翌日ケイナは目が醒めた時、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。
意識がはっきりしてくると信じられないくらい体が軽くなっていることに気づいた。
「ああ、そうか……」
食事をしたんだ……。
ハルドとしばらく話をして、そして眠った。昨日からいったい何時間寝たんだか。
ケイナは苦笑した。体が軽くなるはずだ。
彼はベッドを抜け出すとそっとドアを開けた。リビングに行くとハルドがひとりでコーヒーを飲んでいた。
「おはよう。よく眠れたかい」
ケイナの姿に気づいてハルドは言った。ケイナはうなずいた。
ハルドは笑みを浮かべるとコーヒーを新しいカップに入れてケイナにおしやった。ハルドもセレスもコーヒーが大好きらしい。
壁のモニターに映っていたニュース画像の時刻を見ると、まだ六時過ぎだった。
それでも『ライン』での生活を考えるとかなりの寝坊だ。
ソファに目を向けると寝ていたはずのセレスの姿がなかった。
「セレスは……?」
「まだ寝てるよ」
決まってるじゃないか、というようにハルドは笑った。
「ぼくが五時の報告を受けるために起きた時にはソファから落ちて床に寝ていたから、あっちの寝室に運んでいった。たぶんあと二、三時間は寝るだろうな」
ケイナはくすりと笑ってコーヒーを飲んだ。熱かったがおいしいと思った。そう思う自分に気づいて少し驚いた。
嬉しい、楽しい、おいしい、まずい、好き、嫌い…… そういうことをしみじみと感じたことなど、もうずいぶん長い間なかったような気がする。
「ハラが減ったらキッチンで好きなものをプログラムして食べていいから。セルフサービスだ」
ハルドの言葉にケイナは再びうなずいた。
ハルドは昔会ったと言ったが、ケイナにとってハルド・クレイは初対面も同然だった。それなのに、目の前に座っている彼には少しも警戒する気持ちにならない。
初めて会って話をする人間にこんなに気負わずにいた記憶はなかった。
今でこそそばにいることが普通になっているカインとアシュアだって、最初はうっとうしいと思ったものだ。
もっとも、彼らは出会ったときから何か思惑があったからというのもあったが。
ほかの人間と目の前のこの人とは何が違うんだろう……。
「もう起きてたの?」
声がしたので振り向くと、セレスが眠そうな顔で立っていた。
「そりゃこっちのセリフだ。えらく早く起きたな」
ハルドが言った。
「兄さんのベッド硬くて……」
セレスはそう言ってケイナのそばの椅子に座り、テーブルの上のポットを持ち上げてカップにコーヒーを注いだ。
緑色の髪が四方八方に突っ立っている。よほどひどい寝相だったのだろう。
「クソ重いおまえを抱えてあっちまで運んで行ったんだぞ。ありがたいと思え」
ハルドはコーヒーを飲んでセレスを睨んだ。セレスはカップを口につけて「あっちっちっち……」と顔をしかめた。
ケイナはただ黙ってふたりのやりとりを聞いていた。
義理の兄であるユージーと、顔も合わさず話をしなくなって何年になるだろう。
ユージーとの生活は『ジュニア・スクール』時代から全く別になっていた。
義父がほとんど家にいないので、食事も別々に自分の部屋でとっていたのだ。
『ジュニア・スクール』のときからいつもぴりぴりと神経を尖らせて生活していた。
階段を前にすれば突き飛ばされて転げ落ちることを考えた。屋外授業は足を挫く心配をした。
カバンの中に入った刃物で手を切らない注意をした。そう、カバンはいくつ替えただろう。
テキストとともに何度も何度も切り刻まれた。そのたびに新しいものを買わなければならなかった。
『ライン』ではもっとすさんだ生活だった。
殴られたり故意に怪我をさせられたことなんか数えきれない。眠っているあいだでさえ人の足音にびくびくした。
結局、2年前のあのときが一番最悪のできごとだったけれど。
顔も見ない、声もかわさないのに、みんな兄が自分を憎んでいると言う。
18歳になればおれなんかいなくなるのに、どうして?
「叔母さんが今日、明日あたりで一度連絡しろって言ってたぞ」
ハルドがセレスに言った。ハルドの声にケイナははっと現実にかえった顔をした。
「四ヶ月間一度も連絡がないって嘆いていた。体を壊してるんじゃないかとやきもきしてる。ぼくの時にはそんな心配しなかったくせにって言うと笑ってたけど」
「連絡なんかするゆとりなかったよ」
セレスは仏頂面で言った。
「そう言っといた」
ハルドは笑って答えるとモニターに目を移してニュースに耳を傾けた。
「ゆうべはよく眠れた?」
セレスはケイナに目を向けた。ケイナはうなずいた。
「自分がいつ寝入ったのか、どんな夢を見たのか覚えてないよ」
「良かった。顔色が昨日よりもずっといいよ」
ケイナは黙ってコーヒーを飲んだ。
セレスはケイナの表情がいつもよりずっと落ち着いているので安心した。自分の家にいてくつろいでくれていることが嬉しかった。
「朝メシを早く食ってシャワーを浴びてしまえよ。エアポートに連れて行ってやるから」
ハルドがふたりに言った。
「ほんと?」
ハルドの言葉にセレスが嬉しそうな顔をした。
「エアポートの管制室の見学と三人乗りの小型機を予約しておいた。ぼくが一緒にいなくちゃ許可のおりないツアーだよ。感謝しろよ」
ハルドは得意そうに言ったが、セレスはすでにそれを聞いていなかった。そそくさと立ち上がると朝食の用意をしにダイニングに行ってしまったのだ。
「ケイナ、食べた? おれと同じのでいいー?」
うん、と答える前にハルドの視線に気づいた。
「悪いね。つきあってもらうよ」
ハルドはケイナに言った。ケイナは小さく笑った。
ここにいると何でも素直に受け入れられそうな気がした。幼い頃『ノマド』たちの中にいた時をふと思い出した。
エアポートに向かう間、セレスは小さな子供のように目を輝かせていた。
エアポート関連の施設はケイナ自身も入るのは初めてだ。
幾重にもチェックがあって、よほどのことがなければ足を踏み入れることなどできっこない。
しかし豪語したものの本当は秘書のリーフの協力がなければ実現しなかったということをハルドは内緒にしていた。
リーフはどういう手段を使ったのかは分からないが、カート司令官の許可証を入手したのだ。
もっとも、リーフとて司令官の息子が見学に行くなどとは今でも思っていないはずだ。
エアポートのロビーにつくと、リーフは満面の笑みを浮かべて三人を出迎えた。
「久しぶりだね、セレス。大きくなったなあ」
リーフは嬉しそうにセレスと握手をした。
リーフとはハルドと通信するときに何度か顔を合わせている。セレスはこの誠実そうな青年が兄のそばにいてくれることにどれほど安心感を持ったかしれない。
「初めまして。ケイナ」
リーフは笑みを浮かべてケイナにも握手を求めた。
自己紹介されなくてもリーフがケイナのことを知らないはずはなかった。
だが、いきなり来た彼を見ても慌てたような素振りは見せないのが彼のいいところだ。
「今日はご一緒に?」
リーフの言葉にハルドは肩をすくめた。
「悪いね」
リーフは笑った。
「ええ、でもその前に休暇中申し訳ないんですが呼び出しがかかってます。30分ほど仕事してもらえませんか」
リーフの言葉にハルドはため息をついた。しかたなくセレスを振り向いた。
「そのへんんで待っていてくれるか?」
「いいよ、兄さん」
セレスはうなずいた。それを見てリーフはそそくさとハルドの腕をひっぱり、足早にふたりから離れた。
「入室許可証、適当に通しますから手伝ってください」
リーフは咎めるような声でハルドに言った。
「なんでアパートから連絡してくれなかったんです? カート司令官の息子さんが同行するって」
「どこから連絡したってどうせやることは同じだろ」
ハルドは笑って答えた。
「司令官の息子ですよ。何かあったらどうするつもりです?」
「何もあるわけないだろう。警備室で事件が起こったらそっちのほうが問題だ。それに彼は今はセレスの友人だよ」
リーフは口をつぐんで少し考えたのち再び口を開いた。
「適当にするのは撤回します。カート司令官に連絡とりますから。30分以上はかかると思いますよ」
「うん。頼むよ」
「頼むじゃないでしょ。あなたが直接連絡するんですよ!」
「あ、そうか。そうだな、そのほうが早いし確実か」
リーフは呆れ返ってハルドを見た。この人は時々こういう間の抜けたことをする。
先に立って歩くハルドを見ながらリーフは首を降った。
まあ、だから出世するのかもしれないけれど……。
ハルドとリーフが歩いていくのを見送って、セレスは周囲を見回した。
ちょうど船の離発着があるのかロビーはたくさんの人でごったがえしていた。
ふたりは大きな柱にもたれてぼんやりと行き交う人波を眺めていたが、セレスはふと通って行く人の目がやたらと自分たちに向けられていることに気づいた。
ケイナの容貌が目立ち過ぎるのだ。
そっとケイナの顔を盗み見ると、彼はまるで頓着せずあくびをかみ殺していた。
「食事はおいくら?」
いきなり背後で声がして、ふたりはびっくりして振り向いた。髪を高く結った年配の裕福そうな女性がふたりを見上げていた。
「食事だけでいいのよ。おいくらかしら」
再び女性が言った。セレスの顔にかっと血が昇った。
「あっち行けよ、くそばばあ」
セレスは言った。女性は目をぱちくりとさせた。
「あっち行けってんだよ! こんな朝っぱらから寝ぼけてんじゃねえっ!」
セレスは怒鳴った。周囲にいた人々がびっくりして立ち止まった。
女性はなにがなんだか訳が分からないといった表情で立ち尽くしていたが、やがてぶつぶつと文句を言いながら行ってしまった。
「失礼ね。まぎらわしくピアスなんかしてるんじゃないわよ」
女性がつぶやくのが聞こえた。
「失礼なのはそっちだろ!」
セレスは歯を剥き出して怒鳴った。
「ケイナ、なんでいつもみたいに怒鳴ってやらないんだよ」
セレスは鼻息を荒くして、黙ったままのケイナに言った。
「あんなのしょっちゅうだよ。片耳のピアスは一部ではサインらしい」
こともなげに答えるケイナにセレスははっとした。
「もしかして…… 外には出たくなかった?」
ケイナはそれを聞いて笑みを浮かべた。
「だからしょっちゅうだって言ってるだろ。気にしてない」
「おれ、なんか飲むもん買って来る」
セレスはふいに顔を背けるとケイナの返事を待たずに駆け出した。
ケイナは黙ってその後ろ姿を見送った。
おれと一緒にいると、こういう厭なことをいっぱい知るようになるんだろうな。
うっとうしい赤い色の抑制装置。目立つ容姿。普通にやってるつもりでも人目を惹いてしまう行動。
うっとうしい。本当に不快だ。全部なくなってしまえばいいのに。
ふと足元に気配を感じてケイナは顔を向けた。
「お兄ちゃん……」
五、六歳くらいの少女が困ったような顔で見上げていた。
「これ、とって……」
長い栗色の髪が小さなショルダーバックの金具にからみついている。からまったほうに頭を傾けて泣き出しそうな顔をしていた。
「バックを外そうとしたらひっかかったの。どんどん取れなくなるの」
ケイナは身をかがめた。金具と金具のつなぎ目に髪がからまっている。少女の髪をひっぱらないように気をつけながらケイナは髪を外してやった。
「ありがとう」
少女は嬉しそうに笑った。そしてケイナの顔をまじまじと見つめた。
「お兄ちゃんはわたしの持ってるお人形さんみたい」
ケイナは少し笑みを浮かべた。どうリアクションすればいいのか分からなかった。
「アミイはとっても可愛いのよ。いっぱい洋服も持ってるのよ。ママのバックに入ってるの。わたしお土産を買ってもらったのよ。アミイのイブニングドレスよ。ここに小さなお花がいっぱいついてるの」
少女は自分の胸元をさしながら言った。
「うん……」
ケイナは戸惑いながら少女を見つめた。
「アミイはね、お兄ちゃんみたいに青い目と金色の髪なの。わたしも本当は金色の髪だったらいいなって思うの。でも、パパとママもわたしとおんなじ髪なの。だから金色にはなれないって。おとなになったら染めてもいいってママは言ったの」
「ねえ……」
ケイナは周囲を気にしながら言った。
「もうママのところに行ったほうがいいんじゃないの」
「ママいないの」
少女はあっけらかんと答えた。
「え?」
ケイナは呆然とした。
「ママがね、まいごになったら、まいごセンターに行きなさいって言ったの。お兄ちゃんまいごセンターってどこ?」
困惑してあたりを見回したが、普段縁のないそんな場所は知らなかった。
「まいごセンターが分からなかったらね、ジッとしてなさいって言われてるの。だからお兄ちゃん一緒にいてね」
ケイナはおかしくなって笑い出した。柱の下に腰をおろすと少女もその隣にちょこんと座った。
「おれと一緒にいるとママはすぐに君を見つけると思うよ」
ケイナは言った。少女は不思議そうな顔をしたが、ケイナはその顔を見て笑っただけだった。
しばらくして戻ってきたセレスは ケイナが立っているはずの場所に小さな女の子がいるのでびっくりした。
もっとびっくりしたのはケイナがその子と楽しそうに笑いあっていることだった。
ほどなくして、ひとりの女性がふたりに近づいてきた。女性を見るなり少女は抱きついていった。きっと女の子の母親なのだろう。女性はケイナに何度もお礼を言っているようだった。
