ヴィルに乗るのは止めたほうがいいかな、とカインは軽い目眩を感じたときに思った。
 メイドが食事を運んで来たが、ほとんど手をつけなかった。食べることなど頭から吹っ飛んでいたのだ。さすがにそれではまずいと思って出る前に補給食だけ流し込んで来たが、ビタミン臭い味に半分は吐き出してしまった。
 ずっと『ホライズン』の所長のバッカードが出した資料を見ていて、気がついたらもう明け方だったから、結局3日間ほどろくに寝ていないことになる。
 それでもわずかな時間は横になったし、緊張しているせいか疲れを感じてはいなかったが、体のほうは悲鳴をあげかけている。日の光は目眩を起こすには充分だった。
 バッカードは慇懃無礼な態度でむかついた。
 この男、きっと頭は悪い。カインは心の中でそう毒づいた。
 のらりくらりと『ホライズン』の中を案内し、ここには何もありませんよといけしゃあしゃあと言ってのけた。データはすべてケイナのこれまでの検査の経緯ばかりだった。
「これが私の聞いているプロジェクトですから」

 ―――嘘つけ、この野郎!

 カインは睡眠不足も手伝って、バッカードの馬面を殴り飛ばしたくなる気持ちを必死になってこらえた。『ノマド』で情報をダウンロードしたことをよっぽど言ってやろうかと思ったが、それはさすがにまずいので押しとどまった。
「だけど、ホライズンにはろくな設備がないというのは本当だったな……」
 カインはヴィルにまたがりながらつぶやいた。
 あそこには、人を仮死保存したり遺伝子実験を継続して行える場所はない。そのことだけはよく分かった。ではいったいどこに『グリーン・アイズ』がいるんだろう。
 『グリーン・アイズ・ハーフ』……。最初の『グリーン・アイズ』と『ノマド』の住人の間に生まれた女の子。
 トリはカンパニーが捕らえていると言った。彼女は本当にどこかで眠っているのだろうか。
 セレスの持っていたブレスレットが手に入ったら解読してもう一度アクセスしてみよう。今度は『ホライズン』で堂々とやってやる。
 カインは一度大きく深呼吸すると、ヴィルを飛び立たせた。

 約束の場所にはすでにアルとトニが待っていた。
 アルはカインのヴィルが見えるやいなや駆け寄って来て、降り立つあいだももどかしそうにしていた。
「セレスは? セレスはどこにいるんですか!」
 まだヴィルから降りてもいないのに、自分の腕を掴んですがりついてくるアルにカインは困惑した。
「ちょっと待って。そんなに寄りかかってきたら、ヴィルが倒れる」
 カインの少し苛立ちを含んだ声を聞いて、アルは渋々手を放した。しかし口だけは止まらなかった。
「セレスはぼくのコテージに行ったみたいなんだ。ぼくの送ったメッセージ、ちゃんと聞いてるんだよ。トニと送ったんだ。プラニカもなくなってる。父さんは盗難届けを出したみたいだけど、盗まれたんじゃないよ。きっとセレスたちが使ったんだ。だけどぼくは言わなかったよ。だって、セレスがメッセージ送ってくれたんだ。『ありがとう。アル、トニ。必ず帰るから』って……」
 弾丸のようにまくしたてて、ふいにアルは声をつまらせた。
「『必ず帰るから』って…… それだけだったんだよ! 連絡してくれたの、それだけなんだ!!」
 アルの顔はトニが言ったように確かにやつれていた。ころころと肉付きの良かったのが嘘のようだ。
 『ライン』の厳しい生活のせいもあったかもしれないが、友人の身を案じての影響が一番大きかっただろうことは、アルの必死の形相を見ればカインにも分かった。
「カインさん! いったいどうなってるんですか? カインさんはセレスと一緒じゃなかったの? ケイナは?」
 再びカインに掴みかかろうとするアルを、トニが止めた。
「カインさん、うちに来てよ。今日、誰もいないんだ」
 トニの助け舟に感謝した。こんな道のまん中で大騒ぎをすることになったら人目を引いてしまう。アルは鼻息も荒く、カインの顔を睨み据えていた。

