午後三時頃にセレスが目を覚ましてリビングに戻ってみると、思った通りケイナは数時間前に見た時と全く同じ格好でまだ眠っていた。
 ぴくりとも動いていないに違いない。
 セレスはどうしようかと思ったが起こすにはしのびなかったのでそのまま寝かせることにした。
 兄が帰るまでに彼が目を覚ますかどうかは疑問だった。もしかしたら明日の朝まで眠ったままかもしれない。
 そして、夕方近くなってドアがあけられる気配がした時もケイナは起きなかった。
 セレスは入ってきた兄のハルドにしいっと言って人差し指をたててみせた。
「誰?」
 ハルドは小声で目を丸くしてソファを見た。
「おれの友だち」
 セレスは肩をすくめてみせた。
「疲れてるみたいなんだ。休ませてやってよ」
「『ライン』の?」
 ハルドはセレスと毛布にくるまっているケイナを交互に見て不思議そうな顔をした。毛布の下の少年はどう見てもセレスよりも大きな体をしている。
「アル…… じゃないよな……」
 ハルドはそうつぶやいてケイナに近づいた。金色の髪が毛布の下から覗いていた。アルの髪は栗色だ。顔はすっぽりと毛布にくるまれているのでよく見えない。
「アルは今頃おやじさんのコテージに行ってるよ。おれもあとから行くって約束したんだ」
 セレスは兄のためにコーヒーを入れながらひそひそ声で言った。
「ずいぶんよく眠ってるなあ」
 そう言いながらハルドはかすかに笑みを浮かべた。
「とりあえず着替えてくる。軍服のまま直行したから窮屈でしょうがない」
 ハルドはそう言いながら、腰につけたままのガンベルトを歩きながら取った。
 幽かにかちりと小さな音がした途端、ケイナががばっと跳ね起きた。
 あまりの勢いにハルドは仰天して静止した。セレスはコーヒーのカップを危うく取り落とすところだった。
 ケイナは目を見開いて体中を緊張でこわばらせていた。
「ケイナ!」
 セレスははっとしてケイナに走り寄った。
「ケイナ! 大丈夫だよ! おれの兄さんだ!」
 セレスは身構えるように顔の前で腕を交差させているケイナの肩を掴んだ。
「おれの兄さんだよ!」
 ケイナはしばらく硬直していたが、やがてふっと全身の力を抜いた。
「ケイナ……?」
 セレスは両手で顔を被って突っ伏してしまったケイナを覗き込んだ。
 それはあまりにも異様な光景で、ハルドは度胆を抜かれていた。
 この少年はこんな小さな音で、こんなにも緊張状態に陥る。
 この年齢でこんな人間がいるだろうか。
「びっくりした……」
 ケイナは震える声でつぶやいた。体中ががくがく震えている。ハルドはベルトをそばのテーブルに置くとケイナに近づいた。
「大丈夫かい? すまなかったね。せっかくの眠りを邪魔してしまった」
「いえ……」
 まだ唇を震わせながらケイナは答えた。
「息をゆっくりと鼻で吸って、口で吐くんだ。そうすれば震えは治まる」
 ハルドの言葉にケイナは深呼吸をくり返した。少し落ち着いたようだったのでハルドはセレスが持ってきたタオルを受け取ってケイナに渡した。ケイナは素直にそれで汗まみれの顔を拭った。
「おれ、何時間くらい眠ってた?」
 ケイナはまだかすかに震えの残る声で言った。
「八時間くらいかな……。ぴくりとも動かなかったよ」
 セレスは答えた。ケイナは再びタオルに顔を埋めた。
 ひとりのアパートに戻ってもこんなに熟睡したことはない。
 今起きていなければ翌朝まで眠っていたかもしれない。
 そんなにリラックスしていた自分が不思議だった。
 リラックスしていただけに、この衝撃はこたえた。
 ハルドは黙って美しい横顔の少年を見つめた。彼の全身からまだ氷のように冷たい殺気が消えずにいる。体中で警戒している。
 そして思い出した。
 そうだ。この少年はカート司令官の息子だ。
 自分が『ライン』卒業したての頃、優秀生としてカート司令官の家に招かれたことがあった。その時紹介されたはすだ。
 あの時はまだ10歳前後だっただろう。美しい顔だちに燃えるような荒みきった瞳が妙に心に焼き付いたのを覚えている。
