ジェニファを振り向くこともなくまっすぐに自分の部屋のドアの前に戻って、しばらくドアの前で呼吸を整えるように深呼吸をくり返したあと、ケイナは部屋に入った。
「どこに行ってたの」
 ケイナの顔を見てセレスが言った。腹を満たし、汗を流して満足そうな表情をしている。
 ケイナは何も言わずにセレスの脇をすり抜けて、からからに乾いた咽を潤すためにキッチンにミネラルウオーターを取りに行った。キッチンの小さな台の上にはジェニファの持ってきたパイが乗っていた。
 ケイナはそれをしばらく見つめて再びリビングに戻った。
 カインはクッションを枕にして本を読んでいた。アシュアはすでに高いびきだ。
「ジェニファに何か占いでもしてもらったの」
 セレスは床の上で毛布にくるまって欠伸まじりに言った。
「まあな……」
 ケイナは立ったまま水を飲んだ。カインが無関心を装って聞いているのは分かっていた。
「なんて?」
 セレスはわずかに好奇心のこもった目でケイナを見た。
「わかんねえよ」
 ケイナはぶっきらぼうに答えた。それは正直な気持ちだった。カインが目をこちらに向けるのが分かった。
「ふうん……」
 セレスは興味を失ったらしく、それ以上は聞こうとしなかった。
「ケイナ、もう寝ろよ。体力がまだ完全に回復していないんだから」
「そうする」
 カインの声にケイナはミネラルウォーターのボトルを持ったまま寝室に入っていった。
 寝室のドアが閉まってからカインは床にそのまま寝転がっているセレスを見た。彼はあっという間にすうすうと寝息を立てていた。
「呑気だな、おまえは……」
 カインは首を振って自分も横になるために本を閉じた。

 翌朝、セレスは誰かがドアを叩く音で目が醒めた。
 起き上がって部屋を見回すとカインもアシュアもまだ眠っていた。
 一瞬夢だったのかと思ったが、 再び音がしたので目をこすりながら立ち上がってドアを開けにいった。
「ケイナは?」
 ドアの外には昨日会った小太りの女が立っていた。ジェニファだ。
「まだ…… 寝てると思うけど……」
 セレスはぼんやりした頭で答えた。外がまだ薄暗い。セレスの答えにジェニファは戸惑ったような表情になった。
「シェルが亡くなったの。そう伝えてくれない?」
 一気に目が覚めた。セレスはうなずいて部屋に戻り、ケイナの寝室にそっと入った。
「ケイナ……」
 セレスは毛布にくるまっているケイナを揺さぶった。
「ケイナ」
「うるせえ……」
 ケイナはくぐもった声で言った。
「ジェニファが来てる。シェルが亡くなったって」
「え……?」
 ケイナは眠そうな顔を毛布から出してこちらに向けた。
「ゆうべパイを届けてくれた人じゃないの?」
 セレスは言った。ケイナは身を起こすと髪をかきあげ、顔を両手でこすった。そして毛布をはね除けて立ち上がり寝室を出た。
 寒そうに身を縮めて立っていたジエニファはケイナの顔を見てほっとしたような表情になった。
「二時間ほど前にシエルが亡くなったの。老衰よ。まるで眠るように安らかに逝ったわ……」
 ケイナは黙ってジェニファを見つめた。
「あんたたち、今日中に『中央塔』に戻ったほうがいいかもしれない。そのうちここは弔問の『ノマド』で一杯になるから」
 そこまで話すと彼女はくしゃみをひとつした。
 ケイナの後ろでセレスが心配そうに顔を覗かせた。話を聞いていたらしい。
「シェルにありがとうを言ってなかった」
 セレスは言った。
「パイ、焼いてくれたんでしょう?」
 ジェニファは微笑んだ。
「優しい子ね…… 大丈夫、ちゃんと食べてくれればそれで彼女は満足するわよ」
 セレスを見てそう言い、そして彼女はケイナに再び目を向けた。
「次の休暇を楽しみに待ってるわ。元気で戻っていらっしゃいね」
 ケイナは黙って口の端に軽くキスをした。
 彼女はケイナにそっと耳打ちした。
「いい子だわ……。絶対あの子と離れちゃだめよ」
 ケイナは肩をすくめた。
 ジェニファが帰ったあと、セレスはケイナをまじまじと見つめた。
「ジェニファにはあんなふうにしょっちゅうキスするの?」
