(ケイナ)
 耳もとで呼ばれた気がしてケイナは目を開けた。
 顔を巡らせると仮眠用のソファに横になっていたことを思い出した。
 どのくらい眠ったのかと時間を確認すると、まだ二時間もたっていなかった。
 細切れに眠ってばかりだ。『コリュボス』を出たときは夜で、昼を素っ飛ばして地球に着いたらまた夕方になった。そのくせ北極圏は白夜の時期で太陽が沈まない。おかげで体内時計は狂ってしまった。
 異様に眠い。ハルドもユージーも同じだろう。
 近くでセレスも毛布を被って寝息をたてていた。
 こいつの手を自分から引き離すのが大変だった。
 セレスはどこにも行かせまいとケイナの服の端を握りしめるという子供じみたことをしながら 先に眠りこけてしまったのだ。

「凍傷になるぞ。船に戻ろう」
 ハルドの乗って来た船に促されながら、興奮状態から急に冷静になったからか、寒さも手伝ってセレスはがくがくと震えていた。
 思うように足も立たないので船に乗り込むときもケイナとハルドのふたりがかりで両側から支えてやらなければならないほどだった。
 ケイナはハルドの問いかけるような視線に気づかないふりをした。
 ハルドにしてみれば弟のこの消耗度は理解できないかもしれない。しかし、ケイナには何となく分かっていた。これまでもずっとそうだった。
 自分の持つ能力を放出してしまうと、セレスは眠り込むかうまく歩けなくなってしまう。
 顕著にそれが実感できるのは最近になってからだが、それほど体に負荷を与えてしまう能力なのかもしれない。
 半ばハルドが担ぐようにして船に入るセレスの後ろで、ケイナは軍機から降りて近づいてくる影に目を向けた。
「よう」
 タラップに足をかけながらユージーは言った。
「さすがに寒い場所だな」
 ユージーは白い息を吐きながらあがってくるとケイナの横に立った。
「おまえならきっとうまくやると思ってた」
「カインは?」
「戻ったよ」
 ケイナの言葉にユージーはかすかに笑みを浮かべて答えた。
「心配すんな。無事に戻ってるから。だからおれもここに来てんだ」
 ケイナは疑わしそうな目をしたが、ユージーがそれを無視して船に入っていったので、しかたなくそのあとに続いた。
 狭い船室の中は壁につくりつけの簡素な座席と小さなテーブルでいっぱいの状態だったが、これが星間移動の船の中のごく普通な部屋かもしれない。
「カート司令官はどうされた? 連絡がつかないとフォル・カートが気にしていた」
 熱い飲み物を入れたカップを両手に持ったハルドは、それぞれの前にカップを置きながらユージーに尋ねた。ユージーは手袋を取るとカップに手を伸ばした。
「血圧があがって寝込んでます。命に別状ないから心配しなくてもいいですよ」
「血圧が?」
 ハルドは眉をひそめた。レジー・カートの高血圧は昔からだ。それでも寝込むことなどなかった。
「カンパニーに押しかけられたもので。しばらく軟禁状態だったから頭に血が昇った」
 自分の横顔に注がれるケイナの視線を感じながら、ユージーはカップを持ち上げて言った。
「数日逗留するかもしれないと思って相応の用意はしてきているけれど……」
 ハルドはケイナの顔を見た。
「このまま一緒にアライドに行く気があるか?」
 ハルドの言葉に、ケイナは横に座っているセレスにちらりと目を向けた。
 セレスはカップを両手で持って少しずつ口に運んでいる。
 手がかすかに震えていた。自分の手で掴むと軽く指が回ってしまうほど細い手首が妙に艶かしく思えて、ケイナは慌てて目をそらせた。
「完璧という保証はないが、きみもセレスも治療しようという受け皿はカート司令官が作っていたよ」
 ケイナは首を振った。彼の目に浮かんだ例えようのない苦悩の色をハルドもユージーも見てとった。
「このまま地球を離れられない。地球を離れたらきっとその間にたくさんまた……」
 ケイナの返事は予想していていたことだった。
 ハルドはそっとセレスに目をやった。疲れ切って青い顔をしている。
 ここまで消耗してもケイナが行かなければこいつもイエスとは言うまい。
「さっき…… 自分ひとりでどこに行くつもりだったんだ?」
 ハルドが尋ねると、ケイナは口を引き結んだ。
 『ホライズン』に行って自分の“残り”と『グリーン・アイズ』を葬って…… そのあと死のうと思った、とはとても言えなかった。もとより、今となっては本気でそこまで考えていたのかどうか自信がない。
「『ホライズン』に行こうと思ってたんなら、あそこにはなんもねえよ」
 ユージーが口を挟んだ。ケイナが目を向けると、彼はその視線をちらりと受けてカップを口に運んだ。
「あそこには人ひとりをずーっと仮死保存できるような設備も規模もない。おれはそういうの、詳しくはよく分からないけど、おやじはそう言ってた」
「フォル・カートもそんなことを言っていたよ」
 ハルドも同意した。
「星の外に出ると地球上では分からないことも読めることがある。A.Jオフィスは完璧に違法レベルのことをやってたな……。きみは名目上『ホライズン』に行くことになっていただろうけれど、最終的にはほかに搬送される予定だったんだろう」
「それで、ここに来た?」
 ケイナは手に持ったカップを見つめて言った。
「変だと思った……。ずっとおれを呼んでる」
「そうだね」
 どういう意味かと問われると思ったのに、あっさりとハルドがうなずいたのでケイナは思わず彼の顔を見た。
「血を引いてると分かるのかな」
 じゃあ、セレスも?
