「セレス、少しやせたんじゃない?」
『ライン』に入って3ヶ月ほどたったある日、久しぶりにダイニングで会ったアルがセレスに言った。
横にいたトニもセレスを見て頷く。同室のトニはともかく、アルと顔を合わせて会話するのは二週間ぶりだ。
「痩せたっていうより、締まったのかも…… 体重は減ってないし……」
セレスは自分の腕を見てつぶやいた
もともと線の細いセレスは自分が少しも男らしく逞しくならないことを少し気にしていた。
何年たってもこのままだったらどうしようかと時々不安になる。
細い手足はバランスがとれなくて不安定だ。そんなに筋骨逞しいタイプではないケイナでも自分と同じ年齢の頃今の自分よりはしっかりしていたのではないかと思うのだ。
しかし、セレスのそんな不安はアルとトニには分からない。
情報科の勉強には体つきよりもむしろ集中力や分析力といった頭の運動のほうが大切で、『ライン』での食事を気にしたり、緊張や不安を持っていたアルのほうが得意分野を全うできる点で順応は早かったようだ。
何よりトニという心強い友人を手に入れたから安心できたのかもしれない。
アルとトニは同じ科で同じグループなのでいつも一緒にいる。
セレス以外に特定の友人のいなかったアルが『ライン』に入ってすぐに新しい友人を作ったというのは快挙だった。
そんなアルとは反対にセレスは日がたつにつれひとりでいることのほうが多くなっていた。
行動をともにしなければならないのがジュディとトリルだったからだ。
トリルはいいやつだったが、自分から進んで声をかけてくるタイプではなかった。
「セレスたちは大変だよね。あの負けず嫌いのジュディも最近夕食後は10分でも横にならなきゃ体が動かないみたいだし」
トニはフォークを口に運びながら言った。
確かにジュディは基礎体力があまりないのでかなりきついに違いない。それでもドロップアウトせずに頑張っているのだからたいしたものだ。
自分に向けられるうっとうしい視線さえなければセレスもジュディを偉いと思いたかった。
セレスは何度もジュディを受け入れようと思ったが、そのたびに諦めた。
ジュディのセレスに対する嫌悪感は濃厚で、感覚の鋭いセレスは彼の敵対意識を全身で感じて時々いらいらした。
ジュディはセレスが反応してくるのを期待しているのだろうが、いくらイライラしても彼だけは無視するに限る、というのはセレスも本能的に分かっていた。
「ケイナ・カートはどう?」
アルはレタスを口に運びながらセレスに尋ねた。野菜はあまり好きではないアルもここでは何とか食べている。
「彼はいつもマイペースだよ。ほとんど話さない」
セレスの代わりにトニが答えた。
「でもよく続くと思うよね。ぼくらの倍は動いて勉強して、全然疲れを見せないんだ。ハイライン生になるとみんなあんな感じなのかな」
セレスは何も言わず黙々と食事を口に運んだ。
固い肉片に甘ったるい付け合わせの人参。とても美味しい食事とは言えなかったが食べなければ体がもたなかった。
「カインさんもずうっとぼくらより遅くまで勉強してる」
アルは言った。アルの部屋のルームリーダーはカイン・リィというハイライン生だ。
セレスは彼のことはバッガスとアシュアのケンカのあとに知った。あのときケンカを止めようとしていたからだ。
セレスはごくたまにしか見かけることのないこの少年があまり好きではなかった。
彼を取り巻く空気はほかのハイライン生よりもさらに張り詰めていて、彼の顔を見るとセレスは妙に緊張した。
いまどきめずらしいメガネをかけて、その奥の切れ長の目が何となく怖かった。
攻撃的なケイナの青い目よりもずっと思慮深そうな落ち着いた瞳なのだが、何だか自分の心の内だけは外に決して出さないような雰囲気だ。
