カインが『リィ・カンパニー』の巨大な塔の上層階にある自分の部屋に帰って来たのは数年ぶりのことだった。
 定期的に地球に戻って来たときも、あえてこの部屋には帰らなかった。あまりに手が行き届き過ぎて自分の部屋という愛着すらわかない。
 きれいに掃除が行き届き、整とんしつくされた広い部屋を眺め、ソファに座り込んで靴を脱ぐと足を投げ出して身を沈めた。
 もうあと数時間で夜が明ける。しかし、神経が高ぶり過ぎてとても眠る気分にならなかった。
 みんなはどうしただろう。
 腕につけていたナビを見た。地球に着いたのに、全く作動していない。3人が『ノマド』と行動をともにしていれば磁場でナビは動かないだろう。もし、そうでなければ…… ケイナはナビを壊すかもしれない。あいつのことだ。
 ケイナ、連絡しろ。生きているなら。
 そう心の中でつぶやいて、カインは口を引き結んだ。連絡してもらってどうする……。
 額に手をやって、自分の指にはめたリングに気がついた。
 右手の中指にはめられた銀色のリング。
 この部屋に戻る前、トウが渡してくれたものだ。
 経営者と同じ権限を持つという印。特権パス。何でもできる。
(好きなように使うといいわ。調べたいものがあるならご自由に。ただし有効期限は二週間よ。それと、『トイ・チャイルド・プロジェクト』に関しては、全部の情報を見ることができるわけじゃないわ。そのつもりで。この期間を過ぎたら、私のやり方に従って次期経営者の研修をしてもらう)
 トウはカインの顔を見据えて言った。
(二週間はあなたの邪魔はしないわ)
 トウはぼくを試そうとしている。
 ぼくが何を知り、どういう判断をするのかを試そうとしている……。この巨大な組織を担う次の世代として。
 部屋の隅に置いた小さなデスクに目をやった。抽き出しには雑多なものを無分別に放り込んでいる。
 一瞬思案したあとソファから立ち上がり、デスクに近づいた。そして一番下の抽き出しを開け、ずっと奥にしまい込んだままだった小さなディスクを取り出した。
 このディスクの中身を見た記憶はもう10年以上も前だ。一度見たきりだったかもしれない。
 興味がなかった。
 死んでしまって何の記憶もない母親の姿など何度も見たいとも思わなかった。
 サエ・リィ……。
 カインは小さな銀色のディスクをしばらく見つめたのち、再生デッキに放り込むと再びソファに座った。
 対面に設置してあった大きな画面に間もなく黒髪の女性の姿が映し出された。トウではない。真っ白い肌に赤い唇、切れ長の黒い目はトウによく似ていたが、その顔は優し気でもっとふくよかだった。
(きれいに撮ってくださいね)
 彼女は言った。撮影をしているのは誰だろう。カインは頬杖をついて画面を見つめた。
(ねえ、体重が元に戻るかしら)
 サエ・リィは肩にたらした黒い髪を手で後ろにはらって口を尖らせた。
(子供を生むってこんなに太るとは思わなかったわ)
 カインは目を細めた。前に見たときは気づかなかった……。気づくわけもないだろう。10歳にも満たないときだ。これは出産後すぐの映像だったのか……。
 誇らし気な笑み。トウとは違うタイプの自信に満ちた顔。
 トウの話を聞いたあとだからなのか、それとも昔見たときより自分が大人になっているからなのか、カインは彼女の優しい笑みの下に隠された妙に目を背けたくなるような部分に自分で気づかぬうちに眉をひそめていた。
 なんだろう。こちらに投げかけられる視線やふっくらした口元に独特のいやらしさを感じる。
 媚びるようで、それでいて排他的な笑み。
(明日には退院できるかしら、先生)
 サエはため息をついて小さく小首をかしげてみせた。“先生”? ここは病院なのか?
 そうだ、出産後すぐなら病院の可能性がある。シュウ・リィに黙って身ごもった子供なら、家や整った設備で出産させてもらえるはずもない。
 しばらくしてカインの目がはっとして見開かれた。
(トウ、触らないで!)
