何度も降りて見慣れたエアポートに着いて、カインは大きく息を吐いた。
 顔をあげるとユージーが兵士のひとりと何やら話をしている姿が目に入った。しばらくして兵士は敬礼をして出ていった。
「銃だ」
 ユージーの差し出す銃をカインは無言で受け取り、座席から立ち上がった。
「個人艇はコリュボスを出た。『ノマド』はケイナを見捨てたな」
 思わず目を向けたが、ユージーはすぐに顔を逸らせてしまった。怒りの表情がちらりと見えた。
 『ノマド』はケイナを見捨てた……。
 トリは本当にそんなことをしたのだろうか……。その船にセレスやアシュアもいるだろうか。
 彼をひとりにしないで欲しい……。腕のナビを見たが、まだ何も映らなかった。
 専用機を降りてすぐにカインはゆっくりと歩いて来るトウの姿を見た。
 かすかに目の下にクマができているような気がするが、それは夜の闇のせいかもしれない。
 高く結い上げられた髪も、着こなされたスーツにも隙がなかった。
 もう50歳に手が届く年齢だというのに彼女の体のラインは全く崩れない。細く華奢な顎と首も引き締まったままだった。
「お帰り」
 トウはカインの前に立つと、かすかに笑みを浮かべて言った。
 あんたがそんなことを言うなんて。
 挑むようにトウの顔を見た。彼女の顔が前より少し下になっているように思えた。
 トウはいつもと同じようにかかとの高い靴を履いている。自分の背が伸びていることにそのとき初めて気づいた。
「ただいま。……『お母さん』」
 トウの表情に変化はなかった。全部を知って戻って来ることを悟っていたのかもしれない。
 彼女はカインの手に握られた銃をちらりと見やり、それからユージーの顔を見た。
「食事をしない?」
 思いがけない言葉にカインは面喰らった。
「食べてないでしょう?」
 彼女はそう言うと背を向けた。
 カインが振り向くと、ユージーはカインの顔を見て、かすかに肩をすくめてみせた。

 黙ってトウの言葉に従うことにしたカインだったが、食事をするにはもうかなり時間が遅かった。
 とてもじゃないけれど食欲も湧かない。少し食べた補給食のビスケットが胃の中でのたくっているような気分だ。
 トウはそんなカインの渋面を無視してエアポートのビルの上階に護衛の兵士ともども引き連れて行った。
「こっちの警備は外で待たせるわ。あんたたちもそうして」
 トウはほかに客が誰もいないがらんとしたレストランの個室の前で言った。たぶんこのためにだけ開けてもらったのかもしれない。
「カートのお坊ちゃまもご一緒にね。身内なんだから遠慮しないで」
 『お坊ちゃま』の言葉にユージーはあからさまに不快な表情を浮かべたが、何も言わなかった。
「銃ももちろんおあずけ」
「部屋の中にほかに誰もいないっていう保証はないだろ」
 ユージーが言うと、トウは笑みを浮かべた。
「じゃあ、確かめてみればいいじゃない」
 トウがドアの脇に動いたので、ユージーは彼女の顔をちらりと見てドアを開けた。
 誰もいない。広い部屋の中央にぽつんと白いクロスをかけたテーブルがあるだけだ。
 中に足を踏み入れて、窓にかかっていたカーテンのうしろや、周囲を調べたが人が隠れたりしているような気配はなかった。
「息子なのよ。何をするっていうのよ」
 トウがあざ笑うように言った顔を、ユージーはじろりと見た。
「嘘でも一度は息子を追い出そうとした人間の言う言葉じゃねえな。おれのおやじに銃を突きつけて」
「レジー・カートは解放したわよ。心配しないで」
 吐き捨てるように言うトウの言葉にユージーが険しい目をして口を開こうとしたが、トウはそれよりもさらに険しい目をして彼を睨みつけると部屋に足を踏み入れてテーブルについた。
「座って」
 命令するような口調だった。
「でないと何も話さないわよ。銃も渡して」
 カインとユージーは近づいて来た兵士にしかたなく銃を手渡し、テーブルについた。
 すぐに料理が運ばれて来たが、とても手をつける気にはならない。
 ユージーも険しい表情のままトウを睨みつけていた。
「食べなさいよ」
