外からの薄明かりの中で彼の横顔がくっきりと浮き出していた。
「なんにも…… 感じないんだ」
 どこを見ているとも分からないケイナの視線をセレスは無言で見つめた。
「なんにも感じない。なんとも思わない。冷たいんだよ。頭ン中が」
 ケイナは少し肩をすくめた。
「泣きたいとも思わない。笑いたいとも思わない。何を聞いてもどうでもいいような気がする。頭の中がずっと冷えきってる。氷みたいな…… 冷たい風が吹いてる」
 夜のパトロールなのか、警備局の浮遊型パトロール機のサーチライトが一瞬こっちを照らして部屋の中に光が入った。
 ケイナはそれにちらりと目を向けたが、またすぐにそらせた。
「あの……」
 セレスはまたケイナを怒らせるようなことにならなければいいけれどと思いつつ言った。
「ケイナはさっきおれを殴ったときは本気だったじゃない。本気で怒る人は普通だよ」
 ケイナは冷ややかな笑みを浮かべて再びセレスを見た。
「おまえ、危なかったんだぞ」
 セレスはケイナの言葉の意味が分からず目を細めた。彼の言うことはいつも謎解きみたいだ。
 ケイナが髪をかきあげると、赤いピアスが薄明かりに光った。
 セレスの視線に気づいたのか、ケイナはかすかに顔をしかめた。
「うっとうしい色だろ。何に見える?」
「ピアスじゃないの?」
 セレスの言葉にケイナは自嘲気味な笑い声をたてた。
「ここから、頭の中に信号が送られるんだ。 怒ったり興奮したりすると反応して感情が高ぶらないようにする」
 ケイナは自分の耳から後頭部を指した。
「そうやって感情をコントロールするんだ」
「感情のコントロール? どうして?」
 セレスは訳が分からないというように赤いピアスを見つめた。見た目にはただのアクセサリーにしか見えない。
「これがなきゃ、キレちゃうからさ」
「キレちゃうって……」
 ケイナの言うことはますます意味不明になってきたように思えた。
「キレたら何をするか分からないから、閉じ込めとくんだよ」
 ケイナは淡々と答えて目をそらせた。
「あの……」
「左手は……」
 口を開こうとするセレスをケイナは遮って言った。
「二年前、リンチで砕かれた」
 セレスは目を見開いた。リンチ? ケイナが?
「左は利き腕だったけど、砕いてからは右腕に変えた。おまえはこの抑制装置の抑制以上の揺さぶりをおれにかけたらしい。咄嗟に出る手は左になるんだと初めて知った」
「そんな…… ひとごとみたいに言うなよ」
 セレスは思わず言った。
「リンチだなんて…… なんでそんなことに…… あんたはそんな隙見せるような人じゃないだろ」
 ケイナは頬杖をついてかすかに笑みを浮かべた。しばらく無言でいたがやがてぽつりと言った。
「……何人いたか覚えてないんだ」
 セレスはぎょっとした。
「何ができる。あっという間だった。後ろから首を締め上げられて、足を縛られ、声を出せないよう口にタオルを詰め込まれた。そのまま倉庫になっている部屋に引きずり込まれたんだ。2年前っていったら今のおまえと変わらない。ロウラインとハイラインの差だぞ。体の大きさが全然違う……」
 セレスは何も言えなかった。 確かにいくらケイナでも体の大きさの違う何人ものハイライン生にかかられたらひとたまりもないだろう。『ジュニア・スクール』のときとはわけが違うのだ。
「左手を砕かれて、蹴られて殴られて…… だけど今はもうほとんど当時の苦痛は覚えていない」
 ケイナの表情は話す内容とは裏腹に全く変わらなかった。本当にひとごとのようだ。
 これが感情をコントロールされているってこと? セレスはじっとケイナの横顔を見つめた。
「数週間病院にいたらしい。夜が怖いんだ。暗くて怖い。夜になると左手の骨がまた頭の中で音をたてて折れるような気がする。指を見たら全部がばらばらの方向を向いてる。体中の傷から血が吹き出て、シーツが真っ赤になった。動いていた右手に持っていたナイフで肉を裂いたときの感触がほんの少し残ってるんだ。おれは命がけで反撃してて、たくさん人を傷つけたみたいだ」
 ぞくりと背筋が震えた。想像するだけでも恐ろしかった。
 ケイナの右の耳の赤いピアスが光った。
「これで感情の抑制をつけたと言われた。そうしなきゃ、記憶に苦しめられて死んでたらしい」
 気がつくと、手が震えていた。セレスは目を伏せて自分の手をぎゅっと握りしめた。ケイナは無表情のままそんなセレスを見た。
「でも、最近はこいつの威力があまりなくなってしまったみたいだ。 おまえを一発殴っただけですんだからほっとしてる……」
 それでケイナは自分にかまうなと言ったのか……。 一発殴るだけですまなかったらいったいどうなったんだろう。
「それを外すとどうなるの……」
 おそるおそる尋ねた。
