ケイナは病院に運ばれ、丸二日間眠ったままだった。そして三日目になっても目を覚まさなかった。
 銃ではじき飛ばされた半分の耳は尻のほうの組織を培養し、以前とほとんど変わらないように接合された。
 セレスは死んだようにぴくりとも動かないケイナの顔を見つめた。
 アシュアの言うように本当に戻って来てくれないのだろうか。
 彼を置いて家に帰ることなどできず、セレスは彼の目が再び開くことを祈り続けながらケイナのそばにいた。
「様子はどうだ」
 ハルドが病室に入ってきて青い顔をしているセレスに言った。
「変わりない」
 セレスは首を振った。
「もう、とっくに目が醒めてもいいらしいんだけど」
「少し眠ったほうがいいぞ」
 ハルドは真っ赤に充血した弟の目を見て心配そうに言った。
「寝てるよ。そのへんで…… でも、細切れに目が醒めちゃうんだ」
 セレスは脇の簡易ベッドを顎でしゃくって答えた。ハルドはため息をついた。
「アシュア・セスは?」
 ハルドは部屋を見回して尋ねた。昨日来た時にはケイナのそばにいた。何も言わずに暗い顔でずっとケイナの顔を見つめていた。
「一度家に戻るって言ってた。ケイナの目が醒めたらすぐに連絡してくれって言ってたけど……」
 セレスは目をこすりながら答えた。
「兄さん」
 訴えかけるような目をして自分を見る弟にハルドは目を向けた。
「ケイナは何か罪になる?」
「ならないよ」
ハルドは弟を安心させるように少し笑みを浮かべて答えた。
「ならないように報告書をまとめた。マスコミへの情報もだいぶんシャットアウトした。市民を守るためにケガをしてまで立ち向かった勇敢な少年ということでみんな認知するだろう。もっとも…… 人の噂だけは制御するわけにはいかないが…… 助けられた人がいるのは確かなんだから悪いようにはならないだろう」
「……兄さんは大丈夫?」
  セレスの不安はまだ晴れないらしい。ハルドは腕を伸ばすとセレスの頭に手を置いた。
「カート司令官はあのときケイナのことは任せるとおっしゃっていたんだ。任せると言ったのはね…… 何があったとしてもぼくの権限で行ったことなら文句は言わないということだよ。その言葉をあとで覆すような人じゃない」
「よかった……」
 セレスはようやく安堵の息を吐き、ケイナの横たわるベッドに頬杖をついて再びケイナに目を向けた。
「あとは目が覚めるのを待つだけだね」
 ハルドはさまざまな疑問が頭を渦巻いていたが憔悴しきっている弟を気づかって今は何も聞かないでおこうと思った。
「おれはもう戻らないといけないんだ……」
 ハルドは言った。
「一緒にいてやりたいんだが…… すまないな…… おまえも体を休めるんだぞ」
「分かってる。大丈夫だよ」
 セレスはかすかに笑みを浮かべて兄を見た。ハルドは笑みを返したあと、ふと思い出して上着のポケットを探った。出てきたのは小さな女の子の人形だった。
「ケイナの目が覚めたらこれを渡してやってくれ。彼が助けた女の子が早く怪我がよくなるように渡してくれと言っていた」
 ハルドはそれをセレスに手渡した。金色の髪に青い目をした、どことなくケイナの面立ちに似ている人形だった。
「分かった。渡すよ ……兄さん、ありがとう」
 ハルドはまた手を伸ばして弟の頭をくしゃっとなでると病室をあとにした。
 兄が出て行ったあと、セレスはケイナの顔を見つめながら頭をベッドにもたせかけた。
「帰ってきてよ、ケイナ。このまま眠ったまんまなんて、オレ許さないからな……」
 そしてしばらくたつと、自分が深い眠りに落ち込んでいったことにセレスは気づかなかった。

 その頃、アシュアは画面の向こうで怒りを顔中にあらわしているトウ・リィと、その横で無表情に立つカインを見ていた。
「彼がいつもと違う行動をとってたっていうのに、どうして彼のそばを離れたの」