(何を考えてるかわからない)
そう、そんな感じ。
セレスは自分の心の中でつぶやいて、自分で返事をした。
カイン・リィと、前にバッガス・ダンとケンカをしていたアシュア・セスはハイラインでのケイナと同じ訓練グループだと聞いた。
アシュア・セスはセレスの部屋のずっと先のほうにあるロウラインの部屋のルーム・リーダーになっている。
彼の姿はバッガスとのケンカのあと一、二回ちらりと目にしただけだ。
強烈な赤毛を頭の後ろにきつくゆわえて、ケイナやカインに比べるとかなり体も大きい。
浅黒い肌にいつも笑っているような口元が印象的で、カインよりはずっと気さくな感じがしたがそれでも彼もほかのライン生とは雰囲気が違っていた。
……なんだか本当に不思議なのだ。
あのふたりはどうも違う。
彼らにだけはできれば近づきたくないとどうしても思ってしまう。
人に対してこんなに警戒心を感じたことはなかった。
「ところでさ……」
アルはほおばっていたパンを飲み込むと周囲を見回して声をひそめた。
「この間カインさんにハイライン生が話してるのをちらっと聞いたんだけど…… ハイライン生がひとり事故で怪我をしたらしいよ」
「事故?」
トニが目を丸くした。セレスは口に運びかけたフォークを宙にとめた。
「だれ?」
トニの言葉にアルは眉を吊り上げた。
「名前は知らない。トレーニングマシンがいきなり倒れてきたんだってさ。重さ二百キロもあるやつだったらしい」
「え、し、下敷きになったの?」
トニの目がますます大きくなった。
「よく分からないけど重体だって言ってた。ケイナ・カートが使うはずだったマシンをその日たまたま先に使わせてもらったらしい」
「この間って…… いつ?」
トニが不安そうな顔で尋ねると、アルは小首をかしげた。
「さあ…… 数日前っていうのは聞いたけど…… ケイナは何か言ってない?」
「ケイナは全然いつもと変わりないよ。そんなこと知らなかった……」
トニはそう言って同意を求めるようにセレスの顔を見た。
確かにそうだった。ケイナはいつもと変わらなかった。
「そうなんだ……」
アルは言った。
「こういうのって、普通心配したり動揺したりするもんじゃない? 自分が使うはずだったマシンなんだろ?」
「ごめん、おれ、もう行くね、次の準備あるんだ」
セレスは突然立ち上がるとトレイを持ち上げた。
「え、あ、うん……」
アルとトニがびっくりしたようにセレスを見上げたが、セレスはそのままダイニングをあとにした。
ケイナを中傷するような言葉をアルの口からあまり聞きたくなかった。
確かにケイナは変わらなかった。ちらりと見る顔はいつも同じように無表情だ。
それでも彼のことを冷たいのだとは思いたくなかった。
どんなに無愛想でも彼だって人間だ。平気だなんてことあるはずがない。
ダイニングをあとにして訓練塔のトレーニングルームの前にさしかかったとき、誰もいないはずの部屋の中でマシンを動かす音がしたのでふと足を止めた。
トレーニングルームはいくつかあるが、ハイライン生が多い部屋にはセレスたちロウライン生は足を踏み入れたことがない。置いてあるマシンも体の小さいロウライン生には無縁のものばかりだったからだ。
そっと覗き込むと一番すみのマシンで誰かが腕を動かしていた。もしかしたらケイナかもしれない、と思い、少しためらったのち足を踏み入れた。
規則正しい音とともに荒い息遣いも聞こえてきた。 しかし近づいてみるとマシンに座っていたのは見たことのない黒い髪の少年だった。
大柄なほうではなかったが、全体的に引き締まった筋肉がついている。 重りを動かすたびに何も着ていない上半身の筋肉が無駄なく動くのが分かった。
