カインとアシュアは『ライン』とは全く違うルートで、もっと早い年齢から訓練を受けてきた。
12歳の時、カインはトウから『ビート・プロジェクト』のことを聞いた。
公にはなっていない精鋭部隊だという。
ある基準に則る人間をセレクトし、戦闘組織の最高峰を組織するもので、その目的がどういったものなのかは全く知らされなかった。カインはただ、その『ビート・メンバー』になるためにこれから特殊な訓練を受けなければならない、と言われただけだった。
トウはカインの叔母で、養母だ。
本当の両親は自分がまだ赤ん坊の頃に死んだ。
カインは実の両親の記憶は全くないし、当たり前のようにトウがトップに立つ『リィ・カンパニー』の跡取り息子として育ってきた。
カインは会社のことは全く関与していなかったが、プロジェクトの中心がカンパニーであるということは理解していた。
カンパニーの跡取り息子を戦闘部隊の中に入れるのは何らかの思惑を感じずにはいられなかったし、自分が戦闘向きだとはとても思えなかったが、養母に逆らう理由は見つけられなかった。
若くして巨大な企業のトップに立ったトウ・リィは 黒い髪にしみひとつない真っ白な肌の美しく聡明な女性で、他人にも自分にも厳しい女性だった。
見た目は優し気に見えるが、それが身に纏う鎧であることはカインも知っている。表情と胸の内は一致しているとは限らない。
カインは成長するにつれこの養母を敬遠するようになった。
父親は『予見』の力を持つアライドという星の出身だったと聞いた。
違う星の生まれだからといって異星人というわけではない。
元は地球人で何世代かでそこで増えた人類だ。
たぶん、その『予見』の能力が関係しているのかもしれないが、カインは養母の周りにいつも不穏な霧を見る。それがとてつもなく嫌な気分だったのだ。
『ビート』の訓練は厳しい『ライン』よりもさらに苛酷だったが、苦手な養母と離れることができたのはカインにとってはむしろ歓迎すべきことだったといえる。
カインは主にコンピューターを駆使する技術を覚え、射撃、飛行艇の操縦、サバイバル訓練、 護身と攻撃の術…… ありとあらゆる技術を叩き込まれた。
アシュアは射撃がメインで、それ以外に接近戦の訓練と薬学、心理学を叩きこまれた。
カインは13歳、アシュアは16歳、初めて出会った時、カインは最初アシュアの燃えるような赤い色の髪に興味を覚えた。
東洋系で周囲に黒髪の人間が多かったカインにはアシュアの髪の色や彼の顔立ちは今まで会ったことがない部類の人間だったのだ。
彼の気の遠くなるような祖先は地球の大陸で大地を崇め、呪術を信じ、狩りと農耕で生計をたてていたらしい。彼を取り巻く空気は一種独特だったし、彼の焼けた肌と燃えるような赤い髪、尖った鼻はそのことを後世に残している唯一の証拠に思えた。
「おれもライブラリで調べただけだから実感ねえけど」
笑うアシュアの顔はいつも陽気で明るい。このアシュアの存在がどれほどカインの助けになってきたかしれない。
彼の屈託のない性格や、対等に接してくれる態度はともするとマイナス思考に走りがちなカインを光の当たる場所に連れ戻してくれることが多かった。
何よりケイナのガードを言い渡されてからはアシュアなしではきっと彼の心を開かせるのは難しかったかもしれない。
アシュアはケイナの気持ちを掴んでこちらに向かせるのがうまかった。
それが彼の『ビート』としての天性の部分だったのかもしれないが、 ケイナはアシュアになら返事をかえすことが少しずつ増えていったのだ。
最初は何気ない「よう、元気か?」ぐらいのことだった。
ときにアシュアは大きな手でケイナの後頭部をすれ違いざまにぽん! と叩き、「そんなシケたツラしてんじゃねえぞ!」と言ってカラカラ笑った。
いつもすっぱり切れそうなナイフのようなオーラをほとばしらせているケイナにそんなことができるのはおそらくアシュアしかいない。
ケイナ自身がふたりのことをどう思っているのかは実際よくわからなかった。
トウの命令でカインとアシュアが『ライン』にいることなどもちろんケイナには知らされていないが、勘のいいケイナが何も気づかないはずもない。
ケイナはいつもふたりが近づくと険しい警戒の目を向けた。
嫌がらせの対象になっているケイナに近づくということは自分もその対象になる可能性があるということだし、ただでさえ厳しい『ライン』の生活で、自分のこと以上に厄介ごとをしょいこもうとする物好きはいない。