少女は別れ際にケイナに顔をこちらに寄せるように手招きした。ケイナが顔を寄せると少女はその頬にキスをした。
びっくりしているケイナをあとにふたりは去って行った。
「女の子にモテるね」
セレスはにやにや笑いながらケイナに近づいて冷やかした。ケイナはじろりとセレスを睨んだ。
「酸っぱいベリージュースしかなかった。これでもいい?」
セレスは買ってきた飲み物をケイナに渡した。カップを受け取るとき、ケイナはふと目の端に映ったものに気づいて顔をあげた。
「どうしたの?」
セレスは怪訝な顔をしてケイナを見た。
「いや…… なんでもない」
黒いものが視界の隅に入ったような気がした。
それが少し気になったが、何も見当たらなかった。
ハルドとリーフが戻って来たのはそれから20分後だった。
フロアを横切って部外者が立ち入り禁止になっているエレベーターに入り、4人は二十階まであがった。
「ぼくはここで失礼します。ゆっくり見学していってください」
リーフは笑みを浮かべ、分厚い扉の向こうにセレスとケイナを促した。
「父はなんて?」
ケイナはリーフの横をすり抜けるとき彼に尋ねた。リーフは肩をすくめた。
「めずらしいこともあるもんだ、と」
ケイナは少しほっと息を吐いた。
「大丈夫ですよ。司令官はむしろあなたが外に出てくれたことを喜んでおられるようでした。クレイ指揮官に一任しておられます」
ケイナはうなずいて先に部屋に入っていったふたりのあとを追った。リーフは黙ってその後ろ姿を見送った。
広い部屋の中にエアポートの様子を映すモニターが無数に並んでいる。
目の前の壁には大きなスクリーンがあって、ちかちかと無数の点が点滅していた。
「エアポートに出入りする人間はすべてここで掌握されるんだよ」
ハルドは言った。セレスはこぼれ落ちそうな目をさらに大きく見開いて 呆然と部屋の中を見回していた。
「半分はエアポート指令室、半分は軍の警備管轄だ。ここで異状が発見されたら、すぐに十階の警備本部に伝わるようになってる」
ハルドはふたりを機械の間を縫うように案内し、ひとつひとつのデータの説明をしていった。
「『ライン』のコンピューター室なんか比べ物にならないや……」
セレスはつぶやいた。
「当たり前だよ。ここはエアポートの第二の頭脳だぞ」
ハルドは苦笑いした。
「あそこのモニターはエアポート内のすべての様子が映像とデータで把握されるようになってる」
ハルドが指差したのでケイナとセレスは指さされた方向に顔を向けた。壁面一面にモニターが並んでいる。モニターに映るひとりひとりに数字がまとわりついたり消えたりしているのはきっと違法な武器や所持品がないかどうかをチェックしているのだろう。
ケイナは何か厭な予感がしていた。ここに入ったときから妙に神経がざわつく。
「こっちに来てみるといい。もう少し詳しくデータが見られるから」
ハルドが言ったので、ふたりはモニターに背を向けた。そのとき、ケイナは自分の目の端に映ったものにひっかかった。彼は再びモニターに顔を向けた。
いったいどのモニターにひっかかったんだろう……。
「どうした?」
ハルドがケイナの表情に気づいて近づいた。
「なにか見えた……」
ケイナはつぶやいた。
「見えた?」
ハルドは目を細めた。近くのオペレーターに目を向けると、オペレーターは異状はないというように首を振ってみせた。
(どのモニターだ……)
ケイナは焦りを感じた。
異様な警戒の思いに囚われた。なぜ、こんな気持ちになるのだろう。
「どうしたの、ケイナ」
セレスがケイナの顔を見た。
「何かが見えたんだ……」
ケイナはつぶやいた。セレスはケイナの視線の先を追ったが、彼が何を探しているのか分からなかった。
「あれだ」
ケイナはようやく探し出した。ハルドもセレスも急いでケイナの視線を追う。
「どこのモニターだ」
ハルドが言った。
「左から二番目、上から六番目のやつ。B08」
ケイナは答えたモニターの中央にはひとりの中年の男が周囲の群集とともに映っていた。長い黒っぽいコートを着ている。
「拡大します」
オペレーターはすばやくキイをたたいた。画面が前面にクローズアップされる。
「気のせいだろう…… アラートが出ていない」
「コンピューターでとらえられないものもある」
ケイナは険しい口調で言った。
「あの男の視線はおかしい」
「マード・クレーターです」
ケイナの言葉にオペレーターが答えた。該当者の身分証明が別の画面に拡大される。
「地球籍ウエストBA110、エンジニア。前科歴なし。病歴なし。金属探知異状なし…… 一瞬微弱な電流を感知…… 恐らく身につけたベルトかアクセサリーかと思われます」
「ケイナ、ここで察知できる危険は99%だ。残りの1%の確率も人工知能が常に情報をアップデートしている。潜り抜けるのは無理だよ」
しかしハルドの言葉にもケイナは譲らなかった。
「あのコートだ。あのコートはシールドだ。あいつは懐に銃を持ってる。違法改造した銃だ」
「なぜコートの下の銃がわかるんだ」
ハルドは目を細めた。にわかに信じられなかった。
最先端のコンピューターが感知できないものを、どうして生身の人間のケイナが画面を見ただけで見抜けるというんだ。
セレスは身体中の皮膚がぴりぴりとしてくるのを感じた。まるでケイナの緊張が伝染したようだ。
ケイナの顔が急に青ざめた。コートの男の行く先に、さっき言葉を交わした少女の姿が見えたのだ。
彼は身を翻すとドアに突進した。
「ケイナ……!」
セレスはあわてて彼のあとを追った。
「ナンバー3、362ブロックに出動指令を出せ!」
ハルドはオペレーターに怒鳴った。
「さっきの彼の言葉を指令根拠にするんですか?」
オペレーターが困惑した表情でハルドを見た。
「いいからやれ!」
ハルドは一喝すると、ふたりのあとを追った。途中でリーフに会うと、リーフは分かっているというように手をあげてみせた。 飲み込みの早いリーフの存在は有り難かった。
ケイナの顔にはただならぬ気配があった。どうしてだか分からないが、彼はコンピューターが捕らえられない危険を察知したのだ。単に思い過ごしならそれでもいい。そうであって欲しいと願った。
ケイナはエレベーターに身を滑り込ませ、追ってきたセレスが乗り込む前にドアを閉めていた。自分が何の武器も持ち合わせていないことにはまだ気づかなかった。
そしてエレベーターのドアが開き切る前に外に飛び出した。
モニターで見た場所がどこなのか見当もつかなかったが、自分の直感が信じる方向に向かって走り始めた。
そしてその男を見つけた。男はゆっくりとコートの下から黒い銃を抜き出すところだった。
銃身がびっくりするくらい長く大きい。
「伏せろ!」
ケイナが大声で叫ぶのと、銃が爆音を立てたのとが同時だった。悲鳴とともに、群集がパニックに陥った。
「動かないで伏せろ!」
ケイナは叫んだが、喧騒にかき消された。
あいつは逃げまどう人間を標的にする。人が恐怖に陥るのを見て快感を感じている。
ケイナは自分にぶつかって逃げまどう群集の中で言い様のない憤りを感じた。
「ママ!」
視線の先に泣き叫ぶあの少女の姿があった。ケイナは彼女に突進した。
彼女と男とは十数メートルしか離れていない。格好の標的だった。
「撃つな!」
ケイナは男の銃口が彼女を狙うのを見て声を限りに怒鳴った。
「撃つな!」
「お兄ちゃん!」
少女をかき抱こうとした時、ケイナは銃が爆音をあげるのを聞いた。
「ミリ!」
女性の金切り声が響いた。
ケイナは少女の体を必死の思いで抱き締め、うずくまった自分の右の耳もとを風が通り過ぎたような気がした。
しばらくあたりは静寂に包まれていた。
ケイナはゆっくりと顔をあげた。男の歓喜に満ちた顔がわずか数メートル先に見えた。
「お兄ちゃん……」
腕の中で少女が怯えた声を出した。
「よく聞いて」
ケイナは男を油断なく見つめながら言った。
「合図したらママのところに走るんだ。ママがどこにいるか分かる?」
「うん…… 柱のところにいる」
「まっすぐに走れ。何があっても立ち止まるなよ」
「怖い……」
ケイナは男を睨みつけながら立ち上がった。
「そんな怖い顔をするな。もっと泣いてくれなければ困る」
男は言った。落ち窪んだ目はどろんと濁り、無精髭の奥の口が歪んでいる。
「行け!」
ケイナは叫んだ。少女はまっしぐらに走り始めた。
男の銃が少女を狙おうとする前にケイナは男に飛びかかっていた。爆音が響いたが、ケイナは銃口を力づくで天井に向けていた。
ハルドはようやく現場に駆け付けると、すばやく先に配置していた警備兵たちに群集を安全な場所に誘導するように指示をした。そしてケイナに走り寄ろうとするセレスの腕を慌てて掴んだ。
「何をする気だ!」
「ケイナが……!」
セレスは喚いた。ケイナの右耳のあたりからおびただしい量の真っ赤な血が流れている。
「おまえに何ができる!」
ハルドは弟の腕を掴みながらひとりの兵士から銃を受け取った。ほかの兵士たちに合図を送るのと、男がケイナを力まかせに撥ね除け、床に転がったケイナの眉間にぴったりと銃口を押しつけるのが同じだった。
「ケイナ!」
セレスは悲痛な声をあげた。
「邪魔をしやがって…… 泣いて命乞いをしろ。泣き喚け」
男は低い声でケイナに言った。ケイナは無言で男の顔を睨み返した。
「薬をやってるな……」
ハルドは男のどす黒い顔を見てつぶやいた。
「薬?」
セレスはびっくりして兄を見上げたが、ハルドはそれには答えなかった。
「銃を捨てろ!」
ハルドは男に向かって怒鳴った。しかし男はにやりと笑っただけで相変わらずケイナに狙いをつけている。
周囲が銃を構えた兵士に取り囲まれているのを何とも思っていないようだ。
「撃てるもんなら撃ってみろ」
男はケイナに銃口をつきつけたまま、身をかがめてその肩を抱き寄せるようにして首に腕を回し、無理やり立ち上がるとそのままぐるぐると動き始めた。
「なんで撃たないのさ!」
セレスはいらだたしそうに兄に怒鳴った。
「すぐに狙撃班が来る。それまで待つんだ!」
ハルドは言った。
「きれいな顔をしたお兄ちゃんじゃねえか」
男は饐えた匂いのする息を吐きながらケイナに言った。
ケイナを片腕で締め付けながらぐるぐると動き回る。
「じっとしやがれ、この野郎……」
セレスは兄が呟くのを聞いた。
次の光景は誰も予想していなかったものだった。
ケイナは目の前のある男の左手に思い切り噛みつくと同時に片足を引き、男の右手にある銃口を掴んであっという間に背負い投げのようにあっという間に男を投げ飛ばした。
掴んだ銃口からまるで細いバトンのように銃が軽々とケイナの左手に移り、床にたたきつけられた男が呻き声をあげるのと、ケイナがその額にぴたりと銃口をつきつけるのが同時だった。
「下衆野郎……!」
ケイナは床に血を吐き出した。床に血と共に小さな肉片が落ちる。
ケイナは男の手の皮膚を噛みちぎっていた。
『なんだ…… あの動きは』
ハルドは茫然としていた。こんな動きができる人間は見たことがない。ましてや訓練生の身で。
警備兵たちが男を捕獲するために走り出そうとした。 しかしそれに向かって叫ぶケイナの声が響いた。
「来るな! この下衆野郎はおれが殺す! 近づくとおまえらも撃つ!」
「ばかな……!」
ハルドはかすれた声でうめき、セレスが再び走り出そうとしたので慌ててその腕を掴んだ。
「ケイナ! ダメだ……!」
セレスは叫んだがケイナは聞こえていないかのように反応しない。
「泣いて命乞いをしろと言ったよな。そのまま返してやるよ」
薄く笑みさえ浮かべていた。
「ケイナは左手で銃を持ってる…… もう、自分の意識で動いてないんだ」
ハルドは訴えるように言うセレスの顔を思わず見た。
「なに?」
「ケイナの耳からピアスが取れてる。ケイナはこっちの世界にいないんだ……!」
セレスは兄にすがりつくように叫んだ。ハルドには弟の言っていることがさっぱり分からない。
再びケイナに目を向けた時、ひとつの影が突進するのを見た。
それは信じられないすばやさだった。
影が男をケイナの構える銃の射程範囲からはじき飛ばすとの、ケイナが撃ったのとが同時だった。
男がいたはずの床に大きな穴があいた。
影が何者なのか確かめようとする前にハルドは弟が走り出したことに気づいた。今度は腕を掴み損ねた。
「終わりだ! ケイナ!」
男の体を組み伏せながら影が叫んだ。真っ赤な燃えるような髪の少年だった。
セレスはそれがアシュア・セスだと気づいた。
「終わりだ、ケイナ。銃をおろせ」
アシュアはゆっくりと言ったがケイナは何の反応も示さなかった。
「ケイナ、おれだ、アシュアだよ。銃を渡せ」
静かに注意深く語りかけながらアシュアが手を差し伸べても、ケイナは全く表情を変えない。
「ケイナ! アシュアを撃つな!」
セレスはケイナの背後から叫んだ。
「アシュアだよ! 分かんないのかよ!」
セレスは祈るような気持ちだった。ここでアシュアを撃ってしまったら、彼は決してこっちの世界には戻ってこないだろう。
セレスは意を決してケイナに飛びかろうとした。しかし、ケイナに手を触れる瞬間に彼は振り向き、持っていた銃の銃身で思いきり殴られそうになった。
すんでのところで身を伏せたので、銃身はセレスの緑の髪をかすって空を切った。 しかしそのまま銃口はぴたりとセレスの額に止まった。