そしてセレスはすでに初対面の人間のそばに近づく許容範囲をはるかに越えた距離まで彼に近づいていた。
少年はセレスの気配に気づいて重りを落とすと顔をあげた。
「何か用か」
真っ黒な鋭い目だった。
セレスはその目を見た途端、頭の中で警報が鳴り響いているような気分にとらわれた。
(彼は危険だ)
そう思ったが逃げ出せなかった。まるで足を床に釘で打ちつけられたような感じだ。
次の瞬間、背後で雄叫びのような妙な声がしたかと思うと自分の体が宙に浮いていた。
うしろから誰かに首を腕で締め上げられた。
「どうしたの坊ちゃん。ゴハンはぁ?」
太い声が耳もとで聞こえた。
「離せ…… くるし……」
セレスはもがいたが太い腕の力は弛むことはなかった。
食べたばかりの昼食が逆戻りしてきそうだ。
「悪ふざけはよせ、新入生だ」
黒い髪の少年が近くにあったタオルを取り上げて立ち上がった。少しかすれてはいるが威圧感のある声だ。
「ユージー、こいつおまえのことほれぼれと眺めてたぜえ」
後ろでむせこみたくなるような臭い息とともに太い声が言った。
セレスはそれを聞いて仰天した。黒髪の少年がユージー・カートだと分かったからだ。
ユージーはふんと鼻を鳴らすとタオルで顔を拭いた。黒髪から汗の粒が散った。
そしてもがいているセレスに近づき、しげしげと眺めたあとその髪を指でつまんだ。
「変わった色の髪だな。染めてるわけじゃなさそうだが……」
つぶやくような彼の声を聞きながら、セレスは最後の手段に出た。
足を振り上げるとかかとで思いっきり後ろを蹴り飛ばしたのだ。
悲鳴とも怒鳴り声ともつかない声が響いたと同時にセレスは床に転げ落ちた。
息をきらして顔をあげると、スキンヘッドの頭が体をくの字に折って床に突っ伏しているのが見えた。
まずい、と思った。彼がアシュア・セスとケンカをしていたスキンヘッドだと思い出したからだ。
ついでにスタンを殴って辞めさせたやつだ。そいつの股間を蹴り飛ばしたのだ。
「たいした力だな。新入生にしちゃ……」
ユージーは口元にかすかに笑みを浮かべて笑った。
「この……」
バッガスがうめきながら立ち上がりセレスに近づこうとしたので、ユージーがセレスをかばうようにしてバッガスの前に立ちはだかった。
「やめろ。おまえが先に手を出したんだぞ」
バッガスはだらだらと汗を流しセレスを睨みつけていたが、ぶつぶつと何やら悪態をつくとセレスをひと睨みして渋々隣のマシンに座った。ユージーには頭があがらないらしい。
セレスは自分の前に立つ彼の後ろ姿を見上げた。まさかかばってもらえるなどと思わなかった。
「そのトレーニングウェアから見ると軍科なんだな。 あんまりハイライン生だけのところにひとりで来るな。こいつみたいに荒々しいやつが多いぞ」
振り返った彼の声はいたって冷静だった。
当たり前の分別を持ったハイライン生の姿がそこにあった。
セレスは自分の足がかすかに震えているのを覚えた。
何かが変だ。
ケイナを憎んでいるはずのユージー・カートはこんな紳士的であってはならなかった。
もっと残忍でふてぶてしくて殺気のあるやつでなければならないはずだった。
だのに目の前にいる彼は自分の想像とは全く違った。
間違ってもロウライン生いびりをしたりするような人間には思えなかった。
「どうしてそんな目でおれのことを見るんだ?」
ユージーは自分を見つめるセレスに不思議そうに言った。
そのとき、バッガスがうなり声をあげて再びセレスに飛びかかろうとした。まだ根に持っていたのだ。
彼はいつの間に移動したのか、またもやセレスの背後に回っていた。
ユージーが彼の顔面を殴りつけたのはあっという間のことだった。
ユージーは手加減をしたのだろうが、思わず顔をしかめたくなるような鈍い音がした。
