「トリ?」
前のめりに突っ伏したトリを見て、リンクが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
トリは答えた。
「でも…… 怖い」
いったい、何が起こっているんだろう。
リンクは青ざめた顔のトリを見て不安に陥った。ここにいると何も音が聞こえない。
ケイナ、早く磁場まで戻って来い……!
リンクはトリの肩を抱きながら思った。
セレスの叫び声がケイナとアシュアの耳に届いた。
あのバカ……! デカイ声あげやがって……!
ケイナは唇を噛むと、身を翻した。
左から殺気を感じて身を臥せると、頭上を光が飛んでいった。その先で呻き声が聞こえた。
アシュアじゃない。やっぱり変だ。仲間うちでやってないか?
ケイナは再び走り出し、すぐにセレスの姿を見つけた。あんなところに突っ立ってたらいい標的だ。
飛びかかって一緒に草の中に倒れ込むと、案の定、光の筋が何本も通り過ぎていった。
「いい加減にしろよ! 死にたいのか!」
ケイナはセレスに怒鳴りつけた。
「ケイナがいけないんだ! おれにケイナの憎しみを入れないで!」
「憎しみ?」
ケイナはセレスの大きく見開かれた緑色の目を見た。セレスはケイナからすばやく身を離した。
「ケイナの頭の中は死ばっかりだ! 相手の命を奪うことしか考えてない! そんな思いをおれに入れないでよ!」
「なに言って……」
言いかけて、鈍い痛みが頭に走ってケイナは顔をしかめた。痛みはないとトリは言っていたのに……。
立ち上がってしまったセレスを見て、ケイナは慌てた。
「ばか……!」
腕を掴もうとすると、セレスがその手を振り払ったのでケイナは呆然とした。
「命の代わりはないんだろ?! みんな一緒じゃないか! なんでおれたちは人殺しをしてるんだよ!」
再びびりっと痛みが走る。
「そんなこと言い争ってる場合かよ! あいつら…… いつっ……!」
セレスの視線が頭をかき回す。やめろ、セレス! ヤバイ……! ケイナは呻き声をあげて頭を押さえた。
あっちこっちから殺気を感じるのに、体が動かない。足…… 足、狙われてんじゃなかったっけ……。
そして振り返ったとき、左肩に衝撃を感じた。
頬に赤い点が飛んだ。
「バカヤロ」
アシュアは言った。
「ちゃんと…… 残れ…… よ……」
「アシュア!!」
リアの甲高い声が響いた。
心臓がどくどくと鳴る。
左肩が熱い。アシュアを貫いた光がおれの肩をかすめていったんだ……
アシュア? アシュア…… 重い…… しっかり立ってくれよ……。
「なんで……」
ケイナは力尽きて自分の腕から滑り落ちるアシュアを見た。
頭の痛みなんかもう感じない。感じるのは怒りだけだ。
「……のやろう……」
もう、どうでもいい。死だけを見てる? 上等じゃねえか。
倒れたアシュアの胸から信じられないほどの血が流れていた。
アシュアを撃ってただですむと思うな……。
狂ったような思いが沸き起こる。もう、自分ではどうにもならない。セレスは呼ばないかもしれない。
もう、いい。すべて死に絶えてしまえ。
「アシュアを早く運べ!!」
鬼のような形相でケイナは叫んだ。倒れたアシュアに駆け寄ったリアが彼を見上げた。
ケイナは目を見開いたまま突っ立っているセレスに怒鳴った。
「おまえも早く行け! でないと……」
ケイナは正気の目を一瞬残すと、くるりと背を向けて走り出した。
「なにやってんのよ! 早く手を貸して!」
リアがヒステリックにセレスに向かって叫んだ。
アシュアが撃たれた…… ケイナは正気をなくした……
アシュアが…… ケイナは……
「セレス!!! しっかりしてよ!!」
リアの悲痛な叫び声をセレスは呆然としたまま聞いていた。
「きた……!」
トリは呻いた。怖い。でも、もう決めたんだ……。
アシュア…… きみの死はぼくがもらう。
トリの口からごぼりと出た血にリンクが仰天した。
「トリ! あんた、いったい……!!」
「リンク…… よく聞け」
倒れかかった自分を助け起こそうとするリンクにトリは言った。
