「このあいだの夜、どこに行ってたの?」
 ケイナとの一件があってから数日後、トニはシャワーから出てきたセレスに近づいて小声で言った。
 ケイナがまだ部屋に戻っていないのはいつものことだ。ジュディもまだ帰ってきていなかった。
 それでも小声になるのは人に聞かれたくない話だからだろう。
「このあいだの夜?」
 セレスは何のことか分からなかった。あれから射撃の訓練も始まり、連日ジェイク・ブロード教官にしごき倒されてくたくただった。彼は評判通り厳しい教官でセレスは腕の力が弱いためにいつも焦点がぶれると叱られてばかりいた。その日の目標レベルまで達しないと夜間訓練に呼び出される場合もあった。ただでさえきついカリキュラムに上乗せをされてセレスはついていくのがやっとだったのだ。
「このあいだの夜だよ。ケイナとなんか言い合いをして部屋を出てったきり、1時間くらい戻ってこなかったろ」
「ああ…… あのとき……」
 セレスは肩をすくめてトニから目をそらせると、シャワーで濡れた髪をタオルでこすった。
「別にどこにも…… 彼とダイニングでずっと話してた」
「ケイナと1時間も?」
 トニは目を丸くした。
「おれ、事故にあったハイライン生が死んだって聞いたとき、ケイナが平気な顔をしてるのが信じられなかったんだ。それで、なんでそんなに平気な顔できるのかって言って、彼を怒らせちゃったんだ」
 なんでもないように言うセレスにトニは口をあんぐりとあけて見た。
 セレスはトニに隠しごとをするつもりはなかった。だから正直に話した。
 怒ったケイナが部屋を飛び出したので追いかけたこと、それで殴られたこと、ケイナが過去に負傷した手で殴ったために倒れたこと、それを冷やすためにダイニングに行ったこと……。
 トニに言わなかったのは、ケイナがなぜ左手を負傷したのか、その理由だけだった。
 トニは黙って聞いていたが、納得したようにうなずいた。
「たぶん、そんなことだと思ったよ」
「なんかあったの?」
 セレスは椅子に腰をおろしてトニを見た。トニはセレスのベッドの端に腰を下ろした。個人のブースの中にはそこしか座る場所がなかったからだ。
(うわさ)を耳にしたんだ。きみとケイナが夜部屋を抜け出してどこかにいっちまったって……」
「ふうん……」
 セレスは興味がなさそうにつぶやいて首にかけたタオルを取った。
 おおかた噂の出所はジュディだろう。言われなくても分かっていた。ジュディはあのとき目を覚ましていたのだ。
「きみはぼくの忠告なんて何にも聞いてないんだから。おまけにホントに怖いもの知らずだよ。ケイナにそんなこと言ったら殴られても当然だ。ケイナでなくったって怒るよ、普通」
 トニは呆れたように首を振って言った。
「でも、おかげでケイナは冷たい人じゃないって分かったよ」
 セレスは答えた。
「セレスの大バカ野郎」
 トニは顔をしかめ、そしてため息をついた。
「まあね…… きみみたいに彼に真正面から言いたいことぶつける人、これまでいなかったのかも。あのケイナが自分から自分のこと話すんだもの、彼はきみには普通の態度をとるみたいだね」
 トニの口調にはかすかに羨望の色がこもっていた。近づいてはいけないと分かっていてもケイナは『ライン』では優秀な訓練生であることに変わりはなかった。
「じゃあ、おまえも話をしてみれば?」
 背後で声がして、トニはびっくりして振り向いた。
 いつの間に部屋に戻ってきていたのか、ジュディがセレスのブースの入り口に立って冷たい目をふたりに向けていた。
「ライン一の優等生とお近づきになれたらいい気分だろ。ライン一の美形と仲良くなれてラッキーだろ」
 ジュディは冷ややかで下劣な笑みを浮かべていた。
「なんだよ、それ……」
 トニはむっとしたように彼の顔を見た。
「なにって、言葉そのまんまだよ」