バッガスは悲鳴をあげて手で顔を覆った。
「新入生に手を出すな!」
ユージーに一喝され、バッガスはぽたぽたと鼻血を垂らし、涙目になりながらうらめしそうにすごすごとトレーニングルームを出ていった。
「まったく…… どうしていつもあんなふうなんだ……」
ユージーは舌うちをしてバッガスを見送った。
「おまえも早く行け。午後のカリキュラムが始まるぞ」
ユージーはそう言うとタオルを近くにあった椅子の背にかけた。
呆然としとしたセレスがふらふらと隣のマシンに寄り掛かるのを見て、ユージーが慌ててセレスの腕を掴んだ。
「おいおい、こいつはまだメンテが済んでないんだ。近づくな」
はっとしてマシンを振り向いた。 座席の部分に『危険使用中止』となぐり書きをした紙がとめてある。
「これが…… 倒れたの……?」
思わずつぶやくと、ユージーの顔がかすかに変化した。
「ロウラインにも伝わっているのか」
彼はどうしようもないな、というように肩をすくめた。
「打ちどころが悪くなけりゃ助かってた」
ユージーはセレスから離れると、自分のマシンの中に座った。セレスはびっくりした。
「死んだの?」
ユージーはちらりと視線を投げ掛けた。
「不幸な事故だ」
(あんたが仕組んだことじゃないの)
セレスはその言葉を飲み込んだ。
違う…… 何か違う…… この人…… 違う。
「そのこと…… ケイナは知ってるの」
震える声で言うと、ユージーは少し驚いたようにセレスを見た。
「おまえ、ケイナを知ってるのか? 同室か?」
セレスはドキリとした。言っちゃいけないことを言ってしまったのかもしれない。
「ケイナにはたぶん伝わってるだろう。それよりおまえ……」
セレスはくるりと背を向けると、ユージーの言葉が終わらないうちに身を翻して駆け出した。
ユージーはそれを怪訝な顔で見送った。
『ライン』に入って3ヶ月ほどたったある日、久しぶりにダイニングで会ったアルがセレスに言った。
横にいたトニもセレスを見て頷く。同室のトニはともかく、アルと顔を合わせて会話するのは二週間ぶりだ。
「痩せたっていうより、締まったのかも…… 体重は減ってないし……」
セレスは自分の腕を見てつぶやいた
もともと線の細いセレスは自分が少しも男らしく逞しくならないことを少し気にしていた。
何年たってもこのままだったらどうしようかと時々不安になる。
細い手足はバランスがとれなくて不安定だ。そんなに筋骨逞しいタイプではないケイナでも自分と同じ年齢の頃今の自分よりはしっかりしていたのではないかと思うのだ。
しかし、セレスのそんな不安はアルとトニには分からない。
情報科の勉強には体つきよりもむしろ集中力や分析力といった頭の運動のほうが大切で、『ライン』での食事を気にしたり、緊張や不安を持っていたアルのほうが得意分野を全うできる点で順応は早かったようだ。
何よりトニという心強い友人を手に入れたから安心できたのかもしれない。
アルとトニは同じ科で同じグループなのでいつも一緒にいる。
セレス以外に特定の友人のいなかったアルが『ライン』に入ってすぐに新しい友人を作ったというのは快挙だった。
そんなアルとは反対にセレスは日がたつにつれひとりでいることのほうが多くなっていた。
行動をともにしなければならないのがジュディとトリルだったからだ。
トリルはいいやつだったが、自分から進んで声をかけてくるタイプではなかった。
「セレスたちは大変だよね。あの負けず嫌いのジュディも最近夕食後は10分でも横にならなきゃ体が動かないみたいだし」
トニはフォークを口に運びながら言った。
確かにジュディは基礎体力があまりないのでかなりきついに違いない。それでもドロップアウトせずに頑張っているのだからたいしたものだ。
