治療を開始して三週間後、リンクはケイナの片耳のピアスを外した。
 右側のピアスは残したままだ。
「脳波やスキャンにはとりあえず悪い徴候は見られないから、このままいけば来週にはもう片方もとれると思うよ。簡易なスキャンだから確実というわけではないけどね」
 リンクの言葉にケイナはうなずいた。
「頭痛や手足のしびれはない? 視力が落ちるとか」
「ないよ」
 不安そうに尋ねるリンクにケイナは笑みを見せた。それを見たリンクは少し驚いたように彼の顔をまじまじと見た。
「なんか…… 感じが変わった…… かな……?」
「え?」
 ケイナは目を細めてリンクを見た。リンクはピアスを手のひらで転がした。
「いや、笑った顔がね。いい顔で笑ったよ、いま。こいつのせいかな」
 ケイナは何も言わずテントの外に出ていってしまった。
 ケイナは顔のことで何かリアクションされることを神経質なくらい嫌う。相当疎ましく思うようだった。
 美しい顔をしているのに彼の視線はいつも冷たく相手の頭の中をえぐるようで、笑うときは可笑しくて笑うというよりも人を皮肉ったような笑みを浮かべる場合がほとんどだ。
 そもそもケイナは表情が乏しい。相当機嫌が悪いとかよほど痛みがあって顔をしかめているときくらいは分かるが、それ以外では彼の表情で気持ちを察することは難しい。彼が意識してそういうふうにしているのではないということはリンクも分かっていたからあまり気にしないようにしていたが、ごく普通に当たり前の感情でケイナが笑うとこんなにも目を奪うものかと少し驚いた。
 リンクはため息をつき、ピアスをガラスケースに放り込んだ。
 こいつはもう用なしだ。そうなってくれなければ困る。
 ケイナ、ごめんな。辛かったろうな。
 リンクは小さく光るピアスを見つめた。

 ケイナがテントの外に出てみると、目に入ったのはちょっと信じられない光景だった。
 カインが子供たちの中に座り込んで、うつむいて一生懸命何かを作っている。
 近づいてみると木組みの動物だった。
「ケイナ」
 カインの横にいたセレスが顔をあげてケイナを見た。
「カイン、すごいよ。おれよりすごく上手に作るんだ」
「こら、重いって」
 カインは顔をあげずに背中によじのぼってこようとする子供に言った。
 ケイナは顔を巡らせると、テントの脇でリアが何やら一生懸命アシュアに話しかけているのを見た。アシュアの表情は見るからに興味がなさそうで、大きな欠伸をしている。それを見たリアがむっとしてアシュアに手を振り上げるのを視界の端にとらえながら、ケイナは再び子供たちの中にいるカインに目を戻した。
「おまえにこんな特技があったなんて、驚き」
 ケイナは身をかがめて言った。
「手先は器用だよ。マシンを動かすだけが能じゃない」
 カインは顔もあげずに答えた。確かに長く形のいいカインの指は器用そうだ。この手がトウ・リィのしずくのような爪を持つ手とよく似ていることをケイナもセレスも知らない。
「はい」
 しばらくして、カインは木片を組み合わせた小さな馬をそばにいた子供の手に乗せてやった。それを見たほかの子たちがわれもわれもと手を差し出すのを見て、カインは悲鳴をあげた。
「もう、だめ。今からまたデータ見なきゃならないんだ!」
 セレスが笑って子供たちをうながし、やっと彼らは離れていった。
「ちょっと外に出るとこれなんだ。少しでも相手しないと離れない。下手すりゃテントの中までついてきそうで」
 カインは座り込んだままため息をついて言ったが、まんざらいやというわけでもなさそうだ。
「ピアス、外した?」
 ケイナを見てカインは目を細めた。
「うん…… 右はまだしばらくつけてる」
「そうか」
 カインは顔をそらせると、子供たちとセレスが駆け回っている姿に目を向けた。
「セレスは…… 強いな。なにがあっても絶対立ち直る…… まるで命の期限をつけれられていることも忘れているみたいだ」
「自分じゃ何もできないからだろ」
