もしかしたらケイナはひとりで帰ってしまうかもしれない。
あのケイナ・カートが自分なんかの誘いに乗るとはセレスには到底思えなかったが、半分以上は期待に胸をふくらませていた。
だからケイナが仏頂面で駐車場に現れたときは飛び上がるほど嬉しかった。
肩から大きな荷物を下げ、片方の手をズボンのポケットにつっこんでいる。顎をそらせてこちらを見るケイナの顔はこのうえなく不機嫌だった。
「ケイナのヴィル、これだよね? 認証するからうしろに乗って。おれが運転するから」
セレスは気にとめないように努めて明るく言った。
「うるせえ。おれのバイクはおれが運転するんだよ」
「おれの家に行くんだよ。おれが運転したほうがいいだろ」
「誰が行くって言った」
ケイナは険しい目で言った。セレスは唇を噛んで我慢した。
セレスのその顔をしばらく見つめたあと、ケイナは口を開いた。
「ちゃんと運転できるんだろうな」
「大丈夫だよ」
やったぜ! セレスは心の中で叫んだ。
「ここに来た時も運転してきたんだ。アルのヴィルだけど」
ケイナはしばらくの間ためらっていたが、やがてセレスの後ろに乗り、ハンドルに腕を伸ばして認証の許可をヴィルに与えた。セレスはそれを確かめるとケイナの気が変わらないように勢いよく駐車場から飛び出した。
「スピードの出し過ぎだ。バランスを崩すぞ!」
ケイナは怒鳴った。
「大丈夫だって!」
セレスは笑って叫びかえした。
ケイナを乗せて自分のアパートに帰るなんて、ここに来たときには想像もしなかった。
夢のようだった。
眼下にシティの町並みを見ながら二十分ほど飛んで、四ヶ月ぶりの見なれた自分のアパートの前に降り立った時、ケイナはエンジンを切る前に身軽にヴィルから飛び降りた。
「おれんち、ここなんだ」
「おまえ……」
セレスの言葉を無視してケイナは険しい顔でセレスに詰め寄った。
「あんまり運転したことないだろう……!」
「うん。3回目。」
「この野郎……!」
ケイナの手が飛んできたので、セレスは笑ってすばやくそれをかわした。
「……おまえと心中なんかご免だぜ」
さすがにもう一度叩こうとはしなかったが、ケイナはぶつぶつ文句を言った。
セレスは知らん顔をしてヴィルを駐車場に停めると、怒った顔で自分を睨みつけるケイナの先にたってエントランスに入り、エレベーターに押し込んで彼を部屋に案内した。
「よかった。叔母さんが掃除してくれてたんだ」
部屋の中が片付いていたのでセレスはほっとした。
「普段はものすごいんだ。おれ、何にもしないから」
長く留守にしていた部屋の中にかすかに叔母のつけている香水の香りが残っていた。
セレスはバッグをソファに放り投げると空調をつけた。
ケイナは所在なさげにドアのところにつっ立っている。
「適当にしててよ。コーヒーかなんか入れてくるよ。人工木らしいけど、化合物じゃないからうまいと思うよ」
セレスはそう声をかけたが、ケイナは明らかに困惑しているようだった。
どうしてこんなところに来てしまったのか、という表情がありありと浮かんでいたが、しばらくして渋々部屋の中に足を踏み入れた。
セレスがコーヒーの入ったカップを持って戻ってくると、ケイナはポケットに両手を突っ込んでぼんやりと窓の外を眺めていた。
「兄さんは夕方にならないと戻らないんだ。休暇を取る前にいつもいない間の指示を山ほどしてくる。今の時期は旅行船が少ないからもう少し早いかもしれないけど、このあいだ連絡したら貨物船がたくさん来て大わらわだって言ってた。夜になるかもしれないな」
セレスは半分自分に言い聞かせるように言った。
「おまえの兄さんは指揮官だっけ……」
ケイナは思い出したように言った。
「そうだよ」
セレスは笑みを浮かべた。
「前は知らないって言ってたよね、ケイナは」