「さあ……」
 ケイナはつぶやくように言った。
「感情のコントロールが効かなくなって前後不覚に暴れるのかも」
「まさか」
 セレスは目を細めてケイナを見た。ケイナはかすかに笑った。
「キレると何をしでかすか分からないというのは昔からあったんだ。なんか…… 自分とは違う自分が勝手に動いてしまうようなところが。小さい頃は所詮腕力もしれたもんだからどうってことない。だけど今はもう力が違う。自分でもキレたらどうなるか自信はない」
 ケイナは窓の外に目を向けた。
「そうなったら死んだほうがましだ」
「そんなのだめだ!」
 セレスが叫んだので、ケイナは少し驚いたように振り向いた。
「おれ、ほんの数カ月だけど、ケイナの笑った顔も怒った顔も見たよ。そん時のあんたはみんなが言うような冷たい優等生じゃなくて、普通の人だよ。そんなこと言うなよ!」
「おまえは何もおれのことは知らないよ。会ってまだ数カ月じゃないか」
 ケイナの目に諦めとも不安ともつかない不思議な光が宿っていた。
「そ、そうかもしれないけど……」
 セレスは困惑したように目をしばたたせた。
「そうかもしれないけど、死ぬなんて言うなよ。キレたって言ったって、おれを一発殴ればそれで終わったじゃん。そのうちちゃんと自分で自分の気持ちはコントロールできるようになるよ。みんなそうしてるよ。ケイナができないはずないよ」
 その時、ふいにケイナの左手が自分の顔に伸びてきた。
 ケイナは自分が殴って傷つけた、切れたセレスの口元に触れたあと、ぐいっとセレスの顎を掴んだ。切れた口の端がぴりっと痛んだ。
「おまえの目は不思議な色だな」
 ケイナは自分の顔をセレスに寄せた。セレスは思わず顔に血が昇るのを覚えた。
彼の顔を見るにはあまりにも至近距離過ぎた。まるでキスでもしかねない近さだ。
「だけど、このおまえの目は今おれの姿を捕らえてないことを知ってるか」
「え……?」
 セレスは目を見開いた。
「おまえの目はおれの顔を通り越してずうっとその先を見てる。自分では気づかないだけなんだ」
 セレスは不思議な香りが自分の鼻をくすぐるのを感じた。
ミントのようなハーブの香り。ケイナがそばに来たときいつも感じる香りだった。
 セレスはその香りを感じながら思った。
 ケイナ、あんただってそうだよ。ケイナの目はいつも何が見えてるのか分からないよ。
 ずっとずっと遠くを見てる。あんたがそうだよ……
 ケイナはふいに突き放すように手を離した。
「もう行けよ」
 彼は目を背けた。
「おれももう少ししたら部屋に戻るから」
 セレスは急に態度の変わったケイナに困惑した。
「殴ったりして本当に悪かった。明日メシがちゃんと食えるといいけどな……」
 ケイナは目を向けずにかすかに笑った。
 セレスはしばらく待ったが、ケイナはそっぽを向いて窓の外からこちらには目を向けなかった。もうこれ以上彼は何も話してはくれないだろうということがひしひしと伝わってくる。
 セレスはがっかりして立ち上がり、しばらくケイナを見つめたあとダイニングをあとにした。
「おやすみ。ケイナ」
 それだけ伝えた。
 最後にはいつもケイナは心を閉ざしてしまう……。
 それでも、少しずつ彼は自分に近づいてきてくれている、とセレスは自分に言い聞かせた。

 セレスがダイニングを出ていってしばらくして、ケイナは近づいて来た影に振り向かずに言った。
「来ると思った」
「もう遅いよ。寝ないと」
 カインはセレスが座っていた椅子に腰をおろした。
「腕に振動が伝わりでも?」
「心配ないよ。いたって平穏。ぴくりとも動かなかった」
 カインは自分の腕にあるバングルに手を触れて首を振った。
 ケイナが感情を異常に高ぶらせると、彼の抑制装置からバングルに信号が届くはずだった。
 ケイナは思わずカインを見た。カインは本当だというようにかすかにうなずいてみせた。
「さすがに彼を殴ったときはひやりとしたけれど。不思議だね。彼と一緒だと、きみはごく普通の感情表現ができるんだから」
 ケイナはそれを聞いてふん、というように目をそらせた。
「どうして彼に二年前の話を?」
 カインは尋ねたがケイナは答えなかった。
「本当に彼のことが気に入ってるんだな」
 そう言うと、ケイナはじろりとカインの顔を見た。
「そんな目で睨むなよ」
 カインは小さく口の端を歪める。
「こういうことも全部報告書にまとめるわけ?」
 険を含んだケイナの声にカインはため息をついた。
「きみはやっぱり全部お見通し…… まあ、ぼくらも予想していたことだったけど」
 ケイナはそれを聞いて嘲るような笑みを浮かべた。
「どうかしてるよ。おまえらが『ライン生』ですって通ると思ってたのかよ」
「普通はね」
