時間の制限もあるし、ふたりの緊張状態にも限界がある。
 カインはできるだけ分かりやすく、かいつまんで今までのことをふたりに説明してやった。
 『ライン』から抜け出すことになった理由、『ノマド』に行くことになったいきさつ、プロジェクトの大枠、ケイナとセレスに起こりうる身体的なこと……。そしてどうして自分は地球に戻って来たのか。
 アルもトニもただ目を丸くして聞いていた。
 全部が理解できたとはとても言えないだろう。カイン自身にもまだ分からないことは多かった。
「セレスは…… 死んじゃうの?」
 アルがブレスレットを握りしめたまま言った。手がかすかに震えている。
「遺伝子治療をすればまだ間に合うんだ。ケイナはそれでとりあえず落ち着いてる。……結果はもちろんまだ分からないけれど」
「これに…… これが、そのパスワードなの?」
「たぶんとしか言えない。接続してみないと分からないんだ」
「じゃあ、接続してみようよ。ここでさ」
 アルは興奮したように言ったが、カインはかぶりを振った。
「こんなところで不法に入り込んだらトニに迷惑がかかる。ぼくが預かってやってみるよ」
 アルの目に再び警戒心が宿った。
「カインさん、本当にセレスを助けてくれるんですか?」
 まっすぐに自分を見据えるアルの顔をカインは見た。
「あなたはカンパニーの後継者なんでしょう? それなのに、カンパニーの方針とは違うことをするんですか? できるの?」
 カンパニーの方針とは違うこと……。言われたくない言葉だった。
 カイン・リィという存在はいつでもどこでもリィの後継者だ。逃れられない……。
「セレスとケイナをきちんと治療しようと思ったら、これまでの研究結果は破棄するわけにはいかないと思う。……もし、仮に今、彼ら以外に新しい命が生まれていたら、それを闇に葬る決心がつくかどうかはぼくにはまだ分からない」
 カインは答えた。たとえ作られた命でも、生きている命を断つ自信はない。それは正直な気持ちだった。もしかしたら生きているかもしれない『グリーン・アイズ・ハーフ』もそうだ。彼女が生きていたら、自分がどうするだろうかというのはまだ分からなかった。
「ぼくは今、プロジェクトの状況を知りたいのと…… ケイナとセレスを助けたい。……それだけしか考えていないんじゃないかと思う。だけど、トウが…… 今の社長がやっているような研究だけは続けたくないと思ってる。本当に必要なのは、むやみに新しい命を作ることじゃなくて……」
 言いかけてやめた。
(操作じゃないわ。治療、よ。新しい人間を作るんじゃないわ。今いる人間が変わるんだって考えたらどうなの。あの子たちの遺伝子が安定したら、それが何千何万という人を救うのよ。 遺伝子治療に使えるのよ)
 トウの声が頭に響く。ぼくは、トウの話にはまりかけている。
 今いる人間を変えるということは、次世代が変わるということだ。同じじゃないか。
 じゃあ、このままでいいのか?
「わからない。……人は…… これからも生きていけるんだろうか」
 そうつぶやくカインを見て、アルとトニは顔を見合わせた。
「長生しない、次世代が生まれない…… ぼくらはそのうちきっと滅びる。遺伝子の研究がそれを食い止めることができるかもしれないという可能性はあるんだ……。ぼくはどうすればいいんだろうね」
 尋ねたところでアルとトニにその返事がかえせるはずもなかった。もちろんカインだってそんなことは期待していない。
 しばらくしてアルがカインの顔の前にブレスレットを突き出した。
「カインさん」
 アルの懇願するような表情をカインは見た。
「セレスはぼくの大事な友人なんだ。あいつは、ぼくに、いっぱい自信をくれたんだよ。だからぼくは『ライン』に行くことができたんだ。セレスを助けて。カインさんにその力があるなら、お願いだから、セレスを助けてください」
 カインは突き出された小さな銀色のプレートを見つめたあと、手を伸ばしてアルの手からブレスレットを受け取った。

「また、連絡をするよ。これはぼくの連絡先。いつでもかけておいで。それから、そっちではもう無謀なことをするな。逆読みされて、逮捕されるぞ」
 カインはヴィルに乗りながらアルに自分の連絡先を書いた紙片を渡した。
 アルはそれを受け取って考え込むような顔をしていたが、ためらいがちにカインの顔を見上げて口を開いた。
