「いっ……」
 ケイナが呻いてがくりと身を前のめりにした。慌ててセレスが彼を支えた。
「膝、痛むの?」
 セレスはケイナの顔を覗き込んだが、暗いので表情がよく分からない。
「大丈夫。たいしたことない……」
 ケイナは顔をあげて言った。痛いって言ってたじゃないか……。セレスは口を引き結んだ。
 なんだか嫌な予感がする。ケイナのこの状態がよくない結果を生みそうな気がする……。
「おれによりかかって」
 セレスはケイナの腕をとって肩に回した。ケイナが顔をこちらに向けるのが分かる。
「セレス……」
 ケイナの息が頬にかかった。
「おれ、彼女に会ったら……。ごめん……」
 セレスは一瞬身をぴくりとさせた。
 彼女を永眠させる。彼女に会うと決めた時点でそれは分かっていたことだった。
「ごめん。おまえに見せたくないって思ってたけど……。 壁が動いたとき、ハルドさんのほうにやってればよかった……。おれ、それ、できたんだけど……」
 何も言えなかった。胸が痛い。壁で分断されたとき、一種の予感があった。命の分かれ目だ。ケイナなら、咄嗟に兄のほうに突き飛ばす余裕もあっただろう。それでも自分のほうに引き寄せてしまったケイナの後悔が痛いほど伝わってくる。
「ここまで一緒にいたんだもん。突き飛ばされるよか、いいよ」
 かろうじてそう答えると、ケイナは肩に回した手でセレスの頭を少し撫でた。
「海、見に行こうな」
 ケイナは言った。
「うん」
「寒いところより、あったかいところがいいな」
 セレスはそれを聞いて笑ってうなずいた。
「大平洋の島のドームで、海に近いところがあるよ。でも、あんまりきれいな景色じゃないかも」
「いいよ、それでも」
 痛そうに左足をかばいながらケイナは言った。
「おまえと一緒に見られるんなら」
 髪でかくれたケイナの横顔を見た。少しケイナの息が荒くなっているのが気になった。
 左足を引きずるケイナを支えながらしばらく歩いたあと、右手に扉を見つけた。
 少し先にも扉がある。しかし、そのどちらも開いた状態になっているのが見てとれた。
「ドアが開いてる……。今までのはずっと閉まってたよね……?」
 セレスはケイナの顔を見て言った。ケイナはセレスの肩から腕を外し、腰に差した剣の柄に手を伸ばして確かめた。
「左が使えない……」
 彼がつぶやいたので、セレスは不安気にケイナの足を見た。
 左足がうまく使えないなら、右を軸に動くしかない。
 剣を使うの? そんな必要があるの?
「待ってて。おれが行くよ」
 セレスはケイナの肩を押さえて言った。
「女の子だよ。大丈夫。様子見て来るよ」
「ウィルスを送ってるんだ。おれたち、とんでもない失敗をしたのかもしれない」
 ケイナは言った。表情が険しい。
「もし、彼女が仮死保存から目覚めてたら、彼女の死にたいという意識は殺したいっていうのと同じだぞ」
 セレスはケイナの手に握りしめられた剣の柄を見た。
 彼女が目覚めてたらそれで殺す?
 目覚めてなくったって死なせるしかなかった。
 死なせ方が違うだけ? 分かってたよ。分かってたけど…… どうしよう……。どうすればいいの?

 ―― あなたが 死ぬの ――

 心臓が激しい音をたてた。
「ケイナ、待って。お願い」
 セレスはケイナの肩を掴んで彼の前にたちはだかった。ケイナと彼女を会わせるのが途方もなく怖くなった。
「セレス、あんまり時間ないよ。空調が止まって酸素……」
 言いかけてケイナは口をつぐんだ。空調の唸りがかすかに聞こえる。
 そしてふたりとも部屋に明かりがともったのを知った。
 暗い廊下に開いた部屋の入り口が四角い光を落した。
「明かりが……」
 心臓の激しい鼓動で呼吸が荒くなるのを感じながら、セレスはケイナから手を放し、ゆっくりと振り返った。
 ケイナが身構える間もなく、セレスは自分の腕に飛び込んで来た影を見た。
「ひ……」
 思わず声をあげながらセレスは自分の顎の下に見える自分の緑色の髪を見た。
 違う。自分の髪じゃない…… 人の頭……?。
「おとうさん……」
 少女の小さな声が聞こえた。
「どうして生きてるの?」
 その途端、ケイナがものすごい力で自分の腕を引っ張るのを感じた。引き離された少女はびっくりしたような顔を向けた。何日も陽に当たっていないような青白い肌。大きく見開かれたガラス細工のような緑色の瞳にセレスは呻き声を漏らした。
「こっち!」
 ケイナに隣の部屋に引きずられながら、セレスは腕の中に残る彼女の細い体の感触を感じていた。
 あの子は起きていた。起きているなんて。
 でも、夢の中でもずっと彼女は起きてたじゃないか。
 ふたりのあとに続いて困惑したような表情で少女が部屋に入って来た。痛々しいほど細く痩せた体に白い病衣のようなワンピースを着ている。部屋の中にあった大きなカプセル状のベッドの透明な蓋がぱっくりと開いていた。この中ならきっと薄い病衣でも大丈夫だっただろう。でも、今は途方もなく寒いはずだ。彼女は小刻みに体を震わせていた。
「おとうさん、生きてるの? ……迎えに来てくれたの?」
 震える声でそうつぶやく彼女を見つめながら、セレスは自分の前にかばうように立つケイナの腕を思わず掴んだ。
 怖い。たまらなく怖い。彼女の顔は自分そっくりだ。まるで自分を見ているような気がする。
「ケイナ……」
 そうつぶやくと、彼女の顔がかすかにほころんだ。
「そうよ。ケイナよ。覚えていてくれた? おとうさんがつけてくれたの。『ノマド』の神の笛」
「え?」
 嘘だろ……。彼女の名前も『ケイナ』なの?
 思わずケイナの顔を見上げると、彼も目を見開いて彼女を見ていた。
「おとうさん、どうして生きてるの?」
 『ケイナ』は目を手の甲で拭った。
「あのとき、ちゃんと眠らせたじゃない……。だからわたしも眠れないのよ…… ううん、違う、次の人が眠らせてくれるんだよね。続くんだよ。あなたの次が……」
『ケイナ』は腕をゆっくりとあげ、ケイナを指差した。
「あなたを殺すんだよ」