セレスはバッガスに気づかれないように細心の注意を払いながら彼の後ろにくっついていった。
 バッガスは途中何度も立ち止まり、店のショーウインドウを眺めたり知らない少女に声をかけてからかったりしていた。
 いったい彼は何をしているのだろう。
 何回か腕の時計を気にしているところを見ると誰かと待ち合わせているのかもしれなかった。
 バッガスが数件先の店先で立ち止まったので、セレスは慌てて手前の角で身をかくした。
 しばらくバッガスの様子を見ていたが、ふいに殺気めいた気配を背後に感じてセレスは反射的に身を縮め、同時に振り返った。
「へえ……」
 セレスはそこに立っていた影を見た。
「新人にして身のこなしが軽いな……」
 体中にどっと汗が吹き出した。数人の少年たちがセレスを見下ろして立っていた。
「なんでバッガスをつける?」
「別につけてなんかいない」
 セレスは口がからからに乾くのを感じた。私服だが彼らは『ライン』の生徒だ。 自分のことを新人だと知っているからだ。だが、彼らの顔には見覚えがなかった。
「何かつけなきゃならない理由でも?」
 顔中にきび跡だらけの少年が言った。
「何かって…… なんだよ……」
 セレスは身構えた。
「それはこっちが聞いてる。意味もなくバッガスのあとをつけるわけがないだろ?」
 少年は不審そうに目を細めた。
「探偵ごっこなんかやめて子供は早く家に帰んな」
 別の少年が言うやいなや、あっという間にセレスは建物の陰に引きずりこまれていた。
「離せ……!」
 抵抗したが相手は三人もいた。体の大きさがあまりにも違い過ぎる。誰かが後ろからセレスの脇に腕を差し入れ、両腕をはがいじめにした。そして、にきび面の少年が腕をセレスの首に押しつけた。
「なあ、おれたちは優しい上級生なんだぜ。だから、ちゃあんとお土産を持たせてあげるんだ」
 そして彼はセレスのみぞおちを思いきり殴った。息が詰まり、目が飛び出すのではないかと思った。
 腕をはがいじめにされながら体をくの字に折り曲げて苦しむセレスの髪をつかんで彼はセレスの顔を引き上げた。
「かわいい顔してるじゃねえか。ケイナほどじゃねえけどよ」
 にきびの少年のうしろにいた奴が言ったが、焦点がぼけてセレスには顔がよく見えなかった。
「おまえもおもちゃになるか? あいつみたいに。殴られるのと抱かれるのとどっちがいい?」
「なに……?」
 髪がざわっと逆立つ気がした。こいつらもしかして……。
『そんなはずない…… ケイナを襲った奴は除名されたってカインが……』
「バカなこと言ってんじゃねえよ。ユージーに知れたらぶっ殺されるぞ」
 にきびの少年が思わず声を潜めて言った。
「おまえら……! おまえら! ケイナを……!」
 セレスは腕をふりほどこうともがいた。
「黙ってろ!」
 セレスは顎を掴まれた。
「あいつはおれたちの仲間を半殺しの目に合わせたんだぞ。仲間がそんな目にあったらどんな気持ちか教えてやろうじゃないか」
 再びこぶしが振り上げられた。セレスは思わず目を閉じた。
 しかし、こぶしは飛んで来ない。
 目をあけると、さっきまで目の前に立っていたにきび顔がいなかった。そしてその後ろに立っていた少年もいなかった。
 何があったのかと考える間もなく、いきなり腕の枷が外れてセレスは地面に崩れた。そこでようやく彼らがだらしなく地面に転がっている姿に気づいた。
「セレス! 立て!」
 乱暴に腕を掴まれて誰かが怒鳴った。
「アシュア?」
 セレスはびっくりして腕を掴んだ相手を見た。
「あっちにヴィルを停めてる! 逃げるぞ!」
 セレスが何か言おうとするヒマも与えず、アシュアはセレスをひきずるようにしてバッガスがいる通りと平行している建物の反対側の通りに走った。
 ヴィルのそばに来てようやくアシュアはセレスの腕を放した。
 セレスはごほごほとむせんだ。殴られた胃の上がまだ重苦しかった。
 行き交う人が怪訝そうにふたりを見ていったが足を止めることはなかった。
「無茶しやがって……」
 アシュアはエンジンをかけながらつぶやいた。
「おまえが顔に痣なんか作って帰ってみろ。ケイナにぶっ殺されるぜ」
「あんた強いね、アシュア……」
 セレスは胃のあたりを押さえながら言った。
「あいつらなんであんなにあっさりのびちまったんだ?」
「『ライン』のガキを失神させるなんざ、数秒ありゃ充分だ」
 アシュアは仏頂面で言った。
「自分だって『ライン』のガキじゃんか」
 セレスはくすくす笑った。
「乗れ! このクソガキ!」
 アシュアは怒鳴った。セレスはアシュアの剣幕に笑みを引っ込め、それに従った。
ヴィルが上昇してからセレスはためらいがちに言った。
「アシュア、ごめん。ありがとう」
 アシュアはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「おまえにはあいつらを相手にするのはまだ無理だ。ケイナのそばにいたいんだったら、もっと強くなってくれなくちゃ困る」
「わかってる……」
 セレスは素直に答えた。
 本当にそうだった。腕も足も力が弱い。
 あんなふうに三人にかかられて、自分の身を守ることもできなかった。
 悔しいけれど、アシュアとカインは自分の身は自分で守れるという事実から目をそらせなかった。こんなことでケイナのそばにいても彼のあしでまといになるだけだ。
 そしてあいつらがケイナをまた襲うかもしれないということもまた事実だった。
「アシュア……」
「なんだよ」