「ねえ、カインさん。『生態的地位』って知ってますよね?」
「え?」
 エンジンをかけようとしていたカインは手を止めてアルの顔を見た。
「人はこれからも生きていけるんだろうかって、さっき、カインさんは言ったよね」
 トニはなんのことか分からず不思議そうな顔をしている。
 なんだか末恐ろしい子だな。
 カインはアルの顔を見て思った。 カインはアルが勉強好きで、暇さえあれば図書館の本を片っ端から読んでいたという、 自分とよく似た習慣があったことを知らない。
「なに?それ。その…… せ……」
 トニが言うとアルは少し笑った。
「『生態的地位』』だよ。ぼくらは地球という星に住んでる。どんな環境に住み、どんな食べ物を食べ、どんな生活を営むか……」
「うん……」
 トニが心元なさそうな返事をした。
「人間だって動物だ。この星に生きてる。人だけが優位に生きる世界はあり得ないってぼくは思う。でも、生きてちゃいけないって決める権利もどこにもない。ぼくはそう思うんだ。何がどう違っても生きているものはきっと生き残る道を探すはずだよ」
 『ノマド』たちのことがふと頭に浮かんだのはなぜだろう。
 カインはアルの顔を見つめながら、トリやリア、リンク、そして…… 自分になついていたタクの顔を思い出した。
 そうだ、タクのくれた石。大事にするからと言ったのに、前に着ていた服のポケットに入れたままだ。帰ったら探さないと……。
 『ノマド』はなぜ、ほかの人と違う生活を望み、社会を共有しようとしないのか。
 どうして、プロジェクトをやめさせようと願うのか。
 棲み分けをしなければ自らがこれまでの地球の人を滅ぼす種であることの自覚、そして、次に新しい種ができればそれがまた自分たちを滅ぼすであろうという予感。人は人という種同士で存続をかけてせめぎあう運命を作ってしまう。
 ケイナのような、セレスのようなタイプの次に出てくる新しい人間はいったいどうなってしまうのか。
 いったいどんな存亡をかけた戦いになるというのか。
 いや、人はこれまでも人という種同士で戦いを繰り返してきた。
 遺伝子の問題以前に、何百年も何千年も前から。
 星が悲鳴をあげている。最後に残るものはいったいどんな種になるんだろう……。
 それでも今ぼくらは生きていて……。
「カインさん?」
 くらりとまた目眩を起こしそうになったとき、アルの声でカインは我に返った。
 なんでもない、というように笑みを浮かべた。
「アル……。今日はありがとう。きみに会えて良かったよ。トニ、きみにもね」
 カインは言った。アルとトニは少し顔を赤らめた。
 アルとトニにとって、『ライン』でのこのハイライン生はリィ・カンパニーの跡取りというよりは、ケイナ・カートのそばにいて、手の届かないほど優秀な上級生だった。
 背が高く、黒い髪に黒い切れ長の目が特徴で、いつも落ち着いた表情で、物静かに話す人だ。
 この人とこんなに長い時間話すことなど考えも及ばないほど遠い存在だった。
「人はもう手後れかもしれないな」
 カインはつぶやいた。
「だけど、ぼくらは生きていて、生きている間にできることがあれば、きっと何かが変わるかもしれない」
「うん」
 アルは小さくうなずいた。
「うん。ぼくもそう思うよ。未来はすぐになくなっちゃうわけじゃないし」
 アルはそう答えてためらいがちにカインの顔を見た。
「カインさん、ぼく、何か手伝えることないですか? 休暇はあと5日しかないんだけど」
 カインはしばらくアルの顔を見つめたあと、首を振った。
「きみにはきみのやらなければならないことがある」
 カインはヴィルのエンジンをかけた。
「『ライン』を卒業して、プロフェッショナルにならなくちゃ。セレスにとってもきっとそれが望みだよ」
 アルは目を伏せた。そんなアルをしばらく見つめたあと、カインは言った。
「無事に卒業したら、ぼくに力を貸してください。きみの力はぼくにとってとても頼れるものになると思う。お願いします」
 差し出されたカインの手を、アルは呆然として見つめた。
 おずおずとカインの顔を見上げたあと、ためらいがちに手を伸ばすとその手を握り返した。
「はい」
 アルは答えた。
「必ず」
 カインはうなずくと、アルの手を離し、ポケットに入れたブレスレットを手で確認した。
 ひやりと冷たい風が頬を撫でたような気がした。
 顔をあげて周囲に目を巡らせたが、何も見えなかった。