 トウの声は怒りを必死になって押し隠しているようだった。
「それは、さっきも言った通り……」
 カインは答えた。
「そんなことをするなんてぼくらは聞いていなかったし、知らなかったんです」
 トウの鋭い目がカインを睨みつけた。
「ケイナはおれたちと別れるほんの数十分前にはいつものようにアパートに戻るって言っていたんです」
 アシュアが画面越しに助け舟を出した。
「ふざけた言い訳をしないでちょうだい」
 トウの目がじろりとアシュアを睨んだ。アシュアは思わず目の前のモニター画面から身をのけ反らせた。
「『見えた』からアシュアをケイナのそばに行かせたんでしょう?! 『見えて』いたのにわざとケイナの行動を許したわね!」
 ついに怒りが爆発し、トウはカインのメガネをひったくって取ると床にたたきつけた。メガネは割れなかったが、かちんと小さな音をたてて床から跳ねかえった。
「セレス・クレイというのは…… いったい何者なの」
 トウはメガネをとられてもびくりともしないカインを憎々し気に睨みつけて言った。
「今年ラインに入った軍科の新入生です。ケイナとは同室でした」
 カインは表情を変えずに答えた。
「そんな子とケイナがどうして個人行動をとるのよ」
 トウはカインに詰め寄った。カインは肩をすくめた。
「何を隠してるの? 私の目がごまかせると思ってたの?」
 トウはいらいらとした口調で言った。
「ケイナが前のように自分で自分を殺そうとしたらどうするつもりなのよ」
 カインが何も言わないので、トウはデスクを平手で叩いた。デスクの上のトウの華奢な愛用のペンが衝撃で跳ねた。
 アシュアはじっとカインの出方を見守った。カインの考えることに合わせるつもりだった。
「ケイナはそんなことはしません。セレス・クレイがそばにいれば」
 カインは言った。
「どういうこと?」
 トウは目を細めた。
「ケイナだって普通の人間ですよ。心を許せる相手になら気持ちだって平穏でいられるんです」
「普通の人間?」
 トウが嘲るような笑みを浮かべたのをカインは見咎めた。
「普通の人間でしょう。ケイナは当たり前に普通の17歳の人間だ。何が違うって言うんです」
「トウ」
 アシュアはたまりかねて口を挟んだ。このままカインにしゃべらせていたら、トウは彼の顔をはり飛ばしそうな気がしたのだ。画面越しでいる以上、自分には彼女の平手が飛んでくる心配はない。
「今回確かにケイナは一時自己喪失に陥っていたけれど、あのときセレスの呼び掛けに反応した。だからおれはケイナから銃を取り上げることができたんだ。セレスがいなければ、カインがいない時におれひとりではケイナを静めることはできなかったと思う」
 トウはしばらく黙っていた。やがて鋭い目をカインに向けた。
「セレス・クレイの報告書を一週間以内に提出して。それから休暇が終わったらセレス・クレイの行動もケイナの行動と合わせて提出すること」
 カインの眉がぴくりと動いた。トウはそれを見逃さなかった。
「隠そうなんてことはもうしないことね。あと一回こういうことがあったら、ただじゃすまないわよ。解雇されるだけじゃないくらいの覚悟はしておくことね。『ビート』の名前が聞いて呆れる。一度ならず二度までも……!」
そこでアシュアの前の画像がぷつりと消えた。アシュアは長いため息をついた。
「どうする気だ、カイン…… 下手するとおれたちはケイナを敵に回すことになるぞ……」
 アシュアはそうつぶやいて、まだトウの繰り言を言われているだろうカインを思い浮かべた。

 セレスは久しぶりに心地よい眠りをむさぼっていたが、ふと気配を感じてはっとして顔をあげた。
 そしてケイナが目を開けて天井を見つめているのを見て一気に目が覚めた。
「ケイナ! 分かる? おれのこと分かる?」
