リアは大きな揺れに思わずアシュアの手を放してテントの床にひっくり返った。
 揺れは1分も続かなかったが、こんな大きな地震を体験したのは初めてだ。
 アシュアの体がまだベッドの上にあることを確かめると、彼女は慌てて外に出た。
 子供たちが怯えて泣いている以外は大きな混乱はない。崩れているテントもなかった。
「怪我はなかった?」
 背後で聞こえたリンクの声にリアは振り返った。
「震源からは離れているし、高いところにいるから津波の心配もしなくていいよ」
「どうしてそんな、わけ知り顔をしてるの?」
 リアは眉をひそめてリンクを見た。
「ほかの人たちどうしてあんなに落ち着いてるの? ここではこんな地震は日常茶飯事ってわけ?」
 リンクは困ったような顔をした。
「何を隠して……」
 リンクに掴みかかろうとした途端、リアは背後から誰かにしがみつかれてぎょっとした。
「相変わらず怒ってンなあ……」
「ア……」
 自分の肩に乗せられた腕を見てリアは声をなくした。
「リンク、久しぶり。さすがにまだちょっとふらつくわ」
「お帰り。アシュア」
 リンクは今にも泣き出しそうな顔で笑みを浮かべて答えた。
「リア…… ごめんな。おれ、助けてやれなかった……」
 リアは自分の髪に顔を埋めるアシュアの顔を振り返ることができなかった。
「あいつらを助けてやれなかったんだ……」
 アシュア、いったい何を言ってるの?
 リアはアシュアの腕に手を伸ばした。
 あったかい。アシュア、生きてる…… 生きて話してる……。涙がこぼれ落ちた。
「トリは生きてるって言ってるんだ。必ず迎えに行こうな……」
 リアは声をあげて泣いた。


 『ケイナ』の体は一瞬散った火花と同時に小さくぴくりと跳ね上がった。
 赤い血があっという間に彼女の白い服を染めていく。
 小さく悲鳴をあげ続けながら彼女は一本の線を繋ぎ合わせるとそれを握りしめたまま床に崩れ折れた。
 しばらくして部屋の中の空気がかすかに流れるのをセレスとケイナは感じた。
 酸素が供給され始めたのだ。
 だが、気温はどんどん下がっていく。 たぶん数十分もたたないうちに部屋の中は凍っていくだろう。
 セレスが鼻をすすって手の甲で涙を拭った。
「『ノマド』に一緒に帰ろうって言ったのに……」
「彼女は…… 自分がもう『ノマド』に帰ることができる体じゃないことわかってたんだよ……」
「でも……」
「うん……」
 ケイナは呟くように答えた。
 セレスの肩に手を回すとできるだけ自分の体を近づけて抱き締めた。
 こんなことをしても気休めかもしれない。
 この寒さではきっと一時間ももたないだろう。その一時間の間に助けが来る可能性は皆無であることをケイナは悟っていた。
「寒くないか」
「寒くないよ。大丈夫」
 セレスはケイナの背に手を回してしがみつきながら答えた。
 それを聞いてセレスも同じことを悟っているとケイナは思った。
 しかし、セレスは決してそのことを口にはしない。
 ずっとそうだった。セレスは死を見ない。それが遺伝子の宿命を乗り越える術だったことを最後の最後に知った。
「ケイナ、海を見に行こうね」
 セレスの言葉にケイナはうなずいた。
「うん……」
「おれ、寝ちゃってたけど、地球に着陸するとき、ケイナは海を見た?」
「……見たよ」
 左足の感覚がどんどん薄れていくのを感じながらケイナは答えた。
「大平洋だったのかな…… 真っ青で、でかかった……。でも、おまえと一緒に見なきゃ意味ねえよ……」
「じゃ、今度一緒に絶対見よう。リアやアシュアもいるといいな。カインも」
「うん……」
 ケイナの手が自分の顔の髪をかきわけ、彼の顔が寄せられるのをセレスは感じた。
 冷たく凍えた感触は前よりずっと涙が出るほど切なく優しかった。
 もうこれが最後かもしれない。
 赤いわずかな光の中に浮かぶケイナの整った顔が見える。彼の顔がもっとよく見たい。
 セレスはケイナにさらに力をこめて抱きついた。
 ずっとこうしたかったけど、できなかった……。
 遺伝子とか、男とか、女とか、ややこしいこと全部抜きにして、普通のことしたかった。
 それだけのことなのに、おれたちできなかった。
 しばらく沈黙が続いて、セレスはケイナの顔を見上げた。
「ケイナ、眠っちゃだめだよ」
「大丈夫だよ……」
 ケイナはかすかに笑みを浮かべたが、その表情が辛く歪んでいることはわずかな光の中でも見てとれた。
 血に濡れた服は彼の体温をどんどん奪っていくだろう。
 失った血も彼の体を冷やしていく。
 セレスはケイナの背に回した手で彼の体をさすった。それでも自分の手もほとんど感覚がなかった。
 絶対離さない。ケイナを離さない。
 しばらくしてケイナはセレスの肩に顔を埋めた。これまでも何度か彼はこんなことをしてきた
 甘えるような、慈しむような行為。首筋に少し温かい吐息が触れた。
「マスクなしで…… 『コリュボス』の湖みたいに、砂浜を歩けるといいな……」
 ケイナの声の調子がおかしい。セレスはトクトクと鳴る自分の心臓の音を聞いた。
 かじかんだ手を必死になってケイナの背に回して撫でた。
 お願い、ケイナ、しっかりして。
「生きてて、良かったって…… 今は…… 思う…… ありがと……」
 ささやくようにそう言ったあと、ケイナは小さく長い息を吐いた。そしてその次の呼吸はもう聞こえなかった。
「ケイナ……」
 あふれた涙はあっという間に冷たくなって頬を流れた。
「眠っちゃだめって言ったのに……」
 セレスは動かなくなったケイナの体を必死になってかき抱いた。
「なんか、しゃべってよ……。目、開けてよ…… 先に行かないでよ……」
 小さな子供のような嗚咽がセレスの口から漏れた。
「もう頑張らなくていいのに…… ううん、頑張ったよね…… ケイナ…… 頑張り過ぎちゃった…… お休み…… もう…… ゆっくり眠れるね……」
 ぼろぼろと冷たい涙が流れていく。
 ケイナ、ずっと一緒にいよう。ずっとずっと。
 兄さん、ユージー、アル、トニ、リア、カイン…… アシュア、リンク、クレス……
 ごめんね。
 みんな、ごめんね。
 もう一度会いたかったけど、できそうにないんだ。
 ごめんよ……。
 ケイナの凍えた頬に自分の頬を押しつけて、セレスは目を閉じた。