ふたりはアパートの下に停めたヴィルに乗り、再び中央塔のほうに向かって飛び立った。
 シティのショッピング街はケイナのアパートから三十分ほども離れていた。
「ケイナはなんであんなに中央から離れた場所にアパートを借りたの?」
 モールの駐車場にヴィルを停めるアシュアにセレスは尋ねた。
「普段いる家じゃないからな。それに『ノマド』占有だし」
 アシュアはこともなげに答えた。
「でも、『中央塔』からヴィルで一時間なんて遠すぎる……」
 セレスはつぶやいた。アシュアはセレスを見下ろした。
「中央からはできるだけ離れてるほうがいいんだよ。 あそこには『ライン』に入ってるような年齢の奴は絶対いないし、あいつらもわざわざ休暇中に一時間もかけてケイナに悪さをしには来ない。自分のことで頭が一杯だからな」
 アシュアはセレスを促して歩き始めながら言葉を続けた。
「あいつが意識して『ノマド』が多いアパートを選んだのかどうかは分からないけれど、あそこは無防備なようで実はたえず住民の目が光ってるんだ。彼らは自分の同胞に敵対しているような人間は絶対に見逃さない。何かあれば住民全部が一致団結してケイナを助けに行くだろうさ」
 セレスは人込みにごったがえす道を歩きながら黙ってアシュアの言葉を聞いていた。
「『ノマド』は人類にとってものすごい脅威だよ。ジェニファやシェルみたいに呪術や職人だけじゃない。中央で働く人間より、はるかに博識で力もある人間が大勢いる。彼らが『ノマド』ではなく反体制派に全員ついたら、今の世の中はごっそりひっくりかえっちまうだろうな」
「アシュアもいろんなことを知ってるんだね」
 セレスは感心したように言った。アシュアは笑ってセレスの頭を軽く殴った。
「も、て何だよ! ま、ほとんどカインの受け売りだけどな。あいつはいろいろ勉強するのが趣味みたいなもんだから、おれの何倍も知識を持ってるぜ」
「ふうん……」
 セレスはカインの理知的な目を思い出して納得した。
 ふたりは『コリュボス』で一番大きなモールに入るとまっすぐに食品の売り場に向かった。セレスにとっては足を踏み入れたことのない場所だ。野菜や肉類の臭いが混ざりあい、フロアは人込みで溢れかえっている。
 すべて家にいても画面を見ながらキイボードを叩くだけで配達をしてもらえるのに、どうしてみんなわざわざこんなところに出向くんだろう、とセレスは不思議でならなかった。
「人間てのは自分の手で買いに行って、モノを手に入れたいって欲求がいつの時代でもあるもんなのさ」
 セレスの心の内を察して、にやりと笑いながらアシュアが言った。
 それにしてもアシュアの買うものは種類が多い。肉やミルクの箱くらいは分かっても、なかにはセレスが見たこともないような野菜までカートの中に収まっていた。
「いったい何をつくるつもり」
 セレスは青いふさのような葉のついた野菜を持ち上げて呆れたように言った。
「旧時代風煮込み料理とでも言っておくよ」
 アシュアはにいっと笑った。
「何日食べ続けても飽きない。なおかつ栄養価が高い、そして太らない」
 セレスは肩をすくめた。アシュアにこんな特技があるとは想像もできなかった。
 そういえば人なつっこい話し方をするので全然気にしていなかったが、アシュアとは言葉を交わしたのは病院にいたときが初めてだ。
 まるでずっと前から一緒にいたような錯角に陥っていた。
 アシュアは不思議な人だ。話していると全然人に警戒心を持たせない。
 『ライン』で遠目に見ていたときは愛想の良さそうな感じはあったが、やはり近づきがたかった。
 今はそれが嘘のようだ。

 ふたりは紙包みふたつぶんの食料を買い込んでモールを出た。
 ヴィルを停めた場所まで歩きながら、セレスは通り過ぎようとした横道の奥にふと目を向け、そこに見覚えのある姿を見つけて思わず立ち止まった。
「どうした」
 アシュアが振り向いた。セレスはアシュアに合図して建物の陰に身を隠した。
 横道は狭い路地になっていて、表通りとはまるで雰囲気の違う建物の薄汚れた壁と散らかったゴミの山が見えた。
「あれ、バッガス・ダンだ」
 セレスは言った。アシュアはセレスの視線の先を目で追い、特徴あるスキンヘッドを見て間違いなく彼だと確信した。
「あんなところで何をしてるんだろう」
 セレスはつぶやいた。
 バッガスはすすけた建物の壁に身を寄せるようにして立っていた。彼の近くにはバッガスより頭ふたつぶんは背の低い小男が立っている。深々と黒い帽子をかぶり、くるぶしまで届くような真っ黒なコートを着ている。
「薬かな……」
「薬?」
 アシュアの声にセレスは思わず彼の顔をみあげた。
「違法薬の密買人だ。どこのやつかはここからじゃわからないな」
 アシュアは鋭い目をして言った。
「バッガスが薬を? あの中に薬が入ってる?」