「覚えてない」
ケイナは仏頂面のまま答えた。セレスはカップをケイナに押しつけた。
「コーヒー飲もうよ。座ってよ」
ケイナは表情こそ不機嫌そうだったが、セレスに言われるがままだ。
こんなに殺気のない無防備なケイナは初めてだった。ラインにいる時はどれだけ彼が神経を尖らせているのかがよく分かる。
ケイナはソファに座ると黙ってコーヒーをすすった。飲んでおいしいともまずいとも言わなかった。
セレスはケイナが何もしゃべりそうにないので、立ち上がって壁のモニターのスイッチを入れた。
「おまえの親は地球にいるのか?」
無愛想な顔でニュースを伝える画面のアナウンサーの顔を見ながらケイナが言った。
「親はいないよ。12年前に事故で死んだんだ」
セレスはコーヒーを一口飲んでから答えた。
「事故……?」
ケイナは目を細めてセレスを見た。
「うん。旅行船事故。あの時期はよく旅行船事故が頻発してたって叔母さんが言ってた。危ないから旅行なんてやめろってだいぶん言ったのにって今でも嘆いてるよ。父さんと母さんだけで旅行に行く途中だったんだ」
セレスは肩をすくめた。
「でも、おれ、全然記憶ないし…… 叔母さんちに引き取られたから別に不自由なかったよ。兄さんもいるし」
セレスは立ち上がって抽斗から写真を取り出した。
「これ、父さんと母さんの写真。映像出力してもらったんだ。いちばんいいショットだって叔母さんは言ってた」
ケイナはセレスの差し出した写真を見た。美しい女性と思慮深げな男が写っている。ふたりともまだ三十代に入って間がないくらいの年齢だ。
「おまえは父親似なんだな……」
ケイナはつぶやいた。セレスは笑った。
「みんなそう言うよ。アルにも言われた。兄さんは母さんにそっくりだけど」
「でも、髪と目の色が違う」
ケイナは写真を見つめながら言った。男性は黒髪で目の色はブラウンだし、女性は栗色にダークブルーの目をしている。
「おれの髪と目の色って、何代前に遡ってもないんだって。突然変異ってやつかもしれない」
セレスは何気なく言ったつもりだったが、ケイナはそれを聞いた途端さっと表情を硬くして写真をテーブルに置いた。
「どうしたの?」
セレスは驚いてケイナを見た。
「おれ、なんか気に触るようなこと言った?」
「いや…… 別に……」
ケイナは顔を背けてコーヒーを口に運んだ。セレスはそんなケイナをしばらく見ていたが、思い切ったように言った。
「ケイナのお父さんとお母さんは?」
ケイナはちらりとセレスを見たが何も言わなかった。きっとそのことに触れられたくないのかもしれない。
セレスがそれ以上聞くのを止めようと思い、コーヒーを飲もうとカップに口をつけた時、彼は口を開いた。
「おれは親のことはほとんど何も知らない」
「え?」
セレスは思わずケイナの顔を見た。ケイナはカップを両手で包んで中を見つめていた。
「『ノマド』の中で育ったんだ。でも『ノマド』の子供じゃない。育ててくれた夫婦がおれの本当の親からおれを預かったんだと言ってた」
「『ノマド』?」
セレスはつぶやいた。『ノマド』のことは聞いたことがあった。シティからシティを放浪しながら自然復興のために木々を植え、動物たちを飼育している一族だ。
聞くところによると独自の信仰宗教を持っていて、いまだに民間療法で病気を治したり呪術を扱っているのだという。その歴史はすでに70年以上にも渡っていた。
しかし、ケイナと『ノマド』はどうしても結びつかなかった。
『ノマド』といえば不思議なデザインの服をまとい、宗教めいた化粧が特徴だと聞いた。実際に会ったことはないから本当のところはわからないが、ケイナがそんな格好をしている姿など想像できなかった。
「おれは生後50日で『ノマド』の一員になって、名前も育ての親がつけた。『神の笛』という意味があるんだそうだ」