「ばかやろう……」
ハルドは自分の銃の照準をケイナに合わせた。
もう、どうしようもない。
照準の先に見えるケイナの姿が滲んでぶれた。それで初めて自分の手が震えていることに気がついた。
これまでたくさんいろんな事件に出会って来たが、こんなことは初めての経験だった。
「ケイナ…… こっちに戻ってきてくれよ……」
セレスは震える声で言った。やはりケイナの表情は変わらなかった。
アシュアは隙のないケイナの背後でじりじりしている。 下手な動きをするとセレスの頭をケイナは撃ち抜いてしまう。
「ケイナ…… おれが分からない? おれのこと、覚えてない?」
セレスは懇願するように言った。
「ケイナ! おれの声を聞いてよ!!」
ケイナの表情にかすかな変化が見えた。アシュアはそれを見逃さなかった。
次の瞬間、アシュアの腕がケイナに飛び、ケイナは銃を取り落とすとゆっくりと倒れた。
床に体を打ちつける前にアシュアは彼の体を抱きかかえた。
セレスはそのまま息をきらして床に座り込んだ。
汗と涙で顔中ぐしゃぐしゃだった。声にならない呻きとともに服の袖で顔を拭った。
ハルドは警備兵たちに引き摺られていく男を見送ったあと床に落ちた銃を拾い、意識を失ったケイナを抱きかかえるアシュアのそばに歩み寄った。
「クレイ指揮官、すみません。勝手なことをして……」
アシュアはハルドを見上げて言った。
「きみは誰だ」
「アシュア・セスです。ケイナとは『ライン』で同期です」
「同期……」
ハルドはつぶやいた。あの動きは『ライン生』の動きじゃない。そう思ったが口には出さなかった。
「ケイナの耳が半分ないよ……」
セレスは血に染まったケイナの顔を覗き込み、ハルドに訴えた。
ハルドは黙って口を引き結んだ。
慌ただしい足音と共に担架が運ばれる。
「痛みなんて、ほとんど感じてなかっただろうよ」
アシュアは言った。
そして、
「戻ってくるかな……」
と、つぶやいた。
ケイナは病院に運ばれ、丸二日間眠ったままだった。そして三日目になっても目を覚まさなかった。
銃ではじき飛ばされた半分の耳は尻のほうの組織を培養し、以前とほとんど変わらないように接合された。
セレスは死んだようにぴくりとも動かないケイナの顔を見つめた。
アシュアの言うように本当に戻って来てくれないのだろうか。
彼を置いて家に帰ることなどできず、セレスは彼の目が再び開くことを祈り続けながらケイナのそばにいた。
「様子はどうだ」
ハルドが病室に入ってきて青い顔をしているセレスに言った。
「変わりない」
セレスは首を振った。
「もう、とっくに目が醒めてもいいらしいんだけど」
「少し眠ったほうがいいぞ」
ハルドは真っ赤に充血した弟の目を見て心配そうに言った。
「寝てるよ。そのへんで…… でも、細切れに目が醒めちゃうんだ」
セレスは脇の簡易ベッドを顎でしゃくって答えた。ハルドはため息をついた。
「アシュア・セスは?」
ハルドは部屋を見回して尋ねた。昨日来た時にはケイナのそばにいた。何も言わずに暗い顔でずっとケイナの顔を見つめていた。
「一度家に戻るって言ってた。ケイナの目が醒めたらすぐに連絡してくれって言ってたけど……」
セレスは目をこすりながら答えた。
「兄さん」
訴えかけるような目をして自分を見る弟にハルドは目を向けた。
「ケイナは何か罪になる?」
「ならないよ」
ハルドは弟を安心させるように少し笑みを浮かべて答えた。
「ならないように報告書をまとめた。マスコミへの情報もだいぶんシャットアウトした。市民を守るためにケガをしてまで立ち向かった勇敢な少年ということでみんな認知するだろう。もっとも…… 人の噂だけは制御するわけにはいかないが…… 助けられた人がいるのは確かなんだから悪いようにはならないだろう」
「……兄さんは大丈夫?」
セレスの不安はまだ晴れないらしい。ハルドは腕を伸ばすとセレスの頭に手を置いた。
「カート司令官はあのときケイナのことは任せるとおっしゃっていたんだ。任せると言ったのはね…… 何があったとしてもぼくの権限で行ったことなら文句は言わないということだよ。その言葉をあとで覆すような人じゃない」
「よかった……」
セレスはようやく安堵の息を吐き、ケイナの横たわるベッドに頬杖をついて再びケイナに目を向けた。
「あとは目が覚めるのを待つだけだね」
ハルドはさまざまな疑問が頭を渦巻いていたが憔悴しきっている弟を気づかって今は何も聞かないでおこうと思った。
「おれはもう戻らないといけないんだ……」
ハルドは言った。
「一緒にいてやりたいんだが…… すまないな…… おまえも体を休めるんだぞ」
「分かってる。大丈夫だよ」
セレスはかすかに笑みを浮かべて兄を見た。ハルドは笑みを返したあと、ふと思い出して上着のポケットを探った。出てきたのは小さな女の子の人形だった。
「ケイナの目が覚めたらこれを渡してやってくれ。彼が助けた女の子が早く怪我がよくなるように渡してくれと言っていた」
ハルドはそれをセレスに手渡した。金色の髪に青い目をした、どことなくケイナの面立ちに似ている人形だった。
「分かった。渡すよ ……兄さん、ありがとう」
ハルドはまた手を伸ばして弟の頭をくしゃっとなでると病室をあとにした。
兄が出て行ったあと、セレスはケイナの顔を見つめながら頭をベッドにもたせかけた。
「帰ってきてよ、ケイナ。このまま眠ったまんまなんて、オレ許さないからな……」
そしてしばらくたつと、自分が深い眠りに落ち込んでいったことにセレスは気づかなかった。
その頃、アシュアは画面の向こうで怒りを顔中にあらわしているトウ・リィと、その横で無表情に立つカインを見ていた。
「彼がいつもと違う行動をとってたっていうのに、どうして彼のそばを離れたの」
トウの声は怒りを必死になって押し隠しているようだった。
「それは、さっきも言った通り……」
カインは答えた。
「そんなことをするなんてぼくらは聞いていなかったし、知らなかったんです」
トウの鋭い目がカインを睨みつけた。
「ケイナはおれたちと別れるほんの数十分前にはいつものようにアパートに戻るって言っていたんです」
アシュアが画面越しに助け舟を出した。
「ふざけた言い訳をしないでちょうだい」
トウの目がじろりとアシュアを睨んだ。アシュアは思わず目の前のモニター画面から身をのけ反らせた。
「『見えた』からアシュアをケイナのそばに行かせたんでしょう?! 『見えて』いたのにわざとケイナの行動を許したわね!」
ついに怒りが爆発し、トウはカインのメガネをひったくって取ると床にたたきつけた。メガネは割れなかったが、かちんと小さな音をたてて床から跳ねかえった。
「セレス・クレイというのは…… いったい何者なの」
トウはメガネをとられてもびくりともしないカインを憎々し気に睨みつけて言った。
「今年ラインに入った軍科の新入生です。ケイナとは同室でした」
カインは表情を変えずに答えた。
「そんな子とケイナがどうして個人行動をとるのよ」
トウはカインに詰め寄った。カインは肩をすくめた。
「何を隠してるの? 私の目がごまかせると思ってたの?」
トウはいらいらとした口調で言った。
「ケイナが前のように自分で自分を殺そうとしたらどうするつもりなのよ」
カインが何も言わないので、トウはデスクを平手で叩いた。デスクの上のトウの華奢な愛用のペンが衝撃で跳ねた。
アシュアはじっとカインの出方を見守った。カインの考えることに合わせるつもりだった。
「ケイナはそんなことはしません。セレス・クレイがそばにいれば」
カインは言った。
「どういうこと?」
トウは目を細めた。
「ケイナだって普通の人間ですよ。心を許せる相手になら気持ちだって平穏でいられるんです」
「普通の人間?」
トウが嘲るような笑みを浮かべたのをカインは見咎めた。
「普通の人間でしょう。ケイナは当たり前に普通の17歳の人間だ。何が違うって言うんです」
「トウ」
アシュアはたまりかねて口を挟んだ。このままカインにしゃべらせていたら、トウは彼の顔をはり飛ばしそうな気がしたのだ。画面越しでいる以上、自分には彼女の平手が飛んでくる心配はない。
「今回確かにケイナは一時自己喪失に陥っていたけれど、あのときセレスの呼び掛けに反応した。だからおれはケイナから銃を取り上げることができたんだ。セレスがいなければ、カインがいない時におれひとりではケイナを静めることはできなかったと思う」
トウはしばらく黙っていた。やがて鋭い目をカインに向けた。
「セレス・クレイの報告書を一週間以内に提出して。それから休暇が終わったらセレス・クレイの行動もケイナの行動と合わせて提出すること」
カインの眉がぴくりと動いた。トウはそれを見逃さなかった。
「隠そうなんてことはもうしないことね。あと一回こういうことがあったら、ただじゃすまないわよ。解雇されるだけじゃないくらいの覚悟はしておくことね。『ビート』の名前が聞いて呆れる。一度ならず二度までも……!」
そこでアシュアの前の画像がぷつりと消えた。アシュアは長いため息をついた。
「どうする気だ、カイン…… 下手するとおれたちはケイナを敵に回すことになるぞ……」
アシュアはそうつぶやいて、まだトウの繰り言を言われているだろうカインを思い浮かべた。
セレスは久しぶりに心地よい眠りをむさぼっていたが、ふと気配を感じてはっとして顔をあげた。
そしてケイナが目を開けて天井を見つめているのを見て一気に目が覚めた。
「ケイナ! 分かる? おれのこと分かる?」
セレスはケイナの顔に被いかぶさるようにして尋ねた。しかしケイナは天井を見つめたままだ。
「ケイナ!」
ケイナはゆっくりとまばたきをした。
「ケイナ!」
「うるせえ……」
ケイナはゆっくりとセレスに目を向けた。
「みみもとで…… 怒鳴るな……」
それを聞いてセレスは安堵した。
「ここは……」
ケイナは額をこすろうとして手をあげかけたが、思うように動かないらしく顔をしかめた。
「病院だよ」
セレスは答えた。
「ケガしたんだ。でも、休暇が終わるまでには治るよ」
聞こえているのかいないのか、ケイナはぼんやりと宙を見つめた。まだ意識がはっきりとしていないのかもしれない。
「あの子は……?」
「……あの女の子のこと?」
セレスは尋ねた。ケイナは黙っていた。
「大丈夫だよ。今頃お父さんの待つ地球に戻ってるよ。これ、その子がケイナに渡してくれってさ」
セレスはケイナの手に人形を握らせた。ケイナは苦労してそれを自分の顔まで持ち上げた。その目にかすかに安堵の光が宿った。そして彼はセレスに目を向けた。
「あいつは?」
セレスは一瞬ためらった。ケイナはどこまでのことを覚えているんだろう。
「……あの男なら捕まったよ。薬をやってたらしいから、治療をしてから取り調べだって兄さんが言ってた。違法シールドのコートの出どころや改造銃のでどころは手がかりがないから長引きそうなんだ」
ケイナはそれを聞いて長いため息をついた。
「殺してなかったのか……」
「誰が殺すんだよ。あの男は捕まって、ちゃんと裁判にかけられるんだ」
セレスは注意深く言った。ケイナは黙っていたが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「思い出せって……」
セレスは怪訝な顔でケイナを見た。
「おまえ…… おれにそう言ってたよな……」
「おれの声、届いてたんだ」
セレスは驚きと嬉しさを感じて言った。
「途中からあんまり…… 覚えていない…… でも、おまえの声がどこかで聞こえたように思う……」
ケイナは記憶を辿るように視線を宙に泳がせた。
「おれは、銃を持ってた。それをアシュアに向けて……」
「ケイナ」
セレスは必死になって考えを巡らせた。下手なことを言うとまたケイナの感情を高ぶらせてしまうかもしれない。吹き飛ばされた耳と一緒に今は抑制装置も壊れてしまっているのだ。
「あんたはアシュアを撃ってないよ。あんたはあの男に銃口を突き付けられて身動きとれなかったんだ。だけど、信じられないような動きであの男から銃を取り上げたよ。それだけだよ」
セレスは言葉を選びながら言った。
「あいつは撃たれてないよ。アシュアも撃たれてない」
ケイナはぎごちない様子で人形をじっと見つめていた。
「ケイナ、あんたの耳にもう赤い点はついてないんだ。 赤い点はあの女の子をかばった時に吹き飛ばされた。でも、あんたは正気に戻った。あんなピアスで封印しなくっても、あんたは自分で自分の感情をコントロールできるよ」
ケイナはまだ銃の感触の残る左手を見た。
「封印……」
ケイナの目が見開かれた。そしていきなりがばっと飛び起きた。
さすがに急激な血圧の変化に堪えきれず、再びベッドの上に崩れ折れてしまう。
「いきなり起きちゃだめだよ!」
セレスは仰天した。ケイナの目は大きく見開かれていた。体をくの字に折り、小刻みに震えている。
「ケイナ……!」
セレスはまた自分が失敗したことを悟った。ケイナを興奮させることを何か言ってしまったのだ。
「ナイフ……」
ケイナは呻いた。
「え……?」
セレスはケイナを仰視した。
「よくもおれの利き腕を……」
セレスはぎょっとした。二年前のあの事件のこと?
どうして今そんなことを思い出すんだ?
