「セレス…… 地面が揺れてるような気がする。それともおれの体がふらついてるのかな……」
 ケイナは言った。
「ううん、違う…… 少し揺れてる。地震みたいだ」
 セレスは部屋を見回して答えた。
「彼女を…… 壁際に連れて……」
 ケイナはがくりと膝をついた。
「大丈夫?」
 セレスは仰天してケイナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫。もう出血は止まってる。早く彼女を……」
 セレスはうなずくと、泣きじゃくっている『ケイナ』に近づいた。
「おいで」
 手を差し出すと『ケイナ』は顔をあげた。
「一緒に『ノマド』に帰ろう。最後まで生きようよ」
「帰れるの?」
「帰れるよ…… たぶん」
 おずおずと自分の手を握る彼女を壁際に座らせたあと、ケイナに手を貸そうと彼に近づいた途端、部屋が大きく揺れた。ケイナが咄嗟にセレスの頭をかばった。『ケイナ』の悲鳴が響いた。
 部屋の床が大きく斜めになり、ふたりとも壁際に転げ落ちるように滑った。
 部屋の中にあった機械から火花が散る。
 『ケイナ』の悲鳴はずっと響いていた。
 セレスは必死になってケイナにしがみつき、ケイナは放すまいとセレスを抱き締めていた。
 どのくらい揺れていたのか分からない。
 静かになったので顔をあげると、赤い光がぽつりとひとつだけついていた。
 光の中に見える部屋の中は計器類やコードが散乱していた。
 大きく斜めになった床が平衡感覚を狂わせる。
 『ケイナ』の声が聞こえなくなっていた。
「セレス、怪我ないか」
 ケイナの声が聞こえた。
「うん…… ケイナは……」
「おれ、足、だめかも」
 その声に慌てて赤い光を頼りにケイナの足を見たセレスは呆然とした。ケイナの左足は不自然な方向にねじくれている。
「うまく動かないからかばいきれなかったんだ……。でも、大丈夫だよ。骨折くらいどうってことない」
 ケイナは言った。しかし声に力がない。肩からの出血と足の怪我でかなり体力を消耗しているのかもしれない。それに追い討ちをかけるようにすさまじい冷気が部屋に流れ込んできた。
「空調、壊れたんだな……。しかたないか」
 ケイナがつぶやくのを聞きながら、セレスは顔を巡らせた。
「あの子は……」
 『ケイナ』の姿はどこにも見当たらなかった。機械の下敷きにでもなってしまったのだろうか。不安を覚えながらケイナにしがみついていると、反対の壁側で白い影が立ち上がった。
「『ケイナ』!」
 セレスが呼ぶと、彼女は呆然とした様子で顔を巡らせこちらを向いた。
「こっち、おいで。怪我ない?」
 『ケイナ』はセレスの声に目の前に転がっていた計器の大きな箱を乗り越えた。しかしこちらには来ない。ぐるぐると顔を巡らせている。
「お兄さん…… 赤い光がひとつついてるの。…… 空気作らなくちゃ…… あの人たちはまだ生きてるの」
 『ケイナ』はつぶやいて計器の山で何かを探すような仕種をした。
 セレスとケイナは顔を見合わせた。彼女は誰と話しているんだろう。
「『ケイナ』、危ないよ。余震が来るかもしれない。早くこっちにおいでよ」
 セレスは言った。
「大丈夫」
 『ケイナ』は答えた。
「あなたはそこでその人についててあげて。赤い光がついてたら、動力回復する可能性があるって……」
「誰と話してるの?」
 『ケイナ』は顔をあげてセレスを見た。
「お兄さん。ずっと声をかけてくれたの。……お兄さんの声、もっとちゃんと聞いてれば良かった。」
「お兄さん……?」
 『ケイナ』はうなずいて自分の頭を指した。
「頭の中にチップが埋め込まれているの。お兄さんはそこに話しかけてくれるの」
「カイン……」
 ケイナがつぶやいたので、セレスは目を丸くした。
「カインなの? カインとずっと話をしていたの?」
「ごめんね」
 『ケイナ』の目から涙が溢れた。