ケイナはコーヒーをすすった。セレスは黙ってケイナを見つめた。
「4歳の時、中央から知らない男がやってきて、おれの本当の親が事故で死んだと言った。『ノマド』は中央に登録をしないから、見つけるのに何年もかかったらしい。レジー・カートという人がおれを養子にするから来るようにと言われたんだ」
ケイナはセレスをちらりと見た。しかしその目はすぐにカップの中身に戻っていった。
「レジーはおれの本当の両親と生前とても親しくしてそうだ。だからその友人の子供を必ず引き取って育てようと思っていたんだと言っていた。ほかに両親には身寄りがなかったらしい」
「じゃあ、ケイナの本当の両親は軍関係だったの?」
セレスは尋ねた。しかしケイナはかぶりを振った。
「いや……。父は学者で、母は『ジュニアスクール』の講師ということだった。映像も見せられたけど、おれには他人としか思えなかったよ。顔も全然似ていなかったし……」
「でも、なんでケイナを『ノマド』に預けなきゃならなかったんだろ。それも生まれてすぐに……」
ケイナはそれを聞いて肩をすくめた。
「知らない。誰も教えてくれなかったし、おれも聞かなかった」
そして息を吐いてカップ持ったままソファにもたれかかった。
「別にどうでもいい……」
セレスは目を落としてカップの中を見つめた。何と言えばいいのか分からなかった。
「おれ、シャワー浴びてくるよ」
セレスはそう言うと立ち上がった。
「ゆうべ、時間がなくてそのまんま寝たんだ。そのへんで適当にしててよ」
それからふとケイナを見た。
「帰っちゃだめだよ」
ケイナは何も言わずに苦笑した。ケイナが不機嫌ではなかったので、セレスはほっとしてタオルを掴むとバスルームに入っていった。
ケイナはもしかしたらそのまま『ノマド』にいたほうが幸せだったのかもしれない。
セレスはシャワーを浴びながら思った。
『ノマド』の中ではすべて許されただろう。すべてを『ノマド』たちは受け入れてくれただろう。
類い稀な容姿も突出した能力も、そんなものは『ノマド』の中では関係なかっただろう。
ケイナの本当の両親はケイナのことを分かっていて、だから『ノマド』に託したのかもしれない……。
シャワーから出てタオルで頭をごしごし拭きながらバスルームから出てきた時、セレスは我が目を疑った。
ケイナはどうやら荷物の中から本を取り出して読むつもりだったらしいが、本を開いたままソファに身を横たえて眠ってしまっていた。
うたたねをするケイナなど『ライン』の中では想像もつかない。
「ケイナ、こんなとこで寝ると風邪ひくよ」
セレスは声をかけたが、ケイナはぴくりとも反応せず心地良さそうな寝息をたてている。
疲れているんだ、と思った。
ふと、彼の右の手首の甲に切り傷があるのが目についた。もうだいぶん癒えているようだが、刃物で切ったような傷だ。いったいどこでつけたんだろう。
ケイナは全然表情に出さないから分からないけれど、おれの知らないところでいつも怪我をしたりさせられたり、そんな生活をしているんだ……。
『ぼくらはいつもケイナのそばにいる』
そう言ったカインの言葉が思い出された。
一緒にいてもケイナは怪我をするんだ……。
「ここは安全だからゆっくり寝ていいよ」
セレスはそうつぶやくとケイナの胸のところに開いたまま置かれている本をテーブルに置き、彼の重いハーフブーツを苦労して脱がせ、床にだらしなく落ちているケイナの片方の足をうんうん唸りながらソファにのせた。
そして自分のベッドから毛布を取ってきてケイナにかけた。
窓のブラインドを閉め、もう一度ケイナをちらりと見やると自分も横になるために寝室に向かった。
昼間っから眠れるなんて、きっと今くらいしかないことは分かっていたからだ。