「たぶんそうだろう」
「空港で暴れた男もあの薬を飲んでたのかな」
「それは分からない」
 アシュアは首を振った。
「違法薬にはいろいろランクがあるんだ。単に地球では認可されてないだけのハーブタイプから、毒性の強い化学薬まで何十種類もあるんだよ。バッガスが何を買ったのかはあの包みの中を直に確かめてみなきゃわかりっこない」
「でも、違法は違法だ。ラインの教官に知られると除名じゃないか」
 アシュアはセレスの顔を見た。
「おいおい何を考えてる? あいつを今からふんじばっておまえの兄貴んとこへでも突き出そうと思ってるのか? 中身が薬でなかったらどうするんだ?」
「あれがユージーに繋がっていないとも限らない」
 その言葉にアシュアの顔が険しくなった。
「だとしてもおまえは余計な手出しをするな。おまえが立ち向かっていける相手じゃない。このことはケイナにも言っちゃだめだ」
「でも……」
 セレスが不満そうに口を開きかけた時、バッガスが男と別れてこちらに歩いてきたので、ふたりは慌てて近くの店に飛び込んだ。バッガスは大通りへ出るとふたりのいる方向とは反対側に歩き始めた。
「アシュア、ほうっておくの? あんたはバッガスが嫌いなんじゃないの。あいつのしっぽを捕まえるのにいい機会じゃないか」
「確かにおれはあいつが嫌いだが、おれは個人的理由でバッガスに喧嘩を売ってるわけじゃない」
「じゃあ、何」
 引き下がらないセレスにアシュアは顔をしかめた。『ライン』の中でアシュアがバッガスに敵対するのは、バッガスの目をできるだけケイナからそらせるためだ。彼のケイナに対する嫌がらせが一番執拗だった。だから『ライン』を離れてしまえばバッガスが何をしようが関係ない。でも、それはセレスには分かるはずもなかった。
「アシュア!」
 どんどん行ってしまうバッガスを見て、セレスがイライラして言った。このままでは見失ってしまう。
「ほっとけ!」
 アシュアは周りを気にしながら小声で怒鳴った。
「今あいつを追っかけることになんか意味はない!」
「あんたがそんな腰抜けだなんて思わなかったよ!」
 セレスはそう吐きすてると、持っていた紙袋をアシュアに乱暴に押し付けた。
「おい……!」
 アシュアはいきなり押し付けられた紙袋を危うく落としそうになりながら歯を剥き出した。
「おれ、行くからな!」
 セレスはアシュアを最後に睨みつけると、店から飛び出した。
「セレス! 待て!」
 アシュアは怒鳴ったが、セレスはすでにバッガスのあとを追って走り出していた。
「くそったれ……!」
 アシュアは紙袋を握りしめた。中身が跳ね飛んで床に落ちた。

 カインは読んでいた本を置いて座り込んでいた床から立ち上がった。
 ケイナも1時間前まではクッションを枕にして寝転がって本を読んでいたが、今はその本を顔の上に被せて心地良さそうな寝息をたてている。
「遅いな……」
 窓辺に寄って外を確かめるとカインはつぶやいた。
 アシュアとセレスが出ていってからすでに2時間以上過ぎている。たかが食料の買い出しに行くにしては時間がかかり過ぎていた。だが、彼の目には警報めいたものは何も見えていなかった。
「子供じゃないんだから大丈夫だよ」
 カインのつぶやきを聞いたのか、背後で眠っていたケイナが起き上がって言った。。
 ケイナは本を脇にどかせると大きなあくびをした。
「あれだけ病院で寝てばかりいたのに、まだ眠い……」
 ケイナは長い足を折って膝に額を押しつけた。
「体力が少し落ちてるんだよ。あいつらが帰ってくるまでベッドで寝てるといい」
 カインは再び腰を下し、本に目を落としながら言った。しかしケイナは首を振った。
「寝るより食うほうが先だ……。 このまんまじゃ餓死しちまう。あの野郎デカイ口たたいてほんとにメシ作る気あるんかな……」
「もう少し待って戻って来なかったら何か買いに行こう」
 カインは苦笑した。
 ケイナは髪をかきあげて伸びをするとミネラルウオーターを取りにキッチンに行った。
「おまえのボスは今回のことをなんと言ってた?」
 戻ってきてボトルに口をつけて水をひとくち飲んでからケイナはカインに言った。カインは目をあげた。
 ケイナはカインに目を向けずに床に座り込んで片膝をたてるとその上に顎を乗せた。
「セレスのことを報告しなきゃならなかった。すまない、ケイナ」
 カインは目を伏せて答えた。ケイナは何も言わなかった。
「セレスの報告書をボスに提出してきた。そのリアクションは聞きたくなかったから、こっちにすぐ逃げ帰ってきた」
 それを聞いてケイナはくすくす笑った。カインも笑った。
「あいつのことは言わないでいてくれって言っておきながら、自分からそうしなきゃならないようにしてしまった……」
 ケイナはぼんやりと片手に持ったミネラルウオーターを眺めながら言った。