 ケイナがそう言ったので、カインは再びケイナに目を向けた。
「自分でデータ見れるんならそうしてる。鬱々とした顔見せたって周りがうっとうしいだけだって分かってるんだ」
「そうだな……」
 カインは答えた。冷たい返事に少しセレスが可哀想な気もした。一番気を使ってるのはおまえにだろ、と言いたかったが、それは口にしなかった。
「トリが明日にでも話そうって言ってた。2週間後にコリュボスを発つと言ってる。セレスのデータ、ぼくが見つけられなかったら引き続いて頼むよ」
 カインの言葉にケイナは無言で目を伏せた。嫌でも時間は過ぎて行く。
 別れの時間は近づいて来る。
「『ライン』に残してきたブレスレットがあれば良かったんだけど…… 取りに行くことはできないし、セレスの所持品が今もあるかどうか分からない。地球に戻って何とかぼくも調べてみる」
 カインの言葉にケイナはかすかにうなずいた。
 前にセレスのアパートで一緒にネックレスとブレスレットを見た。
 予感がして、自分は身につけた。セレスにどうして同じようにしろと言えなかったんだろう。
 いまさら悔やんでもしようがない。あのときはまだ自分の身のことしか考えられなかった。
 カインがテントに戻ろうとして立ち上がりかけたとき、ふいに子供の大きな泣き声がした。
 なにごとかと目を向けると、すさまじい形相で女の子が泣きながらこっちに歩いて来るところだった。
 てっきりここに来ると思って再び腰をおろしたカインは、彼女がまっすぐにケイナのところに歩いていったので少しびっくりした。
「なに?」
 ケイナは自分の前に立って、真正面から大口をあけてわんわん泣く女の子を見た。
 泣き声が大きい。甲高くて耳をふさぎたくなるほどだったが、ケイナは冷たいともいえる表情で彼女の顔を見つめている。
 目からも鼻からも水を垂らしまくっている顔はどうひいき目に見ても汚い。
 ケイナが女の子越しにちらりと目だけをセレスたちのほうに向けたので、カインもその視線を追った。セレスがクレスに何か言っている。おおかたケンカでもしたのだろう。
 そのまま目をアシュアとリアに向けると、ふたりは黙ってこっちを見ていた。ケイナの前に来た女の子を彼がどう扱うのか観察するらしい。
 どうも、女の子はリアのほうに行くつもりだったようだ。 そこに行く直線上にケイナがいたために、てっとり早く彼にすがったと思ったほうが良さそうだ。
「泣いてちゃ、わかんねえ」
 冷たく言い放つケイナに、子供に対してくらいもう少しまともに話をしろよ、とカインは心の中でつぶやいた。
「クレスが、すな、かけた!」
 女の子は途切れ途切れにそう言うと、再び大声をあげた。
「きったねぇ……」
 ケイナは鼻水を垂らしている彼女の顔を見てそうつぶやいて少し顔をしかめた。
「そういうときはこう言ってやれ」
 ケイナは中指を女の子の前に突き立てた。
「『ぶっ殺されてえか、てめえ』」
「ばっ……!」
 ばかなことを教えるな、とカインは思わず叫びかけたが、女の子の泣き声がぱたりと止んだので目を細めた。
 しかし、泣き止んだのは一瞬で、彼女は再び甲高い声をあげた。
「やーだ!! リアにおこられるう! そんなこと言っちゃだめー!」
 ケイナはかすかに笑った。
「じゃ、なんて言うんだ?」
 女の子は服の袖でぐいと顔を拭った。鼻水が頬に伸びた。 顔の真ん前でそれを見せつけられるケイナはたまったものではないだろう。
「なかよくしよって…… いう」
「じゃ、ちゃんとそう言え」
 彼女が動かないので、ケイナは手を伸ばすとくしゃくしゃになった彼女の黒髪から砂をはらった。
「行け、ほら」
 ケイナが軽く女の子の肩を押すと、彼女はくるりと背を向けると再び子供たちのほうへ走っていった。
「子供の扱いがうまいな……」
 カインのつぶやきにケイナが声をたてて笑った。
「データ、やっつけようぜ」
 彼は立ち上がるとカインを一瞥して背を向けた。
 カインはその姿を呆然として見た。
 ケイナが声をたてて笑った……?
