機体がガクンと揺れたので、セレスはやっとそれで目を覚ました。
 顔をあげるとすべての窓にはフィルターがおりていて、手元の光と計器類の明かりしかない状態だった。大気圏に入ったときに防護で前面ウィンドウは閉じられてしまったのだ。
 ケイナは座席に身を沈めたまま口を引き結んで頬杖をつき、前を見つめている。
「もう、着くの?」
 セレスの声にケイナはちらりと目をこちらに向けた。
「着いたんだよ」
 彼は答えた。
「え?」
 慌てて身を起こした。夢も見ない深い眠りで、まだ頭の芯がぼうっとしていた。
「どこ?……」
「すっげえ、寒いところ。北緯72度を表示してる」
「え?それって……」
 セレスは仰天した。
「北極圏……?」
 ケイナは何も言わず、かすかにため息をついた。
 フロントのフィルターが下からあがりだしたので、セレスは思わず立ち上がってガラスの向こうを覗き込んだ。真っ白で何も見えない。
「雪? 違う、氷だ! どうしよう。降りてもおれたち凍えちゃうよ」
 不安げに言うセレスにケイナは座席の後ろを顎でしゃくった。
「とりあえず用意はしてあった」
 振り向いてみると、軍仕様のジャケットが見えた。堅そうな大きな手袋も見える。とはいえ北極圏に降りるようなしろものではない。
 北緯72度、西経40分あたりはおそらく一年中氷に覆われていて、夏であれば10度か良くて15度程度だろう。防菌マスクの用意がなかったから、ドームのないところで歩ける場所ということをケイナは考えていたが、まさか北極圏とは思わなかった。もし、教えてもらっていた連絡先にコンタクトしていなければいずれ凍死だ。ケイナはそう思ってちらりとセレスを見た。
「着ろ。おりるぞ」
 フロントに映った小さな機影を見つけたケイナは立ち上がってジャケットをとりあげるとセレスに放った。きっとA.Jオフィスからの機だ。フォル・カートは自分の言ったことをちゃんとやってくれるんだろうか……。
 セレスは戸惑ったように投げられたジャケットを着た。大きなジャケットはセレスの体にはまるでコート状態だ。
 個人機のドアを開けたとき、さすがにふたりとも震えた。15度なんて生易しい気温ではない。きっと体感は0度以下だ。
 見渡す限り白い世界が広がっていた。恐ろしく巨大な氷山の影も見える。光が反射して目が痛い。紫外線が強すぎる。30分もいたら日焼けならぬ氷焼け状態になりそうだった。
「ここって、何? 海の上かな」
 セレスは地面に足をおろし、自分たちが『ライン』で履いていた鋲つきの靴を履いていた事に感謝しながらつぶやいた。そうでなければとても歩くこともできないだろう。
 ケイナは何も言わず空に目を向けた。それに気づいたセレスは彼の視線を追い、そして機影を見つけた。
「なに?」
 ケイナの顔を見上げたが、やはり彼は何も言わなかった。
 小さいと思っていた機影は近づくにつれ、とても小さいとは言いがたいほど大きな機体であることがわかった。中規模の運輸船並みだ。個人艇が5機はおさまってしまいそうだ。
 平坦な氷の上に低い唸りを響かせながら降りる真っ黒な機体を、ふたりとも何も言わずじっと見つめた。
 どうしてケイナは何も言わないんだろう。この機は味方なのかな。いったいどこの船?
 セレスは不安を感じていたが、ケイナから危険な緊張が伝わって来ないので成りゆきを見守ることにした。
 寒さに頬がぴりぴりと痛んだ。こんな寒さは地球にいた頃だって経験したことがない。吐く息ですら冷たく凍っているように白かった。
 どのくらいの時間がたったのか、足の指が冷たさを通り越して痛みを感じるようになった頃、セレスは目の前の船から誰かが降りてくるのを見た。
 タラップに出る時一瞬身をすくめたように見えた。寒さのせいかもしれない。
 船から自分たちまでの距離は100m以上もある。セレスはゆっくりとこちらに歩いて来る人影に目をこらした。
 厳寒用の格好をしていて、頭にもすっぽりとフードを被っているので顔がよく見えない。しかし、氷の上を慣れない足取りで歩くその姿を見つめていたセレスの目がやがて大きく見開かれた。
「う……」
 かすかな声がセレスの口から漏れた。
 ケイナは目だけを少し彼に向けて、口を引き結んだ。
 フォル・カート。やっぱりこういう手に出たか。
 足を踏み出そうとしたセレスは凍え過ぎていて前につんのめった。
 ケイナが思わず手を出して彼の腕を掴んだために転倒は免れたが、セレスはケイナに顔を振り向けることもなかった。
 振りほどくようにケイナの手から逃れると、今度は走り出した。意味不明の声を発しながら何度も転びそうになって走っていくセレスをケイナは見つめた。
 振り切られてしまった手を思わず握りしめていたことには自分でも気づかなかった。
「セレス!」
 セレスは差し伸べられた腕に飛び込んだ。
 セレスは声をあげて泣きながら兄にしがみつき、兄の温かい頬が自分の額に押しつけられるのを感じていた。