ケイナの顔は苦し気に歪み、震える手がシーツをぎゅっと握り締めた。きっと彼の目の前にはそのときの光景が浮かんでいるのだろう。
セレスははらはらして彼を見守った。このまままた感情が高ぶり過ぎて大変なことになったらどうすればいいんだ……。
「倉庫の床が真っ赤で…… おれはいったい何をした……? おれの左手はぼろぎれみたいに指がてんでばらばらで…… あそこに落ちているあのかたまりはいったいなんなんだ……?」
「ケイナ、もうやめろよ」
セレスはいたたまれなくなってケイナの肩を掴んだ。
「もう終わったんだよ。二年前のことなんか、忘れろよ……!」
「封印しよう……」
「封印なんてもういらないんだよ!」
セレスは無我夢中で言った。
「言ったろ! あんたはもう自分で自分をコントロールできるんだ! おれやカインやアシュアがいつもそばにいるよ! おれたちを信じてよ! ひとりで自分を追い詰めるなよ!」
必死で言った。早くケイナを元に戻さないと。
「ケイナ、頼むよ、頼むからおれの声、聞いて!」
ケイナははっと我に返ったような顔でセレスを見た。セレスはそのケイナの顔を覗き込んだ。
「あんた、耳の赤いあの点が取れたら前後不覚に暴れるんじゃないかなんて言ってたよね。でも、大丈夫だろ? 今の傷も治るよ。あんたはもう呪わしい思いに捕らわれないよ」
ケイナはまだ震えていた。
「おれね、地球では緑色の目と髪を持つことで目立っちゃったんだ。こっちに来てからはバスケットの試合で、シュートを決め過ぎるって嫌われたんだ」
セレスは自分で何を話そうとしているのか分からないまましゃべり続けた。話してケイナの意識をこちらに向けておかなければと必死だった。
「でも、どうしようもないんだよ。おれの髪って何だか知らないけどうまく染まらないし、目の色を手術で変えるのって厭だったし…… なんとかしろって言われて、はいそうですかって無理なんだ。バスケでボールなんて、どうやって『取らない』ようにすればいいのかわかんないよ。自分で意識ないんだもん、どうしようもないよ……」
ケイナはまじまじとセレスの顔を見つめた。セレスはちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「ケイナもきっといろんなこと、人と違うって言われ続けてたんじゃないかと思うんだけど…… ケイナの辛い思いにくらべれば、おれのなんてどうってことないけど、おれ、ケイナみたいになりたいって、ずっと思ってたんだ。きっと初めて会った時からずっと…… あんたはいつも堂々としてた。自分が人とは違うってこと、おれ、やっぱり心のどこかで引け目に思ってたのかもしれない。だから、あんたに近づきたいと思ったんだ」
「じゃあ、失望しただろ。おれはそんなに強い人間じゃない」
ケイナは目を背けた。
「そうだね」
セレスは言った。目を背けはしたが、ケイナの震えがおさまっていることをセレスは見てとった。
「失望したよ。やっぱりケイナはおれが守ってやんなくちゃって思ったもんな」
ケイナは思わずセレスの顔を見た。セレスは笑ってみせた。
「おまえは…… 変わってる」
「あんたもね」
セレスは笑いながら答えた。
「ねえ、ケイナ」
顔を傾けてケイナに近づけた。
「おれ、今のこの状況がほんとは信じられない。あんたは今こんなにおれのそばにいるよね。ちょっと前までは話すらもできなかったのに。あんたは笑うかもしれないけれど、おれ、あんたを守りたい。それはケイナが弱い人じゃないからだ。あんたは強い人だよ。とても強いよ。おれはそんなケイナが好きだから守るんだ。今、それに気がついたよ」
「声を……」
ケイナは白いシーツを見つめてつぶやいた。
「おまえの声だけは聞こえたんだ。なんでなんだろう……。おまえはあのひとことで、おれを二年前の時間からも現実に呼び戻したんだな……」
「切れそうになったら、また呼ぶよ」
セレスは笑った。ケイナは苦笑した。もう大丈夫だとセレスは思った。
「アシュアに連絡してくる。それからドクターにも。あんたをこんなに興奮させて、ちょっと叱られるかもしれないけど」
セレスは笑って立ち上がると病室を出て行った。
その姿を見送って、ケイナはつぶやいた。
「声……」
二日後、ケイナは退院することになった。
「回復がこんなに早い人はめずらしいですよ。普通だったらもう二日ほど様子を見るところなんですが…… もともと自己回復力が高い体質だったんでしょうね」
担当の若い医師は感心しながらケイナに言った。二年前の事件のことを知ったらこの医者は何と言うだろう。
「ああ、それと……」
立ち上がって診察室から出ていこうとするケイナに医者は思い出したように言い、ケイナに一枚の紙を渡した。
「リィ・ホライズン研究所属病院のバッカード博士から、ここでのあなたの治療経緯とカルテを送るように言われました。了承ならサインをこの書類にして退院の時にナースステーションに渡していってください。ずいぶん権威のある方が主治医でいらっしゃいますね。 ……何か過去に大病でも?」
「いえ……」
ケイナは紙を受け取って答えた。
「単にホームドクターだっただけですから……」
ケイナは嘘をついた。ホライズンの人間がホームドクターでなんかあるはずがない。しかし、彼に詳しい説明をする必要はなかった。
(18歳になったらぼくを仮死保存するために、それまでのデータを蓄積している人です)
言ってみたい気もしないでもなかったが。
「ああ…… なるほど」
医師はケイナのカルテの名前を見て納得したようだった。
「カート司令官の御子息でしたね」
ほんとうの『御子息』でもないけど。そう思ったが、ケイナは診察室を出た。
病室に戻るとカインとアシュアがいた。
「セレスは?」
ケイナは部屋を見回して言った。さっきまで部屋にいたはずだった。
「おれたちの顔を見るよりセレスのほうがよかったか?」
「なにをばかなことを」
アシュアの声にケイナは彼をじろりと見て、入院中にアシュアがアパートから持ってきてくれた衣類や細々したものをバッグに詰め始めた。
「きみのヴィルを取りに行くと言ってた。すぐに戻るだろう」
カインが答えた。
「いつこっちに戻って来た?」
ケイナはカインを見ずに言った。
「昨日だ。きみのことをアシュアから聞いていたが、すぐに戻れなかった」
ケイナはそれを聞いてもわずかにうなずいただけだった。
「とりあえずアパートに戻るんだろう? 退院祝いでもするか?」
アシュアがにやにやしながら言うとケイナは笑った。
「めんどくせえ……」
ケイナのその表情と言葉はこれまでとは違っていた。いつもならまず反応しない。アシュアとカインはちらりと顔を見合わせた。
「でも、久しぶりにおまえの作ったあの変な料理が食いたくなった。ここのメシがやたらとまずかったんだ」
ケイナは髪をかきあげながら言った。
「あいよ、了解」
アシュアは笑った。
カインはそんなケイナを無言で見つめた。
この変貌ぶりはどうだ……。すべてセレスの影響なのか? たった数カ月で、ケイナをここまで饒舌にするとは。
ぼくにはさっき自分で聞いておきながら、ろくに返事もしなかったのに。
カインは自分でもわけの分からない不安を感じていた。
『コリュボス』に戻る前にセレスの報告書をトウに提出してきていた。
前に一度調べていたから概略をまとめあげるのは造作なかった。
トウがそれを見て何と言うか分からない。
カインは彼女に会わずに彼女の秘書にレポートディスクを提出し、そのままコリュボスに戻って来ていた。
このケイナの状態を今後もトウに報告するのは気が進まなかった。
ほとんど自分から話すことも笑うこともしなかった彼にどんどん自発性が出て来る。
人に要望を言う。
そんなふうに彼を変えたものはいったい何なのか。ケイナの何にセレスが影響を及ぼしたのか。ホライズンは嬉々としてこの点を追求しようとするだろう。
それを知ったとき、ケイナがいったいどんな行動に出るのか予想もつかなかった。
彼は…… ぼくらを殺すだろうか。
そのとき、ふいに病室のドアが開いたのでカインは顔をそちらに向けた。部屋にいた誰もがてっきりセレスが戻って来たのだと思っていた。
しかし、そこに立っていたのは大柄の軍服の男だった。
彼の姿を見るなりアシュアがおもちゃの兵隊のようにぴしりと敬礼をした。
「お義父さん……」
ケイナはつぶやいた。カインも敬礼をした。
まさかカート司令官が来るとは。
レジー・カートの栗色の髪のこめかみ部分には白いものがちらほら見え始めていたが、灰色の目はいまだに鋭い光を放ち、少し太って体型が崩れているにも関わらず軍服の下の筋肉は引き締まっていることが見てとれた。
彼はしばらく病室の中を黙って眺め、カインとアシュアにちらりと目を向けたあとゆっくりと足を病室の中に踏み入れた。
ケイナはバッグをベッドの上に置くと、義理の父に向き直った。
レジーはケイナの顔を見つめながら彼に近づき、そしてその前に立った。
と、いきなり彼はケイナの体をがばっと抱き締めた。
「良かった…… 元気になって良かった……」
レジーはまるで小さな子供にするようにケイナの頭や背を撫でさすりつぶやいた。カインとアシュアは敬礼したまま信じられない光景に目を丸くした。
「ち、ちょっと……」
ケイナは苦し気に身じろぎして言った。それでようやっとレジーは太い腕をケイナから放した。
「二年前のようなことになってしまったらどうしようかと、夜も眠れなかった。あんな思いは二度とごめんだ……」
「もう、なんともありません」
ケイナは彼に言い聞かせるように言った。
「全く…… 司令官という仕事は息子が病院に入っていてもすぐに動くことができん」
レジーは首を振って言った。
「ちょっと中央塔を出るというだけで二十人くらいのボディガードがついてくることになってしまう。だから、こっそり抜け出した。ハルド・クレイに頼んだ」
レジーが病室のドアのほうに顎をしゃくったので、そちらに目を向けるとハルド・クレイが立っていた。
彼はケイナと目が合うと、かすかに笑みを見せた。
「おまえは休暇になってもちっとも顔を見せに来ない。たまには父親に会いに来るものだ」
レジーは小さな子供に諭すように言った。
「すみません」
ケイナは答えた。
「司令官、申し訳ありませんが、時間です」
ハルドが遠慮がちに口を挟んだ。それを聞いてレジーは顔をしかめた。
「待て、もう少しだから」
そう言うとカインとアシュアを振り向いた。ふたりはぎょっとして敬礼の背をさらに伸ばした。
「アシュア・セスはどっちだ?」
「自分であります! 司令官!」
アシュアが緊張して叫んだ。
レジーはアシュアに近づくと、いきなりアシュアの手を取り握りしめた。
「ありがとう! ケイナを助けてくれたそうだな! 本当にありがとう!」
「あ、い、いえ、あの、おれ、いや、あの、ぼくは……」
アシュアは面喰らいながらしどろもどろでレジーを見た。本当に助けたのは自分じゃないとはとても言えなかった。
「ハルド・クレイから詳しい報告を受けた。感謝しているよ」
レジーはにこやかに笑うと顔を巡らせた。
「セレスという子はどこだ? ずっとケイナについてくれていたそうだが?」
「セレスはケイナのヴィルを取りに行ってます。すぐ戻ると思いますが」
カインがそう答えると、レジーの表情が曇った。実に表情豊かな人だ。
「そうか、残念だな」
レジーはつぶやいた。
「私が自由に行動できるのはわずか数分なんだ。ひどい話だ。すまんが、彼にわたしが礼を言っていたと伝えてくれ」
レジーはケイナに言った。ケイナはうなずいた。
最後にレジーはもう一度ケイナが窒息しそうなほど彼を抱き締めると、ハルドに付き添われて病室をあとにした。
三人は硬直したままそれを見送った。
しばらくしてアシュアがずるずると壁を伝って床に尻をついた。
「あああ…… 冗談じゃねえ…… ディレクターの前でもこんなに緊張したことってないぜ……」
それを聞いてカインが慌ててアシュアを足で蹴った。
『ディレクター』というのは『ビート』のトレーナーだ。しかしケイナは気づかなかったようだ。
「おまえでも緊張することってあるんだな」
ケイナは笑いながらバックに再び荷物をつめながら言った。
「けっ!」
アシュアは顔をしかめた。
「司令官は本当にきみのことを大事にしてるみたいだな」
カインは言った。
ケイナはちょっと手をとめたが、そのままバッグを閉めるとベッドに腰を下ろし、靴のひもを締め直し始めた。
「父にはよくしてもらったよ……。 あの人の本当の息子だったらどんなにいいだろうとよく思った」
「司令官はおまえのことを息子だと思ってるぜ」
アシュアは言った。
「息子はユージーだよ」
ケイナはちらりとアシュアを見たあと肩をすくめた。
「父はあの通りの性格だからおれとユージーを分け隔てなく大切にしてくれたけど、カートの跡継ぎはユージーなんだ。おれじゃない」
「ユージーはそう思っていないんじゃ……」
「関係ないよ」
アシュアが言いかけた言葉をケイナは遮った。
「仮に父がおれを後継者につけたいと思っても周囲が許さない。古い慣習を重んじるカート家ではおれはいずれカートの名前を捨てなくちゃならない。だから家を出た」
ふたりには目をむけずケイナは言った。
「カンパニーとの契約は14歳だったんだ。それに逆らってまでおれを『ライン』に入れようとしたのは父だ」
「カート司令官が?」
カインが少し驚いたような声をあげた。
「リィがよく了承したな」
「だけど、18歳の期限はもう動かない。おれももう父にこれ以上迷惑をかけたくない」
ケイナは靴紐を結び終えて髪をかきあげた。
カインもアシュアもその言葉に返すいい返事を見つけることができなかった。
「そろそろここを出よう。あいつももう戻ってくる頃だ」
ケイナはそう言うとバッグをとりあげた。