 セレスはケイナの顔に被いかぶさるようにして尋ねた。しかしケイナは天井を見つめたままだ。
「ケイナ!」
 ケイナはゆっくりとまばたきをした。
「ケイナ!」
「うるせえ……」
 ケイナはゆっくりとセレスに目を向けた。
「みみもとで…… 怒鳴るな……」
 それを聞いてセレスは安堵した。
「ここは……」
 ケイナは額をこすろうとして手をあげかけたが、思うように動かないらしく顔をしかめた。
「病院だよ」
 セレスは答えた。
「ケガしたんだ。でも、休暇が終わるまでには治るよ」
 聞こえているのかいないのか、ケイナはぼんやりと宙を見つめた。まだ意識がはっきりとしていないのかもしれない。
「あの子は……?」
「……あの女の子のこと?」
 セレスは尋ねた。ケイナは黙っていた。
「大丈夫だよ。今頃お父さんの待つ地球に戻ってるよ。これ、その子がケイナに渡してくれってさ」
 セレスはケイナの手に人形を握らせた。ケイナは苦労してそれを自分の顔まで持ち上げた。その目にかすかに安堵の光が宿った。そして彼はセレスに目を向けた。
「あいつは?」
 セレスは一瞬ためらった。ケイナはどこまでのことを覚えているんだろう。
「……あの男なら捕まったよ。薬をやってたらしいから、治療をしてから取り調べだって兄さんが言ってた。違法シールドのコートの出どころや改造銃のでどころは手がかりがないから長引きそうなんだ」
 ケイナはそれを聞いて長いため息をついた。
「殺してなかったのか……」
「誰が殺すんだよ。あの男は捕まって、ちゃんと裁判にかけられるんだ」
 セレスは注意深く言った。ケイナは黙っていたが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「思い出せって……」
 セレスは怪訝な顔でケイナを見た。
「おまえ…… おれにそう言ってたよな……」
「おれの声、届いてたんだ」
 セレスは驚きと嬉しさを感じて言った。
「途中からあんまり…… 覚えていない…… でも、おまえの声がどこかで聞こえたように思う……」
 ケイナは記憶を辿るように視線を宙に泳がせた。
「おれは、銃を持ってた。それをアシュアに向けて……」
「ケイナ」
 セレスは必死になって考えを巡らせた。下手なことを言うとまたケイナの感情を高ぶらせてしまうかもしれない。吹き飛ばされた耳と一緒に今は抑制装置も壊れてしまっているのだ。
「あんたはアシュアを撃ってないよ。あんたはあの男に銃口を突き付けられて身動きとれなかったんだ。だけど、信じられないような動きであの男から銃を取り上げたよ。それだけだよ」
 セレスは言葉を選びながら言った。
「あいつは撃たれてないよ。アシュアも撃たれてない」
 ケイナはぎごちない様子で人形をじっと見つめていた。
「ケイナ、あんたの耳にもう赤い点はついてないんだ。 赤い点はあの女の子をかばった時に吹き飛ばされた。でも、あんたは正気に戻った。あんなピアスで封印しなくっても、あんたは自分で自分の感情をコントロールできるよ」
 ケイナはまだ銃の感触の残る左手を見た。
「封印……」
 ケイナの目が見開かれた。そしていきなりがばっと飛び起きた。
 さすがに急激な血圧の変化に堪えきれず、再びベッドの上に崩れ折れてしまう。
「いきなり起きちゃだめだよ!」
 セレスは仰天した。ケイナの目は大きく見開かれていた。体をくの字に折り、小刻みに震えている。
「ケイナ……!」
 セレスはまた自分が失敗したことを悟った。ケイナを興奮させることを何か言ってしまったのだ。
「ナイフ……」
 ケイナは呻いた。
「え……?」
 セレスはケイナを仰視した。
「よくもおれの利き腕を……」
 セレスはぎょっとした。二年前のあの事件のこと?
 どうして今そんなことを思い出すんだ?
