その夜、四人はとてもおいしいとはいえないファストフードで空腹をとりあえず満たし、疲れ果てたらしいアシュアは早くも床に寝転がって高いびきをかきはじめた。
 ケイナがタオルを放ってよこしたのでセレスはシャワーを浴びることにした。
「男四人で色気のない食事だったな……」
 セレスがバスルームに入ったのを見送ってケイナはため息をついた。
「今までで一番にぎやかな休暇になりそうじゃないか」
 カインは苦笑いしながら答え、ケイナは肩をすくめた。
 そのとき、誰かが部屋のドアをノックした。カインが怪訝そうにケイナを見た。既に午後11時を回っていた。
「ごめんなさいね、こんなに遅く」
 ドアの外に立っていたのはジェニファだった。
「大騒ぎしてしまったかな……」
 ケイナは丸まるとした彼女の顔を見て言った。ジェニファは笑った。
「違うのよ。シェルからベリーパイを届けて欲しいって言われて」
 ジェニファはまだ熱いパイ皿を差し出した。ケイナは戸惑ったようにそれを受け取った。
「シェルは朝と夜がごちゃごちゃになっているの。昼食に間に合うからなんて言ってたわ。ごめんなさいね。熱いのを届けてあげたかったし、彼女、最近膝がかなり痛むらしくて自分じゃ運べないのよ」
 ジェニファの申し訳なさそうな顔を見て、ケイナは少し笑って頷き、彼女の口の端にお礼のキスをした。
 シェルはいつも杖をついている。歳のせいかかなり足が悪くなっているようだった。そんな中でわざわざパイを作ってくれたのだ。
「ケイナ、それでね、ちょっと……」
 ジェニファは奥のカインを気づかうように声を潜めた。目が外に出てくれないか、と言っている。
 ケイナはちょっと待って、というようにジェニファに手をあげるとパイ皿を持っていったん部屋の中に戻った。
「ちょっと出て来る」
 カインはアシュアに毛布をかけているところだった。
「ジェニファが夢でも見たのか?」
 カインはそう言って振り向いたがケイナはそれには答えなかった。
「シェルからパイの差し入れだ」
 パイ皿を彼にかかげて見せるとキッチンに運び、そのまま部屋を出ていった。
 カインはそれを黙って見送った。
 あの夢見使いは時々危うい感じがする。自分が見るよりもはるかにいろんなことを予知するようだ。
 彼女がまたケイナの心をさざめかせるようなことを言わなければいいが、と思った。

 ジェニファは部屋から出てきたケイナを従えるとエレベーターで最上階まであがり、廊下の突き当たりの部屋に彼を案内した。部屋の中はほとんど灯りのともっていない状態だ。
「夜は精霊たちを脅かしてはいけないから灯りをともさない慣習を守ってるのよ。足元気をつけて」
 ジェニファはそう言うと、慣れた足取りで部屋の奥に入っていった。
 ケイナもおそるおそるそれに続いた。ジェニファが自分の部屋にケイナを連れてくるなど初めてのことだった。なんだかドライフラワーのような甘い香りがたちこめている。
 外の光だけで部屋の中の様子が分かるほどに目が慣れてくると、ケイナは改めて部屋の中の異様さに少し驚いた。壁一面に木の枝がびっしりと貼りつけられ、床には文様のついた壷や皿がところ狭しと並べてある。
 それぞれに香油か薬でも入っているのか、甘い香りはどうやらそこから部屋中にたちのぼっているらしかった。
 ケイナは皿を踏み付けないように足元に注意を払いながらすたすたと歩いていくジェニファのあとに続いた。
「これを見てくれる?」
 ジェニファは窓際の木の机の上に置いてある足のついた円盤のようなものを指差した。ケイナは訝し気にジェニファの顔を見てから机に歩み寄った。
 それは繊細な装飾を周囲に施した一枚の透明なガラスだった。いや、ガラスではないかもしれない。ガラスにしては透明度がある。
「水晶の板なの。私が占いに使ってたのよ」
 ジェニファは説明した。
「グループによっていろいろ方法があるから、あんたは知らないかもしれないわね」
 彼女はそう言って少し笑った。
「覗いてみて」
 彼女の言葉にケイナはあまり気がすすまなかったが、言われるままに板を覗き込んだ。
「見える?」
 ジェニファは尋ねた。
 板は透明で下の机の天板が透けて見えるばかりだ。ケイナは顔をあげてジェニファにかぶりを振った。
「心を穏やかにして」
 ジェニファは言った。
「私を疑ったりしないで。あなたの目に映るものを信じてみて」
 ケイナは再びぎごちなく板を覗き込んだ。何か小さな点がちらりと光ったように思えた。