「リアが…… アシュアを連れて、磁場の100m手前まで来てる。…… 誰かを迎えにやって。…… リアに伝えて。……アシュアは必ず助かるから…… 彼の名を呼び続けろと……」
「トリ、すぐ手当てを」
立ち上がろうとするリンクの腕をトリは掴んだ。
「いいから」
「ばかなこと言わないでくださいよ!」
リンクは叫んだ。
「いいから。…… どっちにしてもあと数年も生きられないんだ。アシュアの死は…… ぼくがもらっていく」
「あなたは長老なんですよ! 彼らのことだって、どう…… どうするんだ……」
「ごめん……」
トリはかすかに笑みを浮かべた。
「許してくれよ。結局…… 妹の…… ことしか考えられなかった……」
リンクは言葉をなくした。
「リアはアシュアの子供を生むんだ。……あと…… 頼むよ…… きみならできるから」
「む、むりだ…… ぼくには長老の役目は勤まらない……。お願いだ、トリ、死なないでください」
リンクはとうとう泣き出した。
「やらなきゃならないこと…… たくさんあるでしょう……。どうしてそれを全部……」
「リアに伝えて…… アシュアを呼べって……」
トリは言った。もうあんまり時間がない。話せない。自分でもそれがよく分かっていた。
「ケイナと…… セレスは間に合わない…… 船に乗れない……。だけど、彼らは必ず…… やり遂げるから…… だいじょうぶ……。見えるんだ。……きっと……」
トリは目を閉じた。
大丈夫。彼らはきっとやり遂げる。命は続くから。
死にもの狂いでアシュアをリアと運び、迎えに来てくれたコミュニティの者の姿が見えたときセレスの気持ちは決まっていた。
「リア、おれ、ケイナんとこ行く」
リアはセレスを振り向いた。
「……名前を呼びに行かなくちゃならないんだ」
リアの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。セレスはリアの口の端にキスをした。
「ちゃんとアシュアのそばにいて。アシュアは絶対死なないよ。リアのこと好きだもん。死なないよ」
「ケイナを連れて帰ってよ。もう、誰も傷つかないで」
リアは言った。
「リア、ごめん。おれのせいだ。おれがもっとちゃんとしてたらアシュアは撃たれなかった」
「そんなこと言ってんじゃないわよ!」
リアは叫んだ。
「ちゃんとアシュアのそばにいてよ」
セレスはそう言うと、身をひるがえして再び森に入っていった。
助けてよ。誰でもいいから助けてよ。こんなのもういや。助けてよ……。
どうしてこんなことになっちゃうの?
リアは泣いた。
「ケイナ!!」
セレスは叫んだ。ケイナと別れてから30分くらいしかたっていない。それなのに、嘘のように森から人の気配がなくなっていた。
「ケイナ!」
なぜこんなに静かなんだろう。ケイナはどこにいるんだろう。
足元に何かがひっかかって転びそうになり、目を向けたとたんぎょっとした。人の腕……。
思わずうめいて反らせた背に後ろの木が当たり、それに驚いて振り返ると、幹にべっとりとついた血しぶきが目に入った。
そして気づいた。あっちこっちが暗がりの中でも分かるほど赤く染まっている。まるでペンキをぶちまけたみたいに……。
足が震えた。血なまぐさい。吐き気をもよおすほど血の匂いがする。
腕のナビを見た。真っ赤に点滅していた光は今はない。
ケイナ、どこ……。ケイナを示す赤い点を頼りにセレスは歯をくいしばって歩を進めた。そして彼の姿を見つけた。
ケイナは剣の柄を手に木の幹にもたれかかってぼんやりと立っていた。
「ケイナ!!」
叫んで走り寄っても、ケイナは顔もあげなかった。
「ケイナ。怪我……」
彼の顔を覗き込んでセレスはどきりとした。ケイナの目は虚空を見つめて生気をなくしていた。
「どうして…… 銃じゃなくて…… 剣で…… 戦ったの?」
「動き…… やすかったから……」
憎しみと怒り。ケイナは自分の手で確実に相手を倒しているという手ごたえを感じたかったのだろうか。それにしても、むごすぎる。叫びだしたくなるような惨状が広がっていた。
