はっとして顔をあげた。眠ってしまっていたらしい。
 体に感じる機体の幽かな唸りと振動を感じながらケイナは周囲を見回した。
 あれからどれくらいの時間がたったのだろう……。
 黒い機影と白い光を呆然として見上げているセレスの腕を必死になって掴んで立ち上がり、引きずるようにしてユージーの個人機に向かって走った。
 頭上を線が走り抜いて後方に飛び、爆風を感じた時にはセレスを機内に押し込んでいた。
 あとはもう目まぐるしくてよく思い出せない。気がついたら、もう地面ははるか下になっていた。
 追尾の弾は全部自動で撃ち落したのかもしれない。それともそもそも飛んで来なかったのか……。
 個人機への誘導をしたユージーが航空警備の部分で何か作為的に行っていた可能性もあった。
 でなければ、こんなにうまくいくはずがない……。
 どんどん上昇していくにつれ、『中央塔』の無数の明かりと、通った『ジュニア・スクール』の建物と、自分のアパート、そしてよく行っていた湖と…… 数時間前までいた森が見えて、すぐに小さくなった。
 セレスは小さな窓にしがみつくようにして外を見ていた。
 緑色の目を見開けるだけ見開いて外を凝視していた。
 その目からぽたぽたと涙が落ち始めたとき、ケイナは一瞬困惑した。
 どうして泣く? 無事に飛び立ったのに。何が辛い?
 そう、昔の自分なら、人の涙の意味なんてきっと少しも分からなかった。
 自分を中心にした世界で生きてきた。相手の気持ちを分かろうともしなかった。
 出会ってから一年にも満たないのに……。その重さ、今なら少し分かる。
 何も言うことはできなかったが、セレスの緑の髪に手を伸ばした。
 セレスはぎょっとしたように振り向いて、そこで初めて自分が泣いていたことに気づいたようだった。
「ごめん」
 セレスは言った。
「ごめん…… ケイナ」
 セレスは震える声でそうつぶやいたあと自分の手で涙を拭ったが、泣いていることを自分で気づいてしまったせいなのか、とめどなく溢れてくる涙をどうすることもできなくなってしまった。
 肩を抱いてやったこともあるのに、今はそれをすることすらも怖い。
 自分の気持ちをはっきり認識すればするほどセレスに何かしてやることが怖くなる。
 ケイナはただセレスの顔を無言で見つめるしかなかった。
 セレスはケイナの手を掴むと、そのまま声を押し殺して泣いた。
 自分の手を握りしめるセレスの手をやっと握り返してやる決心がついたとき、目を向けるとセレスは眠ってしまっていた。
 座席にもたれたて片方の肩に顔を傾け、そのまつげがまだ濡れているのが淡い光の中で見てとれた。
 少し冷えた彼の指をそっと力を入れて握った。
 細い指。
 セレスの指は細すぎる……。
 そう感じながら、自分もいつしか眠り込んでいたのだった。
 目が覚めたのは強烈な寒さに見舞われた気がしたからだ。
 吐いた息すら真っ白に思えたが、それは気のせいだとすぐに分かった。
 狭い個人艇の中は18度に保たれたままだった。夢でも見ていたのかもしれない。
 髪をかきあげて横のセレスに目をやると、全身脱力状態で完全に寝入っていた。
 彼の手を握ったままでこわばってしまった自分の手をそっと放し、そして目をあげて目の前に広がる光景に釘付けになった。
 自分の視界で一望できないほどこの青い星を見たのは初めてだったかもしれない。
 『コリュボス』からも地球は見えないわけではなかった。湖の水平線にはいつも地球が見えていた。
 でも、今見えるのはそんな生易しい大きさのものではない。
 悲しくなるほど透明で青い世界。
 目の前の計器類に目を走らせた。いま、どこを飛んでいるのか分からない。これだけ海の見えるところなのだから、大平洋なのかもしれない。
 この機はいったいどこに降りるつもりなのか……。まさか海の上というわけではないと思うが……。
 ケイナは座席に身を沈めた。
 海はもう汚れきってこんなに青いはずはなかった。それなのに、この星を包む大気は水の存在を主張する。
 水に対する固執感は前ほどなくなっていたが、ケイナは久しぶりに自分の中のどこかでくすぶる渇望感を感じていた。
 海が見たかった。あの青い水が本当に見たままの色ならば、身を沈めてしまいたいと思っていた。
 そのままゆっくり眠りたい……。
 ため息をついて髪をかきあげた。気を許すとすぐに死ばかりを考える。何かに突き動かされるようにひた走りたくなる。
 すうすうと小さな寝息をたてているセレスに目を向けた。