 ちらりと見せた笑顔が信じられないほど無邪気だった。
 アシュアとリアに目を向けると、そばを歩いていくケイナをふたりとも口をあんぐりと開けて見送っていた。

「なんだか…… ケイナは感じが変わったと思いませんか?」
 テントの隅でモニターに顔を突き合わせているカインとケイナを見ながら、リンクはひそひそ声でトリに言った。
 トリはケイナの後ろ姿に目を向けた。
 横にいるカインが時々戸惑うように目をそらせるのがよく分かる。
 最近ケイナの一番近くにいるのはカインだ。リンクですらケイナが自分の半径50cm以内に近づいて来るとかすかに身をこわばらせるので、カインは相当辛いのかもしれない。
「ピアスを外したからなのか、治療が効いてきたからなのか、なんというか…… うーん、何とも形容しがたいけど、ちょっと人間じゃないみたいな感じがして…… いや、まあ、いいほうに、ということだけど」
 リンクの言葉にトリは思わず笑った。
「あの顔で笑われると全身が総毛立つ?」
「そう、そんな感じ」
 答えてしまって、リンクは顔を赤らめた。
「遺伝子治療して性格が変わるなんて聞いたことないですよ」
「子供の頃のケイナはあんな感じだったかな……」
 トリは言った。
「子供の時と今じゃ違うから、人の受け止め方も違うんだろうけど、ぼくに言わせれれば元に戻った感じがするよ」
「そうなんですか……」
 リンクはふたりにちらりと目を向けた。
「でも……」
 トリがつぶやいたので、リンクはトリを見上げた。
「死の予感は消えていっても…… もう、ここまで成長してしまったら、彼は自分と一生戦っていく運命だろうね」
 声に少し悲しみが浮かんだように思えた。
 一生自分と戦う運命。自らの耳を切り落とし、走り出す狂気。そういう資質は残るということか……。
 確かに目的を達するために次々と人格を形成してしまう彼の内面を遺伝子治療が治癒させるとは思えなかった。
「ケイナは…… 何のために生まれて来たんだろう……」
 リンクは驚いてトリを見た。トリ、あなたがそんなことを言ってはならないだろうに。
 トリの静かな目からはその真意を知ることはできなかった。

 翌日、リンクが厳しい表情をしてカインをテントまで呼びに来た。
「きみたちも一緒に来たほうがいいのかな」
 3人に目を向けて言う彼の言葉に全員が顔を見合わせた。
 リンクが4人を引き連れていつもデータを見るテントに戻って来ると、中にはトリとリアが座っていた。
 トリの表情はいつもと変わりないが、リアは眉根を寄せている。アシュアの顔を見てすっと視線をそらせた。
「ときどき外の情報は調べてたんですけどね」
 リンクはモニターの前に座りながら言った。
「なにかあったの?」
 セレスはケイナの顔をちらりと見て言った。緑色の目が潤むほど不安に満ちている。
「関係ありそうな情報っていうのはこれまで一切流れて来なかったんですよ。完全にシャットアウトされているというか」
 リンクはキイを叩いた。
「これ」
 4人はモニターを覗き込んだ。
「情報出したのはここ一社。小さなTV会社ですね。リィに時々スポンサーになってもらってるけど、リィ系列じゃない。番組も数個くらいしか持ってないし、ごく限られた地域にしか報道していない。なんでここだけにカンパニーは情報を流したのかは分からないけど」
「なんだよ、これ……」
 アシュアが思わず叫んだ。
 カイン・リィ、18歳。
 数か月前より消息不明となり『リィ・カンパニー』より正式に離脱の声明発表予定。
「トウに先を越された……」
 カインは冷静につぶやいた。そのカインの横でケイナは無言で画面を見つめている。
「トウ・リィは思いのほか焦っているのかもしれない……」
 トリが言った。顔こそ厳しいが、妙に落ち着いているカインやトリ、そしてケイナがアシュアには理解できなかった。セレスは状況がわからずただ目を見開いて硬直しているだけだから論外だ。
 ふいにケイナが手を伸ばしてキイを叩いた。ぷつりとモニターから画面が消えて、リンクは驚いてケイナを見上げた。
「こっちが情報受け取ったこと、知られたよ」