自分に向けられるうっとうしい視線さえなければセレスもジュディを偉いと思いたかった。
セレスは何度もジュディを受け入れようと思ったが、そのたびに諦めた。
ジュディのセレスに対する嫌悪感は濃厚で、感覚の鋭いセレスは彼の敵対意識を全身で感じて時々いらいらした。
ジュディはセレスが反応してくるのを期待しているのだろうが、いくらイライラしても彼だけは無視するに限る、というのはセレスも本能的に分かっていた。
「ケイナ・カートはどう?」
アルはレタスを口に運びながらセレスに尋ねた。野菜はあまり好きではないアルもここでは何とか食べている。
「彼はいつもマイペースだよ。ほとんど話さない」
セレスの代わりにトニが答えた。
「でもよく続くと思うよね。ぼくらの倍は動いて勉強して、全然疲れを見せないんだ。ハイライン生になるとみんなあんな感じなのかな」
セレスは何も言わず黙々と食事を口に運んだ。
固い肉片に甘ったるい付け合わせの人参。とても美味しい食事とは言えなかったが食べなければ体がもたなかった。
「カインさんもずうっとぼくらより遅くまで勉強してる」
アルは言った。アルの部屋のルームリーダーはカイン・リィというハイライン生だ。
セレスは彼のことはバッガスとアシュアのケンカのあとに知った。あのときケンカを止めようとしていたからだ。
セレスはごくたまにしか見かけることのないこの少年があまり好きではなかった。
彼を取り巻く空気はほかのハイライン生よりもさらに張り詰めていて、彼の顔を見るとセレスは妙に緊張した。
いまどきめずらしいメガネをかけて、その奥の切れ長の目が何となく怖かった。
攻撃的なケイナの青い目よりもずっと思慮深そうな落ち着いた瞳なのだが、何だか自分の心の内だけは外に決して出さないような雰囲気だ。
(何を考えてるかわからない)
そう、そんな感じ。
セレスは自分の心の中でつぶやいて、自分で返事をした。
カイン・リィと、前にバッガス・ダンとケンカをしていたアシュア・セスはハイラインでのケイナと同じ訓練グループだと聞いた。
アシュア・セスはセレスの部屋のずっと先のほうにあるロウラインの部屋のルーム・リーダーになっている。
彼の姿はバッガスとのケンカのあと一、二回ちらりと目にしただけだ。
強烈な赤毛を頭の後ろにきつくゆわえて、ケイナやカインに比べるとかなり体も大きい。
浅黒い肌にいつも笑っているような口元が印象的で、カインよりはずっと気さくな感じがしたがそれでも彼もほかのライン生とは雰囲気が違っていた。
……なんだか本当に不思議なのだ。
あのふたりはどうも違う。
彼らにだけはできれば近づきたくないとどうしても思ってしまう。
人に対してこんなに警戒心を感じたことはなかった。
「ところでさ……」
アルはほおばっていたパンを飲み込むと周囲を見回して声をひそめた。
「この間カインさんにハイライン生が話してるのをちらっと聞いたんだけど…… ハイライン生がひとり事故で怪我をしたらしいよ」
「事故?」
トニが目を丸くした。セレスは口に運びかけたフォークを宙にとめた。
「だれ?」
トニの言葉にアルは眉を吊り上げた。
「名前は知らない。トレーニングマシンがいきなり倒れてきたんだってさ。重さ二百キロもあるやつだったらしい」
「え、し、下敷きになったの?」
トニの目がますます大きくなった。
「よく分からないけど重体だって言ってた。ケイナ・カートが使うはずだったマシンをその日たまたま先に使わせてもらったらしい」
「この間って…… いつ?」
トニが不安そうな顔で尋ねると、アルは小首をかしげた。
「さあ…… 数日前っていうのは聞いたけど…… ケイナは何か言ってない?」