 男にしては細い鼻梁、華奢な顎と首。少年というよりは少女のような繊細さ。うすぼんやりとした光の中で見ていると、セレスはますます女性に見えてくる。
 わずかに開いたくちびるに我知らず指を伸ばして、触れかけて…… 思いとどまった。
 こんな状況で触れてしまったら、もう歯止めがきかないような気がした。
 生の行為と死の衝動と、どっちに転ぶのか自分でも分からない。自分が怖い。
 そして彼の細い手足に目を移した。少し前から感じていた疑問が甦る。冷静な今なら何となく分かる。
 セレスはうまく歩けていない。
 緊張状態で能力を開放しているときは人並みはずれた動きをするが、それがなくなると危ういほど足元がおぼつかない。 森の中で手を引いたとき、細い指の感触とともにそのバランスの悪さをひしひしと感じた。
 ……セレスは…… 症状が進行しているんじゃないだろうか……。
 過度の運動能力は、やがてセレスの筋機能に支障をきたすとリンクは言っていた。発達しきれない筋肉は萎縮の一途を辿り、やがて歩くこともままならない状態になる……。
 もう、『ノマド』にいない。セレスの治療をしてやれない……。
 ケイナはしばらく躊躇したのち、ポケットからユージーの置いていった紙片をとりだした。
 こういうことのためにユージーはこの情報を置いていったわけじゃないだろう。
 でも、今となってはそれにすがるしかない。
 ケイナは目の前にかかっていた小さなヘッドフォンをとりあげると、通信システムを探し当ててユージーからもらった紙片を見ながらキイを押した。
 しばらくして、耳もとのヘッドフォンから声が聞こえた。小さなモニターに女性の顔が映っている。
「はい。A.Jオフィスです」
 A.Jオフィス? なんだろう……。ケイナは目を細めた。
「そちらに…… ハルド・クレイという人は……」
 セレスを起こさないよう、声をひそめてケイナは言った。画面の女性が手元のキイを叩くのが見えた。
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
「……ケイナ・カー…… いえ、ケイナ……」
「少々お待ちを」
 ぷつりと画面が切れた。
 ちらりとセレスに目を向けた。まるで起きる気配はない。
 ケイナは座席に身を沈めて仏頂面で消えたモニターを見つめた。
 しばらくして出て来たのは見たことのない男だった。髪が白い。レジーよりは10歳は年上かもしれない。
「フォル・カートといいます」
 カート? ケイナの目が細められた。
「失礼ですが、あなたのお名前をもう一度おっしゃっていただけますか?」
「ケイナ」
「名字は?」
 ケイナは眉をひそめた。カートと名乗るこの男、何者か分からない。なぜ、こいつもカートなんだ?
「ケイナ…… カート」
 男がケイナを見てかすかにうなずいた。
「あなたがケイナ・カートということを証明できるものがありますか?」
「ないよ、そんなもん」
 即座にケイナは答えた。
「レジー・カートを知っているなら、彼に直接聞くと早い」
 男が笑みを浮かべた。
「レジーは連絡がつかなくなっている」
 ケイナは無言で画面の男を見つめた。頭のどこかでそんな予想はついていたかもしれない。思ったほど衝撃は少なかった。
「今どちらに?」
「個人艇の中……。ユージー・カートがプログラムした」
「それはこちらでアドバイスしたんですよ」
 男は言った。ケイナは目を細めた。
「……A.Jオフィスって…… なに?」
「アライドの貿易会社です。たまに人の『運搬』もする」
 男は何もかも分かっているという顔でケイナを見た。
「迎えに行きます。いま、どこを飛んでますか?」
 ケイナは男から目をそらせると目を伏せた。迷っているような表情が一瞬浮かんだが、再び目をあげた。
「一緒に乗ってるやつを……」
 こんなに動揺するとは自分でも思っていなかった。苦しさに息が詰まりそうになる。
「助けてやって欲しい」
 言葉を絞り出した。
「誰が一緒に乗っているんですか」
「セ……」
 また言葉が詰まった。
「セレス・クレイ」
 男はしばらくケイナの顔を見つめた。
「今の位置を教えてください。左のほうに高度と位置表示の数字が出ていませんか」
 男の言われた場所に目を向けた。すぐにその数字を見つけた。
 セレス、ごめん……。
 守ってやれなくて…… ごめん……。
 ケイナは心の中でつぶやいた。
 目の端に、ちらりと青い星の北の極圏が映った。
(ケイナ)
 誰かが呼んだような気がしてセレスを振り返ったが、彼はまだ眠ったままだった。