 料理をただ見つめるだけのふたりにトウは言ったが、やはりふたりともフォークをとりあげなかった。
 こんな緊張した空気で食事をしろと言うのは無茶だ。
 肩をすくめてナイフとフォークを取り上げるトウの手を見て、カインは目を細めた。
 形のいい指は変わっていなかったが、いつも真っ赤に染められていたしずくのような爪は血色の悪い色をそのままさらし、短く切られてところどころささくれていた。
 潤いをなくした手の甲に、衰えの見えないトウの唯一の生身を見たような気がした。
 トウはカインのその視線に気づいて少し口を歪めた。
「爪の手入れをする時間なんか、なくなったのよ」
 カインは目をそらせた。胸のうちで何かがうずく。
「どうして私に直接聞いて来ないのよ。人からいろいろ聞くからややこしいことになるんじゃない?」
 トウは少し苛立たし気に言った。
「言ったわよね。あんたがちゃんと経営するってことへの決心つけたら全部話すって」
 刺すようなトウの視線を受けて、カインは口を引き結んだ。
「人って誰しも自分に非のあることは言わないわ。悪者でけっこうよ。何が正しくて何が間違いなのかなんて、そんなの私は知らないわ。最終的にはあんたたちが自分で判断すればいい」
 トウはカインを見てちらりと笑った。
「話すわよ。全部」

「サエの話をどこかで聞いたことがある?」
 トウの言葉にカインは首を振った。
 あんたの話はいやというほどいろんなところで耳にしたけれど。
 トウは肩をすくめた。
「私の姉よ。サエは優しい人だったわ。物静かできれいで…… そして残酷だった」
 ユージーはちらりとカインの顔を見た。かすかに顔が青ざめているように見える。
 トウ・リィにサエ・リィという姉がいたことはユージーは父親から聞いたことはあったが、彼女は全くといっていいほど表に出たことのない人間でその存在すら忘れかけられていた。彼女がカインの母親だということも、言われてやっと思い出すくらいだ。
 トウ・リィとカイン・リィはこうやっているとよく似ているから、顔を知っていればこのふたりが叔母と甥の関係ではなく母子だと多くの人間は認知するんじゃないだろうか。
「優しくてきれいで内気な姉のサエ・リィ、気が強い妹のトウ・リィ。ずーっとそういう評価だったわねえ。将来の経営者としてはみんなが私を支持したのよ。あんなに気弱なサエ・リィじゃあ、いくら長女でも難しいだろうって。そのくせ、いざ交替となるとこぞって反対する。女じゃよっぽど不満だったのかしら」
 トウはくすりと笑った。
「ならなくていいんなら社長になんかならないわ。逃げられるもんなら逃げてた。誰かさんのようにね」
 ちらりと向けられたトウの視線から逃れるように、カインは目をそらせた。
「どこかでボルドーが連れて逃げてくれるのを待ってたのかもしれない。彼がアライドに行こうって言ったらすぐに行ったかもしれないわ」
「ボルドー……」
 カインはつぶやいた。
「あんたの父親よ」
 トウは言った。
「ボルドーは私の恋人だったのよ。それをサエが横恋慕したの」
 そんな話は初めて聞くことだった。
「ボルドーと会ったのはまだ20歳になったばかりの時だったわ。一年に数回くらいしか地球には来ない人だったのよ。それでも会えるっていうのが嬉しかったわ。若かったわね。もう有頂天だったのよ」
 今の彼女からは恥じらうように頬を染めるトウの姿など想像できない。
 カインは何も言わずにトウのわずかに目を伏せた顔を見つめた。
「何年続いたかしら。地球に来たときに会って食事して話をして……。でも、それ以上はできなかったわ。私は部署をひとつ任されたばかりだったし、ボルドーも忙しい人だった。それでもお互い思いは通じてるって思ってたわ」
 トウはため息をついて、ユージーを見た。
「悪いわね、今の話はあなたには直接関係ないことだけど」
 ユージーは堅い表情のまま何も言わなかった。