「アシュア…… は……?」
絶望とも悲しみともつかない目を向けるケイナに、セレスは戸惑いながらも小さくうなずいてみせた。
「ちゃんと運んだよ……。今頃手当て受けてる。途中で出血も止まったんだ。一瞬意識も回復したんだよ……」
ケイナの顔が歪んだ。彼は剣の柄を持ったまま両手で自分の額を押さえた。
「ちくしょう……」
ケイナは呻いた。
「トリ…… いったいどこまで見えてたんだ……!」
トリがどうしたっていうんだ……? セレスはケイナを見つめた。
「どうして、こんなことができるんだ…… なんでこんな残酷なことが……」
「ケイナ、ここから離れよう」
セレスはケイナの腕を掴んだが、ケイナの怒りに燃えた目を向けられてぎくりとした。
あっという間に彼の右手で首を掴まれ、仰向けに倒れた。背骨に激しい衝撃が伝わる。
ケイナはセレスの首を掴んだまま、左手の剣を構えてセレスに馬乗りになっていた。
「さぞかし面白かっただろうな。全部…… 全部トリの筋書き通りだ。トリは分かってたんだ…… あいつはおれが正気を無くすことをあえて選んだ。カインはカンパニーに発ち、おれたちはここに残った。あいつはいったいどこまで見通していた? ここから先も、終わりもみんな知ってる」
首を掴むケイナの手を両手で掴み返しながら、セレスはケイナを見つめた。
恐ろしいほどの殺気が伝わってくる。
そのとき、頭上からの低い唸りがふたりの体に伝わった。
『ノマド』たちを乗せる船。もう、戻っても間に合わない。ケイナの頬がかすかに歪んだ。
「トリはおれたちを裏切った。あいつが欲しかったのは何だったんだろうな。自分の血筋。 ……自分の遺伝子だけだったんじゃないのかよ」
「何言ってんだよ……」
ケイナの手の力は強い。いつも思う。彼の指が首に食い込む痛みに顔をしかめながらセレスは言った。
「裏切るなんて…… しないよ。トリはしないよ……。おれたちにお守りくれたじゃないか……」
「あんなもん、お守りじゃない……」
ケイナは吐き出すように答えた。
「全部、あれで動かされてたんだ……。おまえの動きがおれに分からないのも、おまえが混乱したのも、全部……」
ケイナは言葉を切って息を吐いた。
「リアが生む子供の父親を殺さないための操作だよ!」
苛立たし気に叫ぶケイナの指にさらに力がこもる。セレスは顔をしかめた。
違うよ。……必死になって思った。
トリは操作なんかしてない。……トリはきっとアシュアを助けてくれたんだ……。アシュアはきっと助かるよ……。
「コミュニティに戻ろ…… ケイナ……」
締めつけられる痛みに顔をしかめながらセレスは言ったが、ケイナはかぶりを振った。
「もう…… あそこには誰もいないよ……」
「そんな……」
低い唸りが聞こえる。船の音。
カインも…… アシュアもいなくなってしまった。
トリとリアも…… リンクも……。クレス、タク、子供たち……。何のために、何をしていたんだろう。
逆らいがたい狂気がケイナの胸に沸き起こっていた。
分かってるよ、トリ。これが一番いい方法なんだろ。
このままふたりでここで死んでしまえば、もう誰も傷つくことはないじゃないか。
おれだったら、セレスに一瞬の苦しみも与えずに逝かせることはできるよ。自分が死ぬのはもっと簡単。
セレスはケイナが剣を振り上げるのを見た。
ケイナは…… おれを殺す気だ。どっと汗が吹き出て呼吸が荒くなった。
セレスのパニック状態と裏腹に、ケイナの顔は冷静そのものだ。かすかに笑みさえ浮かべているように思える。
やだよ、ケイナ。あんたと戦うのなんか厭だ。
そう思いながら、セレスは反射的に自分の剣を引き抜いていた。
思わず閉じた目を開けたとき、セレスは我が目を疑い、かすれた悲鳴が口から漏れた。
振り上げられたケイナの剣は空中でそのまま止まっていた。
「なんで…… よけないんだよ……」
ほんの一部のケイナの正気は、セレスに殺されることを願っていた。