自分たちはその「物好き」ということになるのかもしれないが、そんなこと以上にカインとアシュアが「普通の訓練生」ではないことくらいケイナは感じ取っていただろう。
やがて一年の時間をかけて、ふたりはやっとケイナに「たまには」返事を返してもらえる、という関係を築き上げていた。
とはいえ、カインはいまだにケイナにはまともに話をしてもらえない。
それでも彼は冷たい表情でもわずかに笑みを見せることもあった。
少し安心した。
その油断が出たのかもしれない。
わずかな隙が忘れられない事件を起こした。
カインは今でもその時のことを思い出すと身がすくむ。
自分の不甲斐なさを悔いる。
もっと気をつけていれば。自分の不安定な『予見』の能力がもっと高ければ。
回避できる方法は何かあったんじゃないか……
でも、時間は元には戻せないのだ。
ケイナのそばにはできる限りカインとアシュアのどちらかひとりか、もしくはケイナがどこにいるかを把握するということは大前提だった。
それがそのときはふたりともケイナから離れていた。
トレーニングが終わったあと、まだ部屋に残っていると思っていたケイナがいなかった。
「ケイナ?」
彼の姿を探したカインの視界が突然真っ赤になった。
カインの異変に気づいたアシュアが緊張の面持ちで彼の顔を見る。
「ケイナはどこだ! アシュア、ケイナを探せ!」
言い終わる前にアシュアは身を翻していた。
ケイナの目を通して、自分の目に映る恐怖の光景にカインは震えた。
数人のハイライン生がシャワールームに向かうケイナを後ろからはがいじめにした。
彼の口にタオルを詰め込み、誰もいない倉庫に連れ込んだ。
服を破り、利き腕の左手を砕いた。
貫く痛みがこちらにも伝わる。
ふたりが息をきらして倉庫に駆け込んだとき倉庫の床は一面の血の海となり、ぐったりと倒れたハイライン生たちから少し離れて、ケイナはなかば裸身の状態でぼんやりと壁にもたれて座っていた。
左手首から先がねじくれて、体中の無数の切り傷から血が流れていた。
血だまりの中に小さなナイフがひとつ落ちていた。
ふたりが呆然としたのはケイナのその姿だけでなく、床に倒れる少年たちの姿だった。
幸いにも全員が命をとりとめたが、ある者は腕を切り裂かれ、ある者は左頬をすっぱりとえぐりとられていた。なかにはもう少しで致命傷になるほど腹に深い傷を負っている者もいた。
ふたりが駆け付けるのがもう少し遅ければもしかしたら全員死んでいたかもしれない。
それほど凄惨な光景だった。
ケイナはカインが名前を呼んでも全く反応しなかった。このときばかりはアシュアでもだめだった。
彼の藍色の眼と半開きになった唇はリンチを受けたときのショックそのままに開かれ、精神をこなごなに崩された狂気を浮かべていたからだ。
いや、狂気などという生易しいものではなかったのかもしれない。
途方もない絶望感。いったいどれほどの恐怖だったのか……
カインはケイナのその顔を思い出すと今でも体中に震えが走る。
(死と生の綱渡り……)
かなりあとになってからアシュアがそんな言葉を口にした。
ケイナは目を閉じることがなかった。
何日も何日もベッドの上で目を見開いたまま体中をこわばらせ、がくがくと震えていた。
睡眠剤の入った点滴を打たれてもその目は閉じることがなかった。
夜になると彼は叫び声をあげた。倉庫の中の闇と夜の闇がシンクロするようだった。
縫合した傷から血が吹き出た。
「感情制御装置をつけて…… それと、記憶を一時的に消します」
リィ・カンパニーの医師が苦渋の決断をしたのはそれから一週間後だった。
ケイナは点滴だけで生きていて、日に日に体力が落ちていた。
夜に出す叫び声もだんだん力がなくなってきていた。
「パラソムニアというのをご存知ですか? 本人は目を開いていても夢を見ている状態です。目が覚めても今のこの状態についての記憶はない。でも眠れてはいないのです。でも彼の場合は単純にパラソムニアとは言えないような症状が出ています」
「つまりこのままでは死んでしまう、ということね?」
モニターの向こうでトウが尋ねると医師はうなずいた。
「じゃあ、しかたないわね。18歳になるまではこっちのものにはならないんだし」
「……」
トウの言葉に違和感を覚えたふたりだったが、こちらに向けられた鋭い目に身構えた。