アパートには静けさが訪れた。
あのケイナ・カートが自分なんかの誘いに乗るとはセレスには到底思えなかったが、半分以上は期待に胸をふくらませていた。
だからケイナが仏頂面で駐車場に現れたときは飛び上がるほど嬉しかった。
肩から大きな荷物を下げ、片方の手をズボンのポケットにつっこんでいる。顎をそらせてこちらを見るケイナの顔はこのうえなく不機嫌だった。
「ケイナのヴィル、これだよね? 認証するからうしろに乗って。おれが運転するから」
セレスは気にとめないように努めて明るく言った。
「うるせえ。おれのバイクはおれが運転するんだよ」
「おれの家に行くんだよ。おれが運転したほうがいいだろ」
「誰が行くって言った」
ケイナは険しい目で言った。セレスは唇を噛んで我慢した。
セレスのその顔をしばらく見つめたあと、ケイナは口を開いた。
「ちゃんと運転できるんだろうな」
「大丈夫だよ」
やったぜ! セレスは心の中で叫んだ。
「ここに来た時も運転してきたんだ。アルのヴィルだけど」
ケイナはしばらくの間ためらっていたが、やがてセレスの後ろに乗り、ハンドルに腕を伸ばして認証の許可をヴィルに与えた。セレスはそれを確かめるとケイナの気が変わらないように勢いよく駐車場から飛び出した。
「スピードの出し過ぎだ。バランスを崩すぞ!」
ケイナは怒鳴った。
「大丈夫だって!」
セレスは笑って叫びかえした。
ケイナを乗せて自分のアパートに帰るなんて、ここに来たときには想像もしなかった。
夢のようだった。
眼下にシティの町並みを見ながら二十分ほど飛んで、四ヶ月ぶりの見なれた自分のアパートの前に降り立った時、ケイナはエンジンを切る前に身軽にヴィルから飛び降りた。
「おれんち、ここなんだ」
「おまえ……」
セレスの言葉を無視してケイナは険しい顔でセレスに詰め寄った。
「あんまり運転したことないだろう……!」
「うん。3回目。」
「この野郎……!」
ケイナの手が飛んできたので、セレスは笑ってすばやくそれをかわした。
「……おまえと心中なんかご免だぜ」
さすがにもう一度叩こうとはしなかったが、ケイナはぶつぶつ文句を言った。
セレスは知らん顔をしてヴィルを駐車場に停めると、怒った顔で自分を睨みつけるケイナの先にたってエントランスに入り、エレベーターに押し込んで彼を部屋に案内した。
「よかった。叔母さんが掃除してくれてたんだ」
部屋の中が片付いていたのでセレスはほっとした。
「普段はものすごいんだ。おれ、何にもしないから」
長く留守にしていた部屋の中にかすかに叔母のつけている香水の香りが残っていた。
セレスはバッグをソファに放り投げると空調をつけた。
ケイナは所在なさげにドアのところにつっ立っている。
「適当にしててよ。コーヒーかなんか入れてくるよ。人工木らしいけど、化合物じゃないからうまいと思うよ」
セレスはそう声をかけたが、ケイナは明らかに困惑しているようだった。
どうしてこんなところに来てしまったのか、という表情がありありと浮かんでいたが、しばらくして渋々部屋の中に足を踏み入れた。
セレスがコーヒーの入ったカップを持って戻ってくると、ケイナはポケットに両手を突っ込んでぼんやりと窓の外を眺めていた。
「兄さんは夕方にならないと戻らないんだ。休暇を取る前にいつもいない間の指示を山ほどしてくる。今の時期は旅行船が少ないからもう少し早いかもしれないけど、このあいだ連絡したら貨物船がたくさん来て大わらわだって言ってた。夜になるかもしれないな」
セレスは半分自分に言い聞かせるように言った。
「おまえの兄さんは指揮官だっけ……」
ケイナは思い出したように言った。
「そうだよ」
セレスは笑みを浮かべた。
「前は知らないって言ってたよね、ケイナは」
「覚えてない」