 吐き出すように言うケイナの言葉にカインは降参、というように手をあげ、そしておろした。
「所長はさすがにぼくらをジェイク・ブロードの担当にはしなかった。彼くらいだよ。きみみたいに見抜く可能性があるのは」
 カインはメガネをとって目をこすった。ケイナを見ていると目が痛く感じられたのだ。
「二年前のことはおまえのせいじゃない。おまえとアシュアが助けてくれたからむしろ感謝してる。命を落とさずに済んだやつらもたくさんいたと思う……」
「……」
 ケイナは今でも自分が二年前のあの出来事を後悔しているのをわかっていたのか……
 カインは少し驚いていた。人のことには全く無頓着だと思っていたからだ。
「それと…… セレスのことは報告するな」
 ケイナの強い口調にカインは目をあげた。
「最初からそのつもりだよ」
 カインはケイナの様子をうかがいながら答えた。
「そんなに彼のことが心配かい」
 冷静を装ったがショックだった。いともあっさりとケイナを惹きつけた少年。いったい彼のどこがこんなにケイナの心を惹きつけるんだ……。ぼくらは途方もない時間を要したというのに。
「あいつは何にも知らない」
 ケイナは椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
「あいつは関係ない」
「そのわりには彼に近づくじゃないか。誰にも言ったことのない話をして」
 ケイナは無言だった。
 そうだよ、ケイナ。きみのやっていることは言葉と裏腹だ。
 きみは今夜、ぼくらが今まで聞いたこともないほどたくさんしゃべった。
 いったい何を考えてる……。
「なんで18歳かな……」
 ケイナは天井を見つめたままつぶやいた。
「おまえやアシュアや…… あいつにも。もっと時間があれば話せたのに」
 カインは怪訝そうにケイナを見た。彼の顔には何の表情もあらわれていない。
「小さい頃からずっとデータをとられてた。遺伝子情報や運動能力や、生殖検査や…… なんだかんだと名目をつけてたけど、結局おれの体が…… 細胞がまるごと欲しいだけだ」
「なんのことだ?」
 カインは目を細めた。ケイナが何を言いたいのか分からなかった。
「歳を取らずに細胞も死なない状態で、ずっと保存してデータを取るんだ」
 ケイナは笑みを浮かべた。
「え?」
 心臓がドキリとした。
「まさか…… 仮死保存?」
 ケイナは冷ややかな目でカインを見た。
「やっぱり、何も知らないんだ」
「ちょっと待てよ!」
 カインは思わず声を荒げた。
「きみは人間だぞ! 仮死保存できるのは実験体の動物だけだ!」
「もともと住民登録もされていない『ノマド』出身のおれに、人間とか何とか主張する権利なんかない。レジーはおれを引き取った時点でリィ・カンパニーとそういう契約をしてる」
 契約? なんだそれ……
 カインは呆然としてケイナを見つめた。
 頭がくらくらした。ぼくは何も知らなかった。
 いや、知ろうともしていなかったもかもしれない。カンパニーのやっていることなど知りたくもなかった。
 健康体のケイナを仮死保存してカンパニーはいったい何をしようとしている?
「18歳など来なければいいって何度も思った。だけど…… もうどうでもいい。 眠ってしまえば何も分からない。夢もみない。なのに…… 時々怖くなる」
 出会って初めて聞くケイナの弱音だった。反射的に腕を見たが、警報作動しなかった。
「きみらしくない言葉だな」
 カインは動揺を押し隠して言った。ケイナは身を起こしてカインに目を向けた。
 カインはその目に真正面から見つめられるといつも背筋に震えが走る。
「おまえはリィの後継者なんだってことは知ってた。 おまえが仮死保存のことを知らないのも分かってた。何をどうしたっておれが18歳になった時の運命は変わらない。逃げも隠れもしない。でも……」
「でも?」
 カインは内心挑むような気持ちでケイナを見つめ返した。
「最後までいてくれよ。ガードでもなんでもいいよ。眠ってしまうまでそばにいて欲しい。リィの後継者ならそれができるよな」
 心臓が激しく動悸を打っていた。こんなケイナの言葉を聞けるなど夢にも思わなかった。
「リィの……」
 カインは自分の声が震えるのをどうすることもできなかった。
「リィの後継者とか、任務とか、もうそんなんじゃないよ。友だちだからこそきみを守るし、いつでも…… いつまでもきみのそばにいる ……アシュアも同じだ。ぼくらはきみを守る」
 ケイナはかすかに安心したような笑みを浮かべた。
「セレス・クレイのことも心配ない。きみが友人になりたいと思うのならぼくらの友人でもある。守るよ」
(だけど、カンパニーは甘くない……)
 カインは心の中で付け加えた