「どうしたっ!」
ハルドの警戒した声が響いた。ケイナは自分の顔からも血の気が引いているのを感じながら周囲を見回し、運転席の片隅の小さな画面にハルドの姿を見つけた。
「なんでも……」
返事をしようと思ったが、声がかすれた。ケイナは乾き切った口を閉じて、ない唾を飲み込んだ。
「なんでもない……。彼女が現れた。びっくりしただけだ」
ハルドの顔が当惑の表情になった。セレスはようやく叫ぶのをやめたが、ケイナにしがみついたまま震えている。
「ハルドさん、フロントガラス、洗うのどうしたらいいのか教えてください。 ウォッシャー、どこ……」
ケイナは真っ赤になったまま前の見えないフロントガラスを見て言った。
本当にこれ、幻覚なのか?
ちくしょう…… なんで…… なんでこんな醜悪な…… こんなイメージを送り込んで来るんだ!
「フロントガラス? 何したんだ」
「早く、頼みます」
早く流さないと、セレスは気が狂ってしまうんじゃないか。ケイナは本気でそう思った。
セレスの震えが自分の腕に伝わってくる。痙攣でも起こしているかのような震えようだ。
「運転席の左にW2というスイッチがある。それを押すと勝手に清掃してくれる」
言われたスイッチを探す自分の指がかすかに震えていたが、ケイナはようやくそれを見つけて押した。勢い良く不凍液が吹き出し、その音にセレスがまた大きく身を震わせた。
流れていく赤い血の向こうに、まだ彼女の顔があるような気がしてケイナは思わず目をそらせた。
実体がないはずなのに赤い色が流れていく。あんまりだ。
「大丈夫か」
ハルドの声にケイナはうなずいた。
「大丈夫……。セレスはまだ興奮してるけど……」
画面の向こうのほうにユージーが険しい顔をしているのが映っている。セレスの叫び声はきっとあっちにも筒抜けだっただろう。
「今、ジープの停まっている場所をこっちで確認しているんだが、28・36、これがそっちでも表示されてるか? 運転席の左手にあるんだが……」
ハルドの言葉にケイナは表示板を探し、数字を見つけた。
「あります。……28・36……」
ハルドは画面の中でうなずいた。
「20分くらいでそっちに行く。そのまま待っててくれ」
「運転できる。こっちから戻るよ……」
ケイナが言うと、ハルドは首を振った。
「戻ってもまたそっちに行かないといけない」
思わず緊張が走った。嫌な予感がする。
「場所が特定できた。そこから1キロ南だ」
ケイナはくちびるを噛み締めた。『グリーン・アイズ』に誘導された……。
そうとしか思えなかった。
やみくもにジープを走らせていたつもりだった。当てなんかない。
だのに。1キロ先なんて、ほとんど真上だ。
腹立たしさと同時に恐怖が湧いた。自分で意識しないのに、彼女の思惑通りに動いている。
そしてそれが、かつて自分がばらまいていた彼自身の暗示の力と変わりがないことに気づくのにさほど時間はかからなかった。
「いいか、動くなよ。すぐに行くから」
口早にそう言ってハルドが画面から消えた。
「ケイナ……」
ジープのエンジン音だけが響く中で、セレスがまだ震えの止まらない顔をあげてケイナを見た。
「会うの? あの子に会う?」
会わなきゃ、ここに残ってた意味ねえじゃねえか。
そう思ったが、口に出して言えなかった。この不安はなんだろう。
「おまえ、どうしたい?」
ケイナが言うと、セレスは顔を歪めた。
「分からない。会いたくないかも…… でも、会わなきゃいけないよね」
セレスの細い指に目を向けて、ケイナは無意識にその指に自分の指を絡めていた。
握り返すセレスの指の感触を感じて、初めて自分も途方もなく震えていたことに気づいた。
怖い。こんなに恐怖を感じたことはない。
幻覚を飛ばし、こっちを怖がらせることができても、眠っている彼女には実際に誰も殺めることはできない。
ただ、どんどん不安に陥れて自分の望む方向に人を動かすことはできるんだろう。
いったい今までどれだけ彼女の暗示を受け入れて来たんだろう。
どれが彼女の望みで、どれが自分の意志だったんだろう。
セレスの大きな緑色の目を見た。吸い込まれそうな色だ。
そのうちセレスを殺してしまう。そんな気がしていた。
いつか自らの命を断つ予感がしていた。
でも、どうしてセレスを殺さなくちゃならない?
どうして自分が死ななきゃならない?