斜めに彼の首をかききろうとしていたセレスの剣がもっと動いていたら、ケイナはあっけなく死んでいただろう。
手を止めたのはケイナではなく、セレス自身の正気だったのかもしれない。
セレスは震えながらケイナから剣を外した。
ケイナはセレスの首から手を離すと、そのまま彼の頬に手を滑らせ、冷えた自分の顔を彼の頬に押しつけた。
こんな極限状態で狂おしい欲求が沸き起こる。
生の渇望……。死ぬことへの狂気。遺伝子が命令する、相反するふたつの感情。
この緑色の目、両方の感情で無茶苦茶にしてやりたくなる。
「今度戻らなかったら、殺して。頼むよ……」
耳もとのケイナの声にセレスは激しく首を振った。
「厭だ。もう、二度とケイナに剣は向けない。絶対にいやだ!」
ケイナの細い金色の髪だけが見える。首筋にかかる彼の温かい吐息がたまらなく悲しかった。涙がこぼれてこめかみを伝っていった。
「ケイナ、地球に…… 行こう。……まだ、海を見てない……」
嗚咽をこらえながらかすれた声で言ったが、ケイナは何も言わなかった。何も言わない代わりに、自分の頬に触れた冷えきった彼の指がかすかに体温を帯びたことをセレスは感じた。
おれたちまだ生きてる。
生きてたらできることがある。死んじゃうのはそれからでもいい。
ケイナはゆっくりと身を起こし、セレスに手を差し出した。
彼の手をとって立ち上がりながら、セレスは涙をぬぐった。
きっと帰る場所があるよ……。
ふたりとも頭の隅でそう思った。
前のめりに突っ伏したトリを見て、リンクが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
トリは答えた。
「でも…… 怖い」
いったい、何が起こっているんだろう。
リンクは青ざめた顔のトリを見て不安に陥った。ここにいると何も音が聞こえない。
ケイナ、早く磁場まで戻って来い……!
リンクはトリの肩を抱きながら思った。
セレスの叫び声がケイナとアシュアの耳に届いた。
あのバカ……! デカイ声あげやがって……!
ケイナは唇を噛むと、身を翻した。
左から殺気を感じて身を臥せると、頭上を光が飛んでいった。その先で呻き声が聞こえた。
アシュアじゃない。やっぱり変だ。仲間うちでやってないか?
ケイナは再び走り出し、すぐにセレスの姿を見つけた。あんなところに突っ立ってたらいい標的だ。
飛びかかって一緒に草の中に倒れ込むと、案の定、光の筋が何本も通り過ぎていった。
「いい加減にしろよ! 死にたいのか!」
ケイナはセレスに怒鳴りつけた。
「ケイナがいけないんだ! おれにケイナの憎しみを入れないで!」
「憎しみ?」
ケイナはセレスの大きく見開かれた緑色の目を見た。セレスはケイナからすばやく身を離した。
「ケイナの頭の中は死ばっかりだ! 相手の命を奪うことしか考えてない! そんな思いをおれに入れないでよ!」
「なに言って……」
言いかけて、鈍い痛みが頭に走ってケイナは顔をしかめた。痛みはないとトリは言っていたのに……。
立ち上がってしまったセレスを見て、ケイナは慌てた。
「ばか……!」
腕を掴もうとすると、セレスがその手を振り払ったのでケイナは呆然とした。
「命の代わりはないんだろ?! みんな一緒じゃないか! なんでおれたちは人殺しをしてるんだよ!」
再びびりっと痛みが走る。
「そんなこと言い争ってる場合かよ! あいつら…… いつっ……!」
セレスの視線が頭をかき回す。やめろ、セレス! ヤバイ……! ケイナは呻き声をあげて頭を押さえた。
あっちこっちから殺気を感じるのに、体が動かない。足…… 足、狙われてんじゃなかったっけ……。
そして振り返ったとき、左肩に衝撃を感じた。
頬に赤い点が飛んだ。
「バカヤロ」
アシュアは言った。
「ちゃんと…… 残れ…… よ……」
「アシュア!!」
リアの甲高い声が響いた。
心臓がどくどくと鳴る。
左肩が熱い。アシュアを貫いた光がおれの肩をかすめていったんだ……
アシュア? アシュア…… 重い…… しっかり立ってくれよ……。
「なんで……」