「あれはノマド式の挨拶だよ。できるだけ口に近い部分にキスするのが親愛の印なんだ。やって欲しいか?」
 ケイナが顔を寄せると、セレスはとんでもない、というように身をのけぞらせた。
「やめろよ! もうっ……!」
 笑ってアシュアとカインを起こしにリビングに戻って行くケイナをセレスは睨みつけた。
「あと2日は『中央塔』には戻れないぜ」
 ケイナの話を聞いたアシュアは欠伸まじりに伸びをしながら言った。
「ライブラリと訓練室くらいは出入り可能かもしれんけど。あんなとこには寝れんだろ」
「『ノマド』たちが来てぼくらも同胞だと思われると帰れなくなるぞ。1週間の葬儀を途中で抜けるのは『ノマド』の中で一番の非礼だ」
 カインはメガネをかけながら言った。セレスがケイナの顔を見ると、彼はそうなんだよ、というように肩をすくめてみせた。
「しゃあねえな。とりあえず出るか……」
 アシュアは面倒臭そうに立ち上がった。
 4人はあわただしく身支度を整え、アパートを出る前にシェルの部屋に行った。そして『ノマド式』に老婆の亡骸のそばにジェニファから手渡された若木の小枝をひとり一本ずつベッドの上に置いて冥福を祈った。
 ジェニファは遺骸に防腐の香油を施し、これから三日三晩その枕元で祈りをささげるのだ。
 シェルはまるで口元に笑みを浮かべて眠っているような顔だった。
 顔中しわだらけになっていたが、きっと昔は美人だっただろう。
 セレスはシェルの横に小枝を置き、しばらく彼女の顔を見つめたのちそっと顔を寄せて彼女の唇のそばにキスをした。つい数時間前までは笑って動いていた彼女の顔は冷たくなっていた。
「シェル、ありがとう。パイ、絶対食べるね」
 セレスは目を閉じたままのシェルにささやいた。ケイナはそれを見ていたが何も言わず黙っていた。
 少しずつ『ノマド』たちがアパートに集まってきていた。
 朝もやの中を頭からすっぽりと布をかぶって歩いて来る彼らの姿は一種独特な雰囲気で、ケイナたちはこっそりと彼らに見つからないようにアパートを抜け出すと建物の裏のヴィルを停めていた場所に行った。
「なんだか慌ただしい休暇だな」
 荷物をヴィルの脇にゆわえつけてアシュアが言った。ケイナはセレスに後ろに乗れ、というように合図し、4人はあてもなくシティに向かって飛び立った。

 『中央塔』の近くにある公園にヴィルを降り立たせると、アシュアがめざとく近くのカフェを見つけてコーヒーを買ってくると言って駆け出した。
 早朝なので公園にはあまり人がいなかったが、空港で早い便に乗るらしい、いかにもビジネスマンらしい男の乗ったプラニカが何台か近くを走り抜けていった。
「シェルのパイを持ってきたよ」
 セレスが適当に引きちぎったらしい紙で包んだベリーパイをバッグから取り出した。
「食べなきゃ、彼女に悪いよ」
 セレスはそう言い、ケイナとカインにひとつずつ紙包みを渡した。
 ケイナは朝から甘いものを食べたくないのか少しげんなりした顔をしたが、黙って紙包みを受け取った。
「あっちにベンチがある」
 カインが木立の向こうにある池のほとりを顎でしゃくった。
 3人がベンチに腰かけてまもなく、アシュアが熱いコーヒーの紙のカップを持って戻ってきた。
「ケイナと違っておれは朝強いけど、今日みたいに自然な目覚めでないのはどうもいかんぜ」
 アシュアはそれぞれにカップを渡すと愚痴をこぼした。セレスはアシュアにもパイを渡した。
「お! 気がきくじゃねえか! おれ、あのまんま置いてきたと思ってたぜ」
 アシュアは嬉しそうに言った。
「シェルはおれたちに絶対食べて欲しいと思うんだ」
 セレスは笑って言った。
「朝から血圧の高いやつだな……」
 ケイナはコーヒーをすすってつぶやいた。
 それを聞いたアシュアはケイナを指差した。
「セレス、こいつはな、ラインに入りたての頃は寝坊こそしなかったが目覚めが悪くてな、寝起きはすげえ機嫌悪いんだ。おれは何回も殴られそうになった」
「アシュアとケイナは同じ部屋だったの?」
 セレスはパイをほおばりながら尋ねた。シェルのパイは甘過ぎる気もしないではなかったが、おいしかった。