どうして?
ケイナはセレスの手を振りほどくと、ふいにジープのドアを開けて外に出た。
「どうしたの?」
セレスが不安な声をあげたが、ケイナはそれには答えなかった。
ジープのフロント部分の地面を見た。
不凍液に勢い良く流された赤い水が本当ならば、ジープの下の氷は赤く染まっているはずだった。もちろんそんなことがあるはずがない。幻覚は幻覚だ。
不凍液のかすかな青い色だけが氷の上に散っていた。
顔をあげて周囲を見渡した。
何にもない、氷の世界が広がっている。日の光に反射して、美しいとさえ思えるこの世界。
このわずか1キロ南の足元に、彼女は眠っている。
吐く息が白く流れていった。
おれは途方もなく長い時間、彼女の声を聞いていた……。
気づくこともなく、何年も、何年も…… 彼女の暗示を受け入れて……。
「ケイナ、どうしたんだよ……」
少し声を震わせながらセレスがジープから降りて来た。
「中に入らないと凍えるよ」
「……遅すぎたよな……」
ケイナは顔を振り向けずにつぶやいた。
「なに……?」
「死にたいと思ったこと、ある?」
セレスはいったいどうしたのかという表情でしばらくケイナを見つめたが、やがて首を振った。
「……ないよ」
答えて、しばらくケイナを見つめたのち、もう一度言った。
「ないよ」
ケイナはちらりとセレスの顔を見て再び目をそらせた。
「ケイナはそう思ってるの?」
「思ってたよ……」
そう答えて吐いたケイナの白い息がかすかな風に乗った。
「生きたいと思うと死にたくなる。死のうと思うと生きたくなる。ずっとおんなじところをどうどうめぐりしてた」
「ケイナの周りにはいっぱい心配してくれる人がいるじゃない。……ケイナ、そういう人たちのこと、大事って思えないの?」
寒さのためか、まだ恐怖から立ち直れていないのか、セレスは震えながら言った。
大きな目がケイナを見上げた。
「少なくとも、おれはケイナが死んだりしたら悲しいよ。辛いよ。おれがそう思うだけじゃ、ケイナは生きようって思ってくれないの?」
ジェニファは何と言っていたっけ……。
――あの子を大切にするのよ。離れてはいけない――
――あの子はあなたの剣となり盾となってあなたの力になると思うわ。だからふたりでいつも一緒にいなければならないの――
彼女の言った、謎解きのような言葉は、ずっとカンパニーのことだと思っていた。
剣となり、盾となることは、自分がセレスを傷つけることだと思っていた。
『みんな同じ地球一個分』と言っていたのはアシュアだ。
セレスを信用することがふたりで生きて行く第一歩と言ったのはトリだ。
――怖がらずにふたりでちゃんと生きていけよ。おれたちがここにいるのは間違いじゃない。この星は無駄な命を作らない。例え作られた命でも生きてるってことは 生きなきゃならないからってことだ――
ユージー……。
みんなが教えてくれていたのに、どうしてちゃんと聞こうとしなかったんだろう。
彼女は長い間呼んでいたのかもしれない。でも、受け入れてしまっていたのはおれだ。
禍々しい幻覚は…… 彼女の願いに引きずられていたおれと彼女がつくり出したものだったのかもしれない。
「ケイナ…… 大丈夫?」
心配そうに顔を見上げるセレスの顔にちらりと目を向けたあと、彼が空に目を向けたので、セレスもその視線を追って、そこに兄とユージーの乗った機を見た。
「中に入ろう」
ケイナが促したので、セレスはしかたなくうなずいた。
ケイナはどうしちゃったんだろう。
ケイナ、おれ、ケイナに死んでもらいたくないよ。一緒に生きようよ。生きたいよ……。
不安が拭い切れない。
先にジープに乗り込もうとしたとき、ケイナがふいに呼んだ。
「セレス」
「……?」
振り向いた時、彼の唇が自分の唇に押しつけられたのを知ってドアの端を掴もうとしていた手が滑った。
氷の上に転がり落ちる前にケイナがセレスの腕を掴んだ。
自分の身に起こったことを理解できずに呆然としたまま彼の顔を見上げたセレスは、さっきとは違うケイナの表情を見た。
なんだろう。
これまでずっとケイナの目はずっと遠くを見ているような感じだった。
それに慣れてしまっていたけれど……
初めて視線が合った……。
―― ケイナ ――
頭の中で声がする。
―― イデンシ ――
「遺伝子なんか、くそくらえ」
ケイナはつぶやいた。
ハルドの警戒した声が響いた。ケイナは自分の顔からも血の気が引いているのを感じながら周囲を見回し、運転席の片隅の小さな画面にハルドの姿を見つけた。
「なんでも……」
返事をしようと思ったが、声がかすれた。ケイナは乾き切った口を閉じて、ない唾を飲み込んだ。
「なんでもない……。彼女が現れた。びっくりしただけだ」
ハルドの顔が当惑の表情になった。セレスはようやく叫ぶのをやめたが、ケイナにしがみついたまま震えている。
「ハルドさん、フロントガラス、洗うのどうしたらいいのか教えてください。 ウォッシャー、どこ……」
ケイナは真っ赤になったまま前の見えないフロントガラスを見て言った。
本当にこれ、幻覚なのか?