 ジュディは怯む様子もなく言った。セレスは黙っていた。ジュディの態度にはもう慣れっこだった。何かあるごとに文句をつけたくてしようがないのだ。
 しかし、そのあとにジュディの言った言葉には思わず血が昇った。
「男ばっかりで5年間も過ごす『ライン』でケイナみたいにご面相は上級生のおもちゃになるんだ。ケイナもそんなことが続けばその気になるんじゃないの。相手が男だろうと女だろうと年上だろうと年下だろうとおかまいなしってことさ。自分に気がありそうな下級生を夜中に誘い出してちょっと欲求の吐け口にしたくもなったんじゃねえの」
「あっちに行け。おまえの下品な言葉なんか聞きたかないよ」
 セレスは口を歪めて言った。ジュディのあからさまな言葉に吐き気がした。
 しかしジュディはさらににやにやと笑みを広げただけだ。セレスが反応したので、しめたと思ったようだ。
「ケイナのキスは優しかったかい。殴られて切れた口元をなめてくれたか?」
 セレスががたんと勢いよく立ち上がったので、トニが慌てて彼の腕を掴んで押しとどめた。
「知らないとは言わせないぜ。おまえは彼がどうして左手を負傷したか聞いてるはずだ」
 ジュディは言い募った。セレスはびくりとして彼を仰視した。
「二年前、彼は数人の上級生に足を縛られ、利き手だった左手を砕かれた。そのあと彼はレイプされてるんだ」
「ジュディ! それはただの噂だ!」
 セレスの腕を必死になって掴みながらトニが怒鳴った。セレスは思わずトニの顔を見た。
「トニ、きみもそんな話を聞いてんのか?」
「単なる噂だよ」
 トニは必死になって言った。
「あの事件を知ってる人はいるよ。でも、彼が手を砕かれたってこと以外分からない。真相は当事者しか知らないんだ。残ってるのは噂だけで犯人だった上級生はみんなラインを辞めてるんだ。本当のことを知ってるのはケイナと、ケイナを助けたカイン・リィとアシュア・セスだけなんだ」
「ケイナはあんまり覚えてないって……」
 セレスは混乱したようにつぶやいた。
「言うわけないじゃないか」
 ジュディはせせら笑った。
「自分からレイプされましたなんて言う人間がいるもんか」
 セレスは唸り声をあげた。
「ケイナの気持ちも知らないで……!」
「やめろ! セレス!」
 ジュディに飛び掛かろうとするセレスをトニは必死になって止めた。
 喧嘩(けんか)は反省室送りだ。やっと『ライン』での生活に慣れてきた大事な時期に反省室送りになってはまずい。
「ジュディ! 自分がケイナに目を向けてもらえないからってセレスに八つ当たりするな!」
 トニは叫んだ。
 その言葉はジュディの核心をついたようだ。彼の白い顔にみるみる血が昇り、まだらに赤くなった。
「きみはここに来た時からケイナに目をかけてもらいたくてしようがなかったんだろう! それがうまくいかなくてセレスとケイナがよく話してるのが気にくわないんだ!」
 トニがそう叫ぶやいなや、ジュディのこぶしがトニの頬に飛んでいた。トニはセレスのブースのデスクにぶつかり、大きな音をたてた。
 それを見たセレスがジュディに飛び掛かろうとしたが、トニはセレスの腰にしがみついた。
「セレス、だめだっ! 殴ったら処罰対象になる!」
 セレスは振り上げたこぶしを震わせてジュディを睨んだ。ジュディの顔はさらに赤くなり、肩で息をしていた。
「セレス、頼むよ」
 トニの懇願するような声にセレスは唇を震わせてジュディを殴るかわりにデスクの天板を殴った。そして乱暴にトニの腕を離すと、ジュディの横をすりぬけて部屋を出た。
それを見送ったトニは立ち上がるとまだ息をきらしているジュディに言った。
「心配すんなよ。殴ったことは誰にも言わないからさ」
 そう言って頬を冷やすためにバスルームに入っていった。

 部屋を飛び出したはいいが、セレスはどこに行けばいいのか思い浮かばなかった。
