セレスは午後のカリキュラムに何とか集中しようと頑張ってみたが、気を許すとすぐにユージー・カートの顔を思い出していた。おかげで教官には大目玉をくらった。
明日も同じようにぼんやりしていると叱られるだけではすまないかもしれない。
だが、夕食後部屋に戻ってきたトニを見るなりセレスは彼の腕を掴んでいた。
「ちょっといい?」
「う、うん……」
セレスの剣幕にトニの顔にさっと血が昇った。
「トニ、『ジュニア・スクール』でケイナと一緒だったって言ってたよね」
トニの顔にさらに血が昇った。そして慌てたようにブースの外に目を向けた。ジュディが帰って来ていないことを確かめたのだろう。
「そうだけど…… どうしたの、急に」
「ユージー・カートは本当にケイナを目の仇にしているの?」
「え……」
トニの目に困惑したような色が浮かんだ。
「『ジュニア・スクール』でのケイナはどんなふうだったの」
「それを知ってどうするの?」
それはセレスにも分からなかった。
「あのさ、こんなこと言いたくないんだけど……」
トニは言いにくそうに視線を泳がせた。
「ぼく、ほんとはあんまりケイナと一緒だったってこと知られたくないんだ。そんなこと吹聴してまわってるって知れたら厭なんだ。セレスも深入りしないほうがいいよ。スタンみたいに辞めることになったら困るじゃない」
「ユージー・カートの仲間にいびられるってこと?」
セレスの言葉にトニは目をしばたたせてうつむいた。
「知ってるんならやめとけよ…… ケイナに近づくと彼の取り巻きにマークされるよ」
「おれ、ユージー・カートに会ったんだ」
「えっ?」
トニの目が恐れとともに見開かれた。
「会ったってどこで。いつ?」
「今日、ダイニング出たあとで」
セレスは肩をすくめた。
「トニ、事故に遭った人、亡くなったって知ってた?」
「え? 死んだの?」
セレスはうなずいた。トニはうろたえた。セレスが逃れようのない質問を浴びせてくることを全身で感じとったのだ。
「ねえ、これってもし作為的だったら殺人だよ。ユージー・カートって、そんなことまでするの?」
「ぼく、分からないよ」
トニは勘弁してくれとばかりに泣きそうな声を出した。
「だけど、もしユージー・カートの仕業だとしたって、彼には決して懲罰はないよ」
「なんで?」
「カートの名前を知らないの? 軍のトップだよ。『ライン』の維持と運営に関わってるんだよ?」
セレスは言葉をなくした。軍のトップ…… じゃあ、兄さんの上司になるんだ…… それも一番上の。
「カート家は名門なんだ。リィ・カンパニーのリィ家とも昔から親交があるんだ。だからユージーの周りは『ジュニア・スクール』の時からいつも取り巻きが多かった。本当ならカートの跡取りはユージー・カートだよ。カート家では子供はユージーひとりだもの。ケイナはユージーとは血が繋がってないんだ。彼は養子なんだ。だけど、ケイナがいたら何でも完璧にしちゃうケイナのほうに周りは注目するよ。彼は見た目だって派手だし…… ケイナはユージーにとって目の上のこぶだったと思うよ」
トニは観念したようにため息をついてセレスのベッドの端に腰をかけた。
「ケイナはね、7年生までは普通の子だったんだ」
トニはぽつりと言った。7年生といえば10歳だ。
「ぼくは自分が小さい頃の記憶はあんまりないんだけど、自分が4年生になったくらいのときからのケイナはよく覚えてるよ。彼は頭が良くって、スポーツもできて、よく笑って、ぼくらにとってもすごくいい上級生だったよ」
セレスは俯いたままで話すトニを見つめた。
「ケイナのことをユージーの取り巻きが苛めるようになったのは9年生のときからだ。テキスト破いたり、鞄を捨てられたり、そんなのまだ可愛いほうだった。そのうちケイナはいつもあっちこっちに擦り傷や切り傷を作るようになって、ケイナと話をしたっていうだけで、ケイナだけじゃなくてその相手の子も苛めを受けるようになったんだ」
トニは耳まで真っ赤になっていた。不安や怖れや緊張は彼の顔色にすぐに跳ね返る。
「ぼくらだって怪我したくないし、そのうちケイナには誰も近づかなくなって、ケイナもだんだん笑わなくなって、いつもひとりでいるようになったんだ」
