ウイルスの送られた『ホライズン』では未だ忙しなく研究員が動き回っていた。
 カインはその中で白いまま何も映らない目の前の大きなモニターを見つめていた。

「『ケイナ』、聞こえるかい」

 ―― だれ……? ――

 かなりの時間が過ぎてから、か細い声が聞こえた。
 声が聞こえたと同時に動き回っていた研究員たちが一斉に動きを止めてモニターを凝視した。

「カイン・リィだ。ぼくのところに来てくれただろう?」

 ―― …… ――

 バッカードが口を引き結んでカインの横で耳をすませている。
 ほかの者も音を立てまいとするかのような静かな動きで作業を始める。
「『ケイナ』? 聞こえてるかい?」

 ―― さむい…… ――

 カインはバッカードを見た。
「電気系統を復帰させる方法はないんですか?」
「こちらからのコントロールは無理ですよ。あっちで直接動かさないと……」
「何とか方法がないんですか」
 バッカードはため息をつくと、近くの男に目で合図した。しばらくして男が持って来たのは図面を記した大きな紙だった。
「いっそこのまま凍らせたらどうです」
 バッカードが投げやりな口調で言ったので、カインは彼の顔をじろりと見た。
「ぼくの声だけが向こうに聞こえるようにさせてもらいたい」
 トウ・リィそっくりの切れ長の目で睨みつけられて、バッカードは顔をこわばらせた。
 誰かがヘッドフォンつきのマイクを放ってよこしたので、カインはそれを空中で受け止めると手早く耳につけた。
 前の席に座っていた男が身を乗り出してカインの前の図面を指差した。
「全施設の電気系統を復帰させるのは無理です。彼女のいる部屋だけはここで切り替えをすれば何とかなる。万が一のためにこの部屋だけ独立して動力をつけてるんです。本来は自動で復帰できるようになっているはずなんですが、それが作動していないということはうまくスイッチが入らなかった可能性がある」
 彼は建物の一番奥の部屋から通じる隣の小さな部屋を指して言った。
「でも、向こうで誰かが作動させないとできないんですよ。もしかして彼女にそれを……?」
「彼女でなきゃ、施設に侵入した人間しかいない」
 カインが言うと、男は口をへの字に引き結んで呆れたようにかすかに首を振った。
「ケイナ、体が動く?」
 口元のマイクに向かって言った。しばらく沈黙が続いたあと、声が響いた。

 ―― 足は……。……冷たい……床が冷たい…… ――

「もう起きあがれたのか?」
 バッカードがびっくりしたように言った。
 カインは図面に目を移した。
「東側の部屋はデータ収集のためと、動力制御装置のある部屋なんです」
 男がコの字型の建物の一番上の端の部屋を指し示した。
「彼女のいる部屋の半分ほどの大きさです。部屋の仕切りは普段は硬化ガラスで区切られています。一部が開くようになっているけれど、非常時には分厚い壁が下りる。もしかしたらこれが作動してしまっているかもしれません。そしたら、一度部屋の外に出て隣に行くしかありません。でも、その扉もダウンしているから力づくでなきゃたぶん開きませんよ」
 カインはため息をついた。
 痩せた少女の姿が目に浮かぶ。力仕事は無理かもしれない。
「今、部屋の中は照明はどうなってるんです?」
 カインは口元のマイクを手で覆って男に尋ねた。
「施設に照明はほとんどありません。モニター確認のときのみ明かりがつくようにはなっていたんです。今の可能性としては赤い非常灯が残っているだけかと。これだけは自立発光ですから」
「非常灯の明かりで防護壁の有無が確認できますか?」
「ええ。施設内の壁の色は白ですから。防護壁は黒です」

 ―― お兄さん、どこ? いなくなっちゃったの? ――

「いるよ」
 カインはマイクから手を放して答えた。
「今、きみの頭に直接話かけてるんだ。実際にそばにはいないんだよ。だからこれから言うことを自分でやらなくちゃならない。頑張ってくれるかな」

 ―― うん…… ――

「じゃあ、今、きみのいるところの部屋に照明がついているかどうかを教えてくれる?」

 ――分からない……。でも、真っ暗じゃない。赤い光がいっぱい……――

 男に目を向けると、彼はうなずいた。非常灯に間違いない。
「部屋の壁の色が分かる?」

 ―― …… ――

 しばらく沈黙が続いた。

 ―― 分からない…… ――

「黒く見える壁がある?」

 ―― ……うん…… ――

 カインは口を引き結んだ。防護壁は下りている。彼女をどうやって隣室まで誘導しようか。
「ご子息」
 バッカードがカインの腕を掴んだ。
「防護壁がおりているなら、彼女はもうそこからは出られない。おそらく侵入者も防護壁で遮断されている可能性がある。だったら、このままほうっておくのがいい」
「ほうっておく……?」
 カインは思わずバッカードの顔を見た。
「向こうに行って生命維持装置を切る決心をつけておられたんでしょう? このままならいずれ酸素がなくなる。もし空調をつけて気温と酸素が維持できても、彼女はもう助かりませんよ。一番の生命の危機は飢えと乾きだ。3日あれば死ぬ。簡単なことでしょう。今すぐ話かけるのをやめて、何もせずにおくんです。あなたがすることはそれだけだ。彼女は確実に永眠できる」
 バッカードの顔を無言で見据えたあと、カインは視線を泳がせた。
「……見殺しにしろと?」
 顔をあげて周囲を見回した。部屋の中にいる十数人がじっと自分を見つめている。
「何を考えてるんです? 彼女が閉じ込められていれば何の説得も必要ない。そうでしょう?」
 言い募るバッカードの言葉にどうしても同調できない自分がいた。
 どうしたんだ、ぼくは……。彼女とケイナたちが接触していないのなら、この方法は正しい。もともと生命維持装置を自分で切るつもりだった。なのにどうしてイエスと言えない……?

 ―― お兄さん、部屋の扉が開いたわ。 ――

 ふいに響いた彼女の声に全員がぎょっとした。
 言わんこっちゃない、という目でバッカードが自分を見るのを感じた。

 ―― 外に出てもいいでしょう? あったかくしたいわ。教えて? どうすればいいの? ――

 なんだかすさまじい勢いで彼女は覚醒してないか? カインは口の乾きを覚えながら考えた。
「制御室の壁に主電源復帰のスイッチがあります」
 さっきの男がカインに口早に言った。
「E-882のプレートをあけて、中のスイッチをすべてオンにする。指で押し切ってしまえばいい。スイッチは全部で10あります。ただしこれはこちらからは全く制御できない電源です。オンになれば向こうの様子は分かる。でも、一番右のスイッチは触れちゃだめです。高圧電流が流れてる」
「それだ」
 バッカードが言った。
「彼女にそれに触れるよう教えれば……」

 ―― これは触っちゃだめ…… ――

 男とバッカードの目が真ん丸になった。彼女はもう隣の部屋に入っている。何の説明もしていないのに。
 カインは慌てて口元のマイクを確かめたが、男が話を始めた時点で無意識に手で覆っていた。彼女に聞こえるはずがない……。
 全員がゆっくりと画面を振り向いた。
少女はこちらを指差し微笑んだ。

 ―― カメラが ある…… ――

 笑みを浮かべた少女は痩せていても、愛らしく美しい顔をしていた。