「サエはほとんど人前に出ない人だったけど、それは内気だからじゃないわ。人前で自分の思うことができないのが厭だったからよ。いつも自分の気に入るようになっていないと厭だった。家ではメイドのやった仕事が彼女は気に入らないの。家中をぴかぴかに磨きあげるのは、彼女がきれい好きだからじゃなくて気に入らないからよ。よかれと思ってかけられたテーブルクロスはずたずたに引き裂かれてひっそり捨てられていたわ。料理が盛られた皿は次の日の朝には全部割れていた。いったいどうしたのかしらって、不思議そうに言うのよ。謝るメイドや料理人に、あなたのせいじゃないわって言うんだから呆れたわ。私には全部分かってたわよ。何度となくサエには私の物も壊された。私だけが持っているもの、自分よりいいもの、は彼女には許せなかった」
 カインはずいぶん昔に見たサエの映像を思い出そうとした。
 うすぼんやりとトウによく似た黒髪とふっくらした唇が目に浮かぶ。しかしそれ以外に何の特徴もなかった顔だちはとっくに記憶の彼方になっていた。瞳の色も思い出せない。東洋系なのだから、きっと自分やトウと同じように濃い色なのだろう。
「サエがどんなに許せなくても私から奪い取れなかったのが知識と情報よ。当たり前だわ。努力しなくてもできるような天性は彼女にはなかった。そのことをはっきり自覚するべきだったわね。言語も経営学も、私は私なりに勉強をして手に入れたものなんだから」
 祖父のシュウ・リィを思えば天性の資質は努力をしたと言うトウにあったのかもしれない。でなければ若くして巨大なカンパニーを背負えるはずがないからだ。
 しかし、トウはよほどサエに対して恨みがあったと見える。
「でも、できのいい子よりできの悪い子と言うじゃない。おじいさまは何かと理由をつけては、無理矢理サエを外に連れ出した。サエのほうがおじいさまと一緒にいることが多かったわ。私はほうっておいても安心できる孫娘。サエは構ってやらないといけない孫娘。そんなふうに思ってたのかもね……。サエとボルドーが会ったのはそれが原因よ。ボルドーは取引先の人だったし。私たちはつき合ってるなんて誰にも言ってなかった。おじいさまも知らなかったと思うわ。……言えなかったわよ」
 トウは自嘲気味に笑った。
「あんなに行動力があるんなら、彼女が私の代わりにカンパニーを継げばいいのにとすら思ったわ。私が何年も何年もかけて積み重ねたボルドーとの時間を、彼女はあっという間にさらっちゃったのよ。私が気づいたときにはもうサエはボルドーと寝ていたわ」
 何年もかけて積み重ねた時間をさらった……。カインは胸の奥にくすぶるものに必死になって堪えた。
 そう、セレスが現れたとき、自分もそんなふうに思った。奪われた時間はもう戻らない。
「サエに言ったの。私とボルドーはもう何年もつき合っているんだ、って。そしたら……」
 トウは一瞬口を引き結んだ。
「悪びれもせずに彼女はこう言ったのよ。『だからなに。いいじゃない。彼の子供を私が代わりに生んであげるわ』」
 ユージーは冷静を装っているカインの組んだ手がかすかに震えているのを見た。
 顔には何も表情が出ていなかったが、内心かなり動揺しているのだろう。
「最低よ、サエは。彼女は私が子供を欲しがっているのを知っていて、そんなことを言ったのよ」
「それが町医者での原因ってわけですか」
 カインは口を開いた。トウは彼の顔を見てふっくらした口元に笑みを浮かべた。
「そんなことまで調べていたの? そうよ。あの医者を探して来たのはサエよ。おじいさまも知らないことをリィ系列の病院でできるわけがないじゃない」
「なんで、そんなことを……」
「言ったでしょ。子供が欲しかったのよ」
 トウは少し不機嫌そうな表情をちらりと浮かべた。
「自分の体のことはずっと調べてたわ。人工子宮の中で子供を育てることも考えたわ。だけど遺伝子損傷の問題に突き当たったの。子供ができたって、長生きしない。そういう遺伝子だって言われたのよ。自分の会社の研究所でそう言われたのよ。こんな屈辱ってないわよ」
「『ホライズン』……?」
 かすれた声でつぶやくカインの顔をちらりと見て、トウは片眉を吊り上げた。
「そうよ」
 カインは息を吐いた。トウがプロジェクトのことを知ったのはこれが発端だということは容易に察しがついた。