ケイナは仏頂面のまま答えた。セレスはカップをケイナに押しつけた。
「コーヒー飲もうよ。座ってよ」
ケイナは表情こそ不機嫌そうだったが、セレスに言われるがままだ。
こんなに殺気のない無防備なケイナは初めてだった。ラインにいる時はどれだけ彼が神経を尖らせているのかがよく分かる。
ケイナはソファに座ると黙ってコーヒーをすすった。飲んでおいしいともまずいとも言わなかった。
セレスはケイナが何もしゃべりそうにないので、立ち上がって壁のモニターのスイッチを入れた。
「おまえの親は地球にいるのか?」
無愛想な顔でニュースを伝える画面のアナウンサーの顔を見ながらケイナが言った。
「親はいないよ。12年前に事故で死んだんだ」
セレスはコーヒーを一口飲んでから答えた。
「事故……?」
ケイナは目を細めてセレスを見た。
「うん。旅行船事故。あの時期はよく旅行船事故が頻発してたって叔母さんが言ってた。危ないから旅行なんてやめろってだいぶん言ったのにって今でも嘆いてるよ。父さんと母さんだけで旅行に行く途中だったんだ」
セレスは肩をすくめた。
「でも、おれ、全然記憶ないし…… 叔母さんちに引き取られたから別に不自由なかったよ。兄さんもいるし」
セレスは立ち上がって抽斗から写真を取り出した。
「これ、父さんと母さんの写真。映像出力してもらったんだ。いちばんいいショットだって叔母さんは言ってた」
ケイナはセレスの差し出した写真を見た。美しい女性と思慮深げな男が写っている。ふたりともまだ三十代に入って間がないくらいの年齢だ。
「おまえは父親似なんだな……」
ケイナはつぶやいた。セレスは笑った。
「みんなそう言うよ。アルにも言われた。兄さんは母さんにそっくりだけど」
「でも、髪と目の色が違う」
ケイナは写真を見つめながら言った。男性は黒髪で目の色はブラウンだし、女性は栗色にダークブルーの目をしている。
「おれの髪と目の色って、何代前に遡ってもないんだって。突然変異ってやつかもしれない」
セレスは何気なく言ったつもりだったが、ケイナはそれを聞いた途端さっと表情を硬くして写真をテーブルに置いた。
「どうしたの?」
セレスは驚いてケイナを見た。
「おれ、なんか気に触るようなこと言った?」
「いや…… 別に……」
ケイナは顔を背けてコーヒーを口に運んだ。セレスはそんなケイナをしばらく見ていたが、思い切ったように言った。
「ケイナのお父さんとお母さんは?」
ケイナはちらりとセレスを見たが何も言わなかった。きっとそのことに触れられたくないのかもしれない。
セレスがそれ以上聞くのを止めようと思い、コーヒーを飲もうとカップに口をつけた時、彼は口を開いた。
「おれは親のことはほとんど何も知らない」
「え?」
セレスは思わずケイナの顔を見た。ケイナはカップを両手で包んで中を見つめていた。
「『ノマド』の中で育ったんだ。でも『ノマド』の子供じゃない。育ててくれた夫婦がおれの本当の親からおれを預かったんだと言ってた」
「『ノマド』?」
セレスはつぶやいた。『ノマド』のことは聞いたことがあった。シティからシティを放浪しながら自然復興のために木々を植え、動物たちを飼育している一族だ。
聞くところによると独自の信仰宗教を持っていて、いまだに民間療法で病気を治したり呪術を扱っているのだという。その歴史はすでに70年以上にも渡っていた。
しかし、ケイナと『ノマド』はどうしても結びつかなかった。
『ノマド』といえば不思議なデザインの服をまとい、宗教めいた化粧が特徴だと聞いた。実際に会ったことはないから本当のところはわからないが、ケイナがそんな格好をしている姿など想像できなかった。
「おれは生後50日で『ノマド』の一員になって、名前も育ての親がつけた。『神の笛』という意味があるんだそうだ」