「おかげでこっちは仕事が増えた。これからは彼の報告書も定期的に作らなければいけない」
 カインは肩をすくめた。そして付け加えた。
「改ざんつきでね」
 ケイナはボトルの口を持って窓のほうに向かってそれをかかげ、光を透明なボトルに透かして眺めた。カインは子供じみた彼の行動を黙って見つめた。
「研究所がおれに抑制装置をつけに来ないで病院での治療経過だけを求めたから、セレスのことが研究対象に組み込まれたことは分かってた」
 ケイナはちらちらと七色に変わる光を見ながら言った。カインは本を閉じた。
「だけどあいつには指一本触れさせないからな」
 カインはふいに目の前を不穏な霧が漂うのを感じた。ケイナの姿が捕らえにくくなった。
「きみがはむかえる相手じゃないよ。ぼくらはできる限りのことをするし、彼を守る。 ……だけど、正直言ってせいぜい彼に関する情報を希薄にする程度なんだ。そのうちあっちが本格的に動き始めたらもう手出しはできない」
 カインは不安を感じながら言った。霧の向こうに血なまぐさい臭いがする。
 それがどうか未熟な能力のせいであって欲しいと願った。
 ケイナはとん! と音をたてて瓶を床に置いた。音とともにカインの目の前の霧が晴れた。
「おまえはいったい何の組織の人間なんだ? カイン・リィ。アシュアもおまえもいったい何に所属してるんだ?」
 カインは膝に顎を乗せたまま自分を見つめるケイナを見た。光の落ちた彼の姿はぞっとするほど美しく妖艶にさえ思えた。カインは思わず彼から目をそらせた。忌まわしい事件の記憶が頭をよぎる。
 こんな容姿を持ち合わせたことはケイナの責任ではない。
 しかし、もっと違う形に生まれていれば彼の人生は変わったかもしれないし、今自分と彼がたったふたりきりでいることの危うさを感じて自己嫌悪に陥ることもあるまいに、と思った。
「ぼくらのことは何も話せない」
 カインは膝の上の本の表紙を指でなぞりながら答えた。
 物理学の難解な学術書だ。こんな本を読んでどうなるものでもないのに、ヒマさえあれば手当たり次第にライブラリから本を借り漁っている自分が滑稽だった。
「きみにぼくらがガードしていることを悟られてしまっただけでも懲罰ものなんだ。ましてや組織のことまで知られたらどうなるか」
 カインはそう言ってケイナを見た。
「それに、半分分かっていてぼくに直接口を割らせようとするなんて、きみはタチが悪過ぎるな」
 ケイナはくくっと笑った。
「中央がらみだってことぐらいしかわからねえよ」
「だったらそこまでにしておけよ」
 カインは言った。
「ぼくらも本当のことはよく知らないんだ」
 そしてカインはメガネを取って床に置いた。
「きみが18歳で拘束されなきゃならないことも知らせてもらっていなかった。ぼくらはただ、きみが無事に『ライン』で過ごせるように護衛するだけの任務なんだ」
「(その日)が来たら、お別れってことか……」
 ケイナはつぶやいた。カインは口をつぐんだ。
 そのことは考えたくなかった。
 次の瞬間、いきなり至近距離に気配を感じてカインはぎょっとして目をあげた。
 ケイナが自分の顔を覗き込んでいた。
「おまえは味方か? 敵か? おれがおまえのボスに相反したら、おまえはおれを撃つか? 殺すか?」
「ケイナ……」
 カインは面喰らった。ケイナの目は自分を見つめているのに、全く焦点が合っていない。
 いつもそうだ。まるで相手の頭の中を見つめているような目だ。
 カインはこの目が怖かった。予知する自分の目よりもはるかに先を見据える目のようで身震いがするのだ。
 そしてこの目をする人間がもうひとりいる。
 セレスだ。
「ぼくは……」
 カインは喉元を締め付けられるような感覚を憶えながら言った。
「ボスを裏切るより、きみを敵に回すほうが怖い」
 ケイナはそれを聞くと、ついと顔をそらせてカインの横に座った。
「よかった」
 ケイナは言った。
「おれもおまえと敵対したくない」
 カインは何事もなかったかのような顔でミネラルウオーターを飲むケイナを見てほっと息を吐いた。このまま真正面から見ていられたら卒倒してしまいそうだ。
「あいつにだけはカンパニーには手を出して欲しくないんだ」
 ケイナはつぶやいた。
「おれと出会ったために、あいつまで巻き込むのは厭だ」
 カインは心の隅で小さな火がくすぶるのを感じていた。ケイナがセレスのことを気にするといつもその火を意識する。
「きみは……」
 カインは床に置いたメガネを見つめて言った。
「きみは自分のことは諦めたと言うのに、セレスのことは諦められないんだな」
 ケイナは何も言わなかった。
「巻き込むのが厭なら、どうして彼を遠ざけない?」
 カインは言い募る自分に不快感を覚えていた。
 ケイナはやはり答えなかった。