 体はもうくたくただった。泣き出したい気分だ。
(ケイナはレイプされてるんだ)
 再び頭の中でジュディの言葉が響いた。
「だから?」
 セレスは(うめ)いた。
「だったらケイナはケイナじゃないの?」
立ち止まって唇を噛んだ。涙がこぼれそうな気がした。
「頭の中に冷たい風が吹くって…… ケイナはそう言ってたじゃないか」
 『ライン』の不自由なところはハイライン生になって個室を与えられるまではひとりになれる場所がない、ということだった。
 ライブラリなら静かだし少しは頭を冷やせるだろうか。
 今の時間なら人もいないかもしれない。そう思って廊下を横切ってそちらに向かった。
 部屋の前で中を覗いてみると夕食の時間なのでほとんど人はいなかった。好都合だ。
 空いていた隅の映像ライブラリーのブースにセレスは身を滑り込ませた。ここなら周りからは隔離されている。椅子に座ってしまえば目の前はモニターだし、左右は壁に仕切られていた。
 何を見る気もなかったがやみくもに目の前のキイをたたき、ビデオをセレクトした。画面に景色らしいものが映ったが、やはり興味は湧かなかった。
 ケイナは何も見えない真っ暗やみで手を砕かれ、叫び声も出せずに皮膚を切り裂かれ、殴られ…… どれほど恐ろしかっただろう……。
 それをあんなふうに言うなんて許せない。
「ロウラインでもこんな課題が出るのかい?」
 いきなり背後で声がしたので、ぎくりとしてセレスは振り向いた。黒髪の少年が立っていた。アルの部屋のルームリーダーのカイン・リィだ。よりにもよってこんなときにこんな苦手な人物に声をかけられた我が身を呪った。
「ここ、ハイラインになってから行く野外訓練場所だよ」
 カインは笑って言った。セレスは慌てて画面に目をやった。 景色だと思っていたのは訓練場所の説明だったらしい。今はしかめ面の教官の顔が映っている。
「ルームメイトとケンカでもしたのか」
 言い当てられてぎょっとしたが、セレスは彼から顔を背けたまま黙っていた。
「別に急ぎじゃないんなら、もう少し見栄えのいい別の映像を見せてあげるよ」
 カインはそう言うとセレスの後ろから腕を伸ばしてキイを叩き、番号を入力した。
 しばらくして出てきたのは海の映像だった。
「きれいだろ。地球の海だよ」
「地球の?」
 セレスはびっくりした。地球の海なんてどこも灰色に濁っている。砂浜は腐った汚物の臭いがするし、どろんとした波が嘗めるように寄せては返すだけだ。
 しかし、この映像では蒼くて透明な水の世界だ。じっと見つめていると夢の中に入っていきそうな気持ちになる。太陽の光も澄んでいた。
 あのどろりとした水がどうすればこんなに美しく光るのだろう。
「100年前か150年前か、旧時代の映像だからだいぶん質は悪いけれど、このデータが一番きれいに残ってるやつかもしれないな」
 カインは言った。
「海はすべての生物の根源だよ。きみも『ジュニア・スクール』で教わったと思うけれど、海からすべては生まれた。今は人工でしか増やせない木々もだ。その木々は水がなければ生きられない。緑は大きくなって大気を清浄化させ、それが海の蒼さを造るんだ」
「カインさんはロマンチスト? それとも生物学者志望?」
 セレスは言った。
「ラインの軍科生らしくないよ」
 それを聞いて、カインはかすかに声をたてて笑った。
「ぼくは地球の血が半分しか混じってないんだ。半分はアライドという星で。ぼくは生まれてから一度もアライドに行っていないけれど、映像で見たり調べたりした。いろいろ調べてると地球のように美しい星は本当に少ないっていうことがよく分かったよ。汚染された星でも、ぼくは地球を誇りに思うし、ぼくらの使命はこの美しさを取り戻すことかもしれない」
「じゃあ、どうしてラインの軍科に?」
 セレスが尋ねるとカインはセレスを見て眉を吊り上げた。