 画面から顔を背けて後ろを振り向いたサエの視線の先に、見覚えのある形の良い指が見えた。
 トウが映っていたなんて…… 気づかなかった。
(私が産んだのよ。触らないで)
 サエはそう一喝すると再びこちらに顔を向けた。険しい言葉と裏腹に表情は温厚そのものだ。
 サエの後ろで眠っていたらしい赤ん坊に手を伸ばしかけて叱咤されたトウの切ないほど悲し気な横顔が一瞬映り、そして次の瞬間には彼女の表情は一変していた。
 こちらを見ているサエの背に向けられた激しい憎悪の目。
 さらにそのトウの肩になぐさめるように伸びた手にカインはぎくりとした。
 この手も覚えがある……。
 女性の手には間違いないが、女性にしては大きくて手首も太い。大柄な女性の手だ。
 カインは画面を止めると、ずっと背後に映っている壁に向かって画面をズームさせた。
 柄こそ違うが、淡い小花の散った壁紙。瀕死の状態で転がり込んだドクター・レイの家が思い出された。
(私も夫も、あなたがこんな小さい時から知ってるのよ)
(ミズ・リィはね、本来免疫力が強いはずのあなたがちょっと熱を出すたんびにおろおろして、なだめるのが大変だったのよ。あの人はあなたを失うことが何より怖いのよ)
 別れ際に聞いたレイの妻、マリアの言葉。
 なんてことだ……。カインは息を吐いた。
 どうしてもっと早くこれを見ておかなかったんだろう。サエはレイのところで子供を産んでいる。
「は……」
 カインは脱力したようにソファの背にもたれかかった。
 もう、遅い。何も確かめられない……。
(ねえ、どうかしら。私とボルドーによく似ていると思わない?)
 再びサエの声が聞こえた。いつの間にかまた再生が始まっていた。
 サエ・リィは小さな赤ん坊を抱いていた。その後ろのトウの目を見て、カインは咄嗟に画面を消していた。憎悪に燃えたトウの目。
 今はわかる。成長するにつれ感じとったトウの中の憎しみ。
 ずっと自分に向けられているのだとばかり思っていた。
 そうじゃなかったと安心するよりも、カインは一瞬のうちに悟ったトウの目の奥深くの感情を悟って顔を歪めた。
(人の死を喜ぶなんて、私にはそんな気持ちもあるのね)
 トウの言葉が甦る。
 殺意。
 ぼくは気づいていたのかもしれない。
 今、この古い映像を取り出したのは、それを確信にしたかったからかもしれない。
 カインは再び指のリングを見た。そして立ち上がった。
 たった18年しか生きていないぼくに、どこまでのことができるかわからないけれど、ぼくはぼくの信じる道を。
 靴を手早く履き、上着をひっつかむとカインは部屋をあとにした。
 もう外は明るくなりはじめていた。

「4日…… ですか?」
 情報管理室の責任者はカインの言葉を聞いて思わず眉をひそめた。しかし、カインの指に光るリングを見て、異義を申し立てることを諦めた。
「4日後、水曜日の午後一時にまた来ます。それまでに何とかお願いします」
 カインは相手の顔をひたと見据えて言った。
「事故の情報くらいはすぐに出てくるでしょうが、乗客の身元を洗うのが難しそうだな……」
 男は苦悩したように指で額をこすりながらつぶやいた。そしてカインの顔を見た。
「いったいどうして昔の旅客機事故のことを調べるんです?」
「知りたいから」
 カインは男の顔を見て少し口を歪めて笑いながら言った。
「それ以上に何か理由が必要ですか?」
「そういうわけじゃないですが、20年以上もたっている事故もあります。ここのデータベースで他社の事故記録がどれだけ残っているか……」
「やってください」
 男は口をつぐんだ。言葉にではなく、カインの目に怖じ気付いた。トウ・リィそっくりの切れ長の瞳は相手を黙らせるときには役に立つ。
 カインは再び笑みを浮かべて立ち上がった。
「よろしくお願いします」
 そう言い捨てると部屋をあとにした。
 これから出会う人間は、みんな自分の倍以上も年齢が離れている者ばかりだろう。気後れしていたらすぐにバカにされる。
 カインは高飛車なほど自分がリィの跡取りであることを盾にしようと決心していた。
 次は『ホライズン』に行くつもりだった。『ホライズン』の所長であるバッカードはトウの腰巾着だ。どこまで情報開示するか分からないが、カインはできるだけ食らいつくつもりだった。
 ヴィルで行こうと思い、エントランスまでおりて来て駐車場に向かう途中でふと足を止めた。
 目の端に捉えたものにひっかかった。自分は今、何を見たんだ?
 カインは顔を巡らせた。たくさんの人がせわしなく行き交っている。朝の慌ただしさでごった返していた。その中のひとりにカインは目を止めた。
 キャップ型の帽子を目深に被っているので顔はよく見えないが、幼さの残る口元には確かに見覚えがあった。
 運送会社の制服を着ている。自動配送に乗らない大きな荷物は指定された係員が直接受け取りに来る。カウンターでチェック用の機械をいじくるその少年にカインは近づいた。近づくにつれ、カインは自分の目に確信を持った。
 自分に真正面から近づいてくる気配を感じたのか、少年が顔をあげた。そしてその目がカインの姿を捉えた途端、彼の表情がこわばった。
「ジュディ」
 カインは声をかけた。
 ジュディ・ファントだった。
 セレスに薬を飲ませ自らも薬物中毒になり、セレスを刺したあとラインを除名になった少年。
「カインさん……」
 ジュディは以前と変わらない白い頬をかすかに赤くした。