「それ…… ユージーが取り巻きに指示したの?」
セレスが言うとトニは首を振った。
「分からない。ユージー自身が手を出したことなんて一度もない。だけど、ユージーの取り巻きがやってるんだから、ユージーが指図してるんだろうって誰でも思うよ」
トニはセレスを見た。
「ぼくのいたスクールは転入や転校者が多いんだ。たぶん小さい頃からずっと同じ学校だったのってぼくとあと数人くらいだよ。ほとんどの子は笑わなくなったケイナしか知らないし、当たり前のように彼には近づかないほうがいいって思ってたと思う。ケイナはラインに入って、ユージーもラインにいる。バッガス…… あのスキンヘッドね、彼も同じスクールだったんだ。あいつが一番荒っぽいやつだった。ここじゃユージーがカート家の跡取りかもってことはもっと重要な意味を持つよ。スクールのときみたいな子供じゃない。ぼくの言ってること分かる?」
「分かるよ」
セレスは答えた。
「スタンの二の舞いになるなって言いたいんだろ?」
トニは目を伏せた。
「だけど、おれ、なんか間違ってると思うよ」
セレスは言った。
「間違ってるって何が?」
トニは怪訝そうにセレスの顔を見た。
「分からない……」
セレスはかぶりを振った。
「よく分からないけど、おれたちきっと違うこと見てる」
トニはセレスの言っていることが理解できずにただ彼の顔を見つめるしかなかった。
その夜、ケイナはいつものように夜半過ぎに部屋に戻ってきた。
トニとジュディはすっかり寝入っている。
微かな気配と共に彼はいつもと同じようにシャワーのあとの濡れた髪をこすりながら自分のブースの中に入っていった。少しは気を使っているのか、夜のトレーニングのあとはトレーニング室のシャワールームを使って帰ってくる。
セレスは椅子の上に乗ると、そっとブースの仕切りの上から隣のケイナの様子をうかがってみた。
ケイナはタオルを椅子の背にかけるとデスクに向かい、コンピューターのキイを叩き始めた。その横顔は全くいつもと変わりない。
笑わなくなったケイナ。自分から周囲を遠ざけているようなケイナ。
ユージー・カートの顔とは似ても似つかない。ユージーとは血が繋がっていなかった。似てなくて当たり前だ。
真っ黒で少し落ち窪んだような鋭い目に引き締まった肢体のユージーは一見怖そうだったが、突き放したような視線のケイナに比べればはるかに表情豊かだった。
ユージーの笑った顔や怒った顔は容易に想像できる。しかし、ケイナはいつも同じ表情だ。可笑しくて笑っている彼の姿はダイニングで見たそれっきりだ。
でも、自分の周囲の人間が死んでもここまで変わらずにいられるものなんだろうか。もしかしたら自分がその事故に遭っていたかもしれないというのに。
ふいにケイナが顔をあげてこちらに目を向けた。
「用があるんならこっちにちゃんと回ってこい」
危うく踏み台にしていた椅子から転げ落ちそうになった。
おずおずと彼のブースに入っていったが、ケイナは振り向く様子もない。
「なに」
ケイナはキイを叩く手を休めずにセレスに言った。
「あ、ええと…… こ、講議に必要な資料が見つからなくて……」
セレスはとっさに出任せを言った。それを聞いたケイナの手が止まり、彼は椅子を回してセレスを振り向いた。
「何の資料?」
ケイナは鋭い目をしていた。彼に出任せなんて通じるわけない。セレスは思わず目を伏せた。
「ぶん殴られたいのかよ。人と同じ手使いやがって」
ケイナは寝ているジュディのほうを顎でしゃくった。
「いったい、何の用だ」
「あの……」
緊張で口の中がからからに乾いていたが、セレスは思い切って言った。
「事故に遭った人が死んだって…… 聞いた。トレーニングマシンの下敷きになったって人……」
ケイナの表情はそれを聞いても変わらなかった。
「それで?」
「それで……?」
セレスは彼の言葉をおうむ返しにつぶやいた。
「仲間が死んだのにどうしてそんなに冷静でいられるの?」
ケイナはじっとセレスを見つめていた。眉がかすかにひそめられたような気がした。
「ロウランドが死んだのは事実だよ。だけど、おまえには関係ない」
何をわかりきったことを、といった口調だった。
「分かったら寝ろ」
