ハルドは目の前にある食事に全く手をつけようとしないセレスに困惑の目を向けた。
 丸一日、セレスは食べ物を受けつけなくなっている。無理に食べさせると全て吐いた。
 栄養価だけを重視した携帯食ばかりだから食欲は出ないだろうが、唯一もって来た半ドライフルーツすらも口にしなかった。
 水分がとれているのだけが救いだ。ミネラルウォーターにビタミン剤を混ぜて飲ませた。
 ケイナもあまり食べていない。それでも吐くということはないから無理矢理口に入れているような感じで、相変わらずユージーとモニターを睨みつけている。
 若いふたりは経験が足らず、見ているとひどく非効率なことをするときがある。
 疲れからかケイナの判断力も鈍っているようで、ハルドはふたりの様子とセレスの両方を交互に見て声をかけてやらなければならなかった。
 モニターを見ていたケイナが息を吐くと顔を伏せて両手で自分の目を押さえた。
「休んでいいぞ」
 ユージーが言った。丸一日ぶっ通しだ。ユージーの顔にも疲労が浮かんでいたがケイナほどではない。
 ケイナが疲れるのは頭の中の声のせいだ。
 どんどんうるさくなってくる。狂ったように呼んでいる。
 ハルドの頭に響くよりも、ケイナとセレスの頭に響く声のほうがはるかに大きいだろう。ふたりが食欲を無くしているのはそのせいだ。
 前のようにモニターの中から出て来るようなことはなかったが、気にしないようにすればするほど声は大きくなるように思えた。
「顔、洗ってくる」
 ケイナは立ち上がった。
「ちょっと横になれよ。もうあと少しで特定できるから。あとはこっちでやる」
 ユージーは言った。ケイナは曖昧にうなずき、セレスの座るテーブル脇を通って置かれたままのドライフルーツのボウルに目をやった。
 ボウルに手を伸ばすと何気ないふうにベリーをひとつ取り、セレスの口元に持っていった。
 それをセレスが何の躊躇もなく彼の手からぱくりと口に入れたとき、ハルドは脱力感に見舞われた。
 わずか数秒、ケイナはほんのちょっとしか足を止めていなかっただろう。
 自分の心配など、何の役にも立たない。やれやれ……。
 髪を少し濡らしたまま戻って来たケイナにハルドは声をかけた。
「ケイナ。ちょっと気晴らしに外に出て来い」
「え?」
 ハルドの言葉にケイナは怪訝な顔をした。
「でも……」
「こっちの手は足りてるよ」
 ユージーが顔を振り向けずに言った。
「船の中に何日もいたら気も滅入る。行って来いよ」
 ケイナは無言で困惑したような表情を浮かべた。
「船の後部に氷上用のジープを積んでる。プラニカの運転ができたら大丈夫だ。そんなに難しくはない」
 ハルドはそう言って携帯食のスティックと、ドライフルーツの箱を突き出した。
「悪いけど、連れ出して食べさせて」
 セレスのほうに顔をしゃくってみせるハルドに、ようやく彼の真意を悟った。
「はい」
 しかたなくケイナがそう答えると、ハルドは少しほっとしたような顔をした。
 連れだって出て行くふたりを見送っているとユージーが笑みを浮かべてハルドを冷やかした。
「娘をとられた父親みたいな顔をしてますよ」
「そんな気分なんだから、しかたないよ」
 ハルドは苦笑して答えた。
「両親が死んでから一緒にいた時間はわずかなんだけど、ぼくもあいつのことには相当気負って来たしな……。顔さえ見れば兄さん兄さんって頼りっぱなしだったのに、いつの間にかぼくじゃなくなってる。……なんか、寂しいね。歳が離れてるから余計そう思うのかな」
 ユージーは手を止めて少し躊躇したあと、ためらいがちに口を開いた。
「アライドで…… お聞きになっているんですか?」
 ハルドはユージーを見てうなずいた。
「聞いてるよ。本当はケイナの方がぼくは近い。親子とまではいかないんだろうけれど。ケイナは知らないみたいだから、言うつもりはないよ」
