたら寝ちゃってた」
アルは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして黙り込んだ。
しかしセレスは気にとめていないように乗り込んだエレベーターの壁を見つめていた。
アパートの前に停めたヴィルにアルがぎこちなくまたがると、セレスは訝しそうな目をした。
「運転できるの」
「できるよ。免許持ってんだもん。時々落ちるけど」
アルはポケットの中を引っ掻き回してキイの存在を確かめながら答えた。
ヴィルは安全性がかなり確保されているので早い年齢から乗用資格はとれるが、多くの母親たちがあまり好ましくないと敬遠する乗り物でもあった。
アルがキイを探し当てたのを見たセレスは口を開いた。
「おれが運転するよ。俺を認証させて」
「運転したことあるの?」
「地球ではね。アルよりはうまいよ。たぶん」
アルは疑わし気にセレスを見ていたが、やはり運動神経のいいセレスのほうがいいだろうとキイを渡した。
「そこの丸いところに指置いて、キイのボタンを押し……」
アルが説明する前にセレスは慣れた慣れた手つきでエンジンをかけてしまった。
ほどなくしてバイクはふわりと浮上し、みるまに加速し始めた。
しばらくしてセレスの後ろにいたアルがはっと気づいて金切り声をあげた。
「嘘だ! きみは地球にいた頃10歳じゃないか! ヴィルの運転は12歳からだぞ!」
アルはおそろしくスピードをあげるセレスの背に必死になってしがみついて喚き散らしたが、セレスはけらけらと笑い声をあげた。
10分後に『中央塔』のパーキングに降り立った途端にアルはセレスに食ってかかった。
「この野郎! 事故ったらどうする気だったんだよ!」
「事故しなかったじゃないか」
セレスはにやにやしてアルにキイを返した。そこでアルはふと気づいた。
「初めて? なんであんなに慣れてた? エンジンのかけかたも知ってた」
「そんなの見れば分かるよ」
セレスはこともなげに答えた。
アルは呆気にとられてエントランスに向かうセレスを見た。
見ただけで分かるものなのか? 見ただけでできるようになるものなの?
それ、「セレス」だからじゃない?
アルはそんなことを考えて思わず首を振った。そして慌ててセレスのあとを追った。
「セレス、そっちじゃないよ。そこのエレベーターから156階まであがるんだ」
勝手にどこかに行ってしまいそうなセレスの腕をアルは慌てて掴んだ。
『中央塔』のエントランスは忙しそうに行き来する大人たちでごったがえしている。
閉まりそうになっていたエレベーターに飛び込み、目的の階でドアが開くと、今度はエントランスとは違ってアルやセレスと同じくらいの年齢の子供たちでごったがえしていた。
八割が少年、二割が少女。『ライン』は女の子たちにはあまり人気のない進路なのだろう。
同じ『中央塔』がらみでも、女の子たちは秘書養成科や医師や看護婦の方面の専門科があ『スクエア』のほうに進む子のほうが多い。
『ライン』内では女の子たちとは全く別の場所になるので修了するまで顔を合わす事もない。
顔を見るのは公開見学会くらいだ。
「受付のカウンター、どこか探してよ」
アルは言ったが、セレスはふわりと欠伸をかみ殺している。寝坊して遅刻の多かったセレスはきっとまだ眠いのかもしれない。
アルは彼の腕を掴むとごったがえす子供たちの中に突き進んでいった。
そしてようやく見つけた受付のカウンターに向かった。
身分証明書番号と事前登録の入力を済ませると、アルの分は受付票と時間が記された紙が排出されてあっという間に処理が終わったが、セレスは「処理ナンバーなし」と画面に表示されるばかりだ。
「おれ、やっぱだめなんじゃない?」
「申し込みは大丈夫だって書いてあったんだよ。できるはずだよ」
他人事のように言うセレスにむっとしながらアルは鼻の頭に汗を吹き出し、何度も入力を繰り返した。しかし無慈悲に拒否されるばかりだ。
「何か問題でもあった? ああ…… 空き待ちの申し込みをしたのね…… 残念だけどもう全部埋まったわ」
ふたりの様子に気づいて奥にいたオペレーターの女性が画面を覗き込んで言った
鼻にそばかすの浮いた愛くるしい顔をしている。
「定員になったの。悪いわね」
「なんとかならないんですか?」
「アル、いいよ……」
食いさがるアルにセレスはささやいたが、アルはかぶりを振った。
「せっかくここまで来たんだぜ!」
女性はそれを見てかすかに笑った。
「身分証はある?」
その言葉を聞いて、アルはセレスから身分証をひったくると押しつけるように女性に渡した。
「志望はどこ?」
「軍科です!」
セレスの代わりにアルが答える。
いいの? というように女性がセレスの顔を見たのでセレスは慌てて頷いた。
「軍科なら入るかもしれないわ。 待ってて」
女性は背を向けてとコンピューターのキイを叩いた。
誰かと通信しているらしい。
画面も見えなかったし何を話しているのかはふたりには分からなかった。
やがて女性は再びこちらに向き直った。
「確認してもらってるからあっちの控え室で待ってて。 早ければすぐに迎えが来るわ。30分待って来なかったら、だめだったと諦めてね」
「ありがとうございます。感謝します」
アルはいつもの通りすばやくそつのない返事をした。小さい頃から口うるさい母親にしつけられてきたたまものだ。
しかし、こういうところがほかの子供たちからは敬遠される部分でもある。
アルの言葉を聞いて受付の女性は笑った。
「いつもできるわけじゃないのよ。今日はたまた調べてもらえただけ。がんばってね」
彼女がコンピューターの画面に顔を向けたので、アルとセレスは受付のカウンターから離れた。
待てと言われた部屋は広くて椅子も並べてあったが、座っている者はほとんどいなかった。
みな、生まれて初めて入る『ライン』のフロアの雰囲気に興奮しているようで、あちらこちらでグループを作り、うるさいほどの声と熱気でごったがえしている。
セレスはやれやれというように隅の椅子に腰をおろした。
「こんなにたくさんいて、全員が『ライン』に入るのかな」
セレスはぐるりと部屋を眺めてあくびまじりにつぶやいた。
「見学会だからだよ。まだ試験じゃないし」
アルも落ちつかなげに周りを見て答えた。
「おれ、水でも飲んで来ようかな。咽が乾いちゃった……」
セレスが立ち上がりかけたので、アルは慌てて彼の腕を掴んだ。
「だ、だめだよ!」
「なんで……?」
セレスは怪訝な顔をしてアルを見た。
「な、なんでって……」
アルは顔を赤くした。
「だ、だって、待ってろって言われたじゃないか。 そ、それに水飲みに行ってる間に呼ばれたらどうすんだよ。だいたいきみはさっきの人にお礼も言わなかったし、勝手過ぎるよ!」
「あ、そうだね、じゃ、お礼も一緒に……」
セレスが再び立ち上がりかけたので、アルは必死に形相になった。
「だめーっ! こんなとこにぼくひとり残すなあっ!」
セレスは笑いだした。
アルはセレスが自分をからかっているのだと悟って今度は怒りで顔を赤くした。
「セレスのバカタレ」
そう言ってセレスを睨みつけながら、アルは不思議なほどすっと気分が軽くなるのを感じていた。
(そうか……)
アルは気がついた。
セレスは緊張をほぐしてくれたんだ。
そういえば、朝からずっと緊張していたように思う。
こういうとこ、こいついつもぼくをフォローしてくれるんだよな。
アルはちらりとセレスの顔を見た。
セレスはもう何もなかったかのようにまたもやふわりと欠伸をしていた。