ケイナはコーヒーをすすった。セレスは黙ってケイナを見つめた。
「4歳の時、中央から知らない男がやってきて、おれの本当の親が事故で死んだと言った。『ノマド』は中央に登録をしないから、見つけるのに何年もかかったらしい。レジー・カートという人がおれを養子にするから来るようにと言われたんだ」
ケイナはセレスをちらりと見た。しかしその目はすぐにカップの中身に戻っていった。
「レジーはおれの本当の両親と生前とても親しくしてそうだ。だからその友人の子供を必ず引き取って育てようと思っていたんだと言っていた。ほかに両親には身寄りがなかったらしい」
「じゃあ、ケイナの本当の両親は軍関係だったの?」
セレスは尋ねた。しかしケイナはかぶりを振った。
「いや……。父は学者で、母は『ジュニアスクール』の講師ということだった。映像も見せられたけど、おれには他人としか思えなかったよ。顔も全然似ていなかったし……」
「でも、なんでケイナを『ノマド』に預けなきゃならなかったんだろ。それも生まれてすぐに……」
ケイナはそれを聞いて肩をすくめた。
「知らない。誰も教えてくれなかったし、おれも聞かなかった」
そして息を吐いてカップ持ったままソファにもたれかかった。
「別にどうでもいい……」
セレスは目を落としてカップの中を見つめた。何と言えばいいのか分からなかった。
「おれ、シャワー浴びてくるよ」
セレスはそう言うと立ち上がった。
「ゆうべ、時間がなくてそのまんま寝たんだ。そのへんで適当にしててよ」
それからふとケイナを見た。
「帰っちゃだめだよ」
ケイナは何も言わずに苦笑した。ケイナが不機嫌ではなかったので、セレスはほっとしてタオルを掴むとバスルームに入っていった。
ケイナはもしかしたらそのまま『ノマド』にいたほうが幸せだったのかもしれない。
セレスはシャワーを浴びながら思った。
『ノマド』の中ではすべて許されただろう。すべてを『ノマド』たちは受け入れてくれただろう。
類い稀な容姿も突出した能力も、そんなものは『ノマド』の中では関係なかっただろう。
ケイナの本当の両親はケイナのことを分かっていて、だから『ノマド』に託したのかもしれない……。
シャワーから出てタオルで頭をごしごし拭きながらバスルームから出てきた時、セレスは我が目を疑った。
ケイナはどうやら荷物の中から本を取り出して読むつもりだったらしいが、本を開いたままソファに身を横たえて眠ってしまっていた。
うたたねをするケイナなど『ライン』の中では想像もつかない。
「ケイナ、こんなとこで寝ると風邪ひくよ」
セレスは声をかけたが、ケイナはぴくりとも反応せず心地良さそうな寝息をたてている。
疲れているんだ、と思った。
ふと、彼の右の手首の甲に切り傷があるのが目についた。もうだいぶん癒えているようだが、刃物で切ったような傷だ。いったいどこでつけたんだろう。
ケイナは全然表情に出さないから分からないけれど、おれの知らないところでいつも怪我をしたりさせられたり、そんな生活をしているんだ……。
『ぼくらはいつもケイナのそばにいる』
そう言ったカインの言葉が思い出された。
一緒にいてもケイナは怪我をするんだ……。
「ここは安全だからゆっくり寝ていいよ」
セレスはそうつぶやくとケイナの胸のところに開いたまま置かれている本をテーブルに置き、彼の重いハーフブーツを苦労して脱がせ、床にだらしなく落ちているケイナの片方の足をうんうん唸りながらソファにのせた。
そして自分のベッドから毛布を取ってきてケイナにかけた。
窓のブラインドを閉め、もう一度ケイナをちらりと見やると自分も横になるために寝室に向かった。
昼間っから眠れるなんて、きっと今くらいしかないことは分かっていたからだ。
アパートには静けさが訪れた。