―― 一年後 ――

 カインは顔をあげて溜め息をつくと、椅子の背もたれに身を沈めて見るともなしに天井を見上げた。
 いくつのデータをチェックしただろう。毎日毎日、山のような報告書と企画書、計画書…… モニターを見つめているだけでもかなり疲れる。
 部屋に誰かが入って来た気配を感じてそちらに目を向けた。
 秘書のティ・レンだ。
 彼女はトウの秘書だったクーシェのあとに入った、この春に『スクエア』を修了したばかりのまだ若い女性だ。カインとは歳が2つしか違わない。
「チェックが必要なものはデータにあげておいたので、ヨクに伝えてください。あと、紙のものはこれ」
 カインはデスクの上の紙の束を持ち上げた。
「分かりました。交換しましょう」
 ティはくすくす笑いながら、持っていた紙の束をどさりとデスクの上に置いた。カインはそれを見てうんざりした。
「ヨクがあとはこちらで進めるからと仰ってました。社長はもうお出にならないと……」
「そうだね……。どこかでキリをつけないと一生オフィスから出られないような気がする」
 カインは辟易しながら立ち上がった。
 ヨクはカインが社長に就任してからカインの右腕となって業務を担ってくれている。
 いや、正しくは「彼に指導されている」と言ったほうがいいかもしれない。
 トウよりはいくぶん年齢は若いが、東洋系の男性で笑うと顔中がくしゃくしゃになる。
 彼は自身の曾祖父の時代から4代にわたって『リィ・カンパニー』に従事してきた数少ない重役の血筋で、カンパニーの仕事を熟知しているといってもよかった。
「ヨクの出ている会議の様子はどう?」
 カインはスーツの上着をとりあげながらティに尋ねた。
 着慣れないスーツも、やっと最近馴染むようになってきた。
 東洋系の血はどうしても年齢よりは幼く見える。いくら先代の息子とはいえ、トウの就任時期よりも遥かに若いカインにとって周囲から信用を得ることすらが一苦労だ。ヨクをはじめとするバックアップの重役たちがいなければとてもやってこれなかっただろう。彼らいればこそのカンパニーの信用であるともいえる。
「予定通り進んでいるみたいです。ただ、気になることがあるので、社長にはお帰りになられたら時間をとっていただきたい旨、伝えるようにと言われました」
「わかった」
 カインは髪をかきあげると、足早にクローゼットに近づいてバッグをとりあげた。
「お戻りは5日後でよろしいですか?」
 ティの問いにカインはうなずいた。
「もしかしたら数日伸びるかもしれないけれど…… そのときには連絡します」
「お気をつけて」
 彼女は笑みを浮かべて部屋を出ていくべく背を向けかけて、再び口を開こうとするカインの表情に気づいて向き直った。かすかに小首をかしげるティを見て、カインは一瞬ためらったが、口を開いた。
「母から…… 連絡はない?」
 ティの視線がすまなさそうに伏せられた。
「いえ……」
「そう……」
 カインは彼女から目をそらせてうなずいた。
(母から連絡はない?)
 一日一度は聞いてしまう。ないとわかっていても。
 半年間、すさまじいスケジュールでカートとリィの事業分離を片付け、従業員の線引きとカインへの引き継ぎ、カインのバックアップをする重役数名の指名をしたあと、トウは自分の預金で設立した小さな幼児療養施設の経営にシフトした。
 施設の経営が軌道に乗ったところでトウは急に経営権を他者に譲り、行方知れずになった。
 彼女がアライドに発ったらしいことだけはつかめたが、その後の足取りは全く分からない。
 トウがいきなり子供の施設の運営を始めた時は驚いた。
 ただ、カインは母が長年解いた姿を人に見せたことのなかった長い髪をぷっつりと肩まで切り、質素な髪止めでそれをたばねて病気治療中の子供たちの病室を渡り歩く姿を何度か見た。
 そのときのトウの表情には見慣れた張り詰めた空気はなかった。
 療養中の子供に向けられる笑みは以前のトウからは信じられないほど愛情溢れた表情だった。
 化粧もせず、長年着慣れたスーツを脱いで動き回る彼女の姿をカインは信じられない思いで見ていた。
「変な顔してわたしを見ないでよ。この子たちに有効な治療法を早く確立させてよね」
 トウは失踪する直前にカインに言った。
「わたしは今でも『トイ・チャイルド・プロジェクト』は止めるべきではなかったと思っているわ。でも、もうどうしようもない。時間は待ってはくれない」
「時間は待ってくれない……?」
 カインの怪訝な顔を見て、トウは笑った。
「時間は待ってはくれない。わたしにもあなたにも子供たちにも」
 荒れきった手を伸ばすと、トウはカインの額に垂れかかった前髪をかきあげてやった。
「大丈夫。あんたはちゃんと経営者としてやっていけるわよ。わたしとボルドーとお祖父様の血を引いているんだから。約束して。この星をきちんと生き返えらせるのよ。子供の笑顔を増やすのよ」
 返す言葉も見つからないまま、その数日後、トウは姿を消した。
 その後はどんなに手を尽くしても彼女の居場所は分からなかった。

 レジー・カートは3か月前に他界した。そのときに何ヶ月ぶりかでユージーに会った。
 あの地震の日のことは触れまいと思っていたが、先に口を開いたのはユージーだった。
「『人の島』の捜索を始めてる」
 彼は言った。
「地表の氷が不安定で足場を確保するだけでもあと1カ月かかると思う。見つけるのにはどれくらいかかるかわからんな……」
「生命反応はなかった……」
 カインがつぶやくと、ユージーはうなずいたまま何も言わなかった。
 ユージーは諦めきれていない。
 その気持ちはカインも同じだった。だが、もうあれからずいぶんたつ。
 生きている可能性は低い。
 いくら強度のあるシェルターになっているとしても、ケイナたちのいた部屋が氷の重みで押しつぶされていないとも限らない。
 この地を掘り返す時間と労力が供出できるだけの体力はすでにリィにはなかった。だから、カートの側で動いてくれるのは有り難いが、凍ってしまっていると思えるケイナとセレスの姿を見ることは不安だった。
 何度も衛星経由で確かめた。生命反応はない。ふたりは死んでしまったのだ。
 一昨日、いきなりユージーから連絡が来た。
 箱が見つかった。
「体が空くんならこっちに来て欲しい。……いや、無理にでも来てもらいたい」
 ユージーの口調に躊躇なくカインは『人の島』に行く決心をつけたのだった。

「運転手をつけなくていいんですか?」
 部屋を出て行こうとするカインにティは言った。
 愛らしいくるりとした褐色の目が少し心配そうに見つめている。
「大丈夫だよ」
 カインは笑った。
「プラニカの運転はもう慣れた」
 トウの時代のように、カインは運転手をつけなかった。
 自分でできることは自分でする。そう考えていた。
 カンパニーの塔は以前と変わらずあったが、半分は他社に部屋を貸した。
 ほかの会社と共同でビルを使うことで、閉塞気味だったリィのイメージを払拭した。
 前よりは活気が出たかもしれない。上のフロアの数階分はカート関連の会社が入っている。
 市場の分裂はいっとき混乱を招いたが、それもわずかの時間で回復した。
「カインさん!」
 いつものようにエントランスを突っ切ろうとして、カインは自分を呼ぶ声に足を止めた。
「ジュディ、どうしたんだ。今からそっちに行くつもりだったのに」
 カインは駆け寄ってくるジュディの顔をびっくりして見た。
「迎えに来たんです。待ちきれなくて」
 カインはそれを聞いて思わず笑った。
「大事なクライアントですから。これくらいは」
 ジュディは笑みを見せるとカインを自分のプラニカに促した。
「せっかく直したのに、乗ってくれないかと思いましたよ」
 カインを助手席に押し込んで、運転席に乗り込みながらジュディは言った。
「こっちも修理が手間取ったってのもあるんだけど」
「頼んでいたのに申し訳なかった。いろいろあって時間がとれなかったんだ……」
「もう、立派に社長さんですね」
 ジュディはプラニカを発進させて言った。
「今でも不安まみれだよ。分からないことが多すぎて。毎日頭がパンクしそうだ」
 カインは答えた。
「おととい、トニ・メニと会ったんです」
 ジュディは言った。カインは彼に顔を向けた。
「アル・コンプとトニ・メニは次の試験くらいでハイライン最後の年にあがれるみたいですよ」
「そうか……。頑張ったんだな」
 カインはつぶやいた。あのあと一度だけふたりには会った。
 セレスとケイナのことを聞いてふたりとも泣き崩れた。立ち直ってくれるだろうかと心配したが……。
「アルもトニも修了後はリィ・カンパニーへの配属を希望するらしいですよ」
 ジュディはカインを見て笑みを見せた。
「約束したからって」
「……」
 カインはうなずくと、ジュディから顔をそらせて窓の外に目を向けた。
 セレスを助けてやれなかったことに恨みを持たれてもおかしくないのに。
 それでもぼくに力を貸してくれると言うのか……。
「すぐに発進できますから」
 眼下に見えたエアポートに目を向けてジュディは言った。