 あの時の面影は残っていたが手足は逞しく伸び、体つきもしっかりして当時の幼い雰囲気は消えていた。噂ではライン一の優秀な生徒だと聞く。目の前にいる少年はそれに相応しい容貌をしていた。
 その少年がどうしてこんなにも怯えるのだろう……。
「ケイナ、シャワーを浴びたほうがいいよ。体が冷えると風邪ひくよ」
 セレスはそう言い、躊躇するケイナを無理矢理立ち上がらせてバスルームに引っ張って行った。
 シャワーの音が聞こえてくるとセレスはリビングに戻り、伺うように兄の顔を見た。
「今日、夕食に彼も誘ったんだ。いいかな……」
「いいよ」
 ハルドは笑った。
「そのために連れて来たんだろ」
 セレスはほっと息を吐いた。ハルドはようやく着替えるために寝室に向かった。
 シャワーから出てきた時、ケイナはいつもの調子を取り戻していた。
「落ち着いたかい」
 ハルドが軍服を脱いで白いシャツと黒いパンツというラフな格好で戻ってきてケイナに言った。
「すみません」
ケイナは言った。
「気にしなくてもいいよ。ちょっとびっくりしたけどね」
ハルドは笑いながらケイナに手を差し出した。
「ハルド・クレイだ。セレスが世話になるね。よろしく頼むよ」
「ケイナ・カートです」
 ケイナはためらいがちにハルドの手を握り返しながら答えた。
「さっき思い出したんだけど、きみには一度会っているよ」
 ハルドは少し冷えてしまったコーヒーを飲んで言った。ケイナは無言だった。
「七年くらい前かな…… カート指揮官の家に呼ばれたことがあるんだ。きみは覚えていないかもしれないね。ぼくも『ライン』を卒業したての頃だったし」
ハルドは探るような目をしたが、やはりケイナは何も言わなかった。
「兄さん、メシ食いに行こう。おれ、ハラ減っちゃった。昼食べてないんだ」
 セレスが横から口を出した。
「ケイナもハラ減ってるだろ」
 ケイナは困惑したような表情になった。ハルドは笑って立ち上がった。
「よし、じゃあ、うまい店に連れていってやるよ」
「やったぜ!」
 セレスは叫んだ。そして無理矢理ケイナの腕を引っ張った。
 しかたなくケイナは立ち上がった。

 ハルドは中央塔から持ってきた四人乗り用の乗用車プラニカにセレスとケイナを乗せ、エアポートの近くにある小さな店にふたりを連れて行った。
 店の隅の席に座り、運ばれて来た料理はアパートでプログラムされたメニューや『ライン』で食べる食事に比べればはるかに豪華で美味しいはずだったが、大はしゃぎなのはセレスだけでケイナは黙って皿をつついていた。
 それでも彼の表情は不快というわけでもなさそうだった。
 ハルドもセレスもケイナの様子には頓着せずに食事をしながら話をしていたからかもしれない。
 ほんのかすかではあったが、ふたりの会話を聞いていて笑みをこぼすこともあった。
 帰りのプラニカの中で、セレスは横に座ったケイナが時々ふっと眠りかけるのを見た。
 一番最初に会ったときのケイナを思い出すと危ういほどの無防備さだ。
「もたれて眠っちゃってもいいよ」
 セレスが言うと、ケイナはちらりとセレスを見て戸惑ったように目をそらせた。
 しかし、家に着くなりどったりとソファに倒れ込んで一分もたたないうちにいびきをかきはじめたのはセレスのほうだった。
「こんなところで寝るな!」
 ハルドが頭をこづいたがセレスは目を覚まさなかった。しかなたくハルドは昼間ケイナが被っていた毛布を乱暴にかけた。
「きみも泊まっていけよ。セレスのベッドを使えばいいから」
 ハルドは帰り支度をしようとしているケイナに言った。
「でも……」
 ケイナは口籠った。
「明日の朝、目が覚めてきみがいないと分かったら、こいつは大騒ぎをするぞ」
 セレスのほうを顎でしゃくって言うハルドの言葉にケイナは苦笑した。
「よかったら二、三日ゆっくりしていってくれないかな」
 ハルドはキッチンに向かいながら言った。