セレスは三人が病院のエントランスから出てきたところでちょうど出会った。
ケイナにヴィルのキイを渡すと、これで自分の仕事が終わったと思い家に戻ろうと踵を返しかけた。その背にアシュアが声をかけた。
「今からケイナのアパートに行くんだ。おまえも来いよ」
「え?」
セレスは戸惑ったような顔を向けた。ケイナの顔を見たが彼の顔からは何の感情も読み取れない。
「おれ…… でも……」
何か用があったような気がしていた。何だっただろう……。
「アシュアのヴィルの後ろに乗せてもらいな」
しばらくしてケイナはぶっきらぼうにそう言うと、さっさとヴィルが停めてある場所に歩き始めた。
「だとよ」
アシュアがにっと笑ってセレスの背を押した。セレスは促されるままにそれに従った。
嬉しくないわけではない。誘ってもらうことをどこかで待っていたかも……。それは偽れない本音だった。
カインはその様子をただ黙って見ていた。アシュアの提案は一瞬無謀ではないかと思ったのだが、自分の目に何も見えなかったので反対することはやめた。
ケイナのアパートは中央塔からかなり離れた郊外に建っていて、びっくりするほど時代遅れの古風な外観だった。
六階建ての白い壁の小さなアパートをバイクから降りて下から見上げると、窓に花を飾っている部屋がやたらと多いことが見てとれた。
高層の住宅しか見たことのないセレスにとってそれはあまりにも不思議な光景だった。
「あら、帰ってきたの?」
上のほうから声がしたので、四人は顔をそちらに向けた。 三階の部屋の窓から老女が顔を覗かせている。
「連絡してくれれば掃除をしてあげたのに。アシュア、久しぶりね」
「こんちは、シェル」
アシュアは手を振った。老女は嬉しそうに手を振り返した。
「夫がイキのいい魚を持って帰ってきたのよ。ベリーパイも焼くつもりなの。あとで取りに来て」
「すげえ! 今夜は盛大なパーティになるぜ!」
アシュアが叫ぶと、老女は得意げにほほえみ返して部屋の中に引っ込んだ。
「あの人のだんなさん、養殖でもしてるの?」
こじんまりとしたエントランスにみんなで入っていきながらセレスがケイナに尋ねた。
「彼女に夫はいないよ。亡くなったんだろう」
ケイナは答えた。
「え? でも、魚がどうとかって……」
セレスは面喰らった。
「彼女は夢の中に生きてるんだよ」
アシュアが代わりに答えた。セレスは困惑したような顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
エレベーターの前に立つと、ちょうど誰かが上からおりてきたらしく四人の前でドアが開いた。
出てきたのは真っ黒な長い髪を垂らして鮮やかな手織りのケープをまとった中年の女性だった。少し太り気味の体がエレベーターの入り口を塞いだ。
彼女はケイナの顔を見てびっくりしたような表情をした。
「あら! 久しぶりね! 休暇?」
ケイナは彼女を見て少し笑みを浮かべた。
「ちょっと見ないあいだにまた背が伸びたわねえ。それにまた今回はずいぶんと友だちを連れてきたのね!」
彼女は真っ黒な大きな目を見開いてほかの三人を見回した。そしてセレスの姿を見て大きくうなずいた。
「ああ、それで分かったわ。昨日夢を見たのよ。あんたたちのことだったのね」
セレスは彼女の黒い目にじっと見つめられて居心地が悪くなり、助けを乞うようにケイナの顔を見た。
ケイナはそれを無視して女性に言った。
「ジェニファ、あんたの夢は健在だね」
「当たり前よ。まだまだ現役だわ。また意識して見ておいてあげる。休暇はいつまで?」
「五日後には戻るんだ」
「あら、今回は短いのね、分かったわ。何か見えたら知らせに行くわね」
彼女はそう言ってにっこり笑うとアパートから出て行った。
「ずいぶんとここの人たちと仲がいいんだね。みんながケイナのことを知ってるみたい。 おれんちじゃ、会っても誰も何も言わないよ」
ジェニファの大きな体を見送りながら、セレスは言った。
「おれが『ノマド』と暮らしていたからだろ」
ケイナはためらいがちに答えた。
「『ノマド』? あの人は『ノマド』なの?」
「今は違うよ。」
ケイナは答えた。それ以上説明をするのは面倒臭そうな表情だった。
「このアパートはいろんな理由で『ノマド』の群れからは離れた人間が多いんだよ。入居に面倒な手続きがいらないアパートだし……。 ミセス・シェルは昔群れの中で菓子づくりの名人で、ジェニファは夢見占いの役についていたらしい」
ケイナの代わりにカインが答えた。
「ああ、それでさっきベリーパイがどうとかって……」
セレスはつぶやいた。そしてケイナを見た。
「『ノマド』で育ったことをあの人たちに言ったの?」
「言わないよ」
ケイナは苦笑した。
「言わなくても分かるみたいだ。さっきのジェニファは初めておれの顔を見るなりそれと言い当てた」
「ふうん……」
セレスはジェニファの相手を見透かすような真っ黒な少し魚を思わせるような大きな目を思い出して何となく納得いくような気がした。
「だけど、どこまで信じていいんだか。おれとカインの顔見ても『ノマド』だなんて言ってたからな」
アシュアが肩をすくめた。
「ぼくらもいろんな意味で一般の地球人からは外れた『異端』なんだろ」
カインは答えた。セレスがカインの顔を見たので、カインはかすかにセレスに笑みを返した。
そうだ、カインは『アライド』との混血だと言っていたっけ……。セレスは思い出した。
『ノマド』は言うなれば地球の中の異民族だ。普通の地球人の生活からは外れている。
「アシュアもハーフなの?」
エレベーターのドアが開いたので、先に立って歩き出すケイナのあとに続きながらセレスはアシュアに尋ねた。
「おれは純血地球人」
アシュアは肩をすくめた。
「どうせ、変わり者だろうさ」
ケイナの部屋は殺風景とも思えるほど何もなかった。
床は人造ではあったがよくできた板張りで、小さなキッチンとクッションが数個置いてあるだけの小さなリビング、そして向こうにはベッドを置くくらいの広さしかないという寝室がひとつだとケイナは言った。
窓が多く明るいので狭くても閉塞感はない。とはいえセレスの家に比べればまるで人が住んでいるような気配のない部屋だった。
こんな部屋にケイナは休暇のたびに戻ってきてひとりで過ごしていたのだろうか。セレスは何とも言えない思いで部屋を眺めた。
「おまえの家と比べると空家みたいな気がするだろ?」
呆然としているセレスにケイナはバッグを床に放り投げながら言った。
キッチンに行ったケイナをちらりと見てカインが神経質そうに彼のバッグを拾いあげて部屋の壁際まで持っていった。
「ここに来るといつもほっとするぜ。足が伸び伸びのばせるもんなあ!」
アシュアはどっかり床に腰を降ろすと、大きな伸びをして大の字に寝転んだ。
「おまえはごちゃごちゃいろんなもん持って帰るから部屋が狭くなるんだよ」
ケイナはミネラルウオーターのボトルを数本ぶら下げて戻って来るとアシュアを見下ろした。
「アシュアは壊れた看板だの、捨ててあった家具だの、すぐにもって帰る癖があるんだ」
ケイナに渡されたミネラルウォーターをセレスに渡してやりながらカインが言った。
セレスはあいまいに笑ってそれを受け取った。なんだか変な気分だった。
カインもアシュアもこれまでの感じと違って見えた。会話も、やっていることも、ごく普通の17歳の少年だ。
ラインで見ていた彼らはいつもぴりぴりした空気に包まれていて、セレスは知らず知らず彼らのそばにいると緊張したものだ。今の彼らには自分を緊張させるものは何もなかった。カインですら穏やかに笑みを浮かべている。
「ちょっとひと休みしたらメシの買い出しにでも行くか。セレス、おまえ荷物持ちだぜ。ついて来いよ」
アシュアが水をぐいっとひと飲みして言った。
「買い出し?」
セレスは面喰らったようにつぶやいた。
「おれのスペシャルメニューを食わせてやるよ」
アシュアはにいっと笑ってみせた。
「何を買いに行くの」
セレスは疑わしそうにアシュアを見た。
「何を買いに行くかだって?」
アシュアは信じられないというような顔をした。
「決まってんだろ。今夜のディナーの材料を買いにだよ。エビ、ブロッコリー、コメ、たまねぎ、アスパラガス、それから……」
「そんなのオンラインで配達してもらえばいいじゃないか。配送口、ここにはないの?」
セレスの言葉に一瞬三人は黙り込み、それからケイナがくすくす笑い始めた。
アシュアは顔を真っ赤にしてセレスを睨みつけた。
「直接シティに行って自分で選んでくるんだよ! 材料選びの醍醐味をしらねえのか!」
「おやじクサイこと言ってんな……」
セレスがぽつりとつぶやくと、アシュアはものすごい勢いでセレスに飛び掛かり、その体をはがいじめにした。セレスは抵抗したがアシュアの力にかなうはずもない。
そのうちふたりとも笑い始めた。
「大騒ぎすんなよ。下の部屋の住人に迷惑だろ。この家そんなに造りが頑強じゃないんだぞ」
ケイナが苦笑しながら言った。ふたりは笑いで息をきらしながら離れた。
「行くぜ!」
アシュアは立ち上がった。
「カイン、こいつのお守を頼むぜ」
アシュアがそう言ってケイナを顎でしゃくってみせると、カインは物静かに笑ってうなずいた。
ケイナはふん、と鼻を鳴らした。
ふたりはアパートの下に停めたヴィルに乗り、再び中央塔のほうに向かって飛び立った。
シティのショッピング街はケイナのアパートから三十分ほども離れていた。
「ケイナはなんであんなに中央から離れた場所にアパートを借りたの?」
モールの駐車場にヴィルを停めるアシュアにセレスは尋ねた。
「普段いる家じゃないからな。それに『ノマド』占有だし」
アシュアはこともなげに答えた。
「でも、『中央塔』からヴィルで一時間なんて遠すぎる……」
セレスはつぶやいた。アシュアはセレスを見下ろした。
「中央からはできるだけ離れてるほうがいいんだよ。 あそこには『ライン』に入ってるような年齢の奴は絶対いないし、あいつらもわざわざ休暇中に一時間もかけてケイナに悪さをしには来ない。自分のことで頭が一杯だからな」
アシュアはセレスを促して歩き始めながら言葉を続けた。
「あいつが意識して『ノマド』が多いアパートを選んだのかどうかは分からないけれど、あそこは無防備なようで実はたえず住民の目が光ってるんだ。彼らは自分の同胞に敵対しているような人間は絶対に見逃さない。何かあれば住民全部が一致団結してケイナを助けに行くだろうさ」
セレスは人込みにごったがえす道を歩きながら黙ってアシュアの言葉を聞いていた。
「『ノマド』は人類にとってものすごい脅威だよ。ジェニファやシェルみたいに呪術や職人だけじゃない。中央で働く人間より、はるかに博識で力もある人間が大勢いる。彼らが『ノマド』ではなく反体制派に全員ついたら、今の世の中はごっそりひっくりかえっちまうだろうな」
「アシュアもいろんなことを知ってるんだね」
セレスは感心したように言った。アシュアは笑ってセレスの頭を軽く殴った。
「も、て何だよ! ま、ほとんどカインの受け売りだけどな。あいつはいろいろ勉強するのが趣味みたいなもんだから、おれの何倍も知識を持ってるぜ」
「ふうん……」
セレスはカインの理知的な目を思い出して納得した。
ふたりは『コリュボス』で一番大きなモールに入るとまっすぐに食品の売り場に向かった。セレスにとっては足を踏み入れたことのない場所だ。野菜や肉類の臭いが混ざりあい、フロアは人込みで溢れかえっている。
すべて家にいても画面を見ながらキイボードを叩くだけで配達をしてもらえるのに、どうしてみんなわざわざこんなところに出向くんだろう、とセレスは不思議でならなかった。
「人間てのは自分の手で買いに行って、モノを手に入れたいって欲求がいつの時代でもあるもんなのさ」
セレスの心の内を察して、にやりと笑いながらアシュアが言った。
それにしてもアシュアの買うものは種類が多い。肉やミルクの箱くらいは分かっても、なかにはセレスが見たこともないような野菜までカートの中に収まっていた。
「いったい何をつくるつもり」
セレスは青いふさのような葉のついた野菜を持ち上げて呆れたように言った。
「旧時代風煮込み料理とでも言っておくよ」
アシュアはにいっと笑った。
「何日食べ続けても飽きない。なおかつ栄養価が高い、そして太らない」
セレスは肩をすくめた。アシュアにこんな特技があるとは想像もできなかった。
そういえば人なつっこい話し方をするので全然気にしていなかったが、アシュアとは言葉を交わしたのは病院にいたときが初めてだ。
まるでずっと前から一緒にいたような錯角に陥っていた。
アシュアは不思議な人だ。話していると全然人に警戒心を持たせない。
『ライン』で遠目に見ていたときは愛想の良さそうな感じはあったが、やはり近づきがたかった。
今はそれが嘘のようだ。
ふたりは紙包みふたつぶんの食料を買い込んでモールを出た。
ヴィルを停めた場所まで歩きながら、セレスは通り過ぎようとした横道の奥にふと目を向け、そこに見覚えのある姿を見つけて思わず立ち止まった。
「どうした」
アシュアが振り向いた。セレスはアシュアに合図して建物の陰に身を隠した。
横道は狭い路地になっていて、表通りとはまるで雰囲気の違う建物の薄汚れた壁と散らかったゴミの山が見えた。
「あれ、バッガス・ダンだ」
セレスは言った。アシュアはセレスの視線の先を目で追い、特徴あるスキンヘッドを見て間違いなく彼だと確信した。
「あんなところで何をしてるんだろう」
セレスはつぶやいた。
バッガスはすすけた建物の壁に身を寄せるようにして立っていた。彼の近くにはバッガスより頭ふたつぶんは背の低い小男が立っている。深々と黒い帽子をかぶり、くるぶしまで届くような真っ黒なコートを着ている。
「薬かな……」
「薬?」
アシュアの声にセレスは思わず彼の顔をみあげた。