「『ライン』から出るとき、ぼくは彼らとはぐれているから、そのあとのことはよく知らないんだ」
 カインは言葉を選びながら、ソファに座って落ち着かなげに足をゆすっているアルを見て言った。
「カインさん、ぼくらが聞いてるのはセレスとケイナとアシュアが『ライン』から所長殴って逃げ出したってことだけなんだ。カインさんはそれを止めようとして怪我をしたっていうことになってるよ」
 トニの話に、思わずカインはこめかみを押さえた。こんなときからぼくの扱いと彼らは別だったってことか。
「セレスは所長を殴ったりなんかしないよ。そんなことするやつじゃないよ!」
 アルは憤慨したように言った。
「それに、せっかくハイラインの試験を合格したってのに、逃げ出したりするもんかっ!」
「もちろんそうだよ」
 カインはそう答えながら、まだ躊躇していた。彼らにいったいどこまでのことを話せばいいだろう。
「アル、セレスのブレスレット、持ってるか?」
 怒りで顔を真っ赤にしているアルにカインは言った。アルはそれを聞いてポケットを探ると、銀色のプレートのついたブレスレットを取り出した。
 カインが手を伸ばしてそれを受け取ろうとすると、アルはふいにブレスレットを握りしめてしまった。
「カインさん、これ、変なブレスレットだ」
 アルは言った。
「Toy Child BORNSLRQ5MO。」
 カインはぎょっとした。アルは口をへの字にゆがめると、カインを睨んだ。
「ぼくの父さん、『中央塔』で医者やってるんだ。『リィ・カンパニ-』所属だよ。父さんは研究所所属になったことないけど、ぼく、前に聞いたことあるんだ。こういうの使ってるって。そのときはぼくもお医者になろうと思ってたんだけど、もうずっと前だったからすぐに思い出せなかった。それに、解読法までは教えてもらってなかったし。形象文字みたいだったってことだけは何となく思い出したんだ」
「コンピューターで解読したのか?」
 カインが尋ねると、アルは目を伏せてうなずいた。
「すっごく時間かかったよ。いくつも変換されてんだ」
 呆れた。こんな子がコンピューターであっさりと暗号を解読してしまうなんて。
 カインの表情に気づいてアルは不機嫌そうに顔を歪めた。
「昔から好きだったんだよ。こういうこと。コンピューター触るしかできなかったから。セレスと会うまでは人と話すこともなかったんだ」
 アルは手の平の中のプレートを見つめた。
「どうして、セレスが研究所のIDを持ってるの? Toy Childってなに?」
 あの馬面所長バッカードより、この子のほうが数倍も頭がいい。
 根っこの気持ちの部分が違う。カインはアルの俯いた顔を見つめて思った。
 トニはそんなふたりを心配そうに見つめている。緊張のあまり顔が真っ赤になっていた。
「Toy Childは…… 『リィ・カンパニー』が公でない形で行っている遺伝子実験のプロジェクト名だよ」
 カインは観念した。今さら知らないと言ってもアルは引き下がらないだろう。
「遺伝子…… 実験?」
 アルもトニもピンと来ないようだ。
「それがセレスと何の関係があるの」
「セレスとケイナはカンパニーが連れ戻そうとしている…… 被実験体だよ」
 アルはそれを聞いてプレートを握りしめると、あからさまにカインから身を遠ざけた。
「あぶない! もう少しでだまされるところだった!」
「アル!」
 トニが思わずアルを見た。カインはため息をついた。
 まあ、そう思ってもしかたないか。脱力感とともに苦笑いがこみあげた。
「だって、この人はカンパニーの後継者だよ! 渡さなきゃ、ぼくの父さんを左遷するとか、そういう手に出るんじゃないだろうね!」
 アルはトニにそう言うと、カインを睨みつけた。
「それが望みなら、そうしてもいいよ。今のぼくにはその権限がある」
 カインの落ち着いた声にアルは身を震わせた。
「カインさんは、そんなことする人じゃないよ」
 トニがアルをなだめた。
「ちょっと落ち着いて話ししようよ」
 アルはカインを疑わし気に見ていたが、プレートは握りしめたまま渋々うなずいた。
 セレス。きみはいい友だちを持ってるな。
 カインは思った。
 きみのことに一生懸命で、プレート暗号の解読までしちゃったよ……。
 ちゃんと、生きて、もう一度彼らに会わなきゃ。きみは、生きていることをこんなに望まれているんだから。
 このふたりに話すことが、プロジェクトを公にして消す第一歩かもしれない。
 カインはそう思った。