「この無能な子たちのおかげでとんだ災難だわ」
ふたりは黙っていた。
(あんたの災難よりケイナの災難を考えろよ。彼の姿を見て何とも思わないのか)
カインは心の中で毒づいた。
「その対処をすることでの変化は何?」
トウは医師に尋ねた。
「身体的には何も変化はありません。脳にも影響はないでしょう。耳たぶから脳の感情を司さどる信号を送ります。微弱な電流が流されていると思っていただければいいでしょう。耳たぶに埋め込んでしまうので、耳を吹き飛ばされない限りは落ちる事もありません。一時的に消した記憶はいずれ戻るでしょうが、その頃には装置が働いているから思い出しても今のような状態にはならないでしょう。もっとも、精神的な傷が全て消えるわけではありませんが」
医師は冷静に答えた。
「完全に記憶を消すのは何かとリスクが高いもので。彼の場合は特に」
「カート司令官はなんと?」
トウは自分の爪を見ながら言った。
「任せるとおっしゃってます。何より命の優先を、と」
「じゃあ、私も任せるわ」
トウは答えて、再びカインとアシュアに目を向けた。
「さて、あんたたち、『ビート』除名とイチから出直すのと、どちらを選ぶ?」
「除名」
カインは即座に答えた。こんな思いはもう金輪際続けたくなかった。
「同じく」
アシュアもそれに続いた。
トウは美しい口元に笑みを浮かべた。
「次はないと思っておいて」
そう言うと彼女は消えた。
ふたりは顔を見合わせた。
(なぜ……? 自分から除名をちらつかせておいて)
そのことが無気味だった。
真っ赤なルビーのピアスのような感情制御装置は、ただでも表に出さなかったケイナの感情をさらに閉じ込めた。
ケイナは自分の身に起こった事を冷静に受け止めているようだったが、それも制御装置のなせるわざかもしれなかった。
「普通なら容姿端麗で、頭も良くて運動神経も抜群で…… 養子とはいえカート家といえば名門だぜ。おやじは軍の最高峰じゃねえか。将来も保障されて何の苦労もなく生きていけそうなのにな」
アシュアはため息まじりに言ったことがある。カインは黙っていた。
せめてあの赤いピアスをとってやりたい。 あれがなければまだ少しは笑えたのだ。
そう…… セレス・クレイが来るまではそう思っていた。
12歳の時、カインはトウから『ビート・プロジェクト』のことを聞いた。
公にはなっていない精鋭部隊だという。
ある基準に則る人間をセレクトし、戦闘組織の最高峰を組織するもので、その目的がどういったものなのかは全く知らされなかった。カインはただ、その『ビート・メンバー』になるためにこれから特殊な訓練を受けなければならない、と言われただけだった。
トウはカインの叔母で、養母だ。
本当の両親は自分がまだ赤ん坊の頃に死んだ。
カインは実の両親の記憶は全くないし、当たり前のようにトウがトップに立つ『リィ・カンパニー』の跡取り息子として育ってきた。
カインは会社のことは全く関与していなかったが、プロジェクトの中心がカンパニーであるということは理解していた。
カンパニーの跡取り息子を戦闘部隊の中に入れるのは何らかの思惑を感じずにはいられなかったし、自分が戦闘向きだとはとても思えなかったが、養母に逆らう理由は見つけられなかった。
若くして巨大な企業のトップに立ったトウ・リィは 黒い髪にしみひとつない真っ白な肌の美しく聡明な女性で、他人にも自分にも厳しい女性だった。
見た目は優し気に見えるが、それが身に纏う鎧であることはカインも知っている。表情と胸の内は一致しているとは限らない。
カインは成長するにつれこの養母を敬遠するようになった。
父親は『予見』の力を持つアライドという星の出身だったと聞いた。
違う星の生まれだからといって異星人というわけではない。
元は地球人で何世代かでそこで増えた人類だ。
たぶん、その『予見』の能力が関係しているのかもしれないが、カインは養母の周りにいつも不穏な霧を見る。それがとてつもなく嫌な気分だったのだ。
『ビート』の訓練は厳しい『ライン』よりもさらに苛酷だったが、苦手な養母と離れることができたのはカインにとってはむしろ歓迎すべきことだったといえる。
カインは主にコンピューターを駆使する技術を覚え、射撃、飛行艇の操縦、サバイバル訓練、 護身と攻撃の術…… ありとあらゆる技術を叩き込まれた。
アシュアは射撃がメインで、それ以外に接近戦の訓練と薬学、心理学を叩きこまれた。