「違法薬の密買人だ。どこのやつかはここからじゃわからないな」
アシュアは鋭い目をして言った。
「バッガスが薬を? あの中に薬が入ってる?」
「たぶんそうだろう」
「空港で暴れた男もあの薬を飲んでたのかな」
「それは分からない」
アシュアは首を振った。
「違法薬にはいろいろランクがあるんだ。単に地球では認可されてないだけのハーブタイプから、毒性の強い化学薬まで何十種類もあるんだよ。バッガスが何を買ったのかはあの包みの中を直に確かめてみなきゃわかりっこない」
「でも、違法は違法だ。ラインの教官に知られると除名じゃないか」
アシュアはセレスの顔を見た。
「おいおい何を考えてる? あいつを今からふんじばっておまえの兄貴んとこへでも突き出そうと思ってるのか? 中身が薬でなかったらどうするんだ?」
「あれがユージーに繋がっていないとも限らない」
その言葉にアシュアの顔が険しくなった。
「だとしてもおまえは余計な手出しをするな。おまえが立ち向かっていける相手じゃない。このことはケイナにも言っちゃだめだ」
「でも……」
セレスが不満そうに口を開きかけた時、バッガスが男と別れてこちらに歩いてきたので、ふたりは慌てて近くの店に飛び込んだ。バッガスは大通りへ出るとふたりのいる方向とは反対側に歩き始めた。
「アシュア、ほうっておくの? あんたはバッガスが嫌いなんじゃないの。あいつのしっぽを捕まえるのにいい機会じゃないか」
「確かにおれはあいつが嫌いだが、おれは個人的理由でバッガスに喧嘩を売ってるわけじゃない」
「じゃあ、何」
引き下がらないセレスにアシュアは顔をしかめた。『ライン』の中でアシュアがバッガスに敵対するのは、バッガスの目をできるだけケイナからそらせるためだ。彼のケイナに対する嫌がらせが一番執拗だった。だから『ライン』を離れてしまえばバッガスが何をしようが関係ない。でも、それはセレスには分かるはずもなかった。
「アシュア!」
どんどん行ってしまうバッガスを見て、セレスがイライラして言った。このままでは見失ってしまう。
「ほっとけ!」
アシュアは周りを気にしながら小声で怒鳴った。
「今あいつを追っかけることになんか意味はない!」
「あんたがそんな腰抜けだなんて思わなかったよ!」
セレスはそう吐きすてると、持っていた紙袋をアシュアに乱暴に押し付けた。
「おい……!」
アシュアはいきなり押し付けられた紙袋を危うく落としそうになりながら歯を剥き出した。
「おれ、行くからな!」
セレスはアシュアを最後に睨みつけると、店から飛び出した。
「セレス! 待て!」
アシュアは怒鳴ったが、セレスはすでにバッガスのあとを追って走り出していた。
「くそったれ……!」
アシュアは紙袋を握りしめた。中身が跳ね飛んで床に落ちた。
カインは読んでいた本を置いて座り込んでいた床から立ち上がった。
ケイナも1時間前まではクッションを枕にして寝転がって本を読んでいたが、今はその本を顔の上に被せて心地良さそうな寝息をたてている。
「遅いな……」
窓辺に寄って外を確かめるとカインはつぶやいた。
アシュアとセレスが出ていってからすでに2時間以上過ぎている。たかが食料の買い出しに行くにしては時間がかかり過ぎていた。だが、彼の目には警報めいたものは何も見えていなかった。
「子供じゃないんだから大丈夫だよ」
カインのつぶやきを聞いたのか、背後で眠っていたケイナが起き上がって言った。。
ケイナは本を脇にどかせると大きなあくびをした。
「あれだけ病院で寝てばかりいたのに、まだ眠い……」
ケイナは長い足を折って膝に額を押しつけた。
「体力が少し落ちてるんだよ。あいつらが帰ってくるまでベッドで寝てるといい」
カインは再び腰を下し、本に目を落としながら言った。しかしケイナは首を振った。
「寝るより食うほうが先だ……。 このまんまじゃ餓死しちまう。あの野郎デカイ口たたいてほんとにメシ作る気あるんかな……」
「もう少し待って戻って来なかったら何か買いに行こう」
カインは苦笑した。
ケイナは髪をかきあげて伸びをするとミネラルウオーターを取りにキッチンに行った。
「おまえのボスは今回のことをなんと言ってた?」
戻ってきてボトルに口をつけて水をひとくち飲んでからケイナはカインに言った。カインは目をあげた。
ケイナはカインに目を向けずに床に座り込んで片膝をたてるとその上に顎を乗せた。
「セレスのことを報告しなきゃならなかった。すまない、ケイナ」
カインは目を伏せて答えた。ケイナは何も言わなかった。
「セレスの報告書をボスに提出してきた。そのリアクションは聞きたくなかったから、こっちにすぐ逃げ帰ってきた」
それを聞いてケイナはくすくす笑った。カインも笑った。
「あいつのことは言わないでいてくれって言っておきながら、自分からそうしなきゃならないようにしてしまった……」
ケイナはぼんやりと片手に持ったミネラルウオーターを眺めながら言った。
「おかげでこっちは仕事が増えた。これからは彼の報告書も定期的に作らなければいけない」
カインは肩をすくめた。そして付け加えた。
「改ざんつきでね」
ケイナはボトルの口を持って窓のほうに向かってそれをかかげ、光を透明なボトルに透かして眺めた。カインは子供じみた彼の行動を黙って見つめた。
「研究所がおれに抑制装置をつけに来ないで病院での治療経過だけを求めたから、セレスのことが研究対象に組み込まれたことは分かってた」
ケイナはちらちらと七色に変わる光を見ながら言った。カインは本を閉じた。
「だけどあいつには指一本触れさせないからな」
カインはふいに目の前を不穏な霧が漂うのを感じた。ケイナの姿が捕らえにくくなった。
「きみがはむかえる相手じゃないよ。ぼくらはできる限りのことをするし、彼を守る。 ……だけど、正直言ってせいぜい彼に関する情報を希薄にする程度なんだ。そのうちあっちが本格的に動き始めたらもう手出しはできない」
カインは不安を感じながら言った。霧の向こうに血なまぐさい臭いがする。
それがどうか未熟な能力のせいであって欲しいと願った。
ケイナはとん! と音をたてて瓶を床に置いた。音とともにカインの目の前の霧が晴れた。
「おまえはいったい何の組織の人間なんだ? カイン・リィ。アシュアもおまえもいったい何に所属してるんだ?」
カインは膝に顎を乗せたまま自分を見つめるケイナを見た。光の落ちた彼の姿はぞっとするほど美しく妖艶にさえ思えた。カインは思わず彼から目をそらせた。忌まわしい事件の記憶が頭をよぎる。
こんな容姿を持ち合わせたことはケイナの責任ではない。
しかし、もっと違う形に生まれていれば彼の人生は変わったかもしれないし、今自分と彼がたったふたりきりでいることの危うさを感じて自己嫌悪に陥ることもあるまいに、と思った。
「ぼくらのことは何も話せない」
カインは膝の上の本の表紙を指でなぞりながら答えた。
物理学の難解な学術書だ。こんな本を読んでどうなるものでもないのに、ヒマさえあれば手当たり次第にライブラリから本を借り漁っている自分が滑稽だった。
「きみにぼくらがガードしていることを悟られてしまっただけでも懲罰ものなんだ。ましてや組織のことまで知られたらどうなるか」
カインはそう言ってケイナを見た。
「それに、半分分かっていてぼくに直接口を割らせようとするなんて、きみはタチが悪過ぎるな」
ケイナはくくっと笑った。
「中央がらみだってことぐらいしかわからねえよ」
「だったらそこまでにしておけよ」
カインは言った。
「ぼくらも本当のことはよく知らないんだ」
そしてカインはメガネを取って床に置いた。
「きみが18歳で拘束されなきゃならないことも知らせてもらっていなかった。ぼくらはただ、きみが無事に『ライン』で過ごせるように護衛するだけの任務なんだ」
「(その日)が来たら、お別れってことか……」
ケイナはつぶやいた。カインは口をつぐんだ。
そのことは考えたくなかった。
次の瞬間、いきなり至近距離に気配を感じてカインはぎょっとして目をあげた。
ケイナが自分の顔を覗き込んでいた。
「おまえは味方か? 敵か? おれがおまえのボスに相反したら、おまえはおれを撃つか? 殺すか?」
「ケイナ……」
カインは面喰らった。ケイナの目は自分を見つめているのに、全く焦点が合っていない。
いつもそうだ。まるで相手の頭の中を見つめているような目だ。
カインはこの目が怖かった。予知する自分の目よりもはるかに先を見据える目のようで身震いがするのだ。
そしてこの目をする人間がもうひとりいる。
セレスだ。
「ぼくは……」
カインは喉元を締め付けられるような感覚を憶えながら言った。
「ボスを裏切るより、きみを敵に回すほうが怖い」
ケイナはそれを聞くと、ついと顔をそらせてカインの横に座った。
「よかった」
ケイナは言った。
「おれもおまえと敵対したくない」
カインは何事もなかったかのような顔でミネラルウオーターを飲むケイナを見てほっと息を吐いた。このまま真正面から見ていられたら卒倒してしまいそうだ。
「あいつにだけはカンパニーには手を出して欲しくないんだ」
ケイナはつぶやいた。
「おれと出会ったために、あいつまで巻き込むのは厭だ」
カインは心の隅で小さな火がくすぶるのを感じていた。ケイナがセレスのことを気にするといつもその火を意識する。
「きみは……」
カインは床に置いたメガネを見つめて言った。
「きみは自分のことは諦めたと言うのに、セレスのことは諦められないんだな」
ケイナは何も言わなかった。
「巻き込むのが厭なら、どうして彼を遠ざけない?」
カインは言い募る自分に不快感を覚えていた。
ケイナはやはり答えなかった。
セレスはバッガスに気づかれないように細心の注意を払いながら彼の後ろにくっついていった。
バッガスは途中何度も立ち止まり、店のショーウインドウを眺めたり知らない少女に声をかけてからかったりしていた。
いったい彼は何をしているのだろう。
何回か腕の時計を気にしているところを見ると誰かと待ち合わせているのかもしれなかった。
バッガスが数件先の店先で立ち止まったので、セレスは慌てて手前の角で身をかくした。
しばらくバッガスの様子を見ていたが、ふいに殺気めいた気配を背後に感じてセレスは反射的に身を縮め、同時に振り返った。
「へえ……」
セレスはそこに立っていた影を見た。
「新人にして身のこなしが軽いな……」
体中にどっと汗が吹き出した。数人の少年たちがセレスを見下ろして立っていた。
「なんでバッガスをつける?」
「別につけてなんかいない」
セレスは口がからからに乾くのを感じた。私服だが彼らは『ライン』の生徒だ。 自分のことを新人だと知っているからだ。だが、彼らの顔には見覚えがなかった。
「何かつけなきゃならない理由でも?」
顔中にきび跡だらけの少年が言った。
「何かって…… なんだよ……」
セレスは身構えた。
「それはこっちが聞いてる。意味もなくバッガスのあとをつけるわけがないだろ?」
少年は不審そうに目を細めた。
「探偵ごっこなんかやめて子供は早く家に帰んな」
別の少年が言うやいなや、あっという間にセレスは建物の陰に引きずりこまれていた。
「離せ……!」
抵抗したが相手は三人もいた。体の大きさがあまりにも違い過ぎる。誰かが後ろからセレスの脇に腕を差し入れ、両腕をはがいじめにした。そして、にきび面の少年が腕をセレスの首に押しつけた。
「なあ、おれたちは優しい上級生なんだぜ。だから、ちゃあんとお土産を持たせてあげるんだ」
そして彼はセレスのみぞおちを思いきり殴った。息が詰まり、目が飛び出すのではないかと思った。
腕をはがいじめにされながら体をくの字に折り曲げて苦しむセレスの髪をつかんで彼はセレスの顔を引き上げた。
「かわいい顔してるじゃねえか。ケイナほどじゃねえけどよ」
にきびの少年のうしろにいた奴が言ったが、焦点がぼけてセレスには顔がよく見えなかった。
「おまえもおもちゃになるか? あいつみたいに。殴られるのと抱かれるのとどっちがいい?」
「なに……?」
髪がざわっと逆立つ気がした。こいつらもしかして……。
『そんなはずない…… ケイナを襲った奴は除名されたってカインが……』
「バカなこと言ってんじゃねえよ。ユージーに知れたらぶっ殺されるぞ」
にきびの少年が思わず声を潜めて言った。
「おまえら……! おまえら! ケイナを……!」
セレスは腕をふりほどこうともがいた。
「黙ってろ!」
セレスは顎を掴まれた。
「あいつはおれたちの仲間を半殺しの目に合わせたんだぞ。仲間がそんな目にあったらどんな気持ちか教えてやろうじゃないか」
再びこぶしが振り上げられた。セレスは思わず目を閉じた。
しかし、こぶしは飛んで来ない。
目をあけると、さっきまで目の前に立っていたにきび顔がいなかった。そしてその後ろに立っていた少年もいなかった。
何があったのかと考える間もなく、いきなり腕の枷が外れてセレスは地面に崩れた。そこでようやく彼らがだらしなく地面に転がっている姿に気づいた。
「セレス! 立て!」
乱暴に腕を掴まれて誰かが怒鳴った。
「アシュア?」
セレスはびっくりして腕を掴んだ相手を見た。
「あっちにヴィルを停めてる! 逃げるぞ!」
セレスが何か言おうとするヒマも与えず、アシュアはセレスをひきずるようにしてバッガスがいる通りと平行している建物の反対側の通りに走った。
ヴィルのそばに来てようやくアシュアはセレスの腕を放した。
セレスはごほごほとむせんだ。殴られた胃の上がまだ重苦しかった。
行き交う人が怪訝そうにふたりを見ていったが足を止めることはなかった。
「無茶しやがって……」
アシュアはエンジンをかけながらつぶやいた。
「おまえが顔に痣なんか作って帰ってみろ。ケイナにぶっ殺されるぜ」
「あんた強いね、アシュア……」
セレスは胃のあたりを押さえながら言った。