ちくしょう…… なんで…… なんでこんな醜悪な…… こんなイメージを送り込んで来るんだ!
「フロントガラス? 何したんだ」
「早く、頼みます」
早く流さないと、セレスは気が狂ってしまうんじゃないか。ケイナは本気でそう思った。
セレスの震えが自分の腕に伝わってくる。痙攣でも起こしているかのような震えようだ。
「運転席の左にW2というスイッチがある。それを押すと勝手に清掃してくれる」
言われたスイッチを探す自分の指がかすかに震えていたが、ケイナはようやくそれを見つけて押した。勢い良く不凍液が吹き出し、その音にセレスがまた大きく身を震わせた。
流れていく赤い血の向こうに、まだ彼女の顔があるような気がしてケイナは思わず目をそらせた。
実体がないはずなのに赤い色が流れていく。あんまりだ。
「大丈夫か」
ハルドの声にケイナはうなずいた。
「大丈夫……。セレスはまだ興奮してるけど……」
画面の向こうのほうにユージーが険しい顔をしているのが映っている。セレスの叫び声はきっとあっちにも筒抜けだっただろう。
「今、ジープの停まっている場所をこっちで確認しているんだが、28・36、これがそっちでも表示されてるか? 運転席の左手にあるんだが……」
ハルドの言葉にケイナは表示板を探し、数字を見つけた。
「あります。……28・36……」
ハルドは画面の中でうなずいた。
「20分くらいでそっちに行く。そのまま待っててくれ」
「運転できる。こっちから戻るよ……」
ケイナが言うと、ハルドは首を振った。
「戻ってもまたそっちに行かないといけない」
思わず緊張が走った。嫌な予感がする。
「場所が特定できた。そこから1キロ南だ」
ケイナはくちびるを噛み締めた。『グリーン・アイズ』に誘導された……。
そうとしか思えなかった。
やみくもにジープを走らせていたつもりだった。当てなんかない。
だのに。1キロ先なんて、ほとんど真上だ。
腹立たしさと同時に恐怖が湧いた。自分で意識しないのに、彼女の思惑通りに動いている。
そしてそれが、かつて自分がばらまいていた彼自身の暗示の力と変わりがないことに気づくのにさほど時間はかからなかった。
「いいか、動くなよ。すぐに行くから」
口早にそう言ってハルドが画面から消えた。
「ケイナ……」
ジープのエンジン音だけが響く中で、セレスがまだ震えの止まらない顔をあげてケイナを見た。
「会うの? あの子に会う?」
会わなきゃ、ここに残ってた意味ねえじゃねえか。
そう思ったが、口に出して言えなかった。この不安はなんだろう。
「おまえ、どうしたい?」
ケイナが言うと、セレスは顔を歪めた。
「分からない。会いたくないかも…… でも、会わなきゃいけないよね」
セレスの細い指に目を向けて、ケイナは無意識にその指に自分の指を絡めていた。
握り返すセレスの指の感触を感じて、初めて自分も途方もなく震えていたことに気づいた。
怖い。こんなに恐怖を感じたことはない。
幻覚を飛ばし、こっちを怖がらせることができても、眠っている彼女には実際に誰も殺めることはできない。
ただ、どんどん不安に陥れて自分の望む方向に人を動かすことはできるんだろう。
いったい今までどれだけ彼女の暗示を受け入れて来たんだろう。
どれが彼女の望みで、どれが自分の意志だったんだろう。
セレスの大きな緑色の目を見た。吸い込まれそうな色だ。
そのうちセレスを殺してしまう。そんな気がしていた。
いつか自らの命を断つ予感がしていた。
でも、どうしてセレスを殺さなくちゃならない?
どうして自分が死ななきゃならない?
どうして?