そう言って背を向けようとしたとき、なびいた髪のすきまから赤い点が光って見えた。その光を見たとたん、セレスは思わず彼の肩をつかんでいた。
険しい光を帯びたケイナの目がこちらを向いた。
「人ひとり死んでもあんたにはどうってことないってこと?」
セレスは自分でも驚くほどの激しい口調でケイナに突っかかっていた。
「もしかしたら『あんたが死んでいたかも』しれないんだろ。 自分じゃなかったらどうでもいいわけ?」
ケイナの顔がさらに険しくなった。
「くだらねえこと吹き込まれやがって……」
セレスははっとして口をつぐんだ。彼の顔からさっきまでとは違う殺気が感じられた。心臓がどきどきした。
「ケイナ、あの……」
セレスが口を開こうとした瞬間、ケイナは急に立ち上がった。
横顔にちらりと苦しみの表情が見えたと思ったとたん、ケイナはものすごい勢いで部屋を飛び出した。
「ケイナ……!」
セレスはその姿に何か危険なものを感じとって反射的に彼のあとを追っていた。
薄暗い廊下をずんずん足早に歩いていくケイナに必死の思いで追いつくと、セレスは彼の前に回り込んだ。
「おれに近づくな!」
ケイナの顔には怒りと拒否がみなぎっていた。
「悪かったよ…… ごめん。あんたをそんなに怒らせるつもりはなかったんだ」
セレスはケイナの腕を掴んだ。部屋に戻ろう、そう言うつもりだった。
「近づくなって言ってんのが…… わかんねえのか!」
ケイナがそう怒鳴るのとセレスが右頬に痛みを感じて床に叩きつけられたのが同時だった。
視界がぐるぐると回り、彼に殴られたことを理解するのにしばらく時間がかかった。
やっと身を起こすと、意外にもケイナが床に体をくの字に折ってうめいていた。 右手で左の手首をつかんでいる。
「ケイナ!! 」
慌てて立ち上がって彼に走りよった。
「手、どうしたの……!」
軍科の者にとって手は命だ。でも教官を呼んだりしたら、ケイナは新入生を殴った罰則を受けてしまう。
セレスはあたりを見回した。すぐそばにダイニングがあるのを見てとると、ケイナを無理矢理立ち上がらせた。
「冷やそう……!」
「ほっといてくれ!」
そう言って、ケイナは再びうめいた。こんな状態でそのままにできるはずもなかった。
半ば抱え込むようにして明かりの消えたダイニングに連れていくと、外の光が差し込む窓際の椅子にケイナを座らせ、誰かが落としていったらしいタオルを見つけて飲料用のミネラルウォーターの蛇口に突っ込んだ。汚らしいタオルだったが、それ以外に何も見当たらなかった。
それを渡すとケイナは苦しそうに顔を歪めながら手におし当てた。
しばらくすると痛みが薄らいだのか、少し落ち着いたように見えた。
「大丈夫?」
セレスはおそるおそる声をかけたが彼は何も言わなかった。
「利き腕は…… 左だったの? ずっと右だと思ってた」
セレスはこのままケイナの左手が良くならなかったらどうしようかと不安だった。
おれを殴ったせいでケガするなんて、やだよ……。
ケイナはちらりとセレスの顔を見た。
「おまえも顔洗え。血が出てる」
それで初めて自分の口が切れていたことに気づいた。さっきタオルを濡らしたミネラルウォーターの蛇口からコップに水を汲み、指をひたして口を拭った。べったりと血が指についたので少しびっくりした。
トレーニングウェアの袖で口を拭って戻ってみると、ケイナはさらに落ち着いたようだった。タオルをテーブルに置いてぼんやり窓の外を見ている。
「どう? 良くなった? 医務室行かなくていい?」
セレスが声をかけるとケイナはこちらに顔を向けた。
「おまえは?」
「おれはたいしたことないよ。もう痛くないし」
痛くないのは嘘だった。さっき血を見たら急にぴりぴりと痛み出したのだ。違和感があるから少し腫れているのかもしれない。そのことは言わずにセレスはケイナの隣の椅子に腰をおろした。
ケイナは再び窓の外に目を向けた。
「左手、怪我してたの?」
セレスはためらいがちに尋ねた。ケイナはやはり何も言わなかった。
「ごめん。おれ、なんかいつも余計なこと言っちゃって……」
セレスは目を伏せた。ケイナはそんなセレスに目を向けると、しょげきっている緑色の髪をしばらく見つめた。