「あいつらなんであんなにあっさりのびちまったんだ?」
「『ライン』のガキを失神させるなんざ、数秒ありゃ充分だ」
アシュアは仏頂面で言った。
「自分だって『ライン』のガキじゃんか」
セレスはくすくす笑った。
「乗れ! このクソガキ!」
アシュアは怒鳴った。セレスはアシュアの剣幕に笑みを引っ込め、それに従った。
ヴィルが上昇してからセレスはためらいがちに言った。
「アシュア、ごめん。ありがとう」
アシュアはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「おまえにはあいつらを相手にするのはまだ無理だ。ケイナのそばにいたいんだったら、もっと強くなってくれなくちゃ困る」
「わかってる……」
セレスは素直に答えた。
本当にそうだった。腕も足も力が弱い。
あんなふうに三人にかかられて、自分の身を守ることもできなかった。
悔しいけれど、アシュアとカインは自分の身は自分で守れるという事実から目をそらせなかった。こんなことでケイナのそばにいても彼のあしでまといになるだけだ。
そしてあいつらがケイナをまた襲うかもしれないということもまた事実だった。
「アシュア……」
「なんだよ」
アシュアはぶっきらぼうに答えた。
「あいつらまだいる…… ケイナを襲った奴等、まだ『ライン』にいるんだ」
アシュアは黙っていた。
背中しか見えないので、彼がどんな表情をしているのかセレスには分からなかった。
「分かってるよ」
アシュアはしばらくして答えた。
「分かってるけど、除名された奴等以外は証拠がないんだ。たぶん途中で部屋を抜けてったんだろう」
セレスは唇を噛んだ。
「ケイナには言うなよ」
アシュアは言った。
「あいつは全員除名になったと思ってる。それからバッガスが薬を買ってたってことも言うな」
ほんとにケイナは知らないのかな……。あれだけ勘のいいケイナが……。
セレスは思ったが、口には出さなかった。
「おれは今腹が減って最高に機嫌が悪いからな」
ようやくアパートに戻ってきたアシュアとセレスの顔を見るなりケイナは言った。
「すぐに口から溢れ出るくらい食わせてやるよ」
アシュアはそう答えると包みを持ってキッチンにそそくさと入っていった。その後ろをカインはついていき、慌ただしく動くアシュアに声をひそめて言った。
「何があったんだ?」
「おれがいたから警報は見えなかっただろ」
アシュアは答えた。
「何があったか言え」
小声で詰め寄るカインにアシュアは包みの中から肉や野菜を取り出して並べながら顔をしかめた。
「あの坊やがバッガスにちょっかいを出したから、取り巻き連中にとっつかまったんだよ」
カインは呆れたように首を振った。
「それはたいしたことじゃないんだが。二年前の残派が残ってることをあいつ、知ってしまった。どうやらテレンスとクラバスだったらしい。マッドもいたな」
やっかいなことにならなければいいが……。カインはため息をついた。
もっと自分の能力があればこういうとき予知ができるはずなのに。分かっていれば行かせなかった。そう思うとカインは悔しかった。
リビングではケイナがミネラルウオーターのボトルをセレスに渡していた。
「だいぶん前に出したから冷えてないぜ」
「いいよ」
セレスは一気に飲み干した。咽はからからに乾いていた。
「アシュアは人間のいろんな部分の弱点を知っているんだ。たいしたもんだろ?」
「え?」
ケイナがいきなり言ったので、セレスは面喰らった。
「アシュアの顔見りゃわかるよ。あいつバッガスが嫌いなんだ。バッガスの顔を見たら数時間は苦虫かみつぶしたような顔してる」
「そんな感じじゃなかったよ」
セレスはそう言ってしまってからしまったと思った。ケイナにはめられたのだ。
「あいつらに自分から構うな。おまえにはまだ無理だ」
ケイナはにやにや笑って言った。セレスはむくれてミネラルウオーターのボトルを床に置いた。
「アシュアにも同じことを言われた……」
セレスは口を歪めた。
「もっと早く強くなりたい」
「半年くらいたちゃどうにかなってるさ」
ケイナはごろんと横になって言った。
「教科講議はいいとして、ブロード教官のしごきにめげず、おれのRPにめげず、 三ヶ月後の進級査定でせめてランク五位くらいには入れば」
ケイナは指を折りながら歌うように言った。セレスは大きな息をついて首を振った。
そんなセレスを見て、ケイナは身を起こした。
「セレス、おれは三ヶ月後にはもうあの部屋にはいないぞ」
その言葉にセレスははっとした。
「ルームリーダーの期限が切れる。おまえがあがってこないと接点はない」
「……」
セレスは鋭い目で自分を見つめるケイナを凝視した。
「三ヶ月後の進級査定でランク五位以内に入れば、その二ヶ月後に飛び級試験を受けることができる。そこでハイラインに入らなければ一年待つはめになる」
「無理だ、そんなの……」
セレスはかすれた声で言った。
「おまえの兄さんはそれをやってのけてるよ」
ケイナは言ったがセレスは戸惑ったように目を伏せた。
兄さんとおれは違う……。
「おまえのためでもあるんだぞ。おまえはバッガスたちに接近し過ぎた。あいつらはおまえがおれのほうについた人間だと思っているはずだ。この休暇が終わったら、おまえもアシュアやカインと同じように反目を引き受けることになる」
セレスはキッチンのほうをちらりと見た。
彼らは自分で自分の身を守ることができる。でも、おれは……。
セレスはこぶしを握り締めた。
「待ってやりたいけど、おれには時間がない。『ライン』を出てしまったらおまえとは二度と会うことはなくなる」
「どういうこと……?」
セレスは目を丸くした。
「ラインを修了したらどこかに行くの?」
ケイナがしばらくためらって口を開こうとしたとき、キッチンからアシュアが出てきた。
「悪いニュースだ」
アシュアは顔をしかめて言った。
「ナイフを持ってくるのを忘れた」
ケイナとセレスはアシュアを見上げた。
「ナイフって…… 料理の? ここにはナイフがないの?」
セレスは呆気にとられた。
「こいつは自炊なんか一切しないから鍋もナイフもないんだよ。前の時はおれんちから持ってきてた。今回はちょっと、その…… ごたごたしてたから……」
アシュアは頭を掻いて言った。ケイナはくすくす笑い始めた。
「ファストフードを注文したよ。何もないよりましだろう」
カインがアシュアの後ろから言った。ケイナはさらに大声で笑い始めた。
やがて伝染したように全員が笑い始めた。
「すばらしい晩さん会だ!」
ケイナはそばにあったクッションを放り投げた。そんなケイナを見るのは全員が初めてだった。
その夜、四人はとてもおいしいとはいえないファストフードで空腹をとりあえず満たし、疲れ果てたらしいアシュアは早くも床に寝転がって高いびきをかきはじめた。
ケイナがタオルを放ってよこしたのでセレスはシャワーを浴びることにした。
「男四人で色気のない食事だったな……」
セレスがバスルームに入ったのを見送ってケイナはため息をついた。
「今までで一番にぎやかな休暇になりそうじゃないか」
カインは苦笑いしながら答え、ケイナは肩をすくめた。
そのとき、誰かが部屋のドアをノックした。カインが怪訝そうにケイナを見た。既に午後11時を回っていた。
「ごめんなさいね、こんなに遅く」
ドアの外に立っていたのはジェニファだった。
「大騒ぎしてしまったかな……」
ケイナは丸まるとした彼女の顔を見て言った。ジェニファは笑った。
「違うのよ。シェルからベリーパイを届けて欲しいって言われて」
ジェニファはまだ熱いパイ皿を差し出した。ケイナは戸惑ったようにそれを受け取った。
「シェルは朝と夜がごちゃごちゃになっているの。昼食に間に合うからなんて言ってたわ。ごめんなさいね。熱いのを届けてあげたかったし、彼女、最近膝がかなり痛むらしくて自分じゃ運べないのよ」
ジェニファの申し訳なさそうな顔を見て、ケイナは少し笑って頷き、彼女の口の端にお礼のキスをした。
シェルはいつも杖をついている。歳のせいかかなり足が悪くなっているようだった。そんな中でわざわざパイを作ってくれたのだ。
「ケイナ、それでね、ちょっと……」
ジェニファは奥のカインを気づかうように声を潜めた。目が外に出てくれないか、と言っている。
ケイナはちょっと待って、というようにジェニファに手をあげるとパイ皿を持っていったん部屋の中に戻った。
「ちょっと出て来る」
カインはアシュアに毛布をかけているところだった。
「ジェニファが夢でも見たのか?」
カインはそう言って振り向いたがケイナはそれには答えなかった。
「シェルからパイの差し入れだ」
パイ皿を彼にかかげて見せるとキッチンに運び、そのまま部屋を出ていった。
カインはそれを黙って見送った。
あの夢見使いは時々危うい感じがする。自分が見るよりもはるかにいろんなことを予知するようだ。
彼女がまたケイナの心をさざめかせるようなことを言わなければいいが、と思った。
ジェニファは部屋から出てきたケイナを従えるとエレベーターで最上階まであがり、廊下の突き当たりの部屋に彼を案内した。部屋の中はほとんど灯りのともっていない状態だ。
「夜は精霊たちを脅かしてはいけないから灯りをともさない慣習を守ってるのよ。足元気をつけて」
ジェニファはそう言うと、慣れた足取りで部屋の奥に入っていった。
ケイナもおそるおそるそれに続いた。ジェニファが自分の部屋にケイナを連れてくるなど初めてのことだった。なんだかドライフラワーのような甘い香りがたちこめている。
外の光だけで部屋の中の様子が分かるほどに目が慣れてくると、ケイナは改めて部屋の中の異様さに少し驚いた。壁一面に木の枝がびっしりと貼りつけられ、床には文様のついた壷や皿がところ狭しと並べてある。
それぞれに香油か薬でも入っているのか、甘い香りはどうやらそこから部屋中にたちのぼっているらしかった。
ケイナは皿を踏み付けないように足元に注意を払いながらすたすたと歩いていくジェニファのあとに続いた。
「これを見てくれる?」
ジェニファは窓際の木の机の上に置いてある足のついた円盤のようなものを指差した。ケイナは訝し気にジェニファの顔を見てから机に歩み寄った。
それは繊細な装飾を周囲に施した一枚の透明なガラスだった。いや、ガラスではないかもしれない。ガラスにしては透明度がある。
「水晶の板なの。私が占いに使ってたのよ」
ジェニファは説明した。
「グループによっていろいろ方法があるから、あんたは知らないかもしれないわね」
彼女はそう言って少し笑った。
「覗いてみて」
彼女の言葉にケイナはあまり気がすすまなかったが、言われるままに板を覗き込んだ。
「見える?」
ジェニファは尋ねた。
板は透明で下の机の天板が透けて見えるばかりだ。ケイナは顔をあげてジェニファにかぶりを振った。
「心を穏やかにして」
ジェニファは言った。
「私を疑ったりしないで。あなたの目に映るものを信じてみて」
ケイナは再びぎごちなく板を覗き込んだ。何か小さな点がちらりと光ったように思えた。
と、次の瞬間には透明なはずのクリスタルの板に絵の具を流したような緑色の筋が急激に渦巻きを始め、それがものすごい勢いでふくらんだかと思うとケイナの顔に向かって飛び掛かってきた。
ケイナは思わず身をのけぞらせ、後ろにあった椅子に気づかずに思いきり足をぶつけて床に倒れた。
「大丈夫!?」
ジェニファが慌ててケイナを助け起こした。
「な…… なんだ……?」
ケイナは呆然としてつぶやいた。緑の残像がまだ目に残っている。
「びっくりさせちゃったわね…… 大丈夫、あれはあんたを守ろうとして必死みたいなのよ。だから飛び掛かったように見えたんだわ」
「あれ?」
ケイナはジェニファを見た。
「あれって…… あの緑色……」
「あなたにも緑色に見えたのね。あの緑色の髪の子じゃないかしら」
ジェニファは言った。
セレスのことなのか……? ケイナは戸惑ったように視線を泳がせた。
「これは抽象的なイメージでしか映らないの。そうじゃないかと思っただけなんだけど……」
ジェニファは再びケイナを机のそばに近づけた。
もう一度中を覗き込むのはいやだったが、ジェニファに促されてしかたなくクリスタルボードを見た。
緑色のものがゆったりと円盤の中を巡っている。そのうち小さな黒い点がぽつりと現れたかと思うと、見る間にそれは大きく広がった。円盤の中でまるで緑色の絵の具と真っ黒な絵の具がお互いを威嚇しあうかのようにぐるぐると回っていたが、その速さがどんどん速くなっていったかと思うと、いきなり円盤の中は真っ赤になった。
ケイナは思わず息を呑んだ。まるで血の色のような赤さだったからだ。
そしてクリスタルはもとの透明度を取り戻した。
「あんたが来る前はこの中にあんたを現す青い色があったのよ」
ジェニファは静かに言った。
「私の言うことを落ちぶれた占い師の戯れ言として聞いてくれてもいいわ。だからちょっとだけ耳を傾けてくれる?」
ジェニファは倒れた椅子を元に戻し、ケイナを座らせて言った。
「あの子とあんたはまるで水と樹木の関係だと思うの。お互いに相手を必要としてる。あの子はあんたの剣となり盾となるべくして生まれてきたような気がするの。今は未熟かもしれないけれど成長するのに何の労力もいらない。それはあの子が木で、あんたが水と光の役目を果たしているからよ」
ジェニファは困惑しきっているケイナの顔を暗がりでひたと見据えながら言った。
「だけどあの子はあんたを守りきろうとしてこのままでは力及ばずに死んでしまう。真っ黒な闇があまりにも強大な力を持ち過ぎてる。あの子を失うとあんた自身の水も行き場を失ってしまうわ。行き場を失った水は澱んでいくだけになってしまう」
「真っ黒な…… 闇……?」
ケイナはつぶやいた。
「いったい何のこと……?」