「休暇中まで新入生の面倒を見させるようで申し訳ないんだが、セレスにつきあってやってくれないか。初めての休暇で何をしでかすか分からないから。ぼくも明日には帰ることになるだろうし」
 ケイナはどう返事をすればいいのか迷った。迷っている自分が不思議だった。
 普段なら即座に「ノー」と答えたいと思うだろう。
「よろしく」
 キッチンから戻って来たハルドは両手に持ってきたカップのひとつをケイナに押しつけて笑った。
 ケイナは無言で手渡されたカップを見つめた。コーヒーの香ばしい香りがする。
 おれは今までこういうとき、どうしていただろう。ケイナはぼんやり考えた。
 こんな強引な事をされたら、まず間違いなくカップを床に叩きつけて部屋を出て行ってただろうな。
 思いっきりむかついて。
 どうしてそれをしないんだろう。
「ケイナ」
 ハルドが呼んだので、半ばぎょっとしてケイナは顔をあげた。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに座んな」
 ハルドは苦笑して窓際のテーブル脇の椅子を指した。セレスがソファを占領しているので座る場所はそこしかない。ハルドは指した椅子の対面に座っていた。
 ケイナが気乗りのしない様子で椅子に座るのを見てハルドはコーヒーをすすった。
「ハイライン生を家に連れて帰るなんて思いもしなかったよ。よくつき合ってくれたね」
 ハルドの言葉にケイナは曖昧に笑みを浮かべた。
「左手は怪我を?」
 その言葉にケイナの顔にさっと警戒の色が浮かんだ。
「セレスが言ったんですか?」
「いや……」
 ハルドは笑った。
「さっきメシ食ってて気がついた。時々左手が出るのに、思い直して右手を使う時がある。利き手は左だったんだな」
 ケイナは少し驚いた。これまであの事件を知っている者以外は自分の利き手が左だったことは気づいたことはなかったのだ。
「まだ完治してないのか」
「いえ…… 荒っぽい使い方はできないけれど一応……」
 ケイナは自分の手を見つめて答えた。
「左が自分の体の軸になっていたら、そうそう変えられないよ。昼間ソファから跳ね起きた時も左手で殴りかかろうと身構えてた。まあ、相手を殴るときだけ右手にするように気をつけてればいいさ」
 笑顔で言うハルドにケイナは黙っていた。一瞬、セレスを殴ったこともこの人は知っているんじゃないかと思った。
「あいつ、『ライン』に入るっていきなり言い出して、大変だったんだ」
 ハルドはコーヒーをひとくち飲んでソファで眠りこけているセレスを見て言った。
「公開見学会のすぐあとだったかな。見学会に行ったことすらぼくは知らなかった。ものすごい形相で連絡してきたからびっくりしたよ」
(見学会……)
 ケイナはセレスとバスケットをしたことを思い出した。
 あのときの高揚感。こいつはおれに一番近い。そう思った。だが、本当に『ライン』に入ってくるかどうかは神のみぞ知るだった。華奢な体は『ライン』の軍科を志望するにはあまりにも無謀に思えたからだ。
「あんな必死な形相のセレスを見たのは久しぶりだよ。前は地球からぼくがコリュボスに転任することが決まったとき、一緒に行くと言って言い張ったんだ。きみを見る今のセレスもあれに似た感じがする」
 ケイナは思わずハルドを見た。ハルドはソファのセレスに目を向けたままだ。
「いっぱいいろんなことは見えないしできないやつだから…… きみに負担がかからなければいいけれど。きみはいろいろ期待もされているだろうし」
「負担なんか……」
 言いかけてケイナは口をつぐんだ。そして思い直して再び口を開いた。
「セレスにラインに来いと言ったのはおれです」
 ハルドはケイナに目を向けた。ケイナはその目から逃れるように目を伏せた。
「すみません」
 ハルドはしばらくケイナを見つめていたが、やがて笑みを浮かべた。
「そうか」
 ハルドは言った。
「いい先輩に恵まれて安心したよ。ありがとう」
 ケイナは無言でカップを見つめていた。
『ありがとう』
 こんな言葉はもう何年も聞いたことがないように思えた。