 アシュアはぶっきらぼうに答えた。
「あいつらまだいる…… ケイナを襲った奴等、まだ『ライン』にいるんだ」
 アシュアは黙っていた。
 背中しか見えないので、彼がどんな表情をしているのかセレスには分からなかった。
「分かってるよ」
 アシュアはしばらくして答えた。
「分かってるけど、除名された奴等以外は証拠がないんだ。たぶん途中で部屋を抜けてったんだろう」
 セレスは唇を噛んだ。
「ケイナには言うなよ」
 アシュアは言った。
「あいつは全員除名になったと思ってる。それからバッガスが薬を買ってたってことも言うな」
 ほんとにケイナは知らないのかな……。あれだけ勘のいいケイナが……。
 セレスは思ったが、口には出さなかった。

「おれは今腹が減って最高に機嫌が悪いからな」
 ようやくアパートに戻ってきたアシュアとセレスの顔を見るなりケイナは言った。
「すぐに口から溢れ出るくらい食わせてやるよ」
 アシュアはそう答えると包みを持ってキッチンにそそくさと入っていった。その後ろをカインはついていき、慌ただしく動くアシュアに声をひそめて言った。
「何があったんだ?」
「おれがいたから警報は見えなかっただろ」
 アシュアは答えた。
「何があったか言え」
 小声で詰め寄るカインにアシュアは包みの中から肉や野菜を取り出して並べながら顔をしかめた。
「あの坊やがバッガスにちょっかいを出したから、取り巻き連中にとっつかまったんだよ」
 カインは呆れたように首を振った。
「それはたいしたことじゃないんだが。二年前の残派が残ってることをあいつ、知ってしまった。どうやらテレンスとクラバスだったらしい。マッドもいたな」
 やっかいなことにならなければいいが……。カインはため息をついた。
 もっと自分の能力があればこういうとき予知ができるはずなのに。分かっていれば行かせなかった。そう思うとカインは悔しかった。
 リビングではケイナがミネラルウオーターのボトルをセレスに渡していた。
「だいぶん前に出したから冷えてないぜ」
「いいよ」
 セレスは一気に飲み干した。咽はからからに乾いていた。
「アシュアは人間のいろんな部分の弱点を知っているんだ。たいしたもんだろ?」
「え?」
 ケイナがいきなり言ったので、セレスは面喰らった。
「アシュアの顔見りゃわかるよ。あいつバッガスが嫌いなんだ。バッガスの顔を見たら数時間は苦虫かみつぶしたような顔してる」
「そんな感じじゃなかったよ」
 セレスはそう言ってしまってからしまったと思った。ケイナにはめられたのだ。
「あいつらに自分から構うな。おまえにはまだ無理だ」
 ケイナはにやにや笑って言った。セレスはむくれてミネラルウオーターのボトルを床に置いた。
「アシュアにも同じことを言われた……」
 セレスは口を歪めた。
「もっと早く強くなりたい」
「半年くらいたちゃどうにかなってるさ」
 ケイナはごろんと横になって言った。
「教科講議はいいとして、ブロード教官のしごきにめげず、おれのRPにめげず、 三ヶ月後の進級査定でせめてランク五位くらいには入れば」
 ケイナは指を折りながら歌うように言った。セレスは大きな息をついて首を振った。
 そんなセレスを見て、ケイナは身を起こした。
「セレス、おれは三ヶ月後にはもうあの部屋にはいないぞ」
 その言葉にセレスははっとした。
「ルームリーダーの期限が切れる。おまえがあがってこないと接点はない」
「……」
 セレスは鋭い目で自分を見つめるケイナを凝視した。
「三ヶ月後の進級査定でランク五位以内に入れば、その二ヶ月後に飛び級試験を受けることができる。そこでハイラインに入らなければ一年待つはめになる」
「無理だ、そんなの……」
 セレスはかすれた声で言った。
「おまえの兄さんはそれをやってのけてるよ」
 ケイナは言ったがセレスは戸惑ったように目を伏せた。
 兄さんとおれは違う……。
「おまえのためでもあるんだぞ。おまえはバッガスたちに接近し過ぎた。あいつらはおまえがおれのほうについた人間だと思っているはずだ。この休暇が終わったら、おまえもアシュアやカインと同じように反目を引き受けることになる」
 セレスはキッチンのほうをちらりと見た。
 彼らは自分で自分の身を守ることができる。でも、おれは……。
 セレスはこぶしを握り締めた。
「待ってやりたいけど、おれには時間がない。『ライン』を出てしまったらおまえとは二度と会うことはなくなる」
「どういうこと……?」
 セレスは目を丸くした。
「ラインを修了したらどこかに行くの?」
 ケイナがしばらくためらって口を開こうとしたとき、キッチンからアシュアが出てきた。
「悪いニュースだ」
 アシュアは顔をしかめて言った。
「ナイフを持ってくるのを忘れた」
 ケイナとセレスはアシュアを見上げた。
「ナイフって…… 料理の? ここにはナイフがないの?」
 セレスは呆気にとられた。
「こいつは自炊なんか一切しないから鍋もナイフもないんだよ。前の時はおれんちから持ってきてた。今回はちょっと、その…… ごたごたしてたから……」
 アシュアは頭を掻いて言った。ケイナはくすくす笑い始めた。
「ファストフードを注文したよ。何もないよりましだろう」
 カインがアシュアの後ろから言った。ケイナはさらに大声で笑い始めた。
 やがて伝染したように全員が笑い始めた。
「すばらしい晩さん会だ!」
 ケイナはそばにあったクッションを放り投げた。そんなケイナを見るのは全員が初めてだった。