カインは13歳、アシュアは16歳、初めて出会った時、カインは最初アシュアの燃えるような赤い色の髪に興味を覚えた。
東洋系で周囲に黒髪の人間が多かったカインにはアシュアの髪の色や彼の顔立ちは今まで会ったことがない部類の人間だったのだ。
彼の気の遠くなるような祖先は地球の大陸で大地を崇め、呪術を信じ、狩りと農耕で生計をたてていたらしい。彼を取り巻く空気は一種独特だったし、彼の焼けた肌と燃えるような赤い髪、尖った鼻はそのことを後世に残している唯一の証拠に思えた。
「おれもライブラリで調べただけだから実感ねえけど」
笑うアシュアの顔はいつも陽気で明るい。このアシュアの存在がどれほどカインの助けになってきたかしれない。
彼の屈託のない性格や、対等に接してくれる態度はともするとマイナス思考に走りがちなカインを光の当たる場所に連れ戻してくれることが多かった。
何よりケイナのガードを言い渡されてからはアシュアなしではきっと彼の心を開かせるのは難しかったかもしれない。
アシュアはケイナの気持ちを掴んでこちらに向かせるのがうまかった。
それが彼の『ビート』としての天性の部分だったのかもしれないが、 ケイナはアシュアになら返事をかえすことが少しずつ増えていったのだ。
最初は何気ない「よう、元気か?」ぐらいのことだった。
ときにアシュアは大きな手でケイナの後頭部をすれ違いざまにぽん! と叩き、「そんなシケたツラしてんじゃねえぞ!」と言ってカラカラ笑った。
いつもすっぱり切れそうなナイフのようなオーラをほとばしらせているケイナにそんなことができるのはおそらくアシュアしかいない。
ケイナ自身がふたりのことをどう思っているのかは実際よくわからなかった。
トウの命令でカインとアシュアが『ライン』にいることなどもちろんケイナには知らされていないが、勘のいいケイナが何も気づかないはずもない。
ケイナはいつもふたりが近づくと険しい警戒の目を向けた。
嫌がらせの対象になっているケイナに近づくということは自分もその対象になる可能性があるということだし、ただでさえ厳しい『ライン』の生活で、自分のこと以上に厄介ごとをしょいこもうとする物好きはいない。
自分たちはその「物好き」ということになるのかもしれないが、そんなこと以上にカインとアシュアが「普通の訓練生」ではないことくらいケイナは感じ取っていただろう。
やがて一年の時間をかけて、ふたりはやっとケイナに「たまには」返事を返してもらえる、という関係を築き上げていた。
とはいえ、カインはいまだにケイナにはまともに話をしてもらえない。
それでも彼は冷たい表情でもわずかに笑みを見せることもあった。
少し安心した。
その油断が出たのかもしれない。
わずかな隙が忘れられない事件を起こした。
カインは今でもその時のことを思い出すと身がすくむ。
自分の不甲斐なさを悔いる。
もっと気をつけていれば。自分の不安定な『予見』の能力がもっと高ければ。
回避できる方法は何かあったんじゃないか……
でも、時間は元には戻せないのだ。
ケイナのそばにはできる限りカインとアシュアのどちらかひとりか、もしくはケイナがどこにいるかを把握するということは大前提だった。
それがそのときはふたりともケイナから離れていた。
トレーニングが終わったあと、まだ部屋に残っていると思っていたケイナがいなかった。
「ケイナ?」
彼の姿を探したカインの視界が突然真っ赤になった。
カインの異変に気づいたアシュアが緊張の面持ちで彼の顔を見る。
「ケイナはどこだ! アシュア、ケイナを探せ!」
言い終わる前にアシュアは身を翻していた。
ケイナの目を通して、自分の目に映る恐怖の光景にカインは震えた。
数人のハイライン生がシャワールームに向かうケイナを後ろからはがいじめにした。
彼の口にタオルを詰め込み、誰もいない倉庫に連れ込んだ。
服を破り、利き腕の左手を砕いた。
貫く痛みがこちらにも伝わる。
ふたりが息をきらして倉庫に駆け込んだとき倉庫の床は一面の血の海となり、ぐったりと倒れたハイライン生たちから少し離れて、ケイナはなかば裸身の状態でぼんやりと壁にもたれて座っていた。
左手首から先がねじくれて、体中の無数の切り傷から血が流れていた。
血だまりの中に小さなナイフがひとつ落ちていた。
ふたりが呆然としたのはケイナのその姿だけでなく、床に倒れる少年たちの姿だった。