 ハルドの言葉にケイナは自分の横に座っていたセレスに目を向けようとして、ほぼ同時にコトリと自分の腕によりかかる衝撃を感じた。
 セレスはテーブルに置いたカップに手を添えたままケイナによりかかって眠っていた。
「『ライン』にいた頃から変わったやつだと思ってたけど……」
 ユージーがそれを見て苦笑した。
 そうじゃない……。ケイナは自分を見るハルドの視線から逃れるように目を伏せた。
「セレスは…… もたないんだ。気を失ったんだよ……」
 絞り出すような声で言うケイナの顔をハルドとユージーは見た。
「ほんとうについ最近だけど、セレスは能力全開すると眠るか足がふらつくんだ……」
 セレスの体の重みを腕に感じながらケイナは目を伏せたまま言った。
 ユージーがケイナから目をそらすと堅い表情でカップを口に運んだ。
 テーブルから落ちたセレスの片手が無意識のうちにケイナの服の端を堅く握りしめていた。眠っている間も決して離れるまいと体にインプットされているような感じだ。
 ハルドは少しため息をついて額を押さえた。
「できるなら、アライドに連れて行きたいよ……」
 ケイナはそれを聞いてせわしなくまばたきをすると顔を伏せた。自分のやっておきたいこととセレスを助けたい気持ちの狭間で、何を選択するべきか決心がつかなかった。
「おれは全部ぶっ潰すつもりでここに来たよ」
 ユージーはカップの中身をすすりあげて言った。そしてカップをテーブルの上に置くとふたりの顔を交互に見据えた。
「プロジェクトは全ての元凶だ。あんなもん、なくなったほうがいいんだよ。とにかくこの氷の下のどこかに何かがあるんだ。間違いない。だから全部壊すつもりだ」
「そんなことをしたらカートは危なくなる」
 ケイナが言うと、ユージーは笑った。
「カートの歴史とリィの歴史とどちらが長いと思ってるんだ。ついでに言うと、トウ・リィはカートに対して出方を過った。今までカートがリィの経営について口出しをしなかったのは、先代のシュウ・リィの存在あればこそだ。だが、彼はもういない。少なくとも、この冷たい氷の下にあると思われるものの権限は、リィじゃないんだよ。最初に放棄されたあの時点で誰の物でもなく、逆に言えば今は誰がどうしようと問題にはならないということだ」
 ハルドもケイナもユージーの真意を図りかねていた。カートは何をしようとしているのだろう。ユージーはふたりの顔を見て再び笑みを浮かべた。
「二週間以内にすべては終わる。終焉を見たければ、それからアライドに行って遅くはないだろ。ただ、覚悟しとけ。もしかしたら、カイン・リィと敵対するかもしれない」
「リィを…… 乗っ取る気か……?」
 ケイナは目を細めた。ユージーは肩をすくめた。
「さあね。カインがこの『下』を守ろうとするんなら、どんな手を使ってでもおれはリィを潰すよ。ただ、ひとつ言えるのは、おれは今までの人生の中で猛烈に怒っているということだ」
 ……自分を呼ぶ声がする。
 きっとハルドも聞いているだろう。
 ユージー、『グリーン・アイズ』はもしかしたら途方もなく手強いかもしれない。
 リィを敵に回す前に、『グリーン・アイズ』を敵に回すことになる。
 ケイナは自分の服を握りしめるセレスの細い指を見て思った。

 あれからユージーは自分の乗って来た軍機に戻り、ハルドはケイナに体を休めるように促した。しかし、ケイナの服を掴んだセレスの手が離れなかった。
「やれやれ、こいつは必死だな」
 ハルドが苦笑まじりにそう言うと、苦労してセレスの指をケイナの服から引き剥がした。
 ケイナは何一つ自分に問いかけようとしないハルドの端正な横顔を見つめた。
 彼の目に自分とセレスのことはどう映っているのだろう。
 ハルドだけじゃない。ユージーにもだ。
 どんなに人の感情は分からないといっても、当たり前に考えて自分とセレスの関係は単なる友情なんかじゃないということはケイナ自身も分かっていたし、傍目にも当然分かるだろうことは予想できた。
 自分は男で、セレスは見た目にはもう男か女か分からない。
 ふたりとも何も言わないのは『知っているから』だし、ともすると生死の間を綱渡りするような自分たちを警戒しているからかもしれない。
 ケイナはセレスの規則正しい寝息を確かめると、そっと立ち上がって小さな窓から外を見た。
 薄明かりの中でユージーが外に出て一緒に来た兵士と何か話している姿が見えた。
 彼は防寒用のジャケットをとりあげると、船室を出た。