「一年だけだけどな。愛想悪いんだよ、こいつは。にこりともしない奴だったぜ」
 アシュアは答えた。ケイナの愛想の悪さはわざわざ聞くまでもないがただでさえいつも不機嫌そうなケイナが更に不機嫌になるのはちょっと想像したくなかった。
「それはそうと、ケイナ、これからどうする」
 カインは言った。ケイナは肩をすくめた。
「さあ…… どこか安ホテルにでも泊まるかな…… 2日くらいならなんとかなるし」
「泊まるだけならおれんちに来いよ。メシ食わせてやるぜ」
 アシュアが言うと、ケイナは冗談じゃない、という顔をした。
「あんな、がらくたまみれの部屋、絶対行かない」
「ああ、そ。そりゃどうも。セレスは自分のアパートに戻んな。おまえ、レポートも書いてないだろう」
アシュアはセレスに目を向けた。
「うん……」
 そう答えながらセレスは何か重要なことを忘れているような気がしたが、それが何なのか思い出せなかった。
「ケイナ、良かったらぼくのアパートか、リィ系列のセキュリティのあるホテルに……」
 カインがそう言いかけると、ケイナはじろりとカインを見た。
「心配すんなよ。大丈夫だから。もっとも……」
 ケイナはちょっと言葉を切った。
「おまえがそうしなきゃならないって言うんだったらそれに従うけど」
 カインは口を引き結んで持っているカップに目を落とした。
「ケイナ、またおれんちに来る?」
 セレスはためらがちに言った。
「おれんちだったら少なくとも兄さんの部屋が空いてるから、ひとりになれるよ」
「どいつもこいつも……」
 ケイナは空になった紙コップをぐしゃりと握りつぶした。
「人をガキ扱いしやがって……!」
 アシュアがげらげら笑い出した。
「子供じゃねえか! ひとりじゃメシも作れねえくせに!」
 ケイナは握り潰した紙コップをアシュアに叩き付けると立ち上がった。
 無言で3人に背を向けると、ヴィルを停めてある方にバッグを抱えて歩き出した。
「血圧高いのはどっちなんだか」
 アシュアが欠伸まじりに言った。
 セレスはアシュアをちょっと睨みつけると、パイの最後のひときれを口にほおばって立ち上がり、急いでケイナの後を追った。アシュアとカインはちらりと目を合わせて、何も言わずにその姿を見送った。
「ケイナ!」
 セレスはヴィルにまたがるケイナに走りよった。
「アシュアは冗談を言ったんだよ。本気で怒んなくても……」
「怒ってねえよ……」
 ケイナはセレスを見て苦笑した。
「おまえはほんとにそのまんまなんだな」
 ケイナはヴィルのエンジンをかけた。
「……?」
 セレスはわけが分からずにケイナの顔を見た。ケイナはバイクの後ろを顎でしゃくった。
「乗れよ。おまえんちに泊めてもらうから……」
「え?」
「あいつらもそうしろってさ」
 ケイナはアシュアとカインの座っているベンチを目で指した。セレスが慌てて目を向けると、ふたりはこっちを振り向いていた。アシュアがセレスにひらひらと手を振った。
「早く乗れ」
 ケイナは言った。セレスは顔中に笑みをあふれさせるとケイナの後ろに飛び乗った。
 ふたりが空高く舞い上がって走り去っていくのをカインとアシュアは見送った。
「とりあえずこれでいいのかな」
 アシュアはぱくりとパイにかぶりついて言った。
「抑制装置がなくなってまだ間がないんだ。ひとりにしとくのはまずい。かといって、ぼくたちのそばには絶対来ないからな」
 カインはコーヒーを飲んで答えた。
「いつまでたってもおれたちは警戒されたまんまだな」
 アシュアは食べ切ったパイの紙包みを丸めた。
「別に警戒してるんじゃないだろうけど…… セレスとぼくたちは彼にとって根本的に違うんだよ……」
 カインは目を伏せた。
「ぼくらはケイナにとって守ってもらうための存在だ。だけど、セレスは彼の心の中で守るべき存在になってるんだ」
 カインは空になった紙コップを見つめてつぶやいた。
「守りたい人間がいると、人間はこんなにも変わるもんかな……」
「それが仇にならなければいいけどな」
 アシュアは息を吐いて空を見上げた。