「具体的には分からないの。ごめんなさいね……。黒い髪の者なのか、あるいは黒い目を持つ者なのか……。単に象徴なのかもしれない。それは何とも言えないのよ」
ジェニファは申し訳なさそうに言った。
黒い髪と黒い目…… ユージー…? いや、カインだってそうだ。 黒い目、黒い髪の者なんてごまんといる。ジェニファだってそうだ。
ケイナは困惑して息を吐くと髪をかきあげた。
「手立てはあるわ」
ジェニファは言った。
「あの子を大切にするのよ。離れてはいけない。黒はすべてを打ち消す色だけど、水は汚れを洗い流す。あんたがあの子を成長させる。あの子が育てば、あんたたちは未来を変えるかもしれない」
「ジェニファ、おれは……」
ケイナは口ごもりながら言った。彼が言い終わる前にジェニファは何も言うなというように人差し指を口の前にたてた。
「分かってる。占いは所詮占いでしかないわ。ただ、占いに頼らなくてもあの子はちょっと普通とは違うと私は思ったわ。あの子、普通の地球人じゃない」
「え?」
ケイナは目を細めた。セレスが普通の地球人じゃない? いったいどういうことだ。
「びっくりすることじゃないわ」
ジェニファはかすかに笑った。
「ケイナ、あなただって、そうじゃないの」
ケイナはぎょっとしてジェニファを見た。
「別に怖がらせるつもりはないのよ。あんたがここに来てクリスタルは正常を取り戻した。だから今道は開けたのよ」
ジェニファは言ったが、ケイナは難解な謎解きを強いられているような気分になった。
「部屋に戻るよ」
一刻も早くここから出たかった。
ジェニファは少し残念そうな顔をしたが頷いた。
「そうね。急には大変よね。また明日にでも話すわ」
ケイナは踵を返すと足早にジェニファの部屋を出た。
ジェニファを振り向くこともなくまっすぐに自分の部屋のドアの前に戻って、しばらくドアの前で呼吸を整えるように深呼吸をくり返したあと、ケイナは部屋に入った。
「どこに行ってたの」
ケイナの顔を見てセレスが言った。腹を満たし、汗を流して満足そうな表情をしている。
ケイナは何も言わずにセレスの脇をすり抜けて、からからに乾いた咽を潤すためにキッチンにミネラルウオーターを取りに行った。キッチンの小さな台の上にはジェニファの持ってきたパイが乗っていた。
ケイナはそれをしばらく見つめて再びリビングに戻った。
カインはクッションを枕にして本を読んでいた。アシュアはすでに高いびきだ。
「ジェニファに何か占いでもしてもらったの」
セレスは床の上で毛布にくるまって欠伸まじりに言った。
「まあな……」
ケイナは立ったまま水を飲んだ。カインが無関心を装って聞いているのは分かっていた。
「なんて?」
セレスはわずかに好奇心のこもった目でケイナを見た。
「わかんねえよ」
ケイナはぶっきらぼうに答えた。それは正直な気持ちだった。カインが目をこちらに向けるのが分かった。
「ふうん……」
セレスは興味を失ったらしく、それ以上は聞こうとしなかった。
「ケイナ、もう寝ろよ。体力がまだ完全に回復していないんだから」
「そうする」
カインの声にケイナはミネラルウォーターのボトルを持ったまま寝室に入っていった。
寝室のドアが閉まってからカインは床にそのまま寝転がっているセレスを見た。彼はあっという間にすうすうと寝息を立てていた。
「呑気だな、おまえは……」
カインは首を振って自分も横になるために本を閉じた。
翌朝、セレスは誰かがドアを叩く音で目が醒めた。
起き上がって部屋を見回すとカインもアシュアもまだ眠っていた。
一瞬夢だったのかと思ったが、 再び音がしたので目をこすりながら立ち上がってドアを開けにいった。
「ケイナは?」
ドアの外には昨日会った小太りの女が立っていた。ジェニファだ。
「まだ…… 寝てると思うけど……」
セレスはぼんやりした頭で答えた。外がまだ薄暗い。セレスの答えにジェニファは戸惑ったような表情になった。
「シェルが亡くなったの。そう伝えてくれない?」
一気に目が覚めた。セレスはうなずいて部屋に戻り、ケイナの寝室にそっと入った。
「ケイナ……」
セレスは毛布にくるまっているケイナを揺さぶった。
「ケイナ」
「うるせえ……」
ケイナはくぐもった声で言った。
「ジェニファが来てる。シェルが亡くなったって」
「え……?」
ケイナは眠そうな顔を毛布から出してこちらに向けた。
「ゆうべパイを届けてくれた人じゃないの?」
セレスは言った。ケイナは身を起こすと髪をかきあげ、顔を両手でこすった。そして毛布をはね除けて立ち上がり寝室を出た。
寒そうに身を縮めて立っていたジエニファはケイナの顔を見てほっとしたような表情になった。
「二時間ほど前にシエルが亡くなったの。老衰よ。まるで眠るように安らかに逝ったわ……」
ケイナは黙ってジェニファを見つめた。
「あんたたち、今日中に『中央塔』に戻ったほうがいいかもしれない。そのうちここは弔問の『ノマド』で一杯になるから」
そこまで話すと彼女はくしゃみをひとつした。
ケイナの後ろでセレスが心配そうに顔を覗かせた。話を聞いていたらしい。
「シェルにありがとうを言ってなかった」
セレスは言った。
「パイ、焼いてくれたんでしょう?」
ジェニファは微笑んだ。
「優しい子ね…… 大丈夫、ちゃんと食べてくれればそれで彼女は満足するわよ」
セレスを見てそう言い、そして彼女はケイナに再び目を向けた。
「次の休暇を楽しみに待ってるわ。元気で戻っていらっしゃいね」
ケイナは黙って口の端に軽くキスをした。
彼女はケイナにそっと耳打ちした。
「いい子だわ……。絶対あの子と離れちゃだめよ」
ケイナは肩をすくめた。
ジェニファが帰ったあと、セレスはケイナをまじまじと見つめた。
「ジェニファにはあんなふうにしょっちゅうキスするの?」
「あれはノマド式の挨拶だよ。できるだけ口に近い部分にキスするのが親愛の印なんだ。やって欲しいか?」
ケイナが顔を寄せると、セレスはとんでもない、というように身をのけぞらせた。
「やめろよ! もうっ……!」
笑ってアシュアとカインを起こしにリビングに戻って行くケイナをセレスは睨みつけた。
「あと2日は『中央塔』には戻れないぜ」
ケイナの話を聞いたアシュアは欠伸まじりに伸びをしながら言った。
「ライブラリと訓練室くらいは出入り可能かもしれんけど。あんなとこには寝れんだろ」
「『ノマド』たちが来てぼくらも同胞だと思われると帰れなくなるぞ。1週間の葬儀を途中で抜けるのは『ノマド』の中で一番の非礼だ」
カインはメガネをかけながら言った。セレスがケイナの顔を見ると、彼はそうなんだよ、というように肩をすくめてみせた。
「しゃあねえな。とりあえず出るか……」
アシュアは面倒臭そうに立ち上がった。
4人はあわただしく身支度を整え、アパートを出る前にシェルの部屋に行った。そして『ノマド式』に老婆の亡骸のそばにジェニファから手渡された若木の小枝をひとり一本ずつベッドの上に置いて冥福を祈った。
ジェニファは遺骸に防腐の香油を施し、これから三日三晩その枕元で祈りをささげるのだ。
シェルはまるで口元に笑みを浮かべて眠っているような顔だった。
顔中しわだらけになっていたが、きっと昔は美人だっただろう。
セレスはシェルの横に小枝を置き、しばらく彼女の顔を見つめたのちそっと顔を寄せて彼女の唇のそばにキスをした。つい数時間前までは笑って動いていた彼女の顔は冷たくなっていた。
「シェル、ありがとう。パイ、絶対食べるね」
セレスは目を閉じたままのシェルにささやいた。ケイナはそれを見ていたが何も言わず黙っていた。
少しずつ『ノマド』たちがアパートに集まってきていた。
朝もやの中を頭からすっぽりと布をかぶって歩いて来る彼らの姿は一種独特な雰囲気で、ケイナたちはこっそりと彼らに見つからないようにアパートを抜け出すと建物の裏のヴィルを停めていた場所に行った。
「なんだか慌ただしい休暇だな」
荷物をヴィルの脇にゆわえつけてアシュアが言った。ケイナはセレスに後ろに乗れ、というように合図し、4人はあてもなくシティに向かって飛び立った。
『中央塔』の近くにある公園にヴィルを降り立たせると、アシュアがめざとく近くのカフェを見つけてコーヒーを買ってくると言って駆け出した。
早朝なので公園にはあまり人がいなかったが、空港で早い便に乗るらしい、いかにもビジネスマンらしい男の乗ったプラニカが何台か近くを走り抜けていった。
「シェルのパイを持ってきたよ」
セレスが適当に引きちぎったらしい紙で包んだベリーパイをバッグから取り出した。
「食べなきゃ、彼女に悪いよ」
セレスはそう言い、ケイナとカインにひとつずつ紙包みを渡した。
ケイナは朝から甘いものを食べたくないのか少しげんなりした顔をしたが、黙って紙包みを受け取った。
「あっちにベンチがある」
カインが木立の向こうにある池のほとりを顎でしゃくった。
3人がベンチに腰かけてまもなく、アシュアが熱いコーヒーの紙のカップを持って戻ってきた。
「ケイナと違っておれは朝強いけど、今日みたいに自然な目覚めでないのはどうもいかんぜ」
アシュアはそれぞれにカップを渡すと愚痴をこぼした。セレスはアシュアにもパイを渡した。
「お! 気がきくじゃねえか! おれ、あのまんま置いてきたと思ってたぜ」
アシュアは嬉しそうに言った。
「シェルはおれたちに絶対食べて欲しいと思うんだ」
セレスは笑って言った。
「朝から血圧の高いやつだな……」
ケイナはコーヒーをすすってつぶやいた。
それを聞いたアシュアはケイナを指差した。
「セレス、こいつはな、ラインに入りたての頃は寝坊こそしなかったが目覚めが悪くてな、寝起きはすげえ機嫌悪いんだ。おれは何回も殴られそうになった」
「アシュアとケイナは同じ部屋だったの?」
セレスはパイをほおばりながら尋ねた。シェルのパイは甘過ぎる気もしないではなかったが、おいしかった。
「一年だけだけどな。愛想悪いんだよ、こいつは。にこりともしない奴だったぜ」
アシュアは答えた。ケイナの愛想の悪さはわざわざ聞くまでもないがただでさえいつも不機嫌そうなケイナが更に不機嫌になるのはちょっと想像したくなかった。
「それはそうと、ケイナ、これからどうする」
カインは言った。ケイナは肩をすくめた。
「さあ…… どこか安ホテルにでも泊まるかな…… 2日くらいならなんとかなるし」
「泊まるだけならおれんちに来いよ。メシ食わせてやるぜ」
アシュアが言うと、ケイナは冗談じゃない、という顔をした。
「あんな、がらくたまみれの部屋、絶対行かない」
「ああ、そ。そりゃどうも。セレスは自分のアパートに戻んな。おまえ、レポートも書いてないだろう」
アシュアはセレスに目を向けた。
「うん……」
そう答えながらセレスは何か重要なことを忘れているような気がしたが、それが何なのか思い出せなかった。
「ケイナ、良かったらぼくのアパートか、リィ系列のセキュリティのあるホテルに……」
カインがそう言いかけると、ケイナはじろりとカインを見た。
「心配すんなよ。大丈夫だから。もっとも……」
ケイナはちょっと言葉を切った。
「おまえがそうしなきゃならないって言うんだったらそれに従うけど」
カインは口を引き結んで持っているカップに目を落とした。
「ケイナ、またおれんちに来る?」
セレスはためらがちに言った。
「おれんちだったら少なくとも兄さんの部屋が空いてるから、ひとりになれるよ」
「どいつもこいつも……」
ケイナは空になった紙コップをぐしゃりと握りつぶした。
「人をガキ扱いしやがって……!」
アシュアがげらげら笑い出した。
「子供じゃねえか! ひとりじゃメシも作れねえくせに!」
ケイナは握り潰した紙コップをアシュアに叩き付けると立ち上がった。
無言で3人に背を向けると、ヴィルを停めてある方にバッグを抱えて歩き出した。
「血圧高いのはどっちなんだか」
アシュアが欠伸まじりに言った。
セレスはアシュアをちょっと睨みつけると、パイの最後のひときれを口にほおばって立ち上がり、急いでケイナの後を追った。アシュアとカインはちらりと目を合わせて、何も言わずにその姿を見送った。
「ケイナ!」
セレスはヴィルにまたがるケイナに走りよった。
「アシュアは冗談を言ったんだよ。本気で怒んなくても……」
「怒ってねえよ……」
ケイナはセレスを見て苦笑した。
「おまえはほんとにそのまんまなんだな」
ケイナはヴィルのエンジンをかけた。
「……?」
セレスはわけが分からずにケイナの顔を見た。ケイナはバイクの後ろを顎でしゃくった。
「乗れよ。おまえんちに泊めてもらうから……」
「え?」
「あいつらもそうしろってさ」
ケイナはアシュアとカインの座っているベンチを目で指した。セレスが慌てて目を向けると、ふたりはこっちを振り向いていた。アシュアがセレスにひらひらと手を振った。
「早く乗れ」
ケイナは言った。セレスは顔中に笑みをあふれさせるとケイナの後ろに飛び乗った。
ふたりが空高く舞い上がって走り去っていくのをカインとアシュアは見送った。
「とりあえずこれでいいのかな」
アシュアはぱくりとパイにかぶりついて言った。
「抑制装置がなくなってまだ間がないんだ。ひとりにしとくのはまずい。かといって、ぼくたちのそばには絶対来ないからな」
カインはコーヒーを飲んで答えた。
「いつまでたってもおれたちは警戒されたまんまだな」
アシュアは食べ切ったパイの紙包みを丸めた。
「別に警戒してるんじゃないだろうけど…… セレスとぼくたちは彼にとって根本的に違うんだよ……」
カインは目を伏せた。
「ぼくらはケイナにとって守ってもらうための存在だ。だけど、セレスは彼の心の中で守るべき存在になってるんだ」
カインは空になった紙コップを見つめてつぶやいた。
「守りたい人間がいると、人間はこんなにも変わるもんかな……」
「それが仇にならなければいいけどな」
アシュアは息を吐いて空を見上げた。