「いずれ、知ることになりますよ」
「いいじゃないか」
 ハルドは答えた。
「あのふたりにとっては、自分たち以外に誰と誰がどういう関係かなんてどうでもいいことだろう」
 ユージーはそれを聞いて小さく頷いた。ハルドは大きく息を吐くと腰をおろした。
「『ライン』での最初の休暇のとき、セレスが彼を家に連れて来てね。正直言ってびっくりしたよ。セレスみたいなロウライン生と、どうしてこんな子が休暇を一緒に過ごす気になったのかと思って。ハイライン生とロウライン生の壁はけっこう厚かったはずだ。時代が変わったのかと思った」
「そりゃ、驚きだ」
 ユージーは笑った。
「まあ…… つるんでるやつはいるにはいたけれど、自分はできれば休暇のときは『ライン』から離れたかったな……。特にケイナがロウライン生の誘いに応じるとはとても思えない」
「家に帰ったら、ぐうぐう寝てたんだよ」
 ハルドも笑った。
「疲れきってたな……。荒んだ、怯えたような顔をして……。今見たら表情が全然違うから、よっぽどセレスと一緒にいたことが彼にいろんな影響を与えたんじゃないかと思う。セレスも変わったよ。甘えた顔は彼にしか見せないな。信頼してるんだろう」
「おれも全部カタついたら、嫁を探すかな…… 面倒臭いカートの家に来てくれる人がいるのかどうかは知らないけど」
 ユージーは冗談めかしてそう言うと頬杖をついた。
「そもそも、カートが生き残れるかどうかも分からないけど」
「尽力しますよ。ご子息。お父上にはいろいろよくしていただいた」
 ハルドの言葉にユージーはびっくりしたような目をハルドに向けた。ハルドはそれを見て笑みを浮かべた。
「それはこちらがお願いすることです」
 ユージーは目をそらせた。
「何の地位も権威もないなどおっしゃらないでいただきたい。クレイ指揮官、あなたはおれがどんなに努力してもたどり着けないほど上にいる方だ」
 ハルドは目を背けて少し俯いたきり、何も言わなかった。

「外に出ると声が聞こえなくなった……」
 セレスは嬉しそうにつぶやいた。
 しばらくジープを走らせて運転に慣れた頃、ケイナはふたりの間に置いたドライフルーツの箱から片手で小さな粒をひとつ取り出してセレスの顔の前に持っていった。
「気分良くなったんなら食え。ハルドさんが心配してた」
 セレスは手で受け取ると自分で口に入れた。
 しばらくすると、また何もしないでぼうっと外を眺めているだけなので、再び口の前に持っていってやった。
 嫌そうな顔をしたので、無理矢理口に押し込んだ。
 見渡す限り平坦な氷の世界だ。スピードを落してゆっくり走っていると声が聞こえなくなったせいもあってどっと疲れが襲った。
 ケイナはふわりと出た欠伸とともに眠気を感じた。運転が危なそうな気がしたので、しばらくして停めた。
 燃料も十分だし暖房も万全だ。丸一日眠ったところで死ぬことはない。
 もっとも丸一日帰らなければハルドは探しに来るだろう。
 セレスの顔をちらりと見て、またフルーツをとりあげた。
 なんで食べられないんだろう。
 口の前に持っていってもそっぽを向いているので、諦めて自分の口に入れようとしたとき、セレスの手が自分の腕を掴んで指にかぶりついたのでむかっとした。
「自分で食えよ! ガキじゃあるまいし!」
 途端にセレスは悪戯っぽく、くすくす笑った。セレスが笑ったのを見たのは久しぶりかもしれない。
「お腹減った。食べられそう」
 セレスはガサガサと簡易食のスティックの袋をあけた。ケイナは呆れたようにそれを見ると、座席を後ろに倒した。
「おれ、寝る。二時間たったら起こして」
「うん、分かった」
 セレスは答えた。
 静かだった。聞こえるのはジープのエンジン音だけだ。