「ケイナは全然いつもと変わりないよ。そんなこと知らなかった……」
トニはそう言って同意を求めるようにセレスの顔を見た。
確かにそうだった。ケイナはいつもと変わらなかった。
「そうなんだ……」
アルは言った。
「こういうのって、普通心配したり動揺したりするもんじゃない? 自分が使うはずだったマシンなんだろ?」
「ごめん、おれ、もう行くね、次の準備あるんだ」
セレスは突然立ち上がるとトレイを持ち上げた。
「え、あ、うん……」
アルとトニがびっくりしたようにセレスを見上げたが、セレスはそのままダイニングをあとにした。
ケイナを中傷するような言葉をアルの口からあまり聞きたくなかった。
確かにケイナは変わらなかった。ちらりと見る顔はいつも同じように無表情だ。
それでも彼のことを冷たいのだとは思いたくなかった。
どんなに無愛想でも彼だって人間だ。平気だなんてことあるはずがない。
ダイニングをあとにして訓練塔のトレーニングルームの前にさしかかったとき、誰もいないはずの部屋の中でマシンを動かす音がしたのでふと足を止めた。
トレーニングルームはいくつかあるが、ハイライン生が多い部屋にはセレスたちロウライン生は足を踏み入れたことがない。置いてあるマシンも体の小さいロウライン生には無縁のものばかりだったからだ。
そっと覗き込むと一番すみのマシンで誰かが腕を動かしていた。もしかしたらケイナかもしれない、と思い、少しためらったのち足を踏み入れた。
規則正しい音とともに荒い息遣いも聞こえてきた。 しかし近づいてみるとマシンに座っていたのは見たことのない黒い髪の少年だった。
大柄なほうではなかったが、全体的に引き締まった筋肉がついている。 重りを動かすたびに何も着ていない上半身の筋肉が無駄なく動くのが分かった。
そしてセレスはすでに初対面の人間のそばに近づく許容範囲をはるかに越えた距離まで彼に近づいていた。
少年はセレスの気配に気づいて重りを落とすと顔をあげた。
「何か用か」
真っ黒な鋭い目だった。
セレスはその目を見た途端、頭の中で警報が鳴り響いているような気分にとらわれた。
(彼は危険だ)
そう思ったが逃げ出せなかった。まるで足を床に釘で打ちつけられたような感じだ。
次の瞬間、背後で雄叫びのような妙な声がしたかと思うと自分の体が宙に浮いていた。
うしろから誰かに首を腕で締め上げられた。
「どうしたの坊ちゃん。ゴハンはぁ?」
太い声が耳もとで聞こえた。
「離せ…… くるし……」
セレスはもがいたが太い腕の力は弛むことはなかった。
食べたばかりの昼食が逆戻りしてきそうだ。
「悪ふざけはよせ、新入生だ」
黒い髪の少年が近くにあったタオルを取り上げて立ち上がった。少しかすれてはいるが威圧感のある声だ。
「ユージー、こいつおまえのことほれぼれと眺めてたぜえ」
後ろでむせこみたくなるような臭い息とともに太い声が言った。
セレスはそれを聞いて仰天した。黒髪の少年がユージー・カートだと分かったからだ。
ユージーはふんと鼻を鳴らすとタオルで顔を拭いた。黒髪から汗の粒が散った。
そしてもがいているセレスに近づき、しげしげと眺めたあとその髪を指でつまんだ。
「変わった色の髪だな。染めてるわけじゃなさそうだが……」
つぶやくような彼の声を聞きながら、セレスは最後の手段に出た。
足を振り上げるとかかとで思いっきり後ろを蹴り飛ばしたのだ。
悲鳴とも怒鳴り声ともつかない声が響いたと同時にセレスは床に転げ落ちた。
息をきらして顔をあげると、スキンヘッドの頭が体をくの字に折って床に突っ伏しているのが見えた。
まずい、と思った。彼がアシュア・セスとケンカをしていたスキンヘッドだと思い出したからだ。