「ぼくは母の意向に背くように教育されていない」
「お母さんの希望だったの?」
 セレスはびっくりした。カインは笑みを浮かべた。
「母の…… というより『家』の意思と言ったほうがいいのかな。そういう家柄なんだよ。ぼくは跡取りだから、それには背けない」
 カインはそう言って再び腕を伸ばすとキイを叩いた。別のアングルの海の映像が映し出された。カメラが海の中に潜り込んでいる。見渡す限りの蒼い世界だった。
 セレスは映像を見つめた。海の中ってきれいだ。
「きれいだろ。この色、ケイナの目の色によく似てないか」
「ケイナの……」
 セレスはつぶやいた。
 本当だった。光の加減で群青色や藍色やコバルトブルーに見えるケイナの瞳はこの海の色そっくりだった。そして、セレスはふともうひとり同じ目の色を持つ人間を思い出した。
 兄だ。兄が同じ色の目をしている。いままでどうして気づかなかったのだろう……。
 ケイナに周りがびっくりするくらい気負いもなく話せたのは彼が兄と同じ目を持っていたからだったのかもしれない。
 ラインに入って四ヶ月、セレスは一度も兄と連絡をとっていなかった。
 ハルド兄さんは今頃どうしているだろう。きっと変わらず多忙な毎日を送っているに違いない。
 セレスはぼんやりとそんなことを考えた。
(うわさ)など気にするな」
 カインの言葉にはっと我に返った。
「あんなくだらない噂、気に病むだけ馬鹿馬鹿しいさ。ケイナみたいに堂々としていろ」
 セレスは一瞬カインを振り向いたが、目を伏せた。
 そうだ。自分の耳に入った噂がケイナの耳に入らないはずがない。
 ケイナはこんなことにいちいち動揺したりはしないだろう。
「それに、あの時はぼくらもきみたちのそばにいた。もちろんケイナはそれを知ってる」
「え?」
 セレスは仰天した。
「そばにいた? ぼくら……?」
 カインは笑みを浮かべた。
「じゃあ、ずっと見てたってこと……?」
「そう。部屋を飛び出してからきみが殴られてそのあともずっと」
「趣味悪い」
 セレスが言ったので、カインは肩をすくめた。
「ケイナはひとりにはできない。いつもどちらかが彼のそばにいる。もうひとりはアシュア・セスだ。バッガスとケンカした赤毛の奴だよ。ぼくらは同じ訓練グループだしね」
「二年前の事件があったから?」
 セレスがおそるおそる尋ねるとカインの顔にかすかに不快感が浮かんだ。
「それもある。彼は自分で自分を身を守れるけれど、それには限界もある」
 この人とアシュア・セスがあのときケイナを助けた。本当のことを知っているのは、ケイナとカインとアシュア……。
 セレスはカインの顔を見つめた。メガネの奥の黒い切れ長の目はやはり怖かった。
「ケイナが自分からあの事件のことを当事者じゃない人間に話したのは初めてだよ。これまで彼は自分のことに精一杯で人のことなんかあんまり考えなかった。特に新入生のことなんか彼にとっちゃいないも同然だったろうね。だけど、きみに出会ってからケイナは変わったよ。ぼくはできればきみにケイナのいい友人になってもらいたいと思ってる」
 セレスはびっくりしてカインを見た。
「ケイナは感情抑制装置を外すとまだダメなんだ。だけど、きみと話すとものすごく落ち着くみたいだ。もしかしたらいつか装置を外せるようになるような気がする」
 カインは手を差し出した。
「ケイナのそばにいてやってくれよ。これはケイナの友人としての頼みだ」
 セレスは戸惑ったようにカインの手を見つめた。形のいい長い指だ。
 カインの言葉はとても嬉しいものだったが、その手を握り返すことがどうしてもできなかった。
 カインはしばらくそのままでいたが、やがてかすかにうなずいてセレスに背を向け立ち去った。
 セレスはほうっと息を吐いてカインがつけたままにしていった海の映像を見つめた。