ケイナは力尽きて自分の腕から滑り落ちるアシュアを見た。
頭の痛みなんかもう感じない。感じるのは怒りだけだ。
「……のやろう……」
もう、どうでもいい。死だけを見てる? 上等じゃねえか。
倒れたアシュアの胸から信じられないほどの血が流れていた。
アシュアを撃ってただですむと思うな……。
狂ったような思いが沸き起こる。もう、自分ではどうにもならない。セレスは呼ばないかもしれない。
もう、いい。すべて死に絶えてしまえ。
「アシュアを早く運べ!!」
鬼のような形相でケイナは叫んだ。倒れたアシュアに駆け寄ったリアが彼を見上げた。
ケイナは目を見開いたまま突っ立っているセレスに怒鳴った。
「おまえも早く行け! でないと……」
ケイナは正気の目を一瞬残すと、くるりと背を向けて走り出した。
「なにやってんのよ! 早く手を貸して!」
リアがヒステリックにセレスに向かって叫んだ。
アシュアが撃たれた…… ケイナは正気をなくした……
アシュアが…… ケイナは……
「セレス!!! しっかりしてよ!!」
リアの悲痛な叫び声をセレスは呆然としたまま聞いていた。
「きた……!」
トリは呻いた。怖い。でも、もう決めたんだ……。
アシュア…… きみの死はぼくがもらう。
トリの口からごぼりと出た血にリンクが仰天した。
「トリ! あんた、いったい……!!」
「リンク…… よく聞け」
倒れかかった自分を助け起こそうとするリンクにトリは言った。
「リアが…… アシュアを連れて、磁場の100m手前まで来てる。…… 誰かを迎えにやって。…… リアに伝えて。……アシュアは必ず助かるから…… 彼の名を呼び続けろと……」
「トリ、すぐ手当てを」
立ち上がろうとするリンクの腕をトリは掴んだ。
「いいから」
「ばかなこと言わないでくださいよ!」
リンクは叫んだ。
「いいから。…… どっちにしてもあと数年も生きられないんだ。アシュアの死は…… ぼくがもらっていく」
「あなたは長老なんですよ! 彼らのことだって、どう…… どうするんだ……」
「ごめん……」
トリはかすかに笑みを浮かべた。
「許してくれよ。結局…… 妹の…… ことしか考えられなかった……」
リンクは言葉をなくした。
「リアはアシュアの子供を生むんだ。……あと…… 頼むよ…… きみならできるから」
「む、むりだ…… ぼくには長老の役目は勤まらない……。お願いだ、トリ、死なないでください」
リンクはとうとう泣き出した。
「やらなきゃならないこと…… たくさんあるでしょう……。どうしてそれを全部……」
「リアに伝えて…… アシュアを呼べって……」
トリは言った。もうあんまり時間がない。話せない。自分でもそれがよく分かっていた。
「ケイナと…… セレスは間に合わない…… 船に乗れない……。だけど、彼らは必ず…… やり遂げるから…… だいじょうぶ……。見えるんだ。……きっと……」
トリは目を閉じた。
大丈夫。彼らはきっとやり遂げる。命は続くから。
死にもの狂いでアシュアをリアと運び、迎えに来てくれたコミュニティの者の姿が見えたときセレスの気持ちは決まっていた。
「リア、おれ、ケイナんとこ行く」
リアはセレスを振り向いた。
「……名前を呼びに行かなくちゃならないんだ」
リアの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。セレスはリアの口の端にキスをした。
「ちゃんとアシュアのそばにいて。アシュアは絶対死なないよ。リアのこと好きだもん。死なないよ」
「ケイナを連れて帰ってよ。もう、誰も傷つかないで」
リアは言った。
「リア、ごめん。おれのせいだ。おれがもっとちゃんとしてたらアシュアは撃たれなかった」
「そんなこと言ってんじゃないわよ!」
リアは叫んだ。
「ちゃんとアシュアのそばにいてよ」
セレスはそう言うと、身をひるがえして再び森に入っていった。
助けてよ。誰でもいいから助けてよ。こんなのもういや。助けてよ……。
どうしてこんなことになっちゃうの?