ついでにスタンを殴って辞めさせたやつだ。そいつの股間を蹴り飛ばしたのだ。
「たいした力だな。新入生にしちゃ……」
ユージーは口元にかすかに笑みを浮かべて笑った。
「この……」
バッガスがうめきながら立ち上がりセレスに近づこうとしたので、ユージーがセレスをかばうようにしてバッガスの前に立ちはだかった。
「やめろ。おまえが先に手を出したんだぞ」
バッガスはだらだらと汗を流しセレスを睨みつけていたが、ぶつぶつと何やら悪態をつくとセレスをひと睨みして渋々隣のマシンに座った。ユージーには頭があがらないらしい。
セレスは自分の前に立つ彼の後ろ姿を見上げた。まさかかばってもらえるなどと思わなかった。
「そのトレーニングウェアから見ると軍科なんだな。 あんまりハイライン生だけのところにひとりで来るな。こいつみたいに荒々しいやつが多いぞ」
振り返った彼の声はいたって冷静だった。
当たり前の分別を持ったハイライン生の姿がそこにあった。
セレスは自分の足がかすかに震えているのを覚えた。
何かが変だ。
ケイナを憎んでいるはずのユージー・カートはこんな紳士的であってはならなかった。
もっと残忍でふてぶてしくて殺気のあるやつでなければならないはずだった。
だのに目の前にいる彼は自分の想像とは全く違った。
間違ってもロウライン生いびりをしたりするような人間には思えなかった。
「どうしてそんな目でおれのことを見るんだ?」
ユージーは自分を見つめるセレスに不思議そうに言った。
そのとき、バッガスがうなり声をあげて再びセレスに飛びかかろうとした。まだ根に持っていたのだ。
彼はいつの間に移動したのか、またもやセレスの背後に回っていた。
ユージーが彼の顔面を殴りつけたのはあっという間のことだった。
ユージーは手加減をしたのだろうが、思わず顔をしかめたくなるような鈍い音がした。
バッガスは悲鳴をあげて手で顔を覆った。
「新入生に手を出すな!」
ユージーに一喝され、バッガスはぽたぽたと鼻血を垂らし、涙目になりながらうらめしそうにすごすごとトレーニングルームを出ていった。
「まったく…… どうしていつもあんなふうなんだ……」
ユージーは舌うちをしてバッガスを見送った。
「おまえも早く行け。午後のカリキュラムが始まるぞ」
ユージーはそう言うとタオルを近くにあった椅子の背にかけた。
呆然としとしたセレスがふらふらと隣のマシンに寄り掛かるのを見て、ユージーが慌ててセレスの腕を掴んだ。
「おいおい、こいつはまだメンテが済んでないんだ。近づくな」
はっとしてマシンを振り向いた。 座席の部分に『危険使用中止』となぐり書きをした紙がとめてある。
「これが…… 倒れたの……?」
思わずつぶやくと、ユージーの顔がかすかに変化した。
「ロウラインにも伝わっているのか」
彼はどうしようもないな、というように肩をすくめた。
「打ちどころが悪くなけりゃ助かってた」
ユージーはセレスから離れると、自分のマシンの中に座った。セレスはびっくりした。
「死んだの?」
ユージーはちらりと視線を投げ掛けた。
「不幸な事故だ」
(あんたが仕組んだことじゃないの)
セレスはその言葉を飲み込んだ。
違う…… 何か違う…… この人…… 違う。
「そのこと…… ケイナは知ってるの」
震える声で言うと、ユージーは少し驚いたようにセレスを見た。
「おまえ、ケイナを知ってるのか? 同室か?」
セレスはドキリとした。言っちゃいけないことを言ってしまったのかもしれない。
「ケイナにはたぶん伝わってるだろう。それよりおまえ……」
セレスはくるりと背を向けると、ユージーの言葉が終わらないうちに身を翻して駆け出した。
ユージーはそれを怪訝な顔で見送った。