「おまえの言ってたこと…… 当ってるよ」
ケイナが言ったので、セレスは目をあげた。
明日も同じようにぼんやりしていると叱られるだけではすまないかもしれない。
だが、夕食後部屋に戻ってきたトニを見るなりセレスは彼の腕を掴んでいた。
「ちょっといい?」
「う、うん……」
セレスの剣幕にトニの顔にさっと血が昇った。
「トニ、『ジュニア・スクール』でケイナと一緒だったって言ってたよね」
トニの顔にさらに血が昇った。そして慌てたようにブースの外に目を向けた。ジュディが帰って来ていないことを確かめたのだろう。
「そうだけど…… どうしたの、急に」
「ユージー・カートは本当にケイナを目の仇にしているの?」
「え……」
トニの目に困惑したような色が浮かんだ。
「『ジュニア・スクール』でのケイナはどんなふうだったの」
「それを知ってどうするの?」
それはセレスにも分からなかった。
「あのさ、こんなこと言いたくないんだけど……」
トニは言いにくそうに視線を泳がせた。
「ぼく、ほんとはあんまりケイナと一緒だったってこと知られたくないんだ。そんなこと吹聴してまわってるって知れたら厭なんだ。セレスも深入りしないほうがいいよ。スタンみたいに辞めることになったら困るじゃない」
「ユージー・カートの仲間にいびられるってこと?」
セレスの言葉にトニは目をしばたたせてうつむいた。
「知ってるんならやめとけよ…… ケイナに近づくと彼の取り巻きにマークされるよ」
「おれ、ユージー・カートに会ったんだ」
「えっ?」
トニの目が恐れとともに見開かれた。
「会ったってどこで。いつ?」
「今日、ダイニング出たあとで」
セレスは肩をすくめた。
「トニ、事故に遭った人、亡くなったって知ってた?」
「え? 死んだの?」
セレスはうなずいた。トニはうろたえた。セレスが逃れようのない質問を浴びせてくることを全身で感じとったのだ。
「ねえ、これってもし作為的だったら殺人だよ。ユージー・カートって、そんなことまでするの?」
「ぼく、分からないよ」
トニは勘弁してくれとばかりに泣きそうな声を出した。
「だけど、もしユージー・カートの仕業だとしたって、彼には決して懲罰はないよ」
「なんで?」
「カートの名前を知らないの? 軍のトップだよ。『ライン』の維持と運営に関わってるんだよ?」
セレスは言葉をなくした。軍のトップ…… じゃあ、兄さんの上司になるんだ…… それも一番上の。
「カート家は名門なんだ。リィ・カンパニーのリィ家とも昔から親交があるんだ。だからユージーの周りは『ジュニア・スクール』の時からいつも取り巻きが多かった。本当ならカートの跡取りはユージー・カートだよ。カート家では子供はユージーひとりだもの。ケイナはユージーとは血が繋がってないんだ。彼は養子なんだ。だけど、ケイナがいたら何でも完璧にしちゃうケイナのほうに周りは注目するよ。彼は見た目だって派手だし…… ケイナはユージーにとって目の上のこぶだったと思うよ」
トニは観念したようにため息をついてセレスのベッドの端に腰をかけた。
「ケイナはね、7年生までは普通の子だったんだ」
トニはぽつりと言った。7年生といえば10歳だ。
「ぼくは自分が小さい頃の記憶はあんまりないんだけど、自分が4年生になったくらいのときからのケイナはよく覚えてるよ。彼は頭が良くって、スポーツもできて、よく笑って、ぼくらにとってもすごくいい上級生だったよ」
セレスは俯いたままで話すトニを見つめた。
「ケイナのことをユージーの取り巻きが苛めるようになったのは9年生のときからだ。テキスト破いたり、鞄を捨てられたり、そんなのまだ可愛いほうだった。そのうちケイナはいつもあっちこっちに擦り傷や切り傷を作るようになって、ケイナと話をしたっていうだけで、ケイナだけじゃなくてその相手の子も苛めを受けるようになったんだ」
トニは耳まで真っ赤になっていた。不安や怖れや緊張は彼の顔色にすぐに跳ね返る。
「ぼくらだって怪我したくないし、そのうちケイナには誰も近づかなくなって、ケイナもだんだん笑わなくなって、いつもひとりでいるようになったんだ」
「それ…… ユージーが取り巻きに指示したの?」
セレスが言うとトニは首を振った。