 と、次の瞬間には透明なはずのクリスタルの板に絵の具を流したような緑色の筋が急激に渦巻きを始め、それがものすごい勢いでふくらんだかと思うとケイナの顔に向かって飛び掛かってきた。
 ケイナは思わず身をのけぞらせ、後ろにあった椅子に気づかずに思いきり足をぶつけて床に倒れた。
「大丈夫!?」
 ジェニファが慌ててケイナを助け起こした。
「な…… なんだ……?」
 ケイナは呆然としてつぶやいた。緑の残像がまだ目に残っている。
「びっくりさせちゃったわね…… 大丈夫、あれはあんたを守ろうとして必死みたいなのよ。だから飛び掛かったように見えたんだわ」
「あれ?」
 ケイナはジェニファを見た。
「あれって…… あの緑色……」
「あなたにも緑色に見えたのね。あの緑色の髪の子じゃないかしら」
 ジェニファは言った。
 セレスのことなのか……? ケイナは戸惑ったように視線を泳がせた。
「これは抽象的なイメージでしか映らないの。そうじゃないかと思っただけなんだけど……」
 ジェニファは再びケイナを机のそばに近づけた。
 もう一度中を覗き込むのはいやだったが、ジェニファに促されてしかたなくクリスタルボードを見た。
 緑色のものがゆったりと円盤の中を巡っている。そのうち小さな黒い点がぽつりと現れたかと思うと、見る間にそれは大きく広がった。円盤の中でまるで緑色の絵の具と真っ黒な絵の具がお互いを威嚇しあうかのようにぐるぐると回っていたが、その速さがどんどん速くなっていったかと思うと、いきなり円盤の中は真っ赤になった。
 ケイナは思わず息を呑んだ。まるで血の色のような赤さだったからだ。
 そしてクリスタルはもとの透明度を取り戻した。
「あんたが来る前はこの中にあんたを現す青い色があったのよ」
 ジェニファは静かに言った。
「私の言うことを落ちぶれた占い師の戯れ言として聞いてくれてもいいわ。だからちょっとだけ耳を傾けてくれる?」
 ジェニファは倒れた椅子を元に戻し、ケイナを座らせて言った。
「あの子とあんたはまるで水と樹木の関係だと思うの。お互いに相手を必要としてる。あの子はあんたの剣となり盾となるべくして生まれてきたような気がするの。今は未熟かもしれないけれど成長するのに何の労力もいらない。それはあの子が木で、あんたが水と光の役目を果たしているからよ」
 ジェニファは困惑しきっているケイナの顔を暗がりでひたと見据えながら言った。
「だけどあの子はあんたを守りきろうとしてこのままでは力及ばずに死んでしまう。真っ黒な闇があまりにも強大な力を持ち過ぎてる。あの子を失うとあんた自身の水も行き場を失ってしまうわ。行き場を失った水は澱んでいくだけになってしまう」
「真っ黒な…… 闇……?」
 ケイナはつぶやいた。
「いったい何のこと……?」
「具体的には分からないの。ごめんなさいね……。黒い髪の者なのか、あるいは黒い目を持つ者なのか……。単に象徴なのかもしれない。それは何とも言えないのよ」
 ジェニファは申し訳なさそうに言った。
 黒い髪と黒い目…… ユージー…? いや、カインだってそうだ。 黒い目、黒い髪の者なんてごまんといる。ジェニファだってそうだ。
 ケイナは困惑して息を吐くと髪をかきあげた。
「手立てはあるわ」
 ジェニファは言った。
「あの子を大切にするのよ。離れてはいけない。黒はすべてを打ち消す色だけど、水は汚れを洗い流す。あんたがあの子を成長させる。あの子が育てば、あんたたちは未来を変えるかもしれない」
「ジェニファ、おれは……」
 ケイナは口ごもりながら言った。彼が言い終わる前にジェニファは何も言うなというように人差し指を口の前にたてた。
「分かってる。占いは所詮占いでしかないわ。ただ、占いに頼らなくてもあの子はちょっと普通とは違うと私は思ったわ。あの子、普通の地球人じゃない」
「え?」
 ケイナは目を細めた。セレスが普通の地球人じゃない? いったいどういうことだ。
「びっくりすることじゃないわ」
 ジェニファはかすかに笑った。
「ケイナ、あなただって、そうじゃないの」
 ケイナはぎょっとしてジェニファを見た。
「別に怖がらせるつもりはないのよ。あんたがここに来てクリスタルは正常を取り戻した。だから今道は開けたのよ」
 ジェニファは言ったが、ケイナは難解な謎解きを強いられているような気分になった。
「部屋に戻るよ」
 一刻も早くここから出たかった。
 ジェニファは少し残念そうな顔をしたが頷いた。
「そうね。急には大変よね。また明日にでも話すわ」
 ケイナは踵を返すと足早にジェニファの部屋を出た。