幸いにも全員が命をとりとめたが、ある者は腕を切り裂かれ、ある者は左頬をすっぱりとえぐりとられていた。なかにはもう少しで致命傷になるほど腹に深い傷を負っている者もいた。
ふたりが駆け付けるのがもう少し遅ければもしかしたら全員死んでいたかもしれない。
それほど凄惨な光景だった。
ケイナはカインが名前を呼んでも全く反応しなかった。このときばかりはアシュアでもだめだった。
彼の藍色の眼と半開きになった唇はリンチを受けたときのショックそのままに開かれ、精神をこなごなに崩された狂気を浮かべていたからだ。
いや、狂気などという生易しいものではなかったのかもしれない。
途方もない絶望感。いったいどれほどの恐怖だったのか……
カインはケイナのその顔を思い出すと今でも体中に震えが走る。
(死と生の綱渡り……)
かなりあとになってからアシュアがそんな言葉を口にした。
ケイナは目を閉じることがなかった。
何日も何日もベッドの上で目を見開いたまま体中をこわばらせ、がくがくと震えていた。
睡眠剤の入った点滴を打たれてもその目は閉じることがなかった。
夜になると彼は叫び声をあげた。倉庫の中の闇と夜の闇がシンクロするようだった。
縫合した傷から血が吹き出た。
「感情制御装置をつけて…… それと、記憶を一時的に消します」
リィ・カンパニーの医師が苦渋の決断をしたのはそれから一週間後だった。
ケイナは点滴だけで生きていて、日に日に体力が落ちていた。
夜に出す叫び声もだんだん力がなくなってきていた。
「パラソムニアというのをご存知ですか? 本人は目を開いていても夢を見ている状態です。目が覚めても今のこの状態についての記憶はない。でも眠れてはいないのです。でも彼の場合は単純にパラソムニアとは言えないような症状が出ています」
「つまりこのままでは死んでしまう、ということね?」
モニターの向こうでトウが尋ねると医師はうなずいた。
「じゃあ、しかたないわね。18歳になるまではこっちのものにはならないんだし」
「……」
トウの言葉に違和感を覚えたふたりだったが、こちらに向けられた鋭い目に身構えた。
「この無能な子たちのおかげでとんだ災難だわ」
ふたりは黙っていた。
(あんたの災難よりケイナの災難を考えろよ。彼の姿を見て何とも思わないのか)
カインは心の中で毒づいた。
「その対処をすることでの変化は何?」
トウは医師に尋ねた。
「身体的には何も変化はありません。脳にも影響はないでしょう。耳たぶから脳の感情を司さどる信号を送ります。微弱な電流が流されていると思っていただければいいでしょう。耳たぶに埋め込んでしまうので、耳を吹き飛ばされない限りは落ちる事もありません。一時的に消した記憶はいずれ戻るでしょうが、その頃には装置が働いているから思い出しても今のような状態にはならないでしょう。もっとも、精神的な傷が全て消えるわけではありませんが」
医師は冷静に答えた。
「完全に記憶を消すのは何かとリスクが高いもので。彼の場合は特に」
「カート司令官はなんと?」
トウは自分の爪を見ながら言った。
「任せるとおっしゃってます。何より命の優先を、と」
「じゃあ、私も任せるわ」
トウは答えて、再びカインとアシュアに目を向けた。
「さて、あんたたち、『ビート』除名とイチから出直すのと、どちらを選ぶ?」
「除名」
カインは即座に答えた。こんな思いはもう金輪際続けたくなかった。
「同じく」
アシュアもそれに続いた。
トウは美しい口元に笑みを浮かべた。
「次はないと思っておいて」
そう言うと彼女は消えた。
ふたりは顔を見合わせた。
(なぜ……? 自分から除名をちらつかせておいて)
そのことが無気味だった。
真っ赤なルビーのピアスのような感情制御装置は、ただでも表に出さなかったケイナの感情をさらに閉じ込めた。
ケイナは自分の身に起こった事を冷静に受け止めているようだったが、それも制御装置のなせるわざかもしれなかった。
「普通なら容姿端麗で、頭も良くて運動神経も抜群で…… 養子とはいえカート家といえば名門だぜ。おやじは軍の最高峰じゃねえか。将来も保障されて何の苦労もなく生きていけそうなのにな」
アシュアはため息まじりに言ったことがある。カインは黙っていた。
せめてあの赤いピアスをとってやりたい。 あれがなければまだ少しは笑えたのだ。
そう…… セレス・クレイが来るまではそう思っていた。