カインは再び飛び起きていた。
「所長! 目を覚まされました!」
 誰かが自分のそばで大声を張り上げた。
 見回すと元の喧噪に包まれた部屋の中だった。
 部屋の隅で急ごしらえらしい椅子を繋ぎ合わせた上に横たえられていたことを知った。
「ご気分は」
 不機嫌そうな顔で言うバッカードをカインはちらりと見たきり目を伏せた。
「血圧が下がってますよ。貧血と低血糖症。死にますよ」
 彼がそう言って差し出したものを見て目を疑った。チョコレートだ。皿にのった数個の茶色い粒を見て思わずバッカードの顔を見上げると、彼は口を歪めて肩をすくめた。
「知りませんか。てっとり早く低血糖を取るにはこいつが一番。もっとも、ちゃんと注射させてもらいましたから、もう大丈夫だと思いますがね」
 額に手をやると、小さなコブができていた。倒れたときに頭をぶつけたのかもしれない。アシュアの石頭ではなかった……。
「どのくらい気を失ってたんですか……」
「さあ。一時間くらいかな」
 バッカードは答えた。
「さっき、ミズ・リィにも報告しました。こっちには来ないそうですよ」
 カインは黙ってバッカードの顔を見つめた。
「都合のいいときには口出しして、トラブルあると知らん顔。冗談じゃないね」
 バッカードはどこに怒りをぶつけていいか分からないといったふうに、こぶしを振り上げておろした。
「冗談じゃない」
「状況は」
 カインは立ち上がった。
「変わりません。施設の様子は全く分からない。ただ、空調が停止しましたから、途方もない冷気が中に侵入しているでしょうね。全部が凍るのは時間の問題だ」
「『グリーン・アイズ・ケイナ』は?」
 バッカードは首を振った。
「彼女の体内に埋められているチップだけは別システムなんです。覚醒に近づいてますよ。確実に」
 彼女の体内のチップは別システム……。そうか、彼女の体にウィルスが送られたわけじゃない。
「彼女と一度話をしましたよね。あれは使えないんですか?」
 カインの言葉にバッカードは厳しい顔をした。
「あれは彼女の頭に埋め込んだチップで会話してます。ただ、こっちのシステムがうまく接続できるかどうかはわからない。それに、今そんなことをしたら、彼女は発狂するかもしれませんよ」
「中に入った彼らを助けないと。彼女に呼びかけて説得する」
 バッカードはそれを聞いて呆れた顔をした。
「説得なんてできるわけがないでしょう。彼女の意志じゃない。遺伝子の意志なんですよ」
 カインはバッカードの顔をしばらく見つめたあと、 彼がまだ手に持ったままだった皿からチョコレートをひとつつまみあげ口に放り込んだ。
「もう、倒れないから、繋いでください」

 ―― ラストシーンは未来に続く。彼らは時間を取り戻すだろう ――

 トリ。いつもいつも予言じみたことを言ってないで、少しはまともに教えてくれないか。
 カインは口を引き結んで画面の前に立った。



 おれのせいだ……。
 赤い光の中で息をきらして自分の膝を掴むケイナを見て、セレスは自分を責めた。
 おれがあのとき……。
「とにかく奥に行くぞ」
 ケイナはそう言うとセレスの腕を掴んで立ち上がった。
「兄さんとユージーは……」
 セレスは何も見えない後ろを振り返って言った。
「あの人たちはプロだ。自分たちで何とかするよ」
 ケイナは答えた。少し足を引きずるケイナの手をセレスはしっかりと掴んだ。