リアは泣いた。
「ケイナ!!」
セレスは叫んだ。ケイナと別れてから30分くらいしかたっていない。それなのに、嘘のように森から人の気配がなくなっていた。
「ケイナ!」
なぜこんなに静かなんだろう。ケイナはどこにいるんだろう。
足元に何かがひっかかって転びそうになり、目を向けたとたんぎょっとした。人の腕……。
思わずうめいて反らせた背に後ろの木が当たり、それに驚いて振り返ると、幹にべっとりとついた血しぶきが目に入った。
そして気づいた。あっちこっちが暗がりの中でも分かるほど赤く染まっている。まるでペンキをぶちまけたみたいに……。
足が震えた。血なまぐさい。吐き気をもよおすほど血の匂いがする。
腕のナビを見た。真っ赤に点滅していた光は今はない。
ケイナ、どこ……。ケイナを示す赤い点を頼りにセレスは歯をくいしばって歩を進めた。そして彼の姿を見つけた。
ケイナは剣の柄を手に木の幹にもたれかかってぼんやりと立っていた。
「ケイナ!!」
叫んで走り寄っても、ケイナは顔もあげなかった。
「ケイナ。怪我……」
彼の顔を覗き込んでセレスはどきりとした。ケイナの目は虚空を見つめて生気をなくしていた。
「どうして…… 銃じゃなくて…… 剣で…… 戦ったの?」
「動き…… やすかったから……」
憎しみと怒り。ケイナは自分の手で確実に相手を倒しているという手ごたえを感じたかったのだろうか。それにしても、むごすぎる。叫びだしたくなるような惨状が広がっていた。
「アシュア…… は……?」
絶望とも悲しみともつかない目を向けるケイナに、セレスは戸惑いながらも小さくうなずいてみせた。
「ちゃんと運んだよ……。今頃手当て受けてる。途中で出血も止まったんだ。一瞬意識も回復したんだよ……」
ケイナの顔が歪んだ。彼は剣の柄を持ったまま両手で自分の額を押さえた。
「ちくしょう……」
ケイナは呻いた。
「トリ…… いったいどこまで見えてたんだ……!」
トリがどうしたっていうんだ……? セレスはケイナを見つめた。
「どうして、こんなことができるんだ…… なんでこんな残酷なことが……」
「ケイナ、ここから離れよう」
セレスはケイナの腕を掴んだが、ケイナの怒りに燃えた目を向けられてぎくりとした。
あっという間に彼の右手で首を掴まれ、仰向けに倒れた。背骨に激しい衝撃が伝わる。
ケイナはセレスの首を掴んだまま、左手の剣を構えてセレスに馬乗りになっていた。
「さぞかし面白かっただろうな。全部…… 全部トリの筋書き通りだ。トリは分かってたんだ…… あいつはおれが正気を無くすことをあえて選んだ。カインはカンパニーに発ち、おれたちはここに残った。あいつはいったいどこまで見通していた? ここから先も、終わりもみんな知ってる」
首を掴むケイナの手を両手で掴み返しながら、セレスはケイナを見つめた。
恐ろしいほどの殺気が伝わってくる。
そのとき、頭上からの低い唸りがふたりの体に伝わった。
『ノマド』たちを乗せる船。もう、戻っても間に合わない。ケイナの頬がかすかに歪んだ。
「トリはおれたちを裏切った。あいつが欲しかったのは何だったんだろうな。自分の血筋。 ……自分の遺伝子だけだったんじゃないのかよ」
「何言ってんだよ……」
ケイナの手の力は強い。いつも思う。彼の指が首に食い込む痛みに顔をしかめながらセレスは言った。
「裏切るなんて…… しないよ。トリはしないよ……。おれたちにお守りくれたじゃないか……」