 ケイナの顔は苦し気に歪み、震える手がシーツをぎゅっと握り締めた。きっと彼の目の前にはそのときの光景が浮かんでいるのだろう。
 セレスははらはらして彼を見守った。このまままた感情が高ぶり過ぎて大変なことになったらどうすればいいんだ……。
「倉庫の床が真っ赤で…… おれはいったい何をした……? おれの左手はぼろぎれみたいに指がてんでばらばらで…… あそこに落ちているあのかたまりはいったいなんなんだ……?」
「ケイナ、もうやめろよ」
 セレスはいたたまれなくなってケイナの肩を掴んだ。
「もう終わったんだよ。二年前のことなんか、忘れろよ……!」
「封印しよう……」
「封印なんてもういらないんだよ!」
 セレスは無我夢中で言った。
「言ったろ! あんたはもう自分で自分をコントロールできるんだ! おれやカインやアシュアがいつもそばにいるよ! おれたちを信じてよ! ひとりで自分を追い詰めるなよ!」
 必死で言った。早くケイナを元に戻さないと。
「ケイナ、頼むよ、頼むからおれの声、聞いて!」
 ケイナははっと我に返ったような顔でセレスを見た。セレスはそのケイナの顔を覗き込んだ。
「あんた、耳の赤いあの点が取れたら前後不覚に暴れるんじゃないかなんて言ってたよね。でも、大丈夫だろ? 今の傷も治るよ。あんたはもう呪わしい思いに捕らわれないよ」
 ケイナはまだ震えていた。
「おれね、地球では緑色の目と髪を持つことで目立っちゃったんだ。こっちに来てからはバスケットの試合で、シュートを決め過ぎるって嫌われたんだ」
 セレスは自分で何を話そうとしているのか分からないまましゃべり続けた。話してケイナの意識をこちらに向けておかなければと必死だった。
「でも、どうしようもないんだよ。おれの髪って何だか知らないけどうまく染まらないし、目の色を手術で変えるのって厭だったし…… なんとかしろって言われて、はいそうですかって無理なんだ。バスケでボールなんて、どうやって『取らない』ようにすればいいのかわかんないよ。自分で意識ないんだもん、どうしようもないよ……」
 ケイナはまじまじとセレスの顔を見つめた。セレスはちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「ケイナもきっといろんなこと、人と違うって言われ続けてたんじゃないかと思うんだけど…… ケイナの辛い思いにくらべれば、おれのなんてどうってことないけど、おれ、ケイナみたいになりたいって、ずっと思ってたんだ。きっと初めて会った時からずっと…… あんたはいつも堂々としてた。自分が人とは違うってこと、おれ、やっぱり心のどこかで引け目に思ってたのかもしれない。だから、あんたに近づきたいと思ったんだ」
「じゃあ、失望しただろ。おれはそんなに強い人間じゃない」
 ケイナは目を背けた。
「そうだね」
 セレスは言った。目を背けはしたが、ケイナの震えがおさまっていることをセレスは見てとった。
「失望したよ。やっぱりケイナはおれが守ってやんなくちゃって思ったもんな」
 ケイナは思わずセレスの顔を見た。セレスは笑ってみせた。
「おまえは…… 変わってる」
「あんたもね」
 セレスは笑いながら答えた。
「ねえ、ケイナ」
 顔を傾けてケイナに近づけた。
「おれ、今のこの状況がほんとは信じられない。あんたは今こんなにおれのそばにいるよね。ちょっと前までは話すらもできなかったのに。あんたは笑うかもしれないけれど、おれ、あんたを守りたい。それはケイナが弱い人じゃないからだ。あんたは強い人だよ。とても強いよ。おれはそんなケイナが好きだから守るんだ。今、それに気がついたよ」
「声を……」
 ケイナは白いシーツを見つめてつぶやいた。
「おまえの声だけは聞こえたんだ。なんでなんだろう……。おまえはあのひとことで、おれを二年前の時間からも現実に呼び戻したんだな……」
「切れそうになったら、また呼ぶよ」
 セレスは笑った。ケイナは苦笑した。もう大丈夫だとセレスは思った。
「アシュアに連絡してくる。それからドクターにも。あんたをこんなに興奮させて、ちょっと叱られるかもしれないけど」
 セレスは笑って立ち上がると病室を出て行った。
 その姿を見送って、ケイナはつぶやいた。
「声……」