ケイナはセレスの手を振りほどくと、ふいにジープのドアを開けて外に出た。
「どうしたの?」
セレスが不安な声をあげたが、ケイナはそれには答えなかった。
ジープのフロント部分の地面を見た。
不凍液に勢い良く流された赤い水が本当ならば、ジープの下の氷は赤く染まっているはずだった。もちろんそんなことがあるはずがない。幻覚は幻覚だ。
不凍液のかすかな青い色だけが氷の上に散っていた。
顔をあげて周囲を見渡した。
何にもない、氷の世界が広がっている。日の光に反射して、美しいとさえ思えるこの世界。
このわずか1キロ南の足元に、彼女は眠っている。
吐く息が白く流れていった。
おれは途方もなく長い時間、彼女の声を聞いていた……。
気づくこともなく、何年も、何年も…… 彼女の暗示を受け入れて……。
「ケイナ、どうしたんだよ……」
少し声を震わせながらセレスがジープから降りて来た。
「中に入らないと凍えるよ」
「……遅すぎたよな……」
ケイナは顔を振り向けずにつぶやいた。
「なに……?」
「死にたいと思ったこと、ある?」
セレスはいったいどうしたのかという表情でしばらくケイナを見つめたが、やがて首を振った。
「……ないよ」
答えて、しばらくケイナを見つめたのち、もう一度言った。
「ないよ」
ケイナはちらりとセレスの顔を見て再び目をそらせた。
「ケイナはそう思ってるの?」
「思ってたよ……」
そう答えて吐いたケイナの白い息がかすかな風に乗った。
「生きたいと思うと死にたくなる。死のうと思うと生きたくなる。ずっとおんなじところをどうどうめぐりしてた」
「ケイナの周りにはいっぱい心配してくれる人がいるじゃない。……ケイナ、そういう人たちのこと、大事って思えないの?」
寒さのためか、まだ恐怖から立ち直れていないのか、セレスは震えながら言った。
大きな目がケイナを見上げた。
「少なくとも、おれはケイナが死んだりしたら悲しいよ。辛いよ。おれがそう思うだけじゃ、ケイナは生きようって思ってくれないの?」
ジェニファは何と言っていたっけ……。
――あの子を大切にするのよ。離れてはいけない――
――あの子はあなたの剣となり盾となってあなたの力になると思うわ。だからふたりでいつも一緒にいなければならないの――
彼女の言った、謎解きのような言葉は、ずっとカンパニーのことだと思っていた。
剣となり、盾となることは、自分がセレスを傷つけることだと思っていた。
『みんな同じ地球一個分』と言っていたのはアシュアだ。
セレスを信用することがふたりで生きて行く第一歩と言ったのはトリだ。
――怖がらずにふたりでちゃんと生きていけよ。おれたちがここにいるのは間違いじゃない。この星は無駄な命を作らない。例え作られた命でも生きてるってことは 生きなきゃならないからってことだ――
ユージー……。
みんなが教えてくれていたのに、どうしてちゃんと聞こうとしなかったんだろう。
彼女は長い間呼んでいたのかもしれない。でも、受け入れてしまっていたのはおれだ。
禍々しい幻覚は…… 彼女の願いに引きずられていたおれと彼女がつくり出したものだったのかもしれない。
「ケイナ…… 大丈夫?」
心配そうに顔を見上げるセレスの顔にちらりと目を向けたあと、彼が空に目を向けたので、セレスもその視線を追って、そこに兄とユージーの乗った機を見た。
「中に入ろう」
ケイナが促したので、セレスはしかたなくうなずいた。
ケイナはどうしちゃったんだろう。
ケイナ、おれ、ケイナに死んでもらいたくないよ。一緒に生きようよ。生きたいよ……。
不安が拭い切れない。
先にジープに乗り込もうとしたとき、ケイナがふいに呼んだ。
「セレス」
「……?」
振り向いた時、彼の唇が自分の唇に押しつけられたのを知ってドアの端を掴もうとしていた手が滑った。
氷の上に転がり落ちる前にケイナがセレスの腕を掴んだ。
自分の身に起こったことを理解できずに呆然としたまま彼の顔を見上げたセレスは、さっきとは違うケイナの表情を見た。
なんだろう。
これまでずっとケイナの目はずっと遠くを見ているような感じだった。
それに慣れてしまっていたけれど……
初めて視線が合った……。
―― ケイナ ――
頭の中で声がする。
―― イデンシ ――
「遺伝子なんか、くそくらえ」
ケイナはつぶやいた。