「分からない。ユージー自身が手を出したことなんて一度もない。だけど、ユージーの取り巻きがやってるんだから、ユージーが指図してるんだろうって誰でも思うよ」
トニはセレスを見た。
「ぼくのいたスクールは転入や転校者が多いんだ。たぶん小さい頃からずっと同じ学校だったのってぼくとあと数人くらいだよ。ほとんどの子は笑わなくなったケイナしか知らないし、当たり前のように彼には近づかないほうがいいって思ってたと思う。ケイナはラインに入って、ユージーもラインにいる。バッガス…… あのスキンヘッドね、彼も同じスクールだったんだ。あいつが一番荒っぽいやつだった。ここじゃユージーがカート家の跡取りかもってことはもっと重要な意味を持つよ。スクールのときみたいな子供じゃない。ぼくの言ってること分かる?」
「分かるよ」
セレスは答えた。
「スタンの二の舞いになるなって言いたいんだろ?」
トニは目を伏せた。
「だけど、おれ、なんか間違ってると思うよ」
セレスは言った。
「間違ってるって何が?」
トニは怪訝そうにセレスの顔を見た。
「分からない……」
セレスはかぶりを振った。
「よく分からないけど、おれたちきっと違うこと見てる」
トニはセレスの言っていることが理解できずにただ彼の顔を見つめるしかなかった。
その夜、ケイナはいつものように夜半過ぎに部屋に戻ってきた。
トニとジュディはすっかり寝入っている。
微かな気配と共に彼はいつもと同じようにシャワーのあとの濡れた髪をこすりながら自分のブースの中に入っていった。少しは気を使っているのか、夜のトレーニングのあとはトレーニング室のシャワールームを使って帰ってくる。
セレスは椅子の上に乗ると、そっとブースの仕切りの上から隣のケイナの様子をうかがってみた。
ケイナはタオルを椅子の背にかけるとデスクに向かい、コンピューターのキイを叩き始めた。その横顔は全くいつもと変わりない。
笑わなくなったケイナ。自分から周囲を遠ざけているようなケイナ。
ユージー・カートの顔とは似ても似つかない。ユージーとは血が繋がっていなかった。似てなくて当たり前だ。
真っ黒で少し落ち窪んだような鋭い目に引き締まった肢体のユージーは一見怖そうだったが、突き放したような視線のケイナに比べればはるかに表情豊かだった。
ユージーの笑った顔や怒った顔は容易に想像できる。しかし、ケイナはいつも同じ表情だ。可笑しくて笑っている彼の姿はダイニングで見たそれっきりだ。
でも、自分の周囲の人間が死んでもここまで変わらずにいられるものなんだろうか。もしかしたら自分がその事故に遭っていたかもしれないというのに。
ふいにケイナが顔をあげてこちらに目を向けた。
「用があるんならこっちにちゃんと回ってこい」
危うく踏み台にしていた椅子から転げ落ちそうになった。
おずおずと彼のブースに入っていったが、ケイナは振り向く様子もない。
「なに」
ケイナはキイを叩く手を休めずにセレスに言った。
「あ、ええと…… こ、講議に必要な資料が見つからなくて……」
セレスはとっさに出任せを言った。それを聞いたケイナの手が止まり、彼は椅子を回してセレスを振り向いた。
「何の資料?」
ケイナは鋭い目をしていた。彼に出任せなんて通じるわけない。セレスは思わず目を伏せた。
「ぶん殴られたいのかよ。人と同じ手使いやがって」
ケイナは寝ているジュディのほうを顎でしゃくった。
「いったい、何の用だ」
「あの……」
緊張で口の中がからからに乾いていたが、セレスは思い切って言った。
「事故に遭った人が死んだって…… 聞いた。トレーニングマシンの下敷きになったって人……」
ケイナの表情はそれを聞いても変わらなかった。
「それで?」
「それで……?」
セレスは彼の言葉をおうむ返しにつぶやいた。
「仲間が死んだのにどうしてそんなに冷静でいられるの?」
ケイナはじっとセレスを見つめていた。眉がかすかにひそめられたような気がした。
「ロウランドが死んだのは事実だよ。だけど、おまえには関係ない」
何をわかりきったことを、といった口調だった。
「分かったら寝ろ」
そう言って背を向けようとしたとき、なびいた髪のすきまから赤い点が光って見えた。その光を見たとたん、セレスは思わず彼の肩をつかんでいた。