 どれくらい時間がたったのか、セレスは袋をひとつからにして、フロントガラスから外を見た。
 北極圏ってオーロラが見える。でも、今は夏だからきっとだめなんだな……。そう思った。
 横のケイナに目をやると、すでに静かな寝息をたてていた。
 ゆっくり眠るのは何日かぶりかもしれない。
 ごめんね、ケイナ。
 心の中で詫びた。
 わがまま言ってごめん。
「ケイナのことが好きだ……」
 座席に身を沈めてつぶやいた。
「おれ、ケイナが大好きだ」
 もう、言ってもいいよな。どうせ寝ちゃってるし、聞こえないんだし。
 と、いうか、もうさんざん言ってたかな。
「一緒にいたい。ずっとそばにいたい。どこにも行かないで」
 二流の恋愛ドラマみたい。セレスは指を折ってつぶやいて笑った。
 これだけ言ってて、今さら好きとか嫌いもないか。
「初めて会ったときは、すっごく嫌な人だと思ったよ……」
 『ライン』の見学会で会ったケイナは居丈高で無愛想で怖かった。
「嫌で怖くて、それが何となく寂しそうで、辛そうで、そう見えたのはいつだったっけ」
 声をたてて笑わない。
 人を見るときの冷たい視線。砕かれた左手……。
 アシュアとカインを見る目だけはほかとは少し違っていて、それが羨ましかった。
 優しい目で見て欲しかった。自分を見て欲しかった。
 今思えばそれがきっと本音だっただろう。
 カイン、アシュア、今頃どうしているだろう。アシュア、助かってるよね。
 『グリーン・アイズ』の女の子……。怒っている女の子。
「だめだよ。もう、だめだ ……一緒にいたいんだ」
 セレスはぼんやり外を眺めながらつぶやいた。
「ケイナを好きなんだ……。連れていかないで……」
 途端に手が伸びて来たので、仰天した。
「ひとりでぶつぶつ、ぶつぶつ……」
 ケイナが怒ったような顔をしてセレスの顎を掴んでいた。
 ヤバイ、起きてたんだ……。セレスの顔に血が昇った。
「だから、こういうのは気が進まなかったんだ」
 ケイナは吐き捨てるように言った。
「人の気も知らないで。おれは男なんだぞ」
 男だからなに。
 かすかな恐怖が浮かんだ。『ノマド』で垣間見たケイナの大人の顔。
 怖い。怖いのに抗えない。
 ケイナの顔が寄せられると、ミントの香りがしたような気がした。
 どうしてミントの香りがするんだろう。
 泣きたくなった。
 ケイナ、治療が終わってない……。まだ全部済んでないんだ……。
 切ない予感に反して、ケイナが身をこわばらせた。
 その緊張が伝染したかのようにセレスもびくりと身を震わせ、ふたりで同時にフロントガラスに目を向けた。
 心臓が動悸を打ち始めた。さっきとは違う、恐怖の音だった。
「ケイナ……」
 セレスは思わずケイナにしがみついた。
 緑色の長い髪を垂らして、『グリーン・アイズ』の少女はジープの前に立っていた。
 むき出しの白い素足に薄い白い服。こんな寒いところでそんな姿で立てるはずもない。
 幻覚と分かっていても彼女の姿はリアルだ。落ち窪んだ緑色の目がこちらを睨みつけていた。
 ケイナが腰に刺した剣の柄に手を伸ばすのをセレスは見た。
「心配すんな」
 ケイナが言った。
「こいつだけは許さない。おまえを守るときに、おれは正気を無くさない」
 怒りの形相で『グリーン・アイズ』の少女がフロントガラスに飛びかかって来た。
「ケイナ、そこにいるか?」
 ハルドの声が聞こえた途端、バシャリとバケツでぶちまけたようにフロントガラスに赤い水が散った。
 セレスがすさまじい叫び声をあげたので、ケイナは慌てて彼の口を手で塞いだ。それでもセレスは目を見開いて叫び続けている。
 『グリーン・アイズ』の少女がフロントガラスにぶち当たって潰れた……。
 そうとしか思えない光景だった。