 ケイナはかすかに笑みを浮かべてリンクに言った。リンクが慌ててカインを見ると、カインは少し肩をすくめてため息をついた。
「じゃあ、わざとこっちに知らせるために情報流したってこと?」
 リンクは戸惑いを隠せない表情でつぶやいた。トリに目を向けると、彼は最初から分かっていたような表情をしている。
 やれやれ、こういうのはぼくは全然分からないんだな。
 リンクはため息をついた。
「カイン、きみの次期社長としての権限が抹消されるのにどれくらいの時間があるの」
 ふいに口を開いたトリの言葉を聞いて、アシュアがはっとしてカインの顔を見た。
 そうだ、世襲制のカンパニーでは血族が絶えた時点で 重役と株主たちの同意で次期経営者はほかの血族に移行することになる。もちろん、トウが生きている限りはリィ一族のものだが、トウが誰かを養子に迎えたらそのままリィで経営権は持続する。早い話、彼女はカインの経営権だけを消し去ろうとしているのだ。
「さあ…… どうかな…… 一ヶ月以内に総会が開かれて…… でも、トウはそこまで考えてないよ。……たぶん、これを見てすぐにぼくが戻って来ることを読んでるんだ……」
 カインは複雑な表情で答えた。
「行方不明の人間が生きて現れて、それで、はいそうですか、ってなるのか?」
 アシュアは思わず口を挟んだ。
「最初からリスクの話はついてるよ。どういう手段かわからないけれど、トウはわざと嘘の情報を流させたんだ。大きなところだと逆に大騒ぎになるし、ここくらいがちょうど良かったのかもしれない。これで気づかなかったら大々的に報道する手を打ったのかもしれないけど」
 カインがそう言うと、アシュアは顔をしかめて額を押さえた。
「カイン、嘘の情報なら帰ることないよ。ほっとけばいいじゃん」
 セレスは全く理解できないらしい。自分を見上げる大きな目をカインはかすかに笑みを浮かべて見た。
「セレス、ぼくは帰らないといけないんだよ」
「え……」
 緑色の目がさらに見開かれ、みるみる潤み始めた。
「や、やだよ、カイン…… 戻るって…… せっかくまた会えたんじゃないか…… 行かないでよ、おれたちと一緒にいてよ……」
 セレスのすがりつくような言葉で初めてカインの顔に苦痛が浮かんだ。
 行くなと…… それをきみが言うのか。
 セレスはカインの腕を掴んだ。
「カンパニーなんかに戻ったらカインはきっと危険な目に遭うよ! そんなことさせられない。みんな、そう思ってるだろ? ケイナだって思ってるだろ? カインが帰って来てあんなに喜んでたじゃないか!」
 カインが思わずケイナを見ると、ケイナは目を合わすまいと顔をそらせた。
「ケイナ! なんか言えよ!」
 セレスは今度はケイナに詰め寄った。しかし、ケイナが手を乱暴に払い除けたのでセレスは呆然とした。
「なんで…… なんで? カインはおれたちの仲間だろ? カインがいなくなっちゃうなんて、そんなのもういやだろ? ケイナはカインが来てくれたから治療法が分かったんだよ?」
 ケイナは思わず口を開きかけてやめた。行かせたいはずがない。当たり前だ。誰が行けと言えるもんか。しかし、カインは決心をつけている。次期社長として組織を担い、全てを変える決心をしている。場合によってはトウ・リィと反目して闇に葬られることになろうとも。その彼の思いを消す権利は誰にもなかった。
「カイン、せめておれを連れていけ。おまえひとりじゃ危険だ。トウは何を考えてるか分からねえ」
 アシュアが言ったのでカインはなだめようと口を開きかけたが、それより早く口を開いたのはリアだった。
「だめよ! アシュア、あんた、命の保証ないってあのおじさんが言ってたじゃない!」
 おじさん……。アシュアは顔をしかめてリアを見た。カート司令官がおじさんかよ。
「ケイナ」
 トリがケイナに顔を向けた。
「分かってる」
 ケイナは答えた。
「レジーにもう一度コンタクトを取る」
「今度はぼくも会うよ」
 トリの言葉にケイナはうなずいた。
「レジーもきっと情報を受け取ってる。カートの出方を見る」
 カインは少しためらうような表情を浮かべたが、何も言わなかった。それは了承の印だった。