翌日ケイナは目が醒めた時、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。
 意識がはっきりしてくると信じられないくらい体が軽くなっていることに気づいた。
「ああ、そうか……」
 食事をしたんだ……。
 ハルドとしばらく話をして、そして眠った。昨日からいったい何時間寝たんだか。
 ケイナは苦笑した。体が軽くなるはずだ。
 彼はベッドを抜け出すとそっとドアを開けた。リビングに行くとハルドがひとりでコーヒーを飲んでいた。
「おはよう。よく眠れたかい」
 ケイナの姿に気づいてハルドは言った。ケイナはうなずいた。
 ハルドは笑みを浮かべるとコーヒーを新しいカップに入れてケイナにおしやった。ハルドもセレスもコーヒーが大好きらしい。
 壁のモニターに映っていたニュース画像の時刻を見ると、まだ六時過ぎだった。
 それでも『ライン』での生活を考えるとかなりの寝坊だ。
 ソファに目を向けると寝ていたはずのセレスの姿がなかった。
「セレスは……?」
「まだ寝てるよ」
 決まってるじゃないか、というようにハルドは笑った。
「ぼくが五時の報告を受けるために起きた時にはソファから落ちて床に寝ていたから、あっちの寝室に運んでいった。たぶんあと二、三時間は寝るだろうな」
 ケイナはくすりと笑ってコーヒーを飲んだ。熱かったがおいしいと思った。そう思う自分に気づいて少し驚いた。
 嬉しい、楽しい、おいしい、まずい、好き、嫌い…… そういうことをしみじみと感じたことなど、もうずいぶん長い間なかったような気がする。
「ハラが減ったらキッチンで好きなものをプログラムして食べていいから。セルフサービスだ」
 ハルドの言葉にケイナは再びうなずいた。
 ハルドは昔会ったと言ったが、ケイナにとってハルド・クレイは初対面も同然だった。それなのに、目の前に座っている彼には少しも警戒する気持ちにならない。
 初めて会って話をする人間にこんなに気負わずにいた記憶はなかった。
 今でこそそばにいることが普通になっているカインとアシュアだって、最初はうっとうしいと思ったものだ。
 もっとも、彼らは出会ったときから何か思惑があったからというのもあったが。
 ほかの人間と目の前のこの人とは何が違うんだろう……。
「もう起きてたの?」
 声がしたので振り向くと、セレスが眠そうな顔で立っていた。
「そりゃこっちのセリフだ。えらく早く起きたな」
 ハルドが言った。
「兄さんのベッド硬くて……」
 セレスはそう言ってケイナのそばの椅子に座り、テーブルの上のポットを持ち上げてカップにコーヒーを注いだ。
 緑色の髪が四方八方に突っ立っている。よほどひどい寝相だったのだろう。
「クソ重いおまえを抱えてあっちまで運んで行ったんだぞ。ありがたいと思え」
 ハルドはコーヒーを飲んでセレスを睨んだ。セレスはカップを口につけて「あっちっちっち……」と顔をしかめた。
 ケイナはただ黙ってふたりのやりとりを聞いていた。
 義理の兄であるユージーと、顔も合わさず話をしなくなって何年になるだろう。
 ユージーとの生活は『ジュニア・スクール』時代から全く別になっていた。
 義父がほとんど家にいないので、食事も別々に自分の部屋でとっていたのだ。
 『ジュニア・スクール』のときからいつもぴりぴりと神経を尖らせて生活していた。
 階段を前にすれば突き飛ばされて転げ落ちることを考えた。屋外授業は足を挫く心配をした。
 カバンの中に入った刃物で手を切らない注意をした。そう、カバンはいくつ替えただろう。
 テキストとともに何度も何度も切り刻まれた。そのたびに新しいものを買わなければならなかった。
 『ライン』ではもっとすさんだ生活だった。
 殴られたり故意に怪我をさせられたことなんか数えきれない。眠っているあいだでさえ人の足音にびくびくした。
 結局、2年前のあのときが一番最悪のできごとだったけれど。
 顔も見ない、声もかわさないのに、みんな兄が自分を憎んでいると言う。
 18歳になればおれなんかいなくなるのに、どうして?