 『ホライズン』にウイルスを送る前、ケイナは疲れ切って仮眠をとりに行ってしまっていた。
 ハルドはフォル・カートにもっとも効果があると思われる先の調査を依頼していたが、二時間ほどして連絡が戻って来た。
「ケイナを起こして来てくれないか」
 欠伸をかみ殺していたセレスはその声にユージーの顔を見た。
「A.Jオフィスが読んだみたいだ」
 ユージーは画面を見つめていた目をセレスに向けた。
「分かった」
 セレスは再び欠伸まじりに言うと立ち上がって船室をあとにした。
「大丈夫かな。だいぶん疲れているようだけど」
 その様子を見たユージーがつぶやくと、ハルドは顔をあげてちらりとセレスの出ていった方向を見たが、厳しい表情をしたまま何も言わなかった。
 ユージーは息を吐いて再び目を画面に戻した。
 廊下を歩きながらセレスはまた欠伸をした。なんだかすごく眠い。でも、眠るとあの子が出てくる。怖いから眠れない。その繰り返しだ。
 ケイナはさすがに画面を見つめる疲労も手伝って仮眠をとりに行ってしまった。
 おれも眠りたい……。
 仮眠室に入って一番下のベッドを覗き込むと、そこにはケイナの姿はなかった。
 下じゃないのか……。そう思って上を見上げて呆れた。
 ケイナは三段ベッドの一番上にいた。左足がだらしなく低い柵の上から垂れている。
「ケイナ」
 呼んでみたが、案の定返事はなかった。疲れきって前後不覚に寝ているのかもしれない。しかたなくセレスは小さな梯子を登り始めた。
「ケイナ」
 覗き込んで再び声をかけた。やっぱり返事がない。
 ケイナがこんなに熟睡するなんて……。
 眠ってるっていうより、気を失ってるって感じじゃないだろうな……。
 心配になって顔を近づけた。規則正しい寝息が聞こえる。
「ケイナ。ユージーが呼んでるよ」
 肩に手をかけてゆすった。ケイナの眉が少しひそめられた。
「……シュア……」
「え?」
 寝言? アシュア? アシュアがどうしたんだろう。夢見てるのかな。
 梯子を登りきって、狭いベッドの端に腰をおろした。
「ケ・イ・ナー…… 起きろー……」
 やはり返事がない。ほっぺた殴ったら起きるんだろうか。嫌だなあ、ケイナにそういうことするの。倍返しにされそうだ。
 どうしよう。起きないってユージーに言いに行こうか。
 ため息をついて壁によりかかった。
 ケイナはいいなあ。こんなに眠れて。
 ケイナの夢にはあの子は出て来ないのかな……。
 ケイナの顔を横目で見ながらそう考えているうちに、まぶたが重くなっていった。
 すぐに細い泣き声が聞こえてきた。
(ああ、また泣いてる…… だから寝ちゃうの嫌だったんだ……)
 眠ったままセレスはぼんやり考えた。
(どうにかしてあげられるんならどうにかするよ。でも、あんた、おれが近づくと怒るじゃない……)

 ―― タスケテヨ…… ――

(うん。助けるよ。どうすればいいの)

 ―― アナタ ガ シヌノ ――

 怒りに燃えた目がこちらを向いた。
「ひ……!」
 ベッドの一番上だということは完全に頭から吹っ飛んでいた。
「ばか……!」
 ケイナが手を伸ばして腕を掴んだときにはもう飛び下りていた。
 ものすごい音とともに、斜めになっていた小さな梯子に体をぶつけるようにふたり一緒に落下したが、落ちた順序でケイナがセレスの上になった。
 セレスは背中の衝撃とケイナの重みで胸を圧迫されて妙な声をあげたが、おかげで目が覚めた。
「……ってぇ……」
 ケイナは左足を押さえていた。落ちたときの衝撃で足を傷めたようだ。
「ごめん! 大丈夫!」
 慌てて言うと、ケイナは顔を歪めて身を起こしてセレスを見た。
「あんな夢に…… 引きずられんなよ……」
「ケイナ、足……」
「たいしたことねぇよ」
「でも……」
 困惑して彼の足を見つめていると、慌ただしい足音がした。
「なにやってんだ……!」
 ユージーの少し怒気を含んだ声がした。
「なんでもないよ……」
 ケイナは痛そうな表情のまま立ち上がると、左足の脛を少しのあいだ手で押さえ、ちらりとユージーを見て出て行った。
「落ちたのか?」
 腕を掴んで助け起こしてくれるユージーにセレスはうなずいた。
「うたたねして、夢見ちゃったんだ……。どうしよう。ケイナ、足を傷めたみたいだ……」
「おまえは?」
「おれは大丈夫。背中打ったけど、今はもう……」
 ユージーはため息をつくと、しょうがないな、というようにセレスの頭を軽く殴った。

「足、どうした」
「なんでもない」
 少し足を引きずるケイナを見て目を細めるハルドにケイナは答え、モニターの前に座った。
「ウィルスを送ることができても中身についてぼくはあんまり詳しくない。きみが見るかと思って待ってた」
 ハルドの言葉に答えず、ケイナはキイを叩いた。
「こっちのコンピューターは読まれないのかな……」
「当たり前だ」
 ケイナの言葉に部屋に戻って来たユージーが言った。後ろから口をへの字に曲げたセレスがついてきている。ケイナはキイを押してファイルを開いた。
 ユージーと一緒にセレスも後ろから覗き込んだが、難しい数字と文字の羅列で何の事かさっぱり分からない。
「カインだったら、もっと分かるんだろうけど……」
 ケイナは画面を見てつぶやいた。
「ということは、彼がいれば復旧が早くなる可能性があるってことだな」
 ケイナはユージーの顔をちらりと見たあと、しばらく考え込むような顔をして再びキイを叩いた。
「復旧不可能」
 しばらくしてケイナは言った。
「……とはいえないまでも、もう一段階追い討ちかけるようにしといた……」
 ユージーとハルドが顔を見合わせた。
「そういう指令のウィルス。『駆除するワクチンを探すのは苦労する』だろうな……」
 セレスはケイナの顔を見た。彼は少し寂し気な表情をしていた。
 ケイナはユージーとハルドを振り向いた。
「送る。いい?」
 ふたりはうなずいた。
「10分後に氷の下におりるぞ」
 ユージーが言った。