「あんなもん、お守りじゃない……」
ケイナは吐き出すように答えた。
「全部、あれで動かされてたんだ……。おまえの動きがおれに分からないのも、おまえが混乱したのも、全部……」
ケイナは言葉を切って息を吐いた。
「リアが生む子供の父親を殺さないための操作だよ!」
苛立たし気に叫ぶケイナの指にさらに力がこもる。セレスは顔をしかめた。
違うよ。……必死になって思った。
トリは操作なんかしてない。……トリはきっとアシュアを助けてくれたんだ……。アシュアはきっと助かるよ……。
「コミュニティに戻ろ…… ケイナ……」
締めつけられる痛みに顔をしかめながらセレスは言ったが、ケイナはかぶりを振った。
「もう…… あそこには誰もいないよ……」
「そんな……」
低い唸りが聞こえる。船の音。
カインも…… アシュアもいなくなってしまった。
トリとリアも…… リンクも……。クレス、タク、子供たち……。何のために、何をしていたんだろう。
逆らいがたい狂気がケイナの胸に沸き起こっていた。
分かってるよ、トリ。これが一番いい方法なんだろ。
このままふたりでここで死んでしまえば、もう誰も傷つくことはないじゃないか。
おれだったら、セレスに一瞬の苦しみも与えずに逝かせることはできるよ。自分が死ぬのはもっと簡単。
セレスはケイナが剣を振り上げるのを見た。
ケイナは…… おれを殺す気だ。どっと汗が吹き出て呼吸が荒くなった。
セレスのパニック状態と裏腹に、ケイナの顔は冷静そのものだ。かすかに笑みさえ浮かべているように思える。
やだよ、ケイナ。あんたと戦うのなんか厭だ。
そう思いながら、セレスは反射的に自分の剣を引き抜いていた。
思わず閉じた目を開けたとき、セレスは我が目を疑い、かすれた悲鳴が口から漏れた。
振り上げられたケイナの剣は空中でそのまま止まっていた。
「なんで…… よけないんだよ……」
ほんの一部のケイナの正気は、セレスに殺されることを願っていた。
斜めに彼の首をかききろうとしていたセレスの剣がもっと動いていたら、ケイナはあっけなく死んでいただろう。
手を止めたのはケイナではなく、セレス自身の正気だったのかもしれない。
セレスは震えながらケイナから剣を外した。
ケイナはセレスの首から手を離すと、そのまま彼の頬に手を滑らせ、冷えた自分の顔を彼の頬に押しつけた。
こんな極限状態で狂おしい欲求が沸き起こる。
生の渇望……。死ぬことへの狂気。遺伝子が命令する、相反するふたつの感情。
この緑色の目、両方の感情で無茶苦茶にしてやりたくなる。
「今度戻らなかったら、殺して。頼むよ……」
耳もとのケイナの声にセレスは激しく首を振った。
「厭だ。もう、二度とケイナに剣は向けない。絶対にいやだ!」
ケイナの細い金色の髪だけが見える。首筋にかかる彼の温かい吐息がたまらなく悲しかった。涙がこぼれてこめかみを伝っていった。
「ケイナ、地球に…… 行こう。……まだ、海を見てない……」
嗚咽をこらえながらかすれた声で言ったが、ケイナは何も言わなかった。何も言わない代わりに、自分の頬に触れた冷えきった彼の指がかすかに体温を帯びたことをセレスは感じた。
おれたちまだ生きてる。
生きてたらできることがある。死んじゃうのはそれからでもいい。
ケイナはゆっくりと身を起こし、セレスに手を差し出した。
彼の手をとって立ち上がりながら、セレスは涙をぬぐった。
きっと帰る場所があるよ……。
ふたりとも頭の隅でそう思った。