「叔母さんが今日、明日あたりで一度連絡しろって言ってたぞ」
 ハルドがセレスに言った。ハルドの声にケイナははっと現実にかえった顔をした。
「四ヶ月間一度も連絡がないって嘆いていた。体を壊してるんじゃないかとやきもきしてる。ぼくの時にはそんな心配しなかったくせにって言うと笑ってたけど」
「連絡なんかするゆとりなかったよ」
 セレスは仏頂面で言った。
「そう言っといた」
 ハルドは笑って答えるとモニターに目を移してニュースに耳を傾けた。
「ゆうべはよく眠れた?」
 セレスはケイナに目を向けた。ケイナはうなずいた。
「自分がいつ寝入ったのか、どんな夢を見たのか覚えてないよ」
「良かった。顔色が昨日よりもずっといいよ」
 ケイナは黙ってコーヒーを飲んだ。
 セレスはケイナの表情がいつもよりずっと落ち着いているので安心した。自分の家にいてくつろいでくれていることが嬉しかった。
「朝メシを早く食ってシャワーを浴びてしまえよ。エアポートに連れて行ってやるから」
 ハルドがふたりに言った。
「ほんと?」
 ハルドの言葉にセレスが嬉しそうな顔をした。
「エアポートの管制室の見学と三人乗りの小型機を予約しておいた。ぼくが一緒にいなくちゃ許可のおりないツアーだよ。感謝しろよ」
 ハルドは得意そうに言ったが、セレスはすでにそれを聞いていなかった。そそくさと立ち上がると朝食の用意をしにダイニングに行ってしまったのだ。
「ケイナ、食べた? おれと同じのでいいー?」
 うん、と答える前にハルドの視線に気づいた。
「悪いね。つきあってもらうよ」
 ハルドはケイナに言った。ケイナは小さく笑った。
 ここにいると何でも素直に受け入れられそうな気がした。幼い頃『ノマド』たちの中にいた時をふと思い出した。

 エアポートに向かう間、セレスは小さな子供のように目を輝かせていた。
 エアポート関連の施設はケイナ自身も入るのは初めてだ。
 幾重にもチェックがあって、よほどのことがなければ足を踏み入れることなどできっこない。
 しかし豪語したものの本当は秘書のリーフの協力がなければ実現しなかったということをハルドは内緒にしていた。
 リーフはどういう手段を使ったのかは分からないが、カート司令官の許可証を入手したのだ。
 もっとも、リーフとて司令官の息子が見学に行くなどとは今でも思っていないはずだ。
 エアポートのロビーにつくと、リーフは満面の笑みを浮かべて三人を出迎えた。
「久しぶりだね、セレス。大きくなったなあ」
 リーフは嬉しそうにセレスと握手をした。
 リーフとはハルドと通信するときに何度か顔を合わせている。セレスはこの誠実そうな青年が兄のそばにいてくれることにどれほど安心感を持ったかしれない。
「初めまして。ケイナ」
 リーフは笑みを浮かべてケイナにも握手を求めた。
 自己紹介されなくてもリーフがケイナのことを知らないはずはなかった。
 だが、いきなり来た彼を見ても慌てたような素振りは見せないのが彼のいいところだ。
「今日はご一緒に?」
 リーフの言葉にハルドは肩をすくめた。
「悪いね」
 リーフは笑った。
「ええ、でもその前に休暇中申し訳ないんですが呼び出しがかかってます。30分ほど仕事してもらえませんか」
 リーフの言葉にハルドはため息をついた。しかたなくセレスを振り向いた。
「そのへんんで待っていてくれるか?」
「いいよ、兄さん」
 セレスはうなずいた。それを見てリーフはそそくさとハルドの腕をひっぱり、足早にふたりから離れた。
「入室許可証、適当に通しますから手伝ってください」
 リーフは(とが)めるような声でハルドに言った。
「なんでアパートから連絡してくれなかったんです? カート司令官の息子さんが同行するって」
「どこから連絡したってどうせやることは同じだろ」
 ハルドは笑って答えた。
「司令官の息子ですよ。何かあったらどうするつもりです?」
「何もあるわけないだろう。警備室で事件が起こったらそっちのほうが問題だ。それに彼は今はセレスの友人だよ」
 リーフは口をつぐんで少し考えたのち再び口を開いた。
「適当にするのは撤回します。カート司令官に連絡とりますから。30分以上はかかると思いますよ」
「うん。頼むよ」
「頼むじゃないでしょ。あなたが直接連絡するんですよ!」
「あ、そうか。そうだな、そのほうが早いし確実か」
 リーフは呆れ返ってハルドを見た。この人は時々こういう間の抜けたことをする。
 先に立って歩くハルドを見ながらリーフは首を降った。
 まあ、だから出世するのかもしれないけれど……。

 ハルドとリーフが歩いていくのを見送って、セレスは周囲を見回した。
 ちょうど船の離発着があるのかロビーはたくさんの人でごったがえしていた。
 ふたりは大きな柱にもたれてぼんやりと行き交う人波を眺めていたが、セレスはふと通って行く人の目がやたらと自分たちに向けられていることに気づいた。
 ケイナの容貌が目立ち過ぎるのだ。
 そっとケイナの顔を盗み見ると、彼はまるで頓着せずあくびをかみ殺していた。
「食事はおいくら?」
 いきなり背後で声がして、ふたりはびっくりして振り向いた。髪を高く結った年配の裕福そうな女性がふたりを見上げていた。
「食事だけでいいのよ。おいくらかしら」
 再び女性が言った。セレスの顔にかっと血が昇った。
「あっち行けよ、くそばばあ」
 セレスは言った。女性は目をぱちくりとさせた。
「あっち行けってんだよ! こんな朝っぱらから寝ぼけてんじゃねえっ!」
 セレスは怒鳴った。周囲にいた人々がびっくりして立ち止まった。
 女性はなにがなんだか訳が分からないといった表情で立ち尽くしていたが、やがてぶつぶつと文句を言いながら行ってしまった。
「失礼ね。まぎらわしくピアスなんかしてるんじゃないわよ」
 女性がつぶやくのが聞こえた。
「失礼なのはそっちだろ!」
 セレスは歯を剥き出して怒鳴った。
「ケイナ、なんでいつもみたいに怒鳴ってやらないんだよ」
 セレスは鼻息を荒くして、黙ったままのケイナに言った。
「あんなのしょっちゅうだよ。片耳のピアスは一部ではサインらしい」
 こともなげに答えるケイナにセレスははっとした。
「もしかして…… 外には出たくなかった?」
 ケイナはそれを聞いて笑みを浮かべた。
「だからしょっちゅうだって言ってるだろ。気にしてない」
「おれ、なんか飲むもん買って来る」
 セレスはふいに顔を背けるとケイナの返事を待たずに駆け出した。
 ケイナは黙ってその後ろ姿を見送った。
 おれと一緒にいると、こういう(いや)なことをいっぱい知るようになるんだろうな。
 うっとうしい赤い色の抑制装置。目立つ容姿。普通にやってるつもりでも人目を惹いてしまう行動。
 うっとうしい。本当に不快だ。全部なくなってしまえばいいのに。
 ふと足元に気配を感じてケイナは顔を向けた。
「お兄ちゃん……」
 五、六歳くらいの少女が困ったような顔で見上げていた。
「これ、とって……」
 長い栗色の髪が小さなショルダーバックの金具にからみついている。からまったほうに頭を傾けて泣き出しそうな顔をしていた。
「バックを外そうとしたらひっかかったの。どんどん取れなくなるの」
 ケイナは身をかがめた。金具と金具のつなぎ目に髪がからまっている。少女の髪をひっぱらないように気をつけながらケイナは髪を外してやった。
「ありがとう」
 少女は嬉しそうに笑った。そしてケイナの顔をまじまじと見つめた。
「お兄ちゃんはわたしの持ってるお人形さんみたい」
 ケイナは少し笑みを浮かべた。どうリアクションすればいいのか分からなかった。
「アミイはとっても可愛いのよ。いっぱい洋服も持ってるのよ。ママのバックに入ってるの。わたしお土産を買ってもらったのよ。アミイのイブニングドレスよ。ここに小さなお花がいっぱいついてるの」
 少女は自分の胸元をさしながら言った。
「うん……」
 ケイナは戸惑いながら少女を見つめた。
「アミイはね、お兄ちゃんみたいに青い目と金色の髪なの。わたしも本当は金色の髪だったらいいなって思うの。でも、パパとママもわたしとおんなじ髪なの。だから金色にはなれないって。おとなになったら染めてもいいってママは言ったの」
「ねえ……」
 ケイナは周囲を気にしながら言った。
「もうママのところに行ったほうがいいんじゃないの」
「ママいないの」
 少女はあっけらかんと答えた。
「え?」
 ケイナは呆然とした。
「ママがね、まいごになったら、まいごセンターに行きなさいって言ったの。お兄ちゃんまいごセンターってどこ?」
 困惑してあたりを見回したが、普段縁のないそんな場所は知らなかった。
「まいごセンターが分からなかったらね、ジッとしてなさいって言われてるの。だからお兄ちゃん一緒にいてね」
 ケイナはおかしくなって笑い出した。柱の下に腰をおろすと少女もその隣にちょこんと座った。
「おれと一緒にいるとママはすぐに君を見つけると思うよ」
 ケイナは言った。少女は不思議そうな顔をしたが、ケイナはその顔を見て笑っただけだった。
 しばらくして戻ってきたセレスは ケイナが立っているはずの場所に小さな女の子がいるのでびっくりした。
 もっとびっくりしたのはケイナがその子と楽しそうに笑いあっていることだった。
 ほどなくして、ひとりの女性がふたりに近づいてきた。女性を見るなり少女は抱きついていった。きっと女の子の母親なのだろう。女性はケイナに何度もお礼を言っているようだった。
 少女は別れ際にケイナに顔をこちらに寄せるように手招きした。ケイナが顔を寄せると少女はその頬にキスをした。
 びっくりしているケイナをあとにふたりは去って行った。
「女の子にモテるね」
 セレスはにやにや笑いながらケイナに近づいて冷やかした。ケイナはじろりとセレスを睨んだ。
「酸っぱいベリージュースしかなかった。これでもいい?」
 セレスは買ってきた飲み物をケイナに渡した。カップを受け取るとき、ケイナはふと目の端に映ったものに気づいて顔をあげた。
「どうしたの?」
 セレスは怪訝な顔をしてケイナを見た。
「いや…… なんでもない」
 黒いものが視界の隅に入ったような気がした。
 それが少し気になったが、何も見当たらなかった。