険しい光を帯びたケイナの目がこちらを向いた。
「人ひとり死んでもあんたにはどうってことないってこと?」
セレスは自分でも驚くほどの激しい口調でケイナに突っかかっていた。
「もしかしたら『あんたが死んでいたかも』しれないんだろ。 自分じゃなかったらどうでもいいわけ?」
ケイナの顔がさらに険しくなった。
「くだらねえこと吹き込まれやがって……」
セレスははっとして口をつぐんだ。彼の顔からさっきまでとは違う殺気が感じられた。心臓がどきどきした。
「ケイナ、あの……」
セレスが口を開こうとした瞬間、ケイナは急に立ち上がった。
横顔にちらりと苦しみの表情が見えたと思ったとたん、ケイナはものすごい勢いで部屋を飛び出した。
「ケイナ……!」
セレスはその姿に何か危険なものを感じとって反射的に彼のあとを追っていた。
薄暗い廊下をずんずん足早に歩いていくケイナに必死の思いで追いつくと、セレスは彼の前に回り込んだ。
「おれに近づくな!」
ケイナの顔には怒りと拒否がみなぎっていた。
「悪かったよ…… ごめん。あんたをそんなに怒らせるつもりはなかったんだ」
セレスはケイナの腕を掴んだ。部屋に戻ろう、そう言うつもりだった。
「近づくなって言ってんのが…… わかんねえのか!」
ケイナがそう怒鳴るのとセレスが右頬に痛みを感じて床に叩きつけられたのが同時だった。
視界がぐるぐると回り、彼に殴られたことを理解するのにしばらく時間がかかった。
やっと身を起こすと、意外にもケイナが床に体をくの字に折ってうめいていた。 右手で左の手首をつかんでいる。
「ケイナ!! 」
慌てて立ち上がって彼に走りよった。
「手、どうしたの……!」
軍科の者にとって手は命だ。でも教官を呼んだりしたら、ケイナは新入生を殴った罰則を受けてしまう。
セレスはあたりを見回した。すぐそばにダイニングがあるのを見てとると、ケイナを無理矢理立ち上がらせた。
「冷やそう……!」
「ほっといてくれ!」
そう言って、ケイナは再びうめいた。こんな状態でそのままにできるはずもなかった。
半ば抱え込むようにして明かりの消えたダイニングに連れていくと、外の光が差し込む窓際の椅子にケイナを座らせ、誰かが落としていったらしいタオルを見つけて飲料用のミネラルウォーターの蛇口に突っ込んだ。汚らしいタオルだったが、それ以外に何も見当たらなかった。
それを渡すとケイナは苦しそうに顔を歪めながら手におし当てた。
しばらくすると痛みが薄らいだのか、少し落ち着いたように見えた。
「大丈夫?」
セレスはおそるおそる声をかけたが彼は何も言わなかった。
「利き腕は…… 左だったの? ずっと右だと思ってた」
セレスはこのままケイナの左手が良くならなかったらどうしようかと不安だった。
おれを殴ったせいでケガするなんて、やだよ……。
ケイナはちらりとセレスの顔を見た。
「おまえも顔洗え。血が出てる」
それで初めて自分の口が切れていたことに気づいた。さっきタオルを濡らしたミネラルウォーターの蛇口からコップに水を汲み、指をひたして口を拭った。べったりと血が指についたので少しびっくりした。
トレーニングウェアの袖で口を拭って戻ってみると、ケイナはさらに落ち着いたようだった。タオルをテーブルに置いてぼんやり窓の外を見ている。
「どう? 良くなった? 医務室行かなくていい?」
セレスが声をかけるとケイナはこちらに顔を向けた。
「おまえは?」
「おれはたいしたことないよ。もう痛くないし」
痛くないのは嘘だった。さっき血を見たら急にぴりぴりと痛み出したのだ。違和感があるから少し腫れているのかもしれない。そのことは言わずにセレスはケイナの隣の椅子に腰をおろした。
ケイナは再び窓の外に目を向けた。
「左手、怪我してたの?」
セレスはためらいがちに尋ねた。ケイナはやはり何も言わなかった。
「ごめん。おれ、なんかいつも余計なこと言っちゃって……」
セレスは目を伏せた。ケイナはそんなセレスに目を向けると、しょげきっている緑色の髪をしばらく見つめた。
「おまえの言ってたこと…… 当ってるよ」
ケイナが言ったので、セレスは目をあげた。