「ごめんね……。お兄さん、ずっと教えてくれようとしていたの。一生懸命助けてくれようとしていたの。でも、わたしが聞かなかったの」
「『ケイナ』」
 ケイナが口を開いた。
「お兄さんに言って。……ありがとうって。もういいよ、って……」
 『ケイナ』はしゃくりあげて泣き出した。
「やだ……。みんなで『ノマド』に帰るの」
 彼女はそう言って再び計器に身をかがめた。
「あった。これ……」
 一本の接続線をひっぱりあげて彼女はつぶやいた。そして顔を巡らし腕を伸ばしてもう一本を引っ張りあげた。それを近づけようとしたが、両方の線の端は彼女の胸の幅で繋がらなかった。
「繋がらない……」
 『ケイナ』はつぶやいた。
「お兄さん、繋がらない……。線が届かないの……。切れてるの。もう一本ないと……」
 彼女は接続線から手を放し、しばらくうつむいていたが、やがて顔をあげて立ち上がるとケイナとセレスのほうによろめきながら近づいて来た。
 ケイナのねじくれた足に目を向け、そしてその肩の赤い血を見て『ケイナ』は顔を歪めながらふたりの前に膝をついた。
「生きてね」
 セレスとケイナは彼女の顔を見つめた。
「必ず生きてね」
「『ケイナ』?」
「ごめんね……」
 『ケイナ』は顔を近づけるとセレスの口の端にキスをした。『ノマド』の親愛のキスだ。そして再び立ち上がった。
「『ケイナ』、どうしたの? 何をする気?」
 セレスが思わず立ち上がりかけ、ケイナが目を見開いて体を起こした。
「来ちゃだめよ。危ないから」
 『ケイナ』はそう言うとふたりを振り返り、少し笑った。手にはセレスの剣を握っていた。
「バイバイ」
 彼女は剣を自分の胸に突き立てた。


「バイバイ」
 『ケイナ』の言葉を最後にぷつりと切れた通信に、カインは呆然と立ち尽くしていた。
 部屋の中にいた者もみな静まり返っている。
「部屋の動力は…… 回復したのか……」
 カインがかすれた声で言うと、ひとりの男がかぶりを振った。
「分かりません。でも、回復しても、気温維持と酸素供給の両方が復帰した可能性は低いでしょう…… どちらか片方か、あるいは両方だめか……」
 カインは何も映らない目の前の真っ白な画面に目をやった。
「どちらが回復していても、彼らの命はあと数時間です…… もう、何も……」
 男は言いにくそうに言い淀んだ。
「彼女は自分の体内に埋め込まれていた機器を自ら取り出したんでしょう…… 接続は恐らくそれで……」
「部屋の位置は……」
 カインは尋ねた。
「詳しくは現地に飛ばないと分かりません。でも、上空映像で地表に出た様子が見られないので…… どんなに浅く見積もっても、数十メートル地下かと……。堅い氷を掘り起こすのに…… どれくらいかかるのか見当もつきません。何より…… 今は着陸する場所もありません……」
 カインはヘッドホンをとった。
 生きているかもしれないのに、助けられない……。助けられなかった……。
 軍機が飛び立ったことだけは確認ができた。ユージーとハルド・クレイは無事だ。
 ……あのふたりが無事だっただけでも…… 良かったと思うべきなのかもしれない。
「ご子息」
 バッカードが一枚の紙を突き出した。カインはそれを受け取り、文面を見て口を引き結んだ。
『トイ・チャイルド・プロジェクト』に関する全権委任状だった。トウ・リィからカイン・リィへ。
「いつから持ってたんだ……」
 カインはバッカードを見た。バッカードは肩をすくめた。
「あなたが気を失った直後から。小僧っ子に何ができると思ってたんですよ。私は」
 カインはバッカードから目をそらせた。
「最後の決断はご自身でしてください」
 部屋にいる全員が自分を見つめている。その視線が突き刺さるように痛く感じる。
 トウ。あなたは最初からこうするつもりだったのか? 全部分かっていたのか?
 ならばなぜ、もっと早く……。
 そうすれば、こんなことにはならなかったのに……。
「彼らはまだ生きている……」
 カインは言った。しっかりしようと思うのに、声が震える。
「生きている命を諦めるのはぼくには途方もなく辛い……。でも、どうしようもない……」
 だめだ、しっかりしなくちゃ……。カインは自分を落ち着かせるために深呼吸をしたあと、全員を見回した。
「トイ・チャイルド…… プロジェクトを解散…… します」
 部屋の中は静まり返ったままだった。
「5日以内に当プロジェクトに関するデータはすべて破棄、消去を行うこと……。プロジェクトに関わった者すべてについては今後リィ、もしくはカートの監督下におかれます。個人的なデータは一切持たないように。……詳細は明後日、文書とデータにて…… 通達します。ここに関わっていたことを外部に漏らした場合は、リィ、及びカートと対峙すると考えてください。 ……以上」
 最後のカインの声が響いたあと、部屋の中は沈黙が続いていたが、最初のひとりが立ち上がって部屋を出ていくと、次々にそれに続いてみなが出て行った。
 カインはそばにあった椅子に腰をおろし、目の前の真っ白い画面を見あげた。
 何も映らない。この向こうに生きている命があるのに…… 何も映らない。
「ご子息」
 最後に残っていたバッカードがカインに言った。
「私は退任したいと思っているんですがね」
「それはカートに言ってください」
 カインはバッカードをちらり見てかすかに笑みを浮かべた。
「『ホライズン』はもうすぐリィの管轄じゃなくなる。プロジェクトの事後責任はリィで担うことになるかもしれないけれど、ホライズンの人材管理はおそらくカートだ」
 バッカードはうなずいた。
 カインは胸のポケットに手を触れて、セレスのブレスレットを取り出した。これも処分してしまわないといけない……。
「あなたが持っておられましたか」
 ブレスレットを見たバッカードの言葉にカインは思わず彼の顔を見上げた。
「『トイ・チャイルド』の認識票です」
 バッカードはカインの手のブレスレットのプレートを指した。
「その緑色の石はデータ保存メディアなんですよ。遺伝子情報はすべてそれに入っている。特定のレコーダーで読むんです」
「バッカード所長。無理を聞いていただけて感謝しています」
 カインはバッカードに言った。バッカードはかすかに口を歪めると踵を返し、部屋を出ていった。
 今頃分かってどうする……。
 カインはブレスレットを見つめてそれを目の前のデスクに置き、椅子の背もたれに身を預けた。
 必死になって走って辿り着いた先がこれか……。
 誰もいなくなった。ケイナ、セレス、アシュア……。
 ぼくらの生きてきた道はなんだったんだろう。どうしてぼくだけがここにいるんだろう……。
 途方もない喪失感と疲労感。
 どうしてぼくだけが…… ここにいるんだろう……。
 腕につけた通信機がいきなり鳴ったので、カインはびくりとした。身を起こして受信すると、ジュディの姿が映った。
「カインさん、いい知らせですよ!」
 ジュディは顔を上気させていた。
「船ね、修理できそうなんです。探したら、パーツ持ってるところがあったんだ」
 思わず漏れそうになる嗚咽をかろうじてこらえた。
「ありがとう」
 声を絞り出すように答えた。
「カインさん?」
「急がないから…… 頼むよ。きみの操縦で…… 行かせてもらうから」
「分かりました。また連絡します」
 ジュディの姿が消えたあと、カインは顔をあげて再び白いままの画面を見た。
 しばらくそれを見つめたあと、デスクに置いたブレスレットを持ち上げポケットに